23. 陣side


両手首を縛り上げている鎖が揺れ、金属の擦れあう不愉快な音が鳴った。
俺を拘束するこの鎖の先端は、ベッドの脚に繋がれている。
この状態になってもう何日目だろう。
時間の感覚がやけに曖昧なのは、昼夜問わずあの男が犯しにくるせいだ。
いっそこのまま何も分からなくなって死んでしまえればいい――皮肉げな笑みを浮かべると、インターホンが鳴り響いた。

「……客? まさかな」

この家にやって来る客などいない。
セールスマンでさえ、一度あの男がこっ酷く言い返してから、寄り付かなくなってしまった。
それでは誰が?
すぐに思い浮かぶのは二宮の顔だけれど、せっかく自由になったというのに、戻って来るだろうか。
いや、来ないだろう。
――むしろ、来て欲しくなかった。
きっと二宮に会ったら俺は、本当に彼を手放すことが出来なくなってしまうだろうから。
そんな俺の願いを嘲笑うかのように、部屋の扉が開き、二宮が現れた。
あの男に、背後に腕を捻り上げられた状態で。

「ひ、かる……!?」
「陣、陣ッ!!」

俺の名前を叫ぶ彼の目に、薄汚れたワイシャツ一枚を羽織っている俺は、一体どう映っているのだろう。
二宮は俺がこんな目に日常的に遭っていることを知らないはずだ。
だからもっと驚くかと思ったのだけれど――予想外にも、彼から動揺は感じられなかった。
そのことに違和感を覚えていると、二宮が俺の座っているベッドに突き飛ばされた。

「おい! 光に乱暴するんじゃねぇ!!」

つい言い返してしまって、ハッと短く息を呑み込む。
男が憎いものを見るかのように、俺のことを睨みつけていた。
逆らうな。
即座にそんな自制が働き、俺は俯いて、ただ唇を噛むことしか出来なかった。

「ふん、そうだよ。それでいい。……しかし二宮光。よくもまぁ、戻って来れたな。そこそこ酷い目に遭ったはずだろ? それとも、そんなにこいつに犯されるのが悦かったのか?」

男は皮肉げな笑みを浮かべると、床に落ちている鎖で俺同様に二宮を縛り上げようとした。
この部屋に俺ともども、復讐のために監禁し、陵辱するつもりなのだろうか。
――そんなこと、許せるはずがない。
これではわざわざ二宮を家に帰した意味がなくなってしまう。
ふつふつと込み上げてきたのは、恐怖と絶望と、自身に対する強烈な怒りだった。
何としても男を止めなければならないのに、身体が動かない……ッ。

「大丈夫だから」

不意に聞こえてきた囁きに顔を上げれば、二宮が力強い笑みを浮かべていた。
絶対的に不利な状況だというのに、助かることを信じて疑わないその様子に、少しだけ眉を寄せる。
先程にも覚えた、違和感。
まるで、こうなることを予測していたかのような反応。
もしかして二宮は、俺の家庭のことを全て知った上で行動しているのだろうか。

「お前……まさか、日記を読んだのか!?」

逢着した答えに思わず声を荒げると、二宮を縛ろうとしていた男が、勢いよくベッドから転がり落ちた。
突然過ぎる出来事に、一瞬、思考が停止する。
何が起きたのか分からずに戸惑っていると、聞き覚えのある声が、耳に届いてきた。

「待たせた……っ」
「遅すぎ! 何やってたんだよっ」
「仕方ないだろう? まさか、リビングの窓が強化ガラスだとは思わなかったのだから……ッ」

二宮の文句にムッとしたように眉を寄せるその姿を、信じられない思いで見つめる。
どうして、彼がここにいるのだろうか。
二宮の、そして俺の本当の父親である――直純が。
彼は俺の姿を目に留めると、柔らかく微笑んで見せた。

「以前、会ったことがあるね。君が陣だったのか」
「な、んで……。ここに、貴方が……?」
「光と君を、助けに来たんだ」
「俺……も?」

直純は一体、何を言っているのだろう。
彼がここに来たということは、二宮が全てを話したということのはず。
俺が直純を憎んでいることも、俺の二宮に対する凶行も、伝えられたに違いない。
だというのに直純は、それでも俺を助けてくれると言うのだろうか。
じっと見つめていると、彼は俺に近づき、ポンっと頭に手を乗せてきた。
それはひどく、大きくて温かな手で。

「子供を守るのは、親の役割だろう?」

不覚にも、涙腺が緩みそうになった。
直純から俺へと向けられる眼差しには、怒りも同情も見受けられない。
ただ――優しい温もりを感じた。

「この……やろぉおお!!」

震え、ひくつく唇を噛締めていると、男の怒鳴り声が聞こえてきた。
突き飛ばされて床に倒れこんでいたはずの男が、直純目掛けて走ってきている。
危ない――そう思ったのも束の間、男はズテンッと情けない音を立てて床に突っ伏した。
いつの間にか駆け寄っていた二宮が、彼に足払いをかけたのだ。
何だかその光景はひどく滑稽に思えて、俺は久しぶりに、声を上げて笑ってしまった。
俺が十数年間、逆らうことの出来なかった男が、こんなにも簡単に打ちのめされてしまっている。
そう考えると可笑しくて、可笑しくて、あんまりにも笑ったものだから涙が滲んだ。

「っ、ぁ……はっ……ッ…」
「陣……」

傍に寄ってきた二宮は、やけに心配そうに表情を曇らせていた。
拘束されているせいで上手く動かない手で、彼のことを軽くぶつ。
いつから俺を名前で呼べるような立場になったんだよ、お前は。
そんな反感の気持ちと――感謝を込めて。

「危ないことしやがって。……囮だったんだな、お前」
「ああ。父さんがこの家に侵入出来るまでの、な」

二宮はそれだけ言うと抱きついてきた。
俺は驚きに身体を強張らせたが、すぐに弛緩させると、彼を抱きしめ返せない代りに額をぶつけあわせた。
それから、直純と向かいあっている男に目をやる。

「直純さん。そいつは――」
「彼が私を憎んでいることは、分かってるつもりだ。……憎まれて、当然のことを私はしてしまったから」

辛そうに目を細めた直純に、男の瞳に宿る憎悪の炎が、大きく燃え上がる。
男は荒々しい足取りで直純に近づくと、彼の胸倉を掴み上げて激昂した。

「分かった風な口を利くなッ。お前に会社をクビにされてから、俺がどんな生活を送っていたか想像出来るのか!? 出来ないだろう!? 妻子に囲まれ幸せな家庭を築いているお前には、絶対なッ。……俺は、惨めだった。金はないし、妻はいないし……子供は、日に日にお前の顔に似ていくし!!」
「君の奥さんが亡くなっていることは知らなかったんだ。知ってさえいれば、いくら経営不振だったとは言え――」
「クビにはしなかったとでも言うつもりか? そんな言葉、聞きたくもないッ。同情して欲しいわけじゃないんだッ。ただ、俺は……!!」

お前のこと、信じていたのに――小さく呟かれた男の言葉に、俺は目を見開いた。
日頃から感じられていた、男の直純への並々ならぬ憎悪の念。
それは彼を大切に思っていたあまりに湧き上がったものだったのだろうか。
確かに直純が精子の提供者であることを考えると、二人が親しい間柄であったことは想像に難くない。

「……辻村。私は、君ならきっと分かってくれると思って」
「黙れッ」

男は直純を突き飛ばすと、感情の昂ぶりからか溢れてきた涙を袖で拭った。
心を許している相手に、妻を亡くした喪失感に苛まされている最中に、切り捨てられる。
それを裏切られたように感じてしまうのは、無理がないことなのかもしれない。
それでも。

「っ……だからって、俺に当たるなよ! 確かに俺の顔は直純さんに似てるかもしれない。気に食わないのは、仕方がないことなのかもしれない。でもそれは、アンタが子供を望んだ結果だろ!? 他人の精子使ってまで、母さんに俺を産ませたくせに……ッ」

虐待という自分の行為を正当化するためだけの、くだらない理由付け。
今までこの男に振り回され続けていた俺が、そんなものを認められるわけがないし、許せるはずもない。
俺は短く息を吸うと、茫然とこちらを見つめ返してくる男を睨みつけた。

「前にアンタ、直純さんが幸せを壊したって言ってたよな。でも本当は違うだろ? アンタだって、認めたくないだけで気づいてるんじゃないのか……? ぶち壊して、全てを台無しにしたのは、他ならない自分なんだって!!」
「陣……」

いきりたつ俺を宥めるように、二宮が柔らかい声音と共に、腕に手を触れさせてきた。
そっと顔を横へ動かせば、琥珀色の瞳が目に入る。
そうして急速に冷めていく身体の熱、鎮まっていく心。
それで、自分がひどく感情的になっていたことに初めて気がついた。

「落ち着いたか?」
「……悪い。もう、大丈夫だ」

瞼を閉じ、深呼吸をする。
俺が直純を目の前にしても憎しみに憤ることなくいられるのは、間違いなく二宮のおかげだ。
気が狂いそうな生活の中で正気を保ち続けられたのも、おそらくそう。
自分が何をしたくて、何に苦しんでいるのかさえも分からなくなっていたときに、彼は支えてくれていたのだから。
けれど――俺は瞼を開けると、くしゃりと顔を歪ませている男に再び目を向けた。
この男には、誰もいなかったのか。
正しい道へと導いてくれる、辛さを共有出来る、大切な存在が。


本当に、そうだったのだろうか。


ふと浮かんだ疑問を、そんなハズはないと即座に否定する。
男を支えることが出来た存在は、確かにいたはずだ。
だって、そうだろ?



十数年もの間。
ずっと、同じ屋根の下で過ごしているヤツがいるのだから。



眩暈を覚えて、床に両手を着いた。
俺が、気づいてやるべきだったのだろうか。
男の顔に張り付いてしまった、作られた歪な笑みに。濁った目の奥に宿る、悲しみの光に。
二宮が俺にしてくれたように、俺も支えてやれたのなら、こんなところに来る前に、食い止めることが出来たのだろうか。

「っ……何だよ、それ。そんなの……っ」

零れてくる、失笑。
激情に溺れ、自分を見失い、大切なものや望みが何だったのかさえ分からなくなって、自棄になって。
欲しかったものは手を伸ばせば届いたはずなのに、全て、自分から手放してしまった。
それはこの男に限らず、俺にも当て嵌まること。

「お、俺は――」
「俺も、アンタも。どうして同じようなこと、するんだろうな。こういうのを、血は争えないっていうのか? なぁ……父さん?」

俺の言葉に男は口を噤み、へたり、と床に力なく膝を崩してしまった。
今まで虚ろだった彼の瞳には、僅かにだけれど光が浮かんでいる。
それは言いかったことを直純にぶちまけたことで気持ちを楽にすることが出来たからなのか、それとも俺の言葉に何か思うところがあったからなのか ――そのどちらかは分からないけれど、きっと、悪い変化ではないはずだ。

「まあ、俺とアンタは本当の親子じゃないらしいけど」

カシャンッ、と俺を拘束していたはずの鎖が床に落ちて音を立てる。
どうやら二宮が、いつの間にか外すために奮闘してくれていたらしい。
俺がふらつきながらも立ち上がると、彼はにっこりと微笑んでくれた。
背中を押してもらえたような、安心感が訪れる。
久しぶりに歩くせいで縺れそうになる足で男に近づくと、俺は自由になったばかりの手を、そっと差し出した。

「掴まれよ」
「――っ…」

感情に歯止めが利かず、自制することなく行動に移していた俺とこの男は、どうしようもない程に愚かで浅はかだった。
けれどそれを知れたからこそ、変えていけるもの……変えなければならないものがあるはずだ。
時間がかかってもいいから、今まで出来なかったことや失ったものを“一緒”に取り戻していきたい。
そのためにまずは、迷惑をかけてしまった人たちへの謝罪を、そして救ってくれた人たちへの感謝をしなければ。


「何やってんだよ、早くしろってば。俺は気が長い方じゃないんだ。アンタと一緒でな」
「陣……」



名前を呼ばれるのは何年ぶりだろう。
俺はそんなことを考えながら、伸ばされた震える手を、強く握り返した。




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