1. ねがいたいのはきみの倖せ
父親の浮気が露見されて以来、家の中の空気が変わったと思う。
それはきっと俺の勘違いなんかじゃなくって、母親は日に日にヒステリックになっていった。
精神科に通わなければならなくなる程に。
そんな彼女の苛立ちの矛先となったのが、父親と浮気相手との間に生まれた日向だった。
どうして私があんな女の子供の世話をしなければならないの!? ……もっともな意見ではある。
かといって幼い日向に罪はないわけで、俺は母親からの陰湿な虐めから彼を守る毎日を過ごしていた。
その日々は陰鬱なものでしかなく、俺が非行に走ってしまうのを一体誰が咎められようか。
俺にとっては深夜に町を徘徊しているときが、一番幸せで、解放されるときだったんだ。
暴力団に入ったのは、そんな日々の鬱憤を晴らしたいっていう単純かつ重大な理由からだった。
「この地域の高校生って馬鹿が多いよなー。ちょっと甘い言葉かけてやれば、簡単に薬に手を出してくれる」
「お前のは甘言じゃなくって脅迫だろーっ」
「んなことねぇよ〜? つーか竜牙! お前もこっちに来いって」
無言を貫くことで呼びかけてきた男に拒絶を示し、俺は自動販売機にもたれ掛かりながら缶ビールを傾けた。
男は付き合い悪いなー、と少しだけ不満げな顔をしたものの、すぐに会話へ戻っていった。
薬が回っているのかはたまた酒のせいなのか妙に甲高い笑い声を耳に入れつつ、俺はのろのろと視線を上げた。
暗闇にぽっかりと穴を開けるように浮かぶ、銀色の円盤。
その透き通るような光は、使われなくなったせいで錆付いた遊具を照らしている。
自宅から1kmほど離れたところにあるこの公園は、浮浪者さえ寄り付くことのない、暴力団員や不良の溜まり場となっていた。
「ねぇ、おじさん。ここどこぉ…?」
……そのはず、なんだけど。
俺は涙声で話しかけてきた十代もそこそこの少年に、ポロリと缶ビールを落としてしまった。
どうしてこんなに小さい子がいるんだ、そしておじさんって何だ俺はまだ大学生だぞ…ッ!
あまりの衝撃に停止していた思考が、コンクリートに缶がぶつかって跳ねる音に動き出す。
俺は少年の胸倉を掴むと、自分の方へ勢いよく引き寄せた。
「お前は何だ!? どうしてここにいる!?」
「ひっ……ま、迷子に…なっちゃ…」
「ま、迷子ぉ〜?」
俺は眉間にしわを寄せて、怯える少年の顔を睨みつけるようにして見た。
幼い子ども特有の柔らかそうな頬は夜風に冷えたのか蒼白く、涙も相まってか悲愴さが滲み出ていた。
どうやら迷子というのは嘘ではなさそうだ。
第一こんな子どもに、ここで嘘をつくメリットなどないだろう。
「家はどこら辺なんだよ?」
「えっと…。ん…わかんない…よ…」
「全くってわけじゃねーだろ? 何か目印になる建物とか……。つーかさ、こんな時間まで出歩いてるって、一体いつから迷ってんだよ」
「わ、わかんない…よぉ…っ。ふぇえ…ッ」
少年はふるふると首を横に振ると、瞳からボロボロと大きな涙の粒を零した。
ひっくひっくと嗚咽を漏らす少年に、離れたところにいた男達も気がついたらしい。
興味深げに近づいてくるのが分かった。
「竜牙ー? 誰そいつ〜」
「知らん。親とはぐれたっぽいけど」
「うへぇっ、マジか!? それでここに来ちまったの〜? ふーん。可哀想にぃー」
男達は馬鹿にするような眼差しを少年に向けた後、踵を返して歩き出した。
「お、おい。まさか帰るつもりじゃないよな?」
「ハァ? 帰るに決まってんだろー。眠ぃし」
「この子はどうするんだよ?」
「んなもん知るかよー。……あ、イイコト思いついた。俺の知り合いにソノ筋の人がいてさぁ。そいつ結構可愛い顔してるし、売っぱらっちま…」
「分かった、俺一人でどうにかする! じゃあなっ」
俺は少年の腕を掴むと、ニタニタと嫌な笑みを浮かべる男達から逃げるように歩き出した。
あいつらの言う通り面倒を見る必要なんてないのかもしれない。
売った方が、勿論金にもなるだろう。
けれど少年と近い年齢の弟をもつ兄として、そんなことは出来るわけがなかった。
厄介ごとを引き受けてしまいがちな自らの性分を嘆きつつ、公園を横切って人気のない道路に出る。
ほのじろく光る街灯の下を通り過ぎたところで、クイッと洋服を引っ張られた。
「何だよ?」
「あ、あの…。さっき、助けてくれた…の……?」
「……は?」
見上げてくる少年は、真っ直ぐな眼差しを俺に向けてきていた。
こうも純真さの窺える瞳で見つめられると、正直、言葉につまる。
どう答えるべきか迷った後、俺は結局、何も言わずに歩き続けることにした。
「よかったぁ。おじさん、やっぱりいい人だった」
「俺は別に……っていうか、おじさんって言うんじゃない!」
「ねぇ、これからどこに行くの?」
完っ璧に俺の言うことを無視してくれてるよ、このクソガキ。
苛立ちが募るものの、如何せん相手は年端もいかない子供だ。
怒ってもしょうがない。
「悪いが、交番には行かねぇぞ。あそこは好かん。かといって他にいい場所は特にねーんだよな。俺の家は……まぁ、行かない方が無難だな。ホテル行こうにもこの時間じゃなー。何より金がない」
「……どうするのぉ?」
「な、泣きそうな顔すんじゃねぇって。俺の前で泣くの禁止! 今度泣いてみろ、締め上げるからなっ」
「…ひぐっ…う……」
どうやら本気に受け取ったらしく、少年は必死に嗚咽を噛み殺しているようだった。
その様に苦笑しつつ、少年の手を引いて歩き続ける。
しょうがない、俺の秘密の場所に連れて行ってやるか……。
++++++
「毛布〜。ふかふかー」
路地裏の奥にある廃れた倉庫には不釣合い過ぎる、楽しげな少年の声が辺りに響く。
数ヶ月前から使われなくなったらしいここは、あの公園以外に俺が好んで過ごす唯一の場所だった。
正直他の誰にも踏み入って欲しくはなったのだが、仕方ないだろう。
「ほら、ホットミルク。これ飲んで温まれよ」
「ありがとう…」
火傷しないよう、けれど身体が温まるように温度を調整した牛乳を、少年は心底美味しそうに飲んだ。
話によると夕方くらいからずっと歩き続けだったらしいし、喉が渇いていたのだろう。
俺が過ごしやすいよう取り揃えていた生活用品の数々が、まさか自分以外に役立つときがこようとは。
「なぁ、そういやまだ聞いてなかったけどさ。お前って何ていうんだ?」
「知らない人には名乗っちゃダメって言われてるから」
「……あのなぁ。知らない人に着いてきてる時点で、もうダメダメだろ」
「あっ。ど、どうしよう。お母さんに怒られちゃう…」
「はぁ。親が見つかるまでの間、面倒見てやろうという心優しいお兄様に対しての態度かねそれが」
「そ、そうだね。ごめんなさい、おじさん」
「お兄様っつってんだろうがよぉお! わざわざ強調してまで言った意味を汲み取れよお前ぇッ!!」
「ごめんなさぁーいっ」
少年は嬉しそうに笑って、毛布に包まってしまった。
人が怒鳴ってるっていうのに、何でこんなにも楽しげなんだコイツは。
俺は毛布を引っぺがすと、少年の頬を思いきり抓ってやった。
「い、いひゃいよぉー」
「おぉ〜、伸びる伸びる。こりゃ大福にも勝てるな。ほーら、今に伸びすぎて戻らなくなるぞ〜。びょ〜ん、びょ〜ん」
「ひぇえ!? やだ、やだやだぁっ」
「やめて欲しかったら俺のことはこれから竜牙様と、敬愛と畏怖の念を込めて崇めつつ呼ぶがいい」
少年はこっくんこっくんと上下に激しく頷いて見せた。
その必死な様子が見ていてとても面白い。
母親のせいで捻くれてしまった日向とは正反対の、素直で可愛いタイプの子供だ。
……勿論、日向も俺にとっては十分可愛いのだけれど。
「りゅ、りゅーがしゃまぁ…」
「……な、何か。イタイケナ少年に様付けされると、イケナイコトをしている気分になるな」
「いけないこと…?」
「あーあー、気にしなくて宜しい。まだお前にゃ早い」
「ぶーっ」
「拗ねんなって。ほら、明日は早くから家探しするんだからな? いい加減、もう寝ろ」
まだ起きていたいと言わんばかりに目を爛々と輝かせている少年を、ベッドに無理やり寝かしつける。
初めて来た場所で眠るっていう行為に、興奮するのが分からないわけでもないけどな。
俺だって修学旅行のときとか、なかなか眠れなかったし。
でもそれは友達が傍にいたからで――って、もしかして俺、友達として認識されてたりするのか!?
い、一体いつ頃からそんな関係になってしまったのだろうかっ。
「……竜牙様…?」
「ぁあ? な、何だよ」
頭を悩ませている最中に呼びかけられたせいで、驚きに声が上ずってしまう。
少年へ視線をやれば、彼は毛布から少しだけ顔を出して俺を見ていた。
「眠らないの?」
「あー。俺はもうしばらくは起きてるつもりだけど。まぁ、お前は気にせずに眠れ。大丈夫、ちゃーんと傍にいてやるから」
「……別に、そんなことする必要ないのに」
腹立たしい言い草に睨みつけるのだが、少年の表情があまりにも穏やかなので毒気が抜かれてしまった。
どうしてそんなにも、幸せな顔で笑えるのだろう。
――俺といるのに。
日向以外の人間……両親からでさえ疎んじられている俺にとって、少年の邪気がない笑顔は理解し難いものだった。
もちろん、嫌なものなわけではないのだけれど。