6. この痛みを何と呼ぶのか、俺は知らない
「藤堂。悪いんだが、図書室までこの文庫本を運んでくれないか」
「え……」
「頼んだぞ。図書委員に渡してくれればいいから」
担任の教師に頼まれてしまった俺は、大量の本を両手に図書室の前に立っていた。
昼休みの、この時間帯。
図書室には伊織がいるはずだった。
あの日以来、俺は伊織とは会っていない。
会えるはずもなかった。
だからこそ、中に足を踏み入れることが出来ずにいた。
「……何を、馬鹿な」
怖い、だなんて。
そんな感情を抱くだなんて、思わなかった。
けれど確かに、怖かったんだ。
伊織に何を言われるのか。
いや、そうじゃない。
俺を見たときに、伊織がどんな顔をするのかを見ることが。
自分が嫌われたかもしれないだとか、そんなことじゃなくて。
自分が伊織を傷つけたのだと認識させられることが、怖かった。
けれどいつまでもこうやって図書室の前で立ち続けていても仕方がない。
さっさとこの本を図書委員に渡して、帰ろう。
そう思って中に入ると、カウンターには伊織がいた。
目は、あわせられなかった。
それはきっと、お互いに。
「……これは?」
「先生に、頼まれて持ってきた。図書委員に渡せって。もしかして…」
「うん。僕が図書委員だよ。お疲れさま……」
伊織は力なく呟くと、本を両手に立ち上がった。
棚にしまうのだろうか。
フラフラとした足取りで歩いていく伊織の後姿は、いやでも胸を締め付ける。
きっと俺が伊織の笑顔を見ることは、もう二度とないんだろう。
「伊織っ」
不意に声が聞こえ、目の前を人影が通りすぎた。
伊織へと駆け寄って行ったその人物は…桐原の、弟だった。
確か浩介という名前だったはずだ。
彼は伊織の本を半分持つと、一緒に本棚へと歩いていった。
兄である桐原とは違って、弟である浩介は伊織を嫌ってはいないのか。
今まで二人が親しげにしているところなど、見たことがなかったんだが……。
「……っ痛」
掌に走った痛みに、顔を歪める。
どうやら俺は拳を強く作りすぎていたらしい。
掌に爪が食い込んだようだった。
……何をやっているんだろう、俺は。
自分がどんどん、解らなくなっていく。
俺は仲よさそうにしている二人から視線を外すと、図書室を後にした。
「藤堂!」
桐原の声に振り返ると、彼が嬉しそうに微笑みながら駆けて来ていた。
俺が微かに眉を寄せると、桐原は封筒を差し出してきた。
きっとこの中には、金が入っているのだろう。
「ほら、受け取れよ。マジでありがとなっ。これでやっと、浩介も幸せになれる」
「……どういう意味だ?」
「ん? いやさ、浩介が伊織のこと大好きでさ〜。で、告白したわけよ。もう随分前……俺がお前に仕事を依頼した日の、ずーっと前からだぜ? そしたら伊織、なんて言ったと思う?」
「……さぁ?」
もう、どうでもいいと思った。
伊織の話はしたくないとさえ、思った。
「僕は藤堂くんが好きだから、付き合えません。……だってさ」
……なん、だって……?
俺は封筒をキュッと強く握った。
俺が桐原に伊織を傷つけるように言われる日の……もっと前から。
そんなときから、伊織は俺のことが好きだったのか……?
だから、あんなにもすんなりと付き合うことを了承してくれたっていうのか……?
「まぁ、そういうわけで。ぶっちゃけ浩介にとってお前の存在は邪魔だったんだ。悪いけどさ。だからこそ、お前に伊織を傷つけるように頼んだんだ」
「伊織のことが嫌いだからじゃない…のか」
「ああ。むしろその逆だな。お前が伊織を傷つければ、当然伊織はお前を嫌いになるだろ。そして傷心の伊織を浩介が慰める……。完璧だろ? お前への伊織の想いを断ち切らせて、浩介へと気持ちを向けさせる。それが俺の本当の目的だったわけだ」
桐原の声がどこか遠くから聞こえるように感じていた。
俺は一体、何のために…何をしていたんだろう。
……ああ、そうか。
金のためだ。
金のために……伊織を傷つけて……それで……。
「……それで、成功はしたのか?」
「それはさっき、お前も見てきたばかりなんじゃないのか? 図書室で仲良くしてただろ?」
「……ああ」
「まぁ、まだ伊織が浩介を好きになったとまでは言わないけど。それでも、伊織が藤堂を好きじゃなくなっただけでも十分すぎるくらいの成果だって言えるさ」
桐原はそう言って笑うと、俺から離れていった。
……伊織に俺を嫌いにさせることが目的、か。
俺は封筒を見つめながら、唇を噛み締めた。
金は手に入ったのに、全然嬉しくない。
胸のわだかまりはやっぱり消えていないし……。
「やぁ……っ! やめ……っ」
「!?」
不意に聞こえてきた伊織の声に、俺は封筒から顔を上げた。
それから図書室へと駆け出す。
そこでは伊織が浩介に、机に押し倒されていた。
頭の中に、カァ……ッと血液が駆け上る。
「てめぇ……っ」
「な、なんだよ……!?」
浩介の胸倉を引っつかんで、本棚に叩きつける。
伊織は不安そうに、涙を瞳に滲ませてこちらを見ていた。
浩介は何も知らないんだ。
伊織が過去にどんな目に遭って、触れられることを、どんなに怖がっているのかを。
何も知らないくせに、伊織に無理やり……っ!
「浩介……。お前が伊織を好きなことに関しては文句ない。けどなっ! 今度無理やりそうやって伊織に触れようとしてみろ! ぶっ飛ばしてやるからなッ!!」
浩介は不満そうにしていたが、睨み付けると、青ざめながらコクリと小さく頷いた。
俺は彼から手を離すと、図書室から駆け出た。
向けられている伊織の視線が、痛かった。
放っておけば良かったのに。
助ける必要なんてなかったはずなのに。
それなのに、伊織が傷つけられると思うと我慢ならなかった。
……違う、そうじゃない。
伊織が自分以外の人間に触れられるということが、我慢ならなかったんだ……。