1. 心音


1LDKのマンションの洋室で、あらかた引越しの作業を終えた俺は額の汗を拭った。
今日から住むことになっているこの部屋は、賃料が安い割には広々としていて、窓からの眺めもいい。
ここから新しい俺の人生が始まるんだ…。
この部屋を借りるまでの経緯を思い出して挫けそうになったが、なんとか自らを奮い立たせる。
大丈夫、やっていける。

「…よし」

俺は両頬を手でパチンと叩くと、隣の住人に挨拶をするべく玄関へと向かった。
このマンションは今時では珍しくご近所付き合いが非常に良く、大切にされているらしい。
見ず知らずの人に挨拶をすることは気が引けるが、ここを借りるからには、俺もそれに則る必要があるだろう。
どんな場所でも、人付き合いが良いに越したことはないからな。
少し緊張気味に、インターホンを鳴らす。
…反応がない。
もう一度鳴らすものの、やっぱり誰も応答をしてくれなかった。
諦めて他の住人に会いに行こうと振り返ると、そこには長身の男が立っていた。
若干目が釣り上がり気味なものの、人形のように均整のとれた顔立ちに、身体。
少し長めの前髪を掻き上げると、男は煙草を銜えている唇で小さな弧を描いた。
この顔には、見覚えがある。
忘れるわけもない。

「おっ、お…お前は…!」
「どーも。お前の隣の住人の、滝本です」

滝本誠二。
俺が一人暮らし…もとい、離婚をすることになるきっかけを作った男だった。
こいつと俺が出会ったのは、今から遡ること三日前。
体調が悪くて会社を早めに切り上げた、夕方のことだった。



++++++



気だるい身体を引きずるようにして家へと向かう。
いつもより、帰宅する時間が3時間ほど早い。
妻の静江は、一体どんな反応をするだろうか。
驚くのか…それとも、心配してくれるのか。
それぞれの場合に彼女が見せるであろう表情を思い浮かべて、小さく微笑む。
静江は本当に表情が豊かで、いつも俺のことを楽しませてくれる。

「ただいまー。…あれ?」

玄関に見慣れない靴があった。
男性ものの靴のようで、やけに大きい。
サイズが合わないし、俺用の新しい靴というわけではなさそうだ。
…客でも来ているんだろうか?
ともあれ、熱を出している状態で客に会うわけにはいかないだろう。
俺は静江とその客には会わないまま、寝室へと向かって休養をとることにした。

「はぁ…ダル」

軽く眩暈を覚えながら寝室のドアを開けて、目に飛び込んできた光景に、固まる。
ベッドに静江が寝転んでいたのだ。
それは、別に良い。
俺たちはいつも二人で同じ寝室を使い、同じベッドで眠っているのだから。
それはともかくとして重要なのは彼女が服を着ていないこと…でもなくって!
そんな彼女の隣に、同じく服を着ていない精悍な体つきの男性がいることだ!!
え?
なに、これ。
これってつまり…浮気現場目撃ってやつですか?
…もしかしなくっても、修羅場!?
顔を青ざめさせる俺に対し、浮気をしているはずの静江はやけに穏やかな表情を浮かべていた。
そんな彼女に、逆にこっちが焦りを覚えさせられる。
穏やかな表情ながらも、瞳に強い決意のような光が入っていたからだ。

「あっ…えと、俺…」
「譲さん」

名前を改まって呼ばれて、肩をすくめる。
ってか俺、何でこんなにビクついてるんだ…?
俺、悪いことしてないのに。

「…浮気をしておいて、こんなことを一方的に告げるのもどうかとは思うのだけど。…離婚してほしいの」

雷に打たれるって、こんな感じなのかな。
そう思った。
静江とはもう結婚5周年目を迎えていたし、まさか離婚してほしいなどと言われるとは思っていなかった。
…いや、5年も一緒にいたからこそなのだろうか。
いわゆる、倦怠期っていうやつ。
確かに最近はセックスもしていなかったし、夫婦共働きなせいであまり会話もしてなかったし。
そうやって色々と考えていくと、こういう結末を迎えてしまうのも無理はないのかもしれない。
それに…と複雑な気持ちのまま、静江の隣にいる男を見る。
男の俺でさえもゾクゾクとくるような、整った顔立ちをしていた。
きっとセックスのテクニックだって、上手なのだろう。
…俺とは違って。
唇を噛み締めて、涙が零れそうになるのを耐える。
俺はこの男に比べ…いや、平凡な男性と比べたって、背は低いし女顔だし、テクニックだってないだろう。
一緒に町を歩いていたって、夫婦だなんて周りからは全く思われなかったし。
それどころか、軽そうな男にナンパされちゃうくらいだし……俺が。
そんな俺に嫌気がさすのも、無理はないんだ。

「ごめんなさい、譲さん。慰謝料はきちんと払うから…」
「…慰謝料は、いいよ。俺、満足に夜の相手とか出来なかったし。こうなっても、仕方ないって思うから」

そう言って微笑むと、静江は申し訳なさそうな顔をした。
否定されないことが、正直、辛かった。
何よりも静江の隣にいる男が、じっと俺のことを見つめていることが、嫌だった。



++++++



まぁ、こんな感じで俺は静江と離婚することになった。
彼女は慰謝料を払うと言って聞かなかったが、俺は断固として受け取らなかった。
浮気をしたことは悪いことだけれど、浮気をさせてしまった俺にも、問題があるのだから。
だから静江に対して怒りはない。
ただその分、憤りは彼女の浮気相手であるこの男に向かっていた。
静江の話によると、こいつは彼女に夫である俺がいることを承知で性交をしたらしいし、何より…嫉妬していた。
どんなに頑張っても、俺は滝本のように、格好よくはなれないから。
そんな気に食わない奴が、俺のお隣さん…?
嫌過ぎて吐き気がする。

「まぁ、宜しく頼むぜ。榊譲…さん?」

ゾワッとした。
さん付けで呼ばれることにこんなにも嫌悪感を覚えるのは珍しいだろう。
俺が滝本を睨みつけると、彼は目を細めて、愉しそうに笑って見せた。




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