「コウジ、左腕を出してくれ」
レインがそう言って、俺はすぐに頷いた。シャツから覗く自分の腕を差し出しながら、ふと不安になった。
「大丈夫、噛まない」
レインはそんな俺の不安を見抜いたかのように言って、穏やかに笑う。くそ、読まれてる。
俺が心臓をばくばくさせながらもそのでっかいドラゴンに腕を差し出し、そいつがゆっくりと鼻先を近づける。間近で見ると、その大きな口から覗く牙がひどく鋭いことが解る。噛まれたら一発だなー、と思いながら、その冷ややかに輝く鱗を見つめていた。
すると、その牙が俺の手首辺りに寄せられて。
「えっ」
突然、俺の腕に奇妙な模様が浮かび上がった。真っ白に輝く模様、いや、絵みたいなもの。
まるで、ナスカの古代絵だ。
そう思った瞬間、その模様が瞬時にして消え去る。
「何、何? さっきの何?」
腕を引いて目をこらして見つめてみても、俺の腕は綺麗なままだ。何の汚れも模様も見当たらない。
「契約の証だ」
そう、わずかに嗄れた声が聞こえた。
俺が顔を上げると、そこにはドラゴン――神獣がまさに、にやり、と笑って見せたようだった。
「これからはお互い、話せるというわけだ」
「おー!」
俺は明らかに間抜けな顔をしていたに違いない。テンションが上がって、脈拍が一気に上がって、いつの間にか隣に立っていたレインの背中をばしばし叩きながら大声で叫んでいたのだった。
「ドラゴンが喋ってるー!」
「コウジ、痛い」
レインが叩かれている背中の痛みに眉を顰めていることも気にならない。
「本当に変なの連れてきたな」
ドラゴンが呆れたようにレインを見下ろしている方が重要だった。
「変ってなんだ、変とは! いやいやいや、変人には天才が多いと一般的に言ったり言わなかったりするじゃないか! これはアレだ! ナンバーワンじゃなくてオンリーワンを目指す俺!」
ちょっと自分でも何を言っているのか解らない。
アブねえ。
そしてそれは、ドラゴンも同じように感じたみたいだった。
「本当に変だ」
「すまんな」
と、背後からレインの手が俺の口を塞いだ。「しばらくお前は黙ってろ。そして落ち着け」
そんな簡単に落ち着いていられるかってんだ! だいたいこれはアレだ、映画の世界だ。ロード・オブ・ザ・リングの映画を観た時も興奮したが、今はそれ以上だ。ハリー・ポッターの映画の……名前なんだっけ、森に住むでっかいおっちゃんがドラゴンの卵を孵化させて喜んでいたあの感情が解るかもしんない。
だって、すっげえ綺麗だもんな、こいつ……。
口を塞がれたままではあったけれど、よっぽど俺は惚れ惚れとした視線をそのドラゴンに送っていたのだろう。やがて、ドラゴンは首を傾げ、威嚇するような声を上げた。
「まあ、そういう目で見られるのも悪くはない」
ドラゴンはそう言った後、短く言った。「俺はセリアドルという。よろしくな、小僧」
「あ、俺、光司っての!」
慌ててレインの手を俺の口から引きはがすと、大声で叫んだ。
こいつに名前を覚えてもらったらめっちゃ嬉しいはずだ! と、必死になっていた姿が面白かったのか、ドラゴン――セリアドルと、後ろに立っていたレインが同時に吹き出したのが解った。
むかついたので、とりあえずレインの背中をばし、と叩く。
でもレインは、ただ笑い続けているだけだった。くっそー、覚えてろ。
それからしばらくの間は、ほとんど俺のセリアドルに対する質問コーナーの時間となってしまっていた。
何を食うの? とか、いつも何をしてんの? とか、神殿って何? とか。
セリアドルは見かけは大きくて恐ろしい姿をしているのかもしれないけど、話をしてみるとものすごく快活だった。許可を得て鱗に触らせてももらったし、俺としては大満足。
俺とセリアドルが長い話に突入してしまってからは、ケイトとレインは神殿の奥にある机と椅子の方に歩いていってしまっていて、何か話をしているみたいだ。だから、俺としてもこっちの会話に集中できる。
「この国を守る神獣っていうけど、具体的には何をすんの?」
俺が興味津々な目つきで彼を見上げていると、セリアドルが低く笑う。
「別に、何も」
「何もしないわけないじゃん。嘘だろ?」
「この国が平和な間は何もしない。俺はこの国の政治に興味があるわけでもないし、ただこの地にとどまっているだけだ。つまり、この国が俺の家なんだ。だから、外からの危機が訪れた時には、この国を守るために戦う」
「外からの危機?」
「そう、たとえば契約を結んでいない神獣が現れた時などとかな。結構いるんだぜ、縄張りを増やそうと思って暴れるヤツが」
「え、そんなのいるの? 国に一匹とかじゃなく、セリアドルみたいなのが他にも?」
「一匹とか言うな」
「ごめん。で?」
「反省してないな、お前」
セリアドルは苦笑してから続けた。「数は少ないが、それなりに生息しているもんだ。もともと、俺たちのような生き物は、人間よりもずっと昔からこの世界に存在していた。縄張り争いとかもしょっちゅうだったらしいから、生き残るのは強い種だけだ。そんな中、人間がやがてこの世界に増えていき、その力を発揮しだした。魔術師とかいう連中が、我々と契約するという技も覚えた。この国を縄張りとして明け渡す代わりに、この国を守れという。そして、我々を崇め奉るようになった」
「へえ」
「俺も数千年生きてきているが、人間とは面白いものだな。全く、見ていて飽きない」
そんなに生きてんの? と俺は驚いて目を見開いた。オッサンどころじゃなく、じいさんだ。俺は、年配者は敬えという親父の教えを思い出し、はー、と息を吐いた。
「お前も面白いな」
セリアドルはその鼻先を俺の頭の上に下ろし、乱暴にごつごつと叩き始めた。くそ、何すんだ!
でも、嬉しいのも事実だった。ああそうだ、俺って猫とかに噛まれるのも好きなんだった。猫が甘噛みすんのは愛情表現。じゃあ、ドラゴンが鼻で俺をつつくのは?
愛情とかだったりしたらいいなあ。
「お前は別の世界からやってきた人間なのだろう。ケイトに呼び出されたと聞いたが」
「そう、呼び出されたの、俺」
「で、それを悩んでいるのか。何か気がかりなことが?」
突然、そんなことを言われて戸惑う。そして、セリアドルの澄んだ瞳を見つめながら、小さく訊いた。
「あんたって人間の頭の中が読めんの?」
「はっきりとは解らん。ただ、何となく解る。何か含んでいるものがあるな、とかな」
「うーん」
俺はしばらくの間、唸り続けていた。確かに、心の中に溜まったものがある。言葉にするのは難しいけど、悩んでいるのは確かだった。でも、何に対して悩んでいるのかも曖昧なのだ。
いや、はっきりしているのかな。
ケイトに言われた通り、レインを拒否して……で、終わりにすればいいんじゃないかな、とか。
で、もう二度とこっちの世界にこなくなったら、レインだって俺のことを諦め……いや、あいつは好き勝手に俺の世界にくることができるじゃねーか。意味ねえ。
でもレインだってあきらめよさそうなイメージがある。
俺が拒否したら、それで完全に終わりになる、ような気がする。
ケイトが言ってたじゃないか。愛された記憶がないって。じゃあ、誰かを愛したことは? ないのかもしれない。相手は誰でもいいのかもしれない。そうだ、俺が駄目なら、次を探すだけで。
で、そいつに言うんだろう。「私を好きになってくれないか」と。
「あー、もう」
俺はばりばりと頭を掻いて、セリアドルを見上げた。「あんた、予言のこと知ってるんだろ? 俺を手に入れたらこの国を手に入れるとかいうヤツ。別に俺じゃなくてもいいんじゃないかな? レインがこの国の王になるために、別に俺じゃなくてもいいんだよ、きっと」
「んん? そうなのか」
「って、予言に詳しいわけじゃねえの? セリアドルは神獣なんだろ?」
「予言を行うのは魔術師や占術師だ。俺の分野じゃない。だが、あいつは――レインは、自分が思っている以上に王に向いていると思う。もちろん、まだ未熟だが」
「じゃあ、俺は? 何でここにいるんだろ?」
そうだ。
それが気になって仕方ない。俺ができることなんて何もないじゃないか。俺がここに呼ばれた理由は、その『予言』があったから。それ以外に理由などない。
でも、俺は男で、レインも男。
何を考える必要があるんだ? 男同士で……って、そりゃ、そういう立場のヤツもいるかもしれないけど、俺は違うだろ? 雑誌のグラビアとか見て、アイドルの水着姿にときめいたりしてるわけだろ? 何を悩むんだ?
断ればいいんだ。拒否すればいいんだ。それで終わりなんだから。
でも、でも。
「せっかく契約したのに、せっかく話せるようになったのに。こっちに遊びにこられなくなるのも残念は残念なんだけど」
うーん。
俺はそう呟きながら、セリアドルの前足に触れる。冷たくて固い感触。
何か、俺の心に引っかかっているものがある。
何だろう、何が問題なんだろう。
俺はさらに唸る。
すると、セリアドルが楽しげに笑った。
「小僧、お前が悩んでいる問題は、今すぐ答えを出さなくてはならないのか。もう少し悩んでみたらどうなんだ」
「でも、ケイトに言われたんだ。早くしろって」
そうだ、だから困ってる。よく解らないから悩むんだ。早く答えを出した方がいいのに、出せないでいる自分がもどかしい。
「本当に早くしないといかんのか、それ」
セリアドルがふと顔を上げて神殿の奥へと視線を投げた。それを追って俺もそっちの方へ目を向けると、ちょうどレインとケイトがこちらに歩いてくるところだった。
「ねえ、コウジ」
ケイトは俺のそばにやってくると、にこりと笑った。これだよこれ、本音が解らない笑顔!
「せっかく契約も結んだことだし、もうちょっと行き来が楽になれるといいと思わない?」
「は? 行き来?」
俺が首を傾げて目を細めると、ケイトはにこにこ笑いながら俺の右手を掴み、何事か呟き始めた。それは、魔術の呪文だったのかもしれない。
突然、目の前に弾ける光。慌てて目を閉じる俺、そして気がつくと……右手の小指に違和感。
「何?」
さっきのセリアドルの契約と同じく、俺の右手には何の異常も見られなかった。でも、左手でそっと自分の右手の小指に触ってみると、何だか変な感触。まるで、透明な指輪が巻き付いているかのような。
「何コレ」
俺が顔を上げてケイトを見つめると、その横に立ったレインが小さく笑う。
「これで自由にこちらの世界に来ることができる。帰るときもだが」
「使い方は簡単よ」
ケイトはそう言って俺の腕を掴み、神殿の真っ白な壁の前に立たせる。そして、「私の真似をしてやってみて」と言いながら、その手を壁の方へと上げた。
何だ、と思いながらも、俺はケイトの真似をして手を上げた。
「右手の小指の、ソレをペンだと思ってね。行きたいところ、つまりあなたの部屋をしっかりと思い浮かべて、四角い扉を壁に書いてみて」
「扉ー?」
首を傾げつつも、俺の部屋、俺の部屋、と思いながら壁にがりがりとソレを押し当てて書いていく。すると、輝く白い線が浮かび上がっていく。
「書き終わったら、その扉を押して」
「よし」
俺はその壁を思い切り押してみた。途端、あっさりと開く石の壁。そして、目の前に広がったのは見慣れた俺の部屋。
「おー!」
俺は叫ぶ。「どこ○もドアー!」
「何だそれは」
レインが首を傾げていたが、とりあえずそれは聞かなかったことにする。俺はどきどきしながらその『扉』から自分の部屋を覗き込む。すると、慌てたようにケイトが続けた。
「あなたがそっちにいくまで、この扉は存在するからね! 気をつけて! それから、あなたが向こうに行けばすぐに消える。それまでの魔術なの」
「ありがとう、こりゃすげーや」
俺は興奮してケイトの方を振り返って見せる。その浮かれ様を見てレインがわずかに眉をしかめ、真剣な目つきで俺を見つめ直す。
「使い方には気をつけろ。使う時は辺りの様子にも気をつけなくてはならない」
「解ってるってー」
と、俺が笑っていると、ケイトが凄まじいまでの笑顔――としかいえない――を浮かべてさらに言った。
「使うなら、あなたの部屋から陛下の部屋か、わたしの部屋につないでもらうのが一番安全ね。目的の場所をよく覚えて思い浮かべてから扉を出さないと、とんでもないところに飛ばされるかもしれないわよ? どこかの山の絶壁とか、近づいたら全身火傷で死んでしまうような噴火口とか。しかも、扉を開け直すには、一度そっちにいかなくてはならないの。そして、また新しい扉を作り直さなくては」
「げ」
ちょっと、急に心臓が痛くなった。
何だか扉を作るのに失敗したことを考えたら、不安になってしまう。
「それに、扉を開けたらすぐに移動してね。たとえばこちらの世界のどこかから帰る時に、扉を開けたまま放置したら……あなたの世界には存在しない獣とかが偶然そっちにいってしまって、人間を食い殺すかもしれないし」
「げげ」
何だか全身から血の気が引く思いがした。結構怖いんだな、こういうものって。
俺は心拍数が跳ね上がるのを感じながら、そっと右手の小指を撫でた。ひんやりとした感触。
便利だけど、気をつけて使わねば。
しかし。
俺はふと表情を引き締めて、ケイトに囁く。
「俺、また来ていいの?」
すると、ケイトが「ん?」って首を傾げる。
「来たくないの?」
「そうじゃなくて」
俺は小さく唸るように続けた。「言ったじゃん。早く……その」
「ああ、あれね」
そこでケイトは納得したように笑い、明るく言った。「できれば一年くらいの間には何とかしてもらいたいわね。まさか、三年も五年も悩むつもりじゃないでしょ?」
「え」
あ、そういや、不老の魔術師っていってたっけ。俺は何だか肩から力が抜けてしまった。
きっと、歳を取らない魔術師ってのは、俺たち普通の人間と比べて、時間の長さの基準が違うのかもしれない。てっきり俺は、すぐに答えを出さなくてはいけないのかと思ってた。
「うん、そうだな。一年くらいの間には何とか」
俺は笑顔を返してそう言って、レインの方に向き直る。
すると、レインは複雑そうな表情を浮かべていた。その視線が俺とケイトを行き来する。何を考えてるんだか。
「あ、それと悪用はしないでね」
ケイトが付け加えるように言ってきた。「その指輪は、あなたを信用してあげた証拠なんだから。泥棒のために使ったりとかしたら死ぬより怖い目に遭わせるわよ」
そう言いながらも、ケイトは笑顔を消さない。
でも、かなり怖い笑顔だと思った。こいつにだけは逆らえない、と思うような。
「ま、頑張れ、小僧」
セリアドルも楽しげな声を出す。
うん、まあ、頑張るつもりだけどな。
風馬車に乗って、城へと帰る途中も、俺は何となくケイトの隣に座っていた。レインにどういう態度を取ったらいいのかも解らないままで、さっきまでのセリアドルと一緒にいた興奮というのが冷めてしまうと、現実に引き戻されるというか何というか。
初めのうちは、レインは少し不機嫌そうに俺たちを見つめていたと思う。でも、その感情がすぐに消えてしまって、穏やかな目つきへと変化する。そして、俺たちに興味を失ったかのように窓の外を見つめる。
何だろう、何かもやもやする。
俺はそんな自分に困惑しつつ、ただ風馬車に揺られていた。城に戻って、もうすでに夕方という時間帯。シアンが迎えに出てきて夕食のことなどをレインに確認する。
そんなレインの背中を見つめつつ、俺は誰にも聞こえないように小さなため息をついた。
「今夜はまだこちらにいるだろう?」
やがて、レインが俺に声をかけてきた。
そうだ、俺は家族に二三日で帰ると伝えてきたんだっけ。あまり長居するのも躊躇われる。
「そうだな、明日には向こうに帰るよ」
そう応えると、レインがうっすらと微笑む。そして、「じゃあ、せめて夕食は豪勢にしてやらないとな」と言う。
「いつも豪勢だっての」
俺はさっきもしていたように、ばし、と彼の背中を叩く。でも、急に気がついた。こういう態度はよくないんじゃないかと。相手は曲がりなりにも王様で、俺はいわゆる一般人。平民。考えてみれば、レインみたいな相手と話をするのも許されない立場で。
そっと辺りを見回すと、城の人間が何人もいて、俺たちの世話を焼こうとしてくれている。
他人の目があるところでは、気をつけないといけないよな。
なんてことを一人で納得し、一人で頷く。
すると、レインがわずかに目を細めた。何か、言いたいことがあるような雰囲気。でも、言えない、みたいな。
俺がじっとレインを見つめていると、彼はそっと俺から視線をそらし、短く言った。
「今日は楽しんでもらえたようで、よかった」
その横顔が少しだけ淋しそうというか苦しそうというか。
俺は言葉を失ってただ彼を見つめる。そしてそのまま、彼は歩き出してしまっていて、俺はそれを追うことしかできない。
「食事に行きましょ」
ケイトが俺の手を取って歩き出した時も、何も言えずにいたのだった。
その夜は、しばらくの間ベッドに入ってもすぐに眠ることができなかった。色々考え始めたら、混乱してしまって。
でも、一年あるわけだし。
うん、それまでには何とか。
そう自分に言い聞かせ、眠りにつく。
そして次の朝、目が覚めて朝食の時間になり、レインと廊下で顔を合わせた時にこう言った。
「夏休みは長いし、また、来るから!」
レインは虚を突かれたように驚いたような表情をして見せてから、優しく微笑んで頷いた。
「楽しみにしておこう」
第一部 了
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