19. 不協和音のような僕ら
玄関の扉を開けて顔を見せた深町は、ひどく機嫌が悪そうだった。
眉間にしわを寄せ、目を細めて俺を一瞥し、一言。
「……なんで、寝巻きのままなんだ」
――――このときほど死にたいと思ったことは、ないかもしれない。
「焦ってやって来すぎましたぁ…っ。出直してもいいっすかぁ…!?」
「……まぁ。構わないけど」
「やっぱ面倒なんで寝巻きのままでもいいっすか…?」
「……好きにしたら、いいけど」
「あ、あざーっす」
アホなやり取りを交わした後、俺は深町に真剣に向き合った。
表情から真面目な話をするのだと覚ったらしい深町も、緩ませかけていた頬を引き締めた。
……ううん。
緩んだ空気のまま話し出せば良かったかも、などとプチ後悔してみる。
「その、さ。文化祭の日は」
深町の目から、スゥッ……と感情が消えていくのが分かった。
無機質な瞳に見つめられて、心臓が嫌でも早まっていく。
耐え切れなくなって目を逸らすと、深町はため息をついて、扉を閉めにかかった。
「ちょ、深町…!?」
慌てて取っ手を掴んで止めると、冷酷さを孕む声が鼓膜を震わせた。
驚きに目を見開いて、深町の顔を凝視する。
「聞こえなかったか? 帰れって言ってるんだ。お前と話すことなんてないし、話す気もない」
「っ……ごめん、なさい。謝るから、だから」
感情の篭っていない声で、話さないで欲しかった。
一体、いつの頃からなんだろう。
深町の淡白だった声が、柔らかくて、温かいものに変わったのは。
その声を聞くことが当たり前だと思っていたけれど、本当は凄く、特別なことだったんだ。
「……もういい」
「え?」
「もう気にしてないから、委員長が気に病む必要なんてない。だから帰ってくれ」
俺と視線を交差させることなく言った深町の瞳には、先程までとは違って感情が浮かんでいた。
――苛立ちと嫌悪と、微かな悲哀。
翳りのある彼の表情を見て、罪悪感と悲しみで胸が満たされていく。
こんな顔をしている彼が、あのときの俺の言葉を、気にしていないはずがなかった。
「俺は……」
「委員長。何度も言わせないでもらえないか? 帰ってくれ」
「いやだ。俺は……」
「いい加減にしてくれ。俺は気にしてないって言ってるだろ。だから早く帰れ!」
強められた語気に下がりつつあった視線を上げると、鋭い眼差しが目に入った。
射竦めるようなそれに、泣き出したい衝動に駆られる。
「……本当に気にしてないっていうなら、何でそんなに素っ気無いんだよ。今までと明らかに態度、違うじゃないか。こんなっ、こんな……」
「冷めた関係じゃなかった、ってか? いいや、違うな。もとからそうだったろ?」
深町は形のいい唇の端を上げて、嘲笑して見せた。
眼差しは相変わらず、鋭くて冷たい。
「だって、そうだろ? 委員長は先生に怒られないために、俺の夕飯を作りにくる。俺は休養をとるために、委員長に夕飯を作ってもらう。ただ利害の一致によって一緒にいたってだけの、殺伐とした関係。それが、俺たちだろ?」
突き放すような深町の言葉に、俺はふるふると何度も横に首を振った。
もしも彼の言う通り、それだけの関係なのだとしたら。
きっとこんなにも今の言葉が辛いと感じないはずだし、何より……俺たち二人が、こんな状況でいないはずだ。
俺が深町を好きになることだって、なかっただろう。
「そんな関係のつもり、なかった。だって俺は深町と一緒にいて、楽しかったし。もっと…」
もっと、一緒にいたかったなって。
言おうとしたら、代わりに涙が出た。
もう今までみたいに過ごせないんじゃないか、そんな可能性が頭に浮かんできて。
それを否定し切れなかったことが、思いのほか、悲しくて。
一度涙が零れると止まらなくって、俺は堰を切ったように泣き出してしまった。
「何で泣くんだよ…? ああっ、もう。イライラするなっ」
「……そんなに、俺が嫌い?」
「はぁ? 嫌ってるのは委員長の方だろ」
深町の言いように、プッツン、と。
何かが、切れた。
「今までの会話でどこをどう取ったらそうなるんだぁああ!? 嫌いだったらわざわざこんなとこに来るか!? むしろ逆だろうが!? 会いたくて、話したくて仕方なかったんだよ! それなのになんでお前は…!」
まくしたてるように話し出した俺に、深町は目を丸くしていた。
でも、気にしない。
この際だから今まで思ってたこと、全部ぶちまけてやるっ。
岡崎にもそう言われたしな!
俺は深町の胸倉を掴み上げ、情けないことに涙を流しながら怒鳴り続けた。
「そうやって意地悪なことばっか言うのもいい加減にしろよな!? こんな……こんなに、好きなのに! どうして俺だけこんな気持ちにならなきゃならないんだよっ。そんなのズルイだろ!? 可笑しいだろ! なあっ!?」
叫びすぎたせいで息を切らす俺をしばらくはキョトンとした顔をして見ていた深町は、不意に、笑い出した。
怒り心頭中の俺は、そんな深町の屈託のない笑顔に腹が立ってしょうがない。
「笑うな! 人が真剣に思いをぶつけてるっていうのに!!」
「ぶっ、ぶつけ方が思いのほかストレート過ぎて…! なんかこう、もっと恥ずかしがりながら言ってくれるんだとばかり思ってたんだけど……っ。でもまぁ、こんなもんか。委員長相手に、ドラマみたいな展開を期待しちゃ駄目だよな! 抱き合ったときもそうだったし!!」
笑いを堪えながら言われることはどれもかれもが失礼なこと過ぎて、俺は絶句してしまった。
「わ、悪かったなぁ!」
「いーや。悪くないよ、全然。委員長がそうやって素直になってくれるの、ずっと俺は待ってたんだから」
「は…?」
目を瞬かせていると深町が柔らかく微笑んだので、俺は恥ずかしくなって視線を逸らした。
深町が優しい表情をしているときって、緊張してまともに目が見られなくなる程に、眼差しが温かいんだ。
彼は俺の気持ちを知ってか知らずか、穏やかな表情のまま、頬に手を触れさせてきた。
とくんっ、と大きく心臓が脈打つ音がした。
「本気で嫌いだったら、こんな風に、面と向かい合って俺が喧嘩するとでも……? 前に言っただろ。俺は、基本的に他人と話すことは面倒だから嫌いなんだって」
「じゃあ、何で俺とは…」
「さぁ? お前と同じで……好きだから、じゃないのか?」
「―――っ!」
サラリと述べられたその発言に言葉をつまらせると、深町はニヤリと笑って見せた。
それは見慣れた、ひどく意地の悪い笑みだった。
「顔、赤くしすぎだろ。頬がすごく熱くなってる。俺の言葉、そんなに嬉しかった?」
「こっ…この…! 馬鹿にしてっ。お前なんてな、大っ嫌いだ!!」
深町の身体を突き飛ばすと、彼は拗ねたように口を尖らせた。
「さっきまで好きって言ってたじゃないか」
「さっき言ったことは全部ナシだ、ナシ!!」
「それじゃあ俺、困るんだけど」
神妙な面持ちの深町に、再び胸が高鳴りだす。
こういう真剣な顔つきをされると、ドキドキして、やっぱり深町を好きなんだって実感させられてしまう――っ。
「嘘! ごめん、本当は…っ」
「このままベッドインする気満々だったのに」
………前言、撤回。
まさか一度目の撤回活動から僅か数秒足らずで二度目を行うことになるなんて。
「深町なんぞと誰がベッドインなんてするかぁ!!」
「委員長」
「いやいやいや! しないからっ。お前の変な妄想を押し付けるな!! 妄想はあくまでも妄想のままで…いやっ、妄想もしてほしくないけども!! と、とにかくだなぁ…っ」
しどろもどろになりつつもとにかく話続けていると、深町は不満そうに眉を寄せた。
「なんで経験済みなのに、そんなに嫌がるんだ。気持ちよかっただろ?」
「気持ちよくっても駄目だ! 突っ込まれるのなんて御免だ!!」
「なんだ、そんなことか。早く言えよな。お前がどうしてもって言うのなら、俺だって突っ込ませてやるから…」
「そういう意味じゃなぁああいっ!!」
いつもながら、どうして深町とは会話が噛み合わないんだろうっ。
気が立っていたせいもあって、余計に腹が立ってくる。
「もう嫌だ! 何で深町とはこんなにも会話が成り立たないんだ!!」
「でも俺と一緒にいることは、嫌じゃないんだろ?」
俺がポカンと口を開けたまま何も言い返せずにいると、深町は満足そうに目を細めた。
そんなことはない、と嘘でも言えない自分がとてつもなく歯痒い。
「くそぉ! そうだよ、俺は深町と一緒にいるのは嫌じゃないどころか幸せさっ。それが何だよ!?」
「嬉しいなって、そう思っただけだよ。それより、話はもう終わり? 他に伝えたいことがないのなら、帰ったら? 今日はもう、俺は学校に行くつもりないし」
「へ……?」
深町の発言に俺は拍子抜けしてしまった。
いくら何でもちょっとアッサリしすぎやしませんか、深町さん。
だって俺、告白したんですよ?
それで、両思いだってことも分かったんですよ?
それなのに、もう帰れと?
不満を込めた眼差しを向けると、深町に宥めるように頭を撫でられてしまった。
「別に、家に上がってくれても構わないけど。ただ、先に言っておく。母さんは出張中で家には俺以外、誰もいない。ついで、明日は休みだ。これがどういうことか分かるか?」
俺が首を横に振ると、深町はひどく色気を伴った、艶っぽい笑みを浮かべて見せた。
それから俺の耳元に口を寄せ、低く囁く。
「明日が休みだと分かってるから、体力を使うようなことも手加減なしで出来るってことだ」
「………たっ、体力って」
耳に触れた熱い吐息と言葉の意味に、俺は真っ赤になって口を魚みたいにパクパクと動かした。
先程と同じ意味を持つことを言われているはずなのに、声色が違うだけでこんなにも感じ方が変わってくるなんて。
無駄にフェロモンを放ちやがる困った男は、ドキドキが収まらない俺を愉しそうに見つめていた。
「まぁ、そういうわけだから。よく考えて行動してくれ。言いたいことはそれだけだ。……あ、そうそう。朝、迎えに行くからさ。月曜日は一緒に登校しような」
「あ、ああ。分かった」
深町は俺が頷くのを見届けると、どこか名残惜しそうに、ゆっくりとドアを閉めた。
一方で俺は、深町の言う“体力を使うようなこと”を想像して、頬を熱くさせていた。
そんなに俺を抱きたいのなら、無理にでもそうすればいいのに。
けれどそうしないのには、きっと理由があるわけで。
「………んぅ」
基本的に、自分で言うのも馬鹿みたいだけど、俺は流されやすいと思う。
初めて抱き合ったときだって、その場の勢いだけでしてしまったようなものなわけだし。
もしかしたら深町は、それが嫌なのかもしれない。
流されて勢いのままに抱き合うんじゃなくって、互いに同意した上で、抱き合いたい。
そう思ってくれているのかもしれない。
だからこそこうして、俺に考える機会と、そして選択肢をくれたんだろう。
「…深町」
選択は、自由だ。
このまま帰るのもよし。
中に入って、彼と過ごすのもよし。
どっちを選んだっていいんだ。
でもだからこそ、俺は玄関の取っ手を掴む。
―――だってそれって、本気で俺のことを大切にしてくれてるってことだろう?
鍵はかかっていないようだ。
正味な話、問題は山のようにある。
男同士だし、深町の性格は破綻してるし。
それでも、いいんだと思う。
だって深町への気持ちは、もう随分と前から、揺ぎないものに変わっていたのだから。
「ええいっ、なるようになれ!!」
自暴自棄とも取れるようなことを言いながら、取っ手を握る指に力を込める。
けれど決して、自棄を起こしているというわけではない。
覚悟は、ある。
俺はきっと、直後に見ることになるだろう彼の笑みを思い浮かべながら、勢いよく、ドアを引いた。