1. それでもまた、恋を (有原視点)
桜が舞う淡い色彩の中を、欠伸を噛み殺しながら歩いていく。
通い慣れている高校へと続く長い坂道は、見るだけで気分を萎えさせてくれる。
惰性のように繰り返される毎日にいい加減飽きを覚え苛立っていると、どよっと、背後でざわめきが上がった。
いつもとは違う、出来事に。
このつまらない日常を変えてくれるような“何か”を期待して振り返ったのも束の間だった。
「うおぁわあっ!?」
思い切り何かにぶつかられ、俺はコンクリートの地面にひっくり返ることになった。
新学期早々、何でこんな目に遭わなければならないんだ。
確かに穏やかな毎日に飽きはしていたものの、こんな風に身体に痛みを覚えるようなサプライズはとりあえず遠慮しておきたい。
Mじゃないんで。
ムカムカとしながら起き上がると、足元に、地面にうつ伏せている男子生徒がいた。
瞬時にぶつかってきた奴だと理解した俺は文句を言おうとしたのだが、どうやら完全に伸びきっているらしく、反応がない。
「おいおい、冗談だろ。自分からぶつかっといて……」
確かに自分は石頭だが気絶するほどではないだろう、と呆れながら男子生徒の顔を見て、騒然となる。
こいつは兄貴がこの地域の暴力団を総括する立場にいるため、誰も逆らうことが出来ないのをいいことに好き勝手やっている男子生徒――日向――だったのだ。
よりにもよってこいつにぶつかっちゃうなんて。
というか、ぶつかられちゃうなんて。
このことが日向の兄貴に知られたりしたら、暴力団の組員が一斉に俺に襲い掛かってくるんじゃないだろうか。
まずい、これはまずい。
よし、逃げよう。
一番的確かつ楽な解決方法を見出した俺は、すぐさま逃げようと立ち上がった。
……つもりだったのだが。
「こんちくしょぉ〜…っ、イテーなぁ!!」
目が覚めてしまったらしい日向に足を掴まれてしまい、それは叶わなかった。
頼むからこのタイミングで起き上がらないで頂きたい。
っていうか出来ることなら一生この場で眠って下さっていた方が、この地域の人たちのためになっただろう。
とりあえず顔を見られるまいと逸らすと、日向が俺から離れていく気配がした。
「……ん?」
疑問に思って振り返ると、日向は誰かと向き合っているようだった。
その誰かは、逆光によって顔がよく見えない。
けれども俺と同じブレザーを着ていることから、この高校の生徒で、男であることが窺えた。
「テメェ、俺様が誰だか分かってんのかぁ!? 俺様をフッた挙句ぶっとばすなんて、正気の沙汰じゃねぇぞ!!」
わざわざ状況説明をありがとう、と礼を言いたくなるほど分かりやすい日向の発言に、俺はため息をつきつつ立ち上がった。
あの男子生徒に投げられたことによって、日向は俺にぶつかったらしい。
つーことは、俺が身体的ダメージを負うはめになったのは、あの男子生徒のせいなわけか。
しかし日向が言い寄ったからこそぶつかるという事象が起こったわけだしな…。
あいつだけを責めるわけにもいかないか。
というか、言い寄るって何だ。
日向ってアレか。
そっち系の趣味もあったのか。
「……聞いてんのかコラ!? すかしてんじゃねぇぞ!!」
どうでもいい発見に眉をしかめていると、キンキンと頭に響く、日向の怒鳴り声が聞こえてきた。
再び視線を前へとやれば、日向の腕が男子生徒へと振り上げられているじゃないか。
日向は確かに兄貴を後ろ盾にしているが、決して喧嘩が弱いというわけじゃない。
殴られたりしたら……。
「危なっ…」
「耳障りだ」
冷たい、けれどよく透る声が聞こえたと思った直後だった。
止めに入る間もなく、男子生徒に日向は捻じ伏せられていた。
「な……嘘だろ?」
相変わらず男子生徒の顔はよく見えないものの、体格はちゃんと分かる。
それは屈強な男、と言い表すにはあまりにも華奢すぎる、細く小さな体躯だった。
にも拘らず自分よりもひとまわり以上大きい日向を地面に捻じ伏せているこいつは、一体何なんだ。
「……お、おい。そこまでにしとけって。相手、誰か分かってんのか? 日向だぞ?」
畏怖を抱きながら話しかけると、男子生徒は今俺の存在に気がついたとでもいうように、顔を上げて見てきた。
太陽が雲に隠れ、逆光によって見えなかった男子生徒の容貌が露になる。
それは遠目からでも分かるほどに、整った顔立ちだった。
陶器のように滑らかで白い肌に、色素の薄い髪。
キュッと引き締められた口元は凛々しいのに、やけに儚く感じるのは――どこか愁い帯びた光が、瞳に湛えられているからだろうか。
だからなのか、どうだか知らないけれど。
「可愛…い」
美男子に対する感想としては、およそ相応しくないことを言ってしまったのだった。
当然、男子生徒は不愉快そうに顔を顰めるのだが、そんな姿でさえ絵になっていて。
左胸が、やけに熱くなった。
「……ジロジロ見ないでもらおうか」
「あ、わ…悪い」
パッと視線を逸らすと、地面に捻じ伏せられている日向と目が合ってしまった。
……ううん。
素晴らしい芸術品を見てから自分の作ったショボイ創作物を見たときのような、複雑な気分になる。
「えー…っと。あの、日向が」
男子生徒は俺の目線を追って日向を見下ろすと、機嫌悪そうに手を離した。
日向は弾かれたように勢いよく立ち上がると、俺たちに向かって「テメェら覚えてろよ!!」とまるでどこかの悪役のような台詞を吐いて走り去っていった。
困ったことに、俺も恨みの対象にされてしまったらしい。
こうなったら日向が兄貴に、俺たちの討伐を訴えかけないことを祈るだけだ。
「あーあ、朝から散々だ」
ぼやく俺を男子生徒は一瞥もくれずに通り過ぎようとする。
「ちょっと待てよ。自己防衛とはいえど、俺に日向をぶつけたのはお前なんだぞ? 一言詫びるくらい、した方がいいんじゃないか?」
男子生徒は足を止めると、真っ直ぐに俺と向き合った。
こうして並ぶと、意外にも俺とそれほど身長が変わらないことが分かった。
それでもやはり、足腰は細い。
制服を着ていても分かるそのしなやかな身体つきに、ちょっとだけ頬が熱くなった。
「悪かった」
本当に、一言だけだった。
男子生徒は誠意の篭ってない声で言うと、歩いていってしまった。
もっと気持ちを込めろ、と普段なら文句を言うところだけれど。
男子生徒が去り際に視線をこちらに向けたので、何も言うことが出来なかった。
至近距離で見つめられると、どうにも思考が鈍ってしまうようだった。
「……はぁーっ」
ヘタリ、とその場に座り込む。
ふと顔を上げれば、遠巻きに俺を見ている生徒たちがいた。
正確には俺を、というよりも、この一連のやり取りを、だろうけど。
俺も本来ならみんなのように、遠くからこの騒ぎを見ているはずだったのになぁ。
何だって、日向に恨まれることに……。
でもあの男子生徒と話が出来たのは俺だけだし、そうやって考えると、ちょっとはいいかもしれない。
「つか、あいつは誰なんだ?」
悪名高い日向に、あそこまでしたんだ。
きっとこの地域のことにあまり詳しくないのだろう。
制服も真新しい感じがしたし、あんなに綺麗なのに今まで俺が存在に気づかないはずがないし。
そうやって考えていくと、彼は転校生なのかもしれない。
少し、興味があるな。
関わらない方が良いんじゃないのか、という考えも浮かんだけれど。
俺は俺に忠告をしてくれている第六感を無視して、彼のことを調べることに決めた。