16. 義務と意思の狭間にて


電話の音が聞こえ、受話器を取る。

「あの…雅人に代わっていただけないでしょうか」

社長のことを雅人と呼び捨てで呼ぶ女性の声に、胸がドキリと鳴った。

「…どなたでしょうか?」
「雅人の姉の、深水礼奈です」

お姉さん―――…?






誰もいない資料室の机に座りながら、僕は書類をまとめていた。

「お見合い?」

隣の部屋から聞こえてきた社長の声に動揺を隠せなかった。
お見合いって…まさか、社長が?

「どうして…確かに……でも、それは……だし」

途切れ途切れに聞こえてくる社長の声が気になって仕方がない。
仕事が手につかなくて苛つき、コーヒーを勢いよく飲み干した。
熱い液体が喉を下っていく。

「…分かった。するよ、お見合い」

胸の辺りがズキズキとする。
軋みはじめた心臓に僕は耐えられなくて机に顔を伏せた。
お見合いということは、社長が女性と結婚をするということ?
なら、僕は…僕は、もう社長に抱かれることはなくなってしまうのだろうか。
確かに社長は仕事のために僕を抱いている。
けれども婚約者が出来れば…結婚してしまえば、きっと社長も抱かなくなるだろう。
結婚相手に協力を要請出来るのだから。
そうなれば僕はもう用無しだ。
恋人同士のふりだってなくなってしまう。
そんなの…嫌だ。
コツコツと足音が近づいてくるのが分かった。
肩に軽く手を触れられる。
僕は身体を強張らせた。
この温もりは、考えるまでもない。
―――社長のものだ。

「大丈夫かい? 気分、悪い…?」

僕はゆっくりと顔を上げると首を横に振った。

「でも顔色悪いよ?」

それは貴方のせいだ。
貴方が…貴方が全て悪い。
仕事が手につかないのも。
こんなにも苦しいのも。
全部、社長が僕を抱いたりするから―――。

「何でもありません。ところでさっきの電話、お姉さんからでしたよね?」
「…うん。母さんが忙しくて電話をかけられないらしくてね。姉さんが代わりに僕にお見合いの話を持ちかけてきたんだ」
「…するのですよね」
「…聞こえていたのかい? なんだか聞かれていたと思うと恥ずかしいな。…僕、何を話したっけなぁ」

社長が恥ずかしそうに頬を赤く染めた。
それから苦笑して、僕を優しげな瞳で見つめた。
ぞくりとした。
もちろんそれは不快なものではない。
あくまで甘く、切ないものだ。
そんな瞳で見つめないで欲しい。

「そろそろ僕も良い人を決めろって母さんが心配してるらしくてね。まあ、そういうわけで…するんだけど」
「良かったじゃないですか」
「…え?」

社長の顔が少しだけ強張る。
僕はそんな社長の顔を見ていられなくて視線を外した。

「決まることが出来れば、これから先に結婚について悩むことがなくなりますよ」
「……それは、そうだけど」
「社長が結婚相手を決めるのなら、年齢の近い僕もそろそろ真剣に考えないといけませんね」
「…葵くん、結婚するの?」

意外そうな、驚いたような声を出す社長に僕は首を横に振った。

「今はまだ。ただ、いずれはしますよ? 婚期が遅くなっている時代ではありますが、僕は一応二十五歳以内には結婚をしたいと思っているので…」
「葵くん、今二十三歳だよね?」
「はい。よくご存知ですね」
「…二年以内に結婚するつもりなの?」
「相手が見つかれば、ですけど」
「…そっか」

僕はそっと社長の顔色を窺うために視線を上げた。
社長の声がやけに小さくなったからだ。
社長の表情はいつもと何も変わらない笑顔だが、その心のうちは分からなかった。
けれど笑顔だから、だから、僕も笑顔を返すことにした。
二十五歳以内に結婚をしたいというのは本当の気持ちだ。
けれど、社長以外の人とでは考えられなかった。
ましてや抱き合うだなんて絶対に無理だ。
それでも僕は自分の感情を押し殺して言った。

「お見合い相手、良い方だと良いですね。結婚式を挙げる際にはぜひ呼んでくださいね」
「―――それ、本気で言ってるの?」

不意に冷たくなった社長の声に心臓が跳ねる。
社長は冷めた瞳で僕を見つめていた。
それは僕と秋月さんとの情事を知ったときに向けられた瞳とよく似ていた。
あのときのように怒りが瞳から感じられないのは救いでもあったし辛くもあった。
怒りが感じられない分、その瞳からは哀しみが感じられたから。
つまるような息苦しさに耐えながら僕は頷いた。

「社長の幸せを望まない社員は、いないと思いますよ」

それは事実だった。
社長は社員に対して贔屓ということをしない。
きちんと社員の行動を平等に評価し、そしてそれ相応の報酬を与える。
明るくて気遣いができ、そして外見も良い社長は社員からの人気が高かった。
その人の良さがあったからこそ、二十五歳という若さで大手会社の社長という地位にまでなることが出来たのであろう。

「…分かった。そうだね、君の言う通りだ。けれどもし結婚相手が決まったら、僕たちの情事も終わりになるんだろうね。いくら会社のためだとしても、婚約者がいるのにそういうことをするのは出来ないから」

その言葉に、ズキンッと一層強く胸が痛んだ。
そんなのは分かってる。
だからこそ、社長に確かめられるように言って欲しくなかった。
けれど僕はそんな感情を押し殺し、冷静に言う。

「…それ以前に、僕とする必要がなくなるのではないですか? 婚約者に協力をしてもらうことができるでしょうから。そうなると本当に良いと思います。そうしたら…社長も僕を無理して抱くことはなくなります。僕も、男である社長に抱かれなくて済みます」

僕はギュッと膝の上で手を握り締めた。
何を言っているのだろう。
そんなこと、微塵も思っていないくせに。
それなのに、僕は……。

「……そっか、そうだよね。葵くん、やっぱ嫌だったよね」

嫌じゃない。
嫌じゃないです、社長。
けれどそのことを言葉にすることは憚られた。
代わりに僕は質問をすることにした。

「いつ、お見合いをするのですか?」
「今からだよ」
「……い、ま…からですか?」
「うん。本当に急だよね。もっと前から相手とお見合いの話になっていたらしいんだけど…僕にはギリギリまで知らされなかったみたい。ほら、相手が待ってるのに当日になって断るだなんて失礼なこと、出来ないでしょ?よく考えたものだよ、僕の家族も」

社長はどことなく自嘲気味に言った。
見合いを断れなくされたということか。

「しかもね、相手はY会社の社長の娘さんらしくて…」
「Y会社ですか!?」

ここの会社よりも有名で大きな会社だ。
そこの令嬢…?

「だからその娘さんを通してY会社と協力し合えってことみたいだね。それって政略結婚みたいで嫌だよね…みたいも何も、政略結婚になるのかな。でも将来のことを考えると、それが良いのかもしれない。少しくらいの相手の欠点には目をつぶれって言われてる」

僕としては不本意だけどね、と言って社長は笑った。
笑い事じゃない。
ねぇ、社長。
もしかして社長はその政略結婚…お見合いを受け入れるつもりなの?

「本当は行っても断ろうと思ってたけど、でもやっぱりそういうわけにもいかないだろうね。それに、いつまでも君に協力をしてもらうわけにはいかないしね。その娘さんに頼むのも気が引けるけど、多分OKしてくれると思うし」

社長はそう言うと微笑んだ。
それから僕の傍をゆっくりと離れていく。

「それじゃあ、今までありがとう。ごめんね、葵くん」
「…しゃ、ちょう……?」
「行ってくるね」

社長は僕を一度だけ振り返ると部屋を出て行ってしまった。
ドアの閉まる音がやけに大きく感じた。
部屋に一人残された僕は、机に再び伏せた。
嫌だ。
社長が行ってしまった。
昨日社長に愛を囁いてもらえるのなら、抱いてもらえるのなら、僕は何だってしようと思ったはずなのに。
思いと行動が重ならない。
…重ねられない。
やっぱり社長にとって僕は性能を試すだけの存在だった。
それでも、もう良かったはずなのに。
それだけが僕と社長の関係を繋いでおくものだったはずなのに。
それさえも、なくなってしまった。

「…っ、や…だよぉ…っ!」

嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ。
けれどこの状況を打破する考えは僕にはないし、その術もなかった。
お見合い相手なんて、消えてしまえばいいのに。
そう考えた自分に吐き気がした。
こんなことを思うなんて、どうかしてる。
僕はなんて、嫌なやつなのだろう…。




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