もし突然、自分の部屋にあったタンスの奧に、雪国が広がっていたらどうしたらいいだろう?
俺はただ茫然とそれを見つめていた。
タンスの中にぶら下がったコート、高校の制服であるブレザーといった物の奧から、冷たい風が吹き込んできている。そして、ちらちらと舞う雪の破片も。
恐る恐る服をかきわけて奧のほうを見つめると、雪が舞い落ちる別世界が広がっていた。雪に埋もれた地面、枯れ枝に積もる雪。
「ハロー、ナル○ア」
俺は小さく呟いてみる。
それから、自分の部屋を見回す。俺の部屋は二階にあり、八畳ほどの広さがある。机とタンス、シングルベッド。床には整然と積まれた漫画雑誌。
これが現実。
俺はぼりぼりと頭を掻いた後、ずり落ちた眼鏡を指先で持ち上げ、自分に言い聞かせる。
「寝ぼけているらしい」
俺は何も見なかったことにして、タンスを閉める。そして、それがうっかり何かの拍子に開かないようにと両側に開くはずの扉の把手をビニールロープで縛った。そして、真っ暗になった窓の外を見やる。
「寝るか」
俺はそう呟いた。
その次の日。
俺はいつも通りに学校にいき、いつも通りに勉強をし、いつも通りに帰り道で書店に寄って雑誌の立ち読みをし、いつも通りに帰宅した。
で、出された課題を終わらせるために机に向かい、引き出しを引いて中にあった筆記用具を出そうとした。
しかし。
引き出しの中にはブラックホールが広がっていた。何もそこにはない。真っ暗な穴がある。どこに続くのかも解らない穴が。
「ド○えもんが出てきそうだな」
俺はいつの間にかそう呟いていた。
穴の中に手を伸ばしても、空間の終わりはなさそうだ。下手に手を出したら吸い込まれそうな予感がする。
俺はゆっくりと立ち上がって後ずさり、そのまま階下へと降りた。リビングからは家族がテレビを見ているらしい気配が伝わってきたが、俺はそれを無視して玄関にいき、玄関の脇にあった棚にしまってあるガムテープを取りだし、部屋に戻る。
そして、ガムテープで机の引き出しを塞いでみた。
これで安心、という感じがした。いや、何となく。
とりあえず、変な物には近づかないほうがいいだろう。だが、俺の頭が変だったらどうしたらいいのか。
そうなったらそのときである。人間、開き直りが一番だ。
とりあえず、課題はベッドに引っ張り込んで、寝転がりながらやることにした。しかし、課題が終わる前に眠ってしまった。布団の心地よさは悪魔的だと思う。
そして。
それから数日というもの、俺は何回無視しなくてはいけない超常現象を目にしたことか。鏡を覗き込んだら雪国が映っていたり、どこからか「こっちの世界にきなさい」などという幻聴を聞いたり、学校の廊下を歩いていたら何もない空間に真っ黒な穴が空いていたり、本当にこれを気のせいですませていいのか。いいんだろう。そういうことにする。
俺はとりあえず平穏無事な日常を送る平凡な高校生として生活を──。
「何が平凡だ」
俺が家に帰って自分の部屋に入った途端、聞き慣れない声が聞こえた。声が聞こえるだけではなく、見えた。俺の部屋に、見知らぬ人間が立っている姿が。
しかも、それが日本人じゃない。
長い金髪、白い肌、淡い水色の瞳。背は俺より高く、百八十は軽く超えている。彫りの深い顔立ちで、睫が長い。いわゆる、秀麗な顔ってヤツか。おそらく、年齢は二十歳前後だと思う。
襟の立った服装で、それが見たこともない民族衣装っぽいのだ。よく解らないが、中世の人間ならそういうずるずるした服を着そうだというイメージがわいた。ズボンは履いているのだが、その上にチャイナ服みたいにスカートみたいなものをつけている。そして、じゃらじゃらしたアクセサリーも。
「……どちら様?」
俺が途方に暮れてそう言うと、目の前の外国人は眉間に皺を寄せて言った。
「そんなことを言っている場合か。なぜ、我々の国にこない」
「日本語しゃべってるよおい」
どこから見ても外国人、という風貌の彼の口から漏れるのが日本語。俺がそのことに驚いていると、彼はさらに苛立ったように続けた。
「そんなことはどうでもいい。早く、我々の世界にくるんだ。お前は選ばれた人間なのだから」
「はあ?」
俺が眉をしかめていると、その男は乱暴に俺の腕を掴んで、壊れたタンスの──壊れてるよ、把手のところが! 着替えるとき以外は紐で縛っておいたはずなのに!──ほうに歩いていこうとした。俺は慌ててその手を振り払う。
「待て、ちょっと待て、話し合おう」
俺は凄まじい勢いで部屋のドアのところまで後ずさると、ずり落ちた眼鏡を指で持ち上げてから言った。「お前、何者だよ? 我々の世界ってどこだ。で、選ばれた人間って」
「説明が面倒だ」
「面倒の一言で済ますな」
「簡単に言えば、私はお前とは違う世界に住む人間だ。お前が必要だから我々はお前を召喚しようとしたのに、お前はそれを無視した。だから連れにきた。お前は予言に導かれた人間であるのだから、私と一緒にくるべきだ」
そう言うと、また彼は俺の腕を掴んで歩き出そうとする。
「待て、まだ待て!」
俺は大声を上げつつ、頭の片隅で必死に考える。こんな大声を出してたら、家族の誰かが気づくはずだ、と。そして、慌てて首を捻ってドアのほうを見やる。
しかし、目の前の男は俺の考えを読んだかのように言った。
「この部屋には魔術で『鍵』をかけた。誰も助けにこない。あきらめろ」
「あきらめてたまるか! で、選ばれたとか何とか言ってたけど!」
「ああ」
男は小さく頷いた。「お前を手に入れた人間が、我々の国の主となるという予言が出たのだ。だから、お前を手に入れておかないと私の命が危うい」
「はあ?」
話を聞いても何が何だか解らない。
俺がほとほと困っていると、そこに新しく声が響く。
「陛下。そろそろお帰りください」
そう言って、壊れたタンスから顔を覗かせたのは、銀色の長い髪の毛を持つ男性だった。目の前の男と似たような服装で、かなりの長身。おそらく、『陛下』と呼ばれた男よりも五歳くらいは年上だと思うのだが──。
「陛下?」
俺は突然、その言葉に気がついて声を上げた。そして、まじまじと『陛下』とやらを見つめ直すと、彼は薄く笑った。
「そうだ。私はサラディアール王国の王である」
「どこそこ」
「うるさい」
ぼんやりと問い返す俺の様子に苛立ったように笑みを消し、イライラと足の先で床を叩く。っつか、土足で人の部屋に上がり込んでるよ、おい!
だいたい何だよ、このコメディそのものの展開は!
人の家のタンスからどこだか知らない国の人間がやってくるって、そんな馬鹿げた話があってたまるかってんだ!
「お前の存在は、我が国の魔術師が予言したのだ。お前を手に入れた者が国を治める。今現在、私がサラディアール国の王である以上、他人にお前を奪われるわけにはいかない。どうにかしてお前を手に入れ、自分の立場を確保する。サラディアールは平和な国だ。できれば、内争など避けたい。内争だけではなく、どこかの馬鹿どもにお前を奪われてみろ、すぐに戦が起こる」
「いや……」
俺は何とか笑みを浮かべながら言った。「それ、何かの間違い」
「我が国の魔術師の予言に間違いはない」
「いやいやいや、たまには間違うだろ」
だいたい、魔術師って。そんなん、本当に実在するのか。しないはずだ。しないと思う。
「うるさい」
しかし男はその怜悧な眼を細め、俺を睨みつける。それから、辺りを見回してベッドに目をとめると、何か決心したように頷いた。
「解った、ここでやろう」
「……やるって何を」
俺が厭な予感を感じたのと、その男が俺の腕を掴んで俺をベッドに引き倒すのが同時だった。
「シアン、押さえろ」
その男は、タンスのそばに立っていた銀髪に声をかける。すると、シアンと呼ばれた彼は素直に頷いてベッドの脇に回り、暴れている俺の腕を押さえ込んだ。
「何すんだ、放せ!」
俺が訳が解らずそう叫んでいると、俺の腹の上に馬乗りになった金髪の男がニヤリと笑った。途端、秀麗な顔立ちがわずかに歪んで、いたずら好きっぽい笑顔となる。そして、彼は俺の眼鏡を外して俺の顔を覗き込んできた。
「こんなもの、ないほうがよかろう」
彼は眼鏡を床に投げ捨てると、俺の顎を掴んで小さく鼻を鳴らした。「なぜあんな変な物をつける?」
「変って」
俺は必死に首を捻って、床に落ちた眼鏡を探した。「それがないと眼が見えないんだから仕方ないだろう!」
「ほほう、大切な物なのか」
俺の反応を見て、男が笑う。そして、シアンが俺を押さえているのを確認すると、ゆっくりと立ち上がって眼鏡を拾う。そして、手にしたそれをちらつかせながら、こう言うのだ。
「返して欲しくば自分で服を脱げ」
「か、買い直します」
一気に体中から血の気が引いた。
服を脱げ、というからには。いうからには。
俺は恐る恐るシアンの顔を見上げた。シアンという男性の表情は冷静だ。そして、その腕は力強い。どうやっても抜け出せそうにない。
「……で、服を脱げってどういう意味だ?」
厭な予感がしながらも、俺はそのシアンとやらに訊いてみた。
すると、シアンはわずかに表情を動かしたものの、冷静な瞳はそのままでこう応えた。
「あなた様を手に入れた者が国を統べるという予言なのです。つまり、あなた様と」
「寝た者が、という意味だな」
シアンの言葉を男が引き継ぐ。
寝た者が。寝た者が?
俺は一瞬頭の中が真っ白になった後。
「思いっきりお断りだっ!」
そう叫んだのだった。
よく考えてみろ。いや、よく考えなくてもいい。
俺のベッドの下には、お気に入りのエロ本が隠されている。もちろん、女性が脱いだり脱いだり脱いだりしているもので、断じて男があらぬ格好をしているものではない。
俺は女が好きなのだ。
女を押し倒したりするほうが好きなのだ。嫌いな奴がいるものか!
「わわわわわ、解った、待て」
男がまた俺の腹の上に乗ってきて、俺の制服を脱がせようと手を伸ばしたのを見て、俺は慌てた。死ぬほど慌てた。
「よく考えろ。男同士でこんなことをするのはおかしい。間違ってる。絶対に間違ってる」
「そうか?」
男は意外そうに首を傾げた。「我が国では男同士で閨を共にするのも、それほど珍しいことではない。もちろん、女と寝るものも多いが、好みの問題だろう」
「好みの問題っ? そんなもんなのか?」
「そうだ。ちなみに、私は男だろうと女だろうと気にしない。寝てしまえばどちらも反応は同じようなものだ」
途端、身体が硬直する。
何だかものすごくリアルに想像したぞ。想像してはいけないことを!
俺は何とか気分を奮い立たせて続けた。
「じゃあ、百歩譲ろう! その予言とやらが、俺と寝たヤツが国を統べる、っていうからには、寝ていればいいわけだ。別に俺が下にならなくてもいいんだろう。俺がお前の上になって……」
と、そこまで考えてものすごく凹む。
この男、顔立ちは確かに綺麗だが、体つきはあまりにも立派だ。多分、俺よりもずっと発達した筋肉がある。駄目だ、俺は触ると柔らかい肉体のほうが好きだ。心の奥から好きだ。しかし。
「あきらめがついたか」
男が俺のシャツのボタンを外し、腹の上に指を滑らせたところでまた俺は叫ぶ。
「ついてないついてない!」
落ち着け、考えろ。どうしたらいい?
俺は必死に頭を捻り、この場を切り抜ける方法を考える。そして、咄嗟に浮かんだ言葉は。
「俺にも好みがある! 誰と寝るかは、選ぶ権利があるはずだ!」
「ほう」
男が目を細め、唇を歪めるようにして笑った。気に入らねえ笑いかただ!
俺は自棄になりつつ叫ぶ。
「俺は、名乗りもしないままこんなことをするヤツは嫌いなんだ! お前の笑いかたも話しかたも気に入らない! 好みかどうかと訊かれたら、間違いなく好みじゃない! そんなヤツとは絶対寝ない!」
「何?」
さすがに俺の言葉に男が鼻白んだ。今までの余裕の感じられる表情が消え、ひどく真剣な眼差しで見つめられる。
「お前なんかと寝るくらいなら、まだこっちのシアンとやらと寝たほうがマシだね! お前よりも礼儀がありそうだし、人間性の出来が違うような気がするからな!」
何の考えもなしに言った言葉だったが、意外にも男は俺の言葉に何かを感じたのか、身を引いた。シアンとやらも、どこかぎこちなく男の顔を見つめている。
「陛下」
シアンがそう男に声をかけたが、『陛下』は振り返らなかった。シアンが俺の腕を解放し、陛下の後を追おうとした。
すると、『陛下』は急に立ち止まり、低く言う。
「ならば、その気になるまで時間をかける」
「はあ?」
俺はやっと自由になった腕をこすりながら、ベッドの上に起きあがっていた。そして、眉をひそめて男を見やる。すると、『陛下』は唸るように続けた。
「本気で口説くから覚悟しろ」
「いや、本気とか言われても」
俺が途方に暮れていると、シアンがため息をこぼしながら俺のほうに視線を投げてきた。穏やかな表情には違いない。しかし、どこか困惑しているような感じでもあった。彼はしばらく俺を見つめると、小さく言った。
「陛下は昔から、亡くなったお父上に私を引き合いに出されて比べられることが多かったのです。ですから、あなた様の言葉は陛下のご気分を」
「シアン、帰るぞ!」
苛立ったような『陛下』の声に、シアンがそっと口を閉じる。そして、『陛下』に近寄る。気遣うような表情のシアンを見ているうちに、いつも振り回されてるんだろうなあ、という気になってきた。
「じゃあ、またくる」
『陛下』は俺を見ないままそう言うと、タンスの扉を開けて中に入る。それに続いて、シアンも。
「もうくるな」
俺はその奇妙な帰還方法に脱力しそうになりながら、低く呟く。
とりあえず、このタンスからは服を全部引っ張り出した後にガムテープでぐるぐる巻きにしてやろうと決めた。机の引き出しも何とかしよう。
そしてそれは実行されたのだが。
それから毎日というもの、俺は異世界からやってくる『陛下』に振り回されるようになったのだ。タンスや机はそのたびに破壊される場所が増えていったが、今のところ俺の身は無事である。
だが。
「一度、あきらめて陛下と閨を共にされてしまえばよかったのでは?」
あるとき、シアンがそう言った。「あのときだったらまだ陛下は本気ではなかったはずなのです。一度その行為をしてしまえば、気が済まれたことでしょう。しかし、今は違います。……あなた様に固執しております」
「つまり?」
「おそらく、一度だけでは済みますまい」
先に言えよ、そういうのはよ!
俺はそう叫びたかったのだが、かといって一度だけでも厭である。
しかし、一度だけじゃないとなるともっと厭である。
まあとりあえず、しばらくは何とか逃げ回ってみようと思う。いつまで続くかは別として。
俺は学校から帰ってきて自分の部屋に入り、ベッドの上でくつろいでいる『陛下』──レイン・サラディアールを見つめてため息をついた。