7. ゼロから始める恋ものがたり


扉を開いて、中へと足を踏み入れる。
真っ白い部屋にある、ひとつのベッド。
そこには点滴を打たれている俺の弟が寝転んでいた。

「ユウ……」
「あ、お兄ちゃん」

名前を呼んでやると、ユウは閉じていた瞼を開いて薄く微笑んで見せた。
俺の唯一の家族である弟――ユウ――は病気で入院している。
治らない病気ではないものの、治療には時間がかかるものだった。
何より、莫大な治療費が必要だった。

「お兄ちゃん、顔色悪いよ……? もしかして、また遅くまでバイトしてたの?」
「いや。最近はバイトしてないんだ。ちょっと体調崩しててさ。だから学校で宿題の手伝いだとか、そういうのをすることで金を貰ってる。これが結構、稼げるんだ」
「そうなんだ……。ごめんね、迷惑かけて」
「何言ってるんだ」

申し訳なさそうな顔を見せるユウの頭を撫でてやる。
ユウはちょっとだけ表情を和らげた。

「……僕、助けられてばかりだよね。昔からそう……何も僕はでき……げほっ、げほっ」
「大丈夫か……?」
「けほっ……へ、いき……」

ユウの背中を一定の速さで、何度か撫でてやる。
それから水を飲ませてやると、少しだけだが落ち着いたようだった。

「……孤児院に、いればよかったのかな」
「馬鹿言うな」

俺たち兄弟は、まだ年端もいかない頃に捨てられた。
捨てられた場所は孤児院の前で、俺たちはそこでつい最近まで養われていた。
でもその孤児院は、俺たちにとっては監獄に近かった。
与えられるのは必要最低限……いや、それに届いているかも分からないような食事だけ。
教育と称した暴力…虐待。
けれど外面だけはいい奴らが働いていたから、周囲は誰も助けてくれない。
もとより孤児が集まっているんだ。
俺たちには関心がないんだ。
誰一人として。
だから俺たちは逃げ出した。
少しの逃走用資金を奪って。
今思えばそのときにもっと取ってくれば、こんな風に、バイトに明け暮れたりするような日々を過ごさなくて済んだのだろう。

「みんなはまだ、あそこにいるんだよね…」
「……そうだな。もう孤児院のことは考えるな」
「うん、そうだね。……あ、イオリちゃん」
「え……?」

ユウの視線が俺の後ろ…病室の入り口に向けられていた。
イオリ、ちゃん?
まさかとは思いつつ、けれどそんな偶然ありえないと嘲りつつ……振り返って、俺は息を呑んだ。
それは相手も同じらしく、俺の顔を凝視したまま硬直していた。
そこに立っているのは紛れもなく、伊織なわけで。
俺たちは言葉を失くして、ただ、見つめ合っていた。

「お兄ちゃん、紹介してなかったよね。彼はイオリちゃん。ちょくちょく見舞いに来てくれてる人なんだよ。僕の大切なトモダチ。こっちは僕のお兄ちゃんね。宜しくしてね、イオリちゃん」

俺たちが知り合いだということに気がついていないのだろうユウは、懸命に俺たちの紹介をする。
その楽しげな声を耳に入れつつも、内心は穏やかじゃなかった。
平静なんて保っていられる状況じゃなくって、俺は病室を跳び出て行った。
ユウの咎めるような声が聞こえていたけれど、そんなもの、無視をした。






病院の中庭は綺麗で、色とりどりの植物が植えられている。
その中にある木製のベンチに座って、俺は空を見上げていた。
まさかユウの友人に伊織がいるだなんて思わなかった。
青空を流れていく雲を見つめていると、カサッと音がした。
それは植物が靴で踏まれて立てるような、そんな音だ。
視線を下げていくと、そこには伊織が立っていた。

「……隣、座ってもいいかな」
「……好きに、すればいい」

伊織は俺の顔色を窺いつつ、ベンチに腰を下ろした。
こうやってまた、隣に座りあうことが出来るだなんて思ってなかったな……。
そんなことを考えていると、伊織と目が合った。
視線を逸らすことはしなかった。
伊織が、逸らさなかったから。

「ユウくんにね、いっぱい話は聞いてた。お兄ちゃんがいて、一生懸命、自分のためにお金を稼いでくれてるんだって。……いい人だなって、会いたいなって、ずっとそう思ってた。それが……藤堂くんだったんだね」
「……お前は?」
「え?」
「どうして、ユウと知り合いになったんだ?」

ユウは中学を卒業して以来、ずっと入院しているから知り合う機会なんてないはずだった。
それなのに、どうして伊織とユウは友達になっているのだろう。

「僕もこの病院にお世話になってたから。…今も」

伊織のことをじっと見つめる。
どこにも具合が悪いところはなさそうだった。
それとも目に見えないだけで、どこか悪いのだろうか…。

「この病院ってね、精神科があるんだ」

その言葉で、なんとなく、伊織が通院している理由が分かった。
なくしたいのか。
触れられることに対する恐怖心を。

「少しずつ、良くなってるんだよ。だからそんな、心配そうな顔をしないで。なんか、申し訳なくなるから……」
「……申し訳ないのは、俺のほうだ。悪いな、だましてて」
「……もう、いいよ。謝られても、許せないと思うから……」
「伊織」

やっぱり俺は、ひどく伊織のことを傷つけていたんだ。
今更ながら、そんなことを実感する。
胸が苦しい。
痛みと息苦しさにどうかなりそうだった。

「ただね、聞かせてほしいの。僕の君への好意は、迷惑だった?」
「……いいや」

首を横に振ると、伊織が微かに口元を綻ばせたのが見せた。

「じゃあ、好きでい続けてもいいかなぁ……? やっぱり僕は、君のことを忘れられないんだ。君がユウくんの医療費を払うために僕と付き合ったんだって知ったら……余計に、好きになっちゃった」

信じられないと思った。
馬鹿じゃないのか、とも。

「自分が何言ってるか分かってるのか?」
「分かってるよ。君が僕を好きじゃないことも、分かってる。でもね…それでも、僕…」

伊織は一度瞼を閉じると、真っ直ぐに俺を見つめ直した。

「藤堂くんが好き。好きなの……」

今にも泣きだしてしまいそうなのは、きっと、伊織だけではないのだろう。
訳もなく、胸が痛くて。
目頭が熱くて。
いや、理由はあるんだろう。
きっとそれは、もうずっと前から解っていたはずの、けれど認めたくなかったことだ。

「……俺は」
「いいの。藤堂くんが僕を好きじゃないことは解ってるから……だから、何も言わないで……」
「違う、そうじゃない。聞けよ、伊織」

名前を呼ぶと、伊織はビクリと肩を震わせた。
俺はそんな伊織の肩にそっと手を触れさせた。

「……藤堂、くん?」
「……好きだ。俺も好きなんだ。伊織のこと……きっと、もっとずっと前から」
「……本当に?」
「ああ。俺がしたこと、許さなくってもいいから。けどこのことだけは、信じてほしい。伊織が好きだ」

言い切ると、小さな嗚咽が聞こえてきた。
それから震えた、切なげな声が。

「信じてもいいの? ……また、全部仕組まれたことだったら嫌だよ?」
「それはないから。もう、絶対に」
「……藤堂くん……っ」

伊織の瞳から零れ落ちた涙はどこまでも透明で、綺麗だった。
ずっと理解出来なかった自分の気持ち。
それが、今ではよく分かることが出来る。
素直に、言葉にすることが出来る。


「付き合ってほしい。今度こそ、本当に」



最初から、やりなおそう。
虚偽の気持ちなんて必要のない、俺たちの恋物語を。




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