不機嫌な夜に気をつけて 2


「……おはようございます」
 そう言いながら、ブラウン・フレッカーは彼の師匠であるアルバート・エンジェルの部屋のドアを開けた。
 覗き込んだ部屋の中は薄暗い。窓のカーテンはしっかりと閉められたままで、部屋の隅にあるベッドからは寝息が聞こえてきている。
 ブラウンは少しだけ、彼をこのまま起こさないでいた方がいいのかと考えた。しかし、放っておけばせっかく作った朝食が冷めてしまう。
「お師匠様、朝ご飯ができましたけど……」
 ドアのところでそう言った時、ベッドの中の物体がわずかに身じろぎした。その少し後、アルバートは欠伸混じりに目を開き、ベッドに寝ころんだままで少年の姿に目をとめた。そして、不機嫌そうな口調で言った。
「……何だ、少年」
「いえ、朝ご飯が」
「よし、起きよう」
 アルバートは乱暴に髪の毛を掻き回しながら起きあがり、ベッドの脇にある椅子に放り投げてあったシャツを取り上げた。どうやらアルバートはほとんど裸の状態で寝ていたらしく、それを目にしたブラウンはただ戸惑って首を傾げるだけだ。しかも、部屋の中は散らかっていて、床には色々なものが転がっている。足の踏み場がないとはこういうことを言うのだろうか。
 壁際にある大きな本棚には、みっしりと本が詰まっていて、そこに入りきらないものは全て床に積んである。積みすぎて崩れた本は積み直されることもなく、ただ放置されたままだ。お世辞にも綺麗な部屋とは言えない。
 この家自体もそれほど綺麗とは言い難い。
 建物が古いのは仕方ないとはいえ、掃除も行き届いていないから蜘蛛の巣が張った台所や、風呂場というのが当たり前だ。それを、ブラウンがここにやってきてから少しずつ綺麗に掃除をし始めている。
 ──魔術師っていうのは、変人が多いんだよ。だから、気にしないでおくといいよ。
 そんなことを言ったのは、魔術師省の人間だった。ブラウンはその言葉を思い出して、確かにそうなんだろうな、と内心で思う。
 とにかく、アルバート・エンジェルという魔術師は変わっていた。
 見た目はとても綺麗な人で、物腰も優雅であったから、貴族と言われても納得しただろう。しかし、どんな豪華な家に住んでいるのかと思えば、実際はあばら屋と言っても間違いではない家。そのギャップには戸惑うしかない。
「ああ、美味しいよ」
 アルバートが居間のテーブルについて、朝食を口にして一言。
 それを聞いて、ブラウンはほっと一息をついたけれど、料理をしたことなどほとんどない少年にとって、料理とは未知の領域。台所にあった食材を適当に使って焼いたりしただけで、味付けなどほとんどしていない。
 少年はアルバートが本気でそれを美味しいと感じているらしいと知って、多少の期待をしながら自分も料理に手をつけたが、どうしてもそれが美味しいとは思えなかった。というか、不味い。
 ──変わってるのは性格だけじゃないのかな。
 ブラウンはそう内心で呟きながら、アルバートを見つめ続けていた。

 他人と話をするのも苦手だと感じるブラウンは、最近始まったアルバートとの生活が楽だった。アルバートは必要以上に自分に声をかけてこないし、料理の最中で皿を割ったりしても怒らない。
 怒られるのではないか、殴られるのではないか、と最初はびくびくしながらアルバートの顔色を窺っていた少年だったが、やっと少しだけ楽に呼吸ができるようになっていた。この人は自分に暴力を振るわない。そんな確信が芽生えたからだ。
 それと同時に、アルバートへの感謝の気持ちも生まれた。
 自分に居場所を与えてくれた、この一風変わった魔術師に、せめてもう少し美味しい食事が出せれば、と思うのだが。
 ──どうすれば美味しい料理ができるんだろう。
 少年は一人、悩んでいた。

 その食事の途中で、家のドアが叩かれた。アルバートはそれに出る様子はなかったので、ブラウンが椅子から降りて玄関の前にいき、声をかける。
「どちら様ですか」
 ぎこちない、少年の声。
 わずかに怯えたような口調になってしまうのは、いつものことだ。知らない人間が怖いし、特に大人は怖いと思う。
 彼の父親が死んでから、ずっと少年は叔父の家に世話になっていた。しかし、そこでは食事もまともにもらえなかったし、何か相手の気に障ることをしてしまえばすぐに殴られ、お仕置きとして物置に閉じこめられたりしていた。それも関係しているのか、男性の腕が少しでも上に上がると、咄嗟に身構えてしまう。
 いつの間にか、恐怖の対象は叔父だけではなく、全ての大人へと変わっていた。誰も彼もが自分に暴力を振るうような気がしてならなかった。
 滅多に来客がくることのない家だったが、アルバートの弟子としてここに住んでいる以上、色々と手伝いをしなくてはならない。だから、必死に声を出して接客する。
 すると、ドアの向こう側で聞き覚えのある声がした。
「グレンだ。アルバートは?」
「います」
 ブラウンが少しだけほっとしてそう応えた瞬間、背後にある居間の方から、当のアルバートが大きな声で言った。
「いない!」
「聞こえてるぜ、畜生」
 グレンがドアの向こう側で呆れたように言った瞬間、ブラウンは小さく唸っていた。
 ──このドアは開けるべきなんだろうか、それとも?

 結局、ブラウンはドアを開けた。
 アルバートと同じ魔術師という立場であるグレンは、見た目はどこかの騎士……というか傭兵のようだ、とブラウンは思う。魔術師という種族の人間が持っている、どこか危ういような繊細さというものはなく、その笑顔も開けっぴろげだ。
 彼は無造作に家の中に入ってくると、まだ食事途中のアルバートの向かい側の椅子に座る。その途端、アルバートは不機嫌そうな表情のまま口を開く。
「何の用だ。お前の家はもっと北だろう」
「様子を見にきてはいけないのか」
 グレンが呆れたように返すと、アルバートは皿に乗った形の崩れたオムレツらしきものをつついた。
「飯はやらん」
「もらうつもりもない」
 グレンは苦笑した。「飯は済ませてきた」
「じゃあ帰れ」
「……つれないな」
 そう言ったグレンのため息を聞きながらも、アルバートの表情は硬いままだった。もともと、他人づきあいが好きな方ではない。魔術師という仕事を選んだのも、他人と接するのが少ないからだ。だから、こうして時々グレンが彼の様子を見にくることがあっても、それは迷惑以外の何物でもなかった。
「食事はさておきだ」
 グレンは、やがて話を変えた。「例の『穴』が色々なところで確認されてる。お前の家のそばはどうだ?」
「穴か」
 ふと、アルバートの表情が引き締まる。「この辺りではまだ見ていない。もしあったとしても、この辺に人家は少ない。人間に被害は及ばないだろう」
「まあ確かにな」
 グレンはぼりぼりと頭を掻きながら小さく頷く。「人家は少ない……というか、お前の家くらいだ、あるのはな。もう少し街中に引っ越してこいよ」
「何故だ」
 アルバートが眉を顰めると、グレンはその視線をドアのそばに立ったままのブラウンに向けた。
「食料の買い出しはお前がいっているのか、アルバート。それとも、こっちの小さいのか。もし、子供に買い出しにいかせるようであれば、安全なところに住む方がいい。そうは思わないか」
 すると、アルバートが小さく唸った。言い返すことができないと言いたげに。
「僕は大丈夫です」
 すぐにブラウンが口を開く。「辺りに人がいない方が楽です」
「……おいおい」
 グレンが立ち上がってブラウンの前にいき、小さな少年を見下ろした。「危険なのは穴だけじゃなくて、野犬とか出たらどうする」
「……ええと、逃げます」
「すぐに噛まれて終わるな」
「そう、でしょうか」
 ブラウンは首を傾げている。その様子を見ていたアルバートは、無表情ながらもグレンの言っていることは正しいのかもしれない、と考え始めていた。自分一人だけの生活ではない。今は、ブラウンという少年を養っていかなくてはいけない。そして、その少年の安全を確保してやることも必要なことなのだろうと思うのだ。
 しばらくの間、アルバートは宙を見つめ続けていた。
 そうしているうちに、やがて、玄関のドアが叩かれた。

「どちら様ですか」
 玄関に足を運んだブラウンが、恐る恐るドアの向こう側に声をかける。すると、彼の聞き覚えのない声が返ってきた。
「フレディ・バートンと申します。こちらに魔術師様がおいでだとお聞きしたのですが」
 ブラウンは慌ててアルバートのところに戻り、どうしたらいいのかと訊きたげに彼を見上げる。アルバートは小さなため息の後で、「開けてやれ」と短く言った。
「どうぞ」
 また、ブラウンは玄関のところまでぱたぱたと駆けていくと、そのドアを開けて来客を招き入れた。
 そこに立っていたのは、三十代半ばくらいの身綺麗な格好をした男性だった。彼は魔術師に会うというのは初めてらしく、家の中に入るのもしばらく躊躇っていた。しかし、すぐに緊張した様子で中に入る。
 そして、あまり綺麗とは言えない廊下や部屋の様子に戸惑いながらも、ブラウンの後に続いて居間へ入ってきた。
 フレディと名乗った男性は、居間にいたアルバートとグレンを見やり、どちらが目的の魔術師なのだろうと考える。すると、その考えを読んだかのようにグレンが立ち上がりながら言った。
「向こうにいるのがアルバート・エンジェル。第一級魔術師だ」
「ああ……」
 それを聞いてフレディがほっとしたように微笑む。そして、ドアのところに立ったままで口を開いた。
「私はフレディ・バートンと申します。カーター伯爵家に仕えております。今日は、主であるロアルド・カーター様のご命令を受けてやってきました」
「ああ、そう」
 アルバートはつまらなそうな表情のまま、オムレツを食べ続けている。そんな彼を呆れたように見下ろすグレンと、やはり戸惑っている表情を見せるフレディ。
 アルバートは無表情のまま続けた。
「そっちのデカイのはグレン・オコンネル、第二級魔術師だ。私に仕事を依頼するのと、第二級魔術師に依頼するのでは料金が違うが、どっちに頼みたい?」
「お前な」
 ため息交じりにグレンが何か言いかけたのを遮って、フレディは鋭く言った。
「料金はいくらかかってもかまわないと主に言われております。主はぜひともご高名なアルバート・エンジェル様にお会いしたいと申しておりますし、何とかしてお屋敷に起こる異変を収めていただければと願っております」
「異変?」
 そう口を挟んだのはグレンの方だった。
 彼は壁にもたれかかるような格好でフレディを見つめ続けている。
 フレディは小さく頷いた。
「カーター家の使用人が今月に入ってから三名、行方不明になっております。皆、真面目な人間でいきなりいなくなるなんてことは考えられません。そして、夜中になると奇妙な音が屋敷の中から聞こえるのです」
「奇妙な音?」
 グレンの言葉にフレディが頷き、そっと続けた。
「何か、引っ掻くような音です。それと、真っ黒な生き物らしきものを、見かけた者もおります」
「真っ黒……」
「夜でありましたので、はっきりとは見えなかったようですが」

「じゃあ、さっさといって終わらせようか」
 アルバートは、もう話は充分と言いたげな表情で立ち上がり、戸惑い顔を見せるフレディを見つめた。「引っ越しのために金が必要なんでね。私も働かねばなるまい」
「……お師匠様」
 ブラウンが驚いたように声を上げるのと、グレンが肩をすくめながらアルバートの座っていた場所に腰を下ろすのが同時だった。
「おう、いってこい。その間、留守番は俺に任せろ」
 グレンがそう言ってにやりと笑うと、アルバートは厭そうな表情で彼を見やる。
「……どこにも触るなよ」
 アルバートはそう言い残してから、家を出たのだった。
 家の外には、馬車が待っていた。それにはカーター家の家紋が入っていて、フレディはアルバートを中へと促した。その後、彼は行きもそうしてきたように、御者の隣に座る。そして、御者が馬に鞭を打って馬車を走らせ始めると、フレディは少しだけ不安げに表情を曇らせていた。
 アルバート・エンジェルの名前を知ったのは、彼の主であるカーター伯爵の口からだ。どうやら、力のある魔術師らしいという話だったのだが、まさかこんなに若い人間だとは思ってもみなかった。
 本当に、この魔術師が今回のことを無事に解決してくれるのだろうか。
 年若く、驚くほどの美貌の持ち主。しかし、あまり笑顔を見せないどころか、不機嫌そうな表情を隠しもしない。それは、あまり好ましい態度とは言えまい。
 もちろん、この魔術師を呼んだのは彼の主である。その命令は絶対であるし、何の不満もない。ただ、アルバートという魔術師の実力だけが見えないのが不安だった。

 まだお昼にもならない時間。
 太陽は高く、街の大通りには人々が行き交い、いつも通りの平和な街並みが存在している。
 馬車は街の中央にある、とある屋敷の前でとまった。それは伯爵家の名前に相応しい豪奢な建物で、フレディはアルバートのために馬車の扉を開ける。すると、アルバートは馬車から降りてその巨大な屋敷を見上げる。彼が驚いた表情をするだろうと思っていたフレディは、アルバートの表情がぴくりとも動かないのに気づいて戸惑った。
 ──あんな家に住んでいるのに。
 ふと、フレディはアルバートの家を思い出していた。
 ──それとも、内心では驚いているのだろうか。
 色々思うところはあれど、彼はこの屋敷の使用人という立場を守り、礼儀正しくアルバートを屋敷の中に案内した。
 メインホールを抜けて階段を上がる途中で、アルバートはふと一階の奧の方を見やり、小さく鼻を鳴らした。それに気づいたフレディがアルバートの方に視線を投げると、その魔術師が小さく笑っているのが目に入る。
「簡単だな」
 そう彼が言うのを聞いて、フレディは驚く。
 つまり、この仕事が簡単ということなのか、と。
「で、この屋敷の主人は?」
 アルバートはすぐに笑みを消してフレディに顔を向けると、フレディはただ「こちらです」と言うしかなかった。
 カーター伯爵の部屋は二階にある、一番大きな部屋である。フレディがその扉の前に立ってドアを叩くと、中から低い声が返ってくる。
「入れ」
「アルバート・エンジェル様をお連れしました」
 フレディがそう言ってドアを開け、アルバートを部屋の中に案内する。すると、窓際にあった椅子からロアルド・カーターという男性が立ち上がったところだった。年齢は五十歳を過ぎているだろう。悪く言えば太っている、よく言えば恰幅のいい男で、いかにも金持ちという煌びやかな服装を身につけていた。
「ようこそ、アルバート・エンジェル」
 そう言った伯爵は、両腕を広げて歓迎の意を表した。そして、無礼なまでにじろじろとアルバートの全身を見回して意味ありげに微笑む。
「噂に違わず、美しい方ですな」
「それはどうも」
 アルバートは素っ気なく返してから、伯爵の部屋をこれまた無礼なまでに念入りに観察をし始めた。派手な壁紙、豪奢な家具、高そうな絵画、彫刻。
「立派なお住まいでいらっしゃいますね」
 アルバートはそう言って、小さく笑う。
 そばにいたフレディは、アルバートが伯爵に対して敬意を払って──いや、ただ単に客に対しているからだけなのかもしれないが──敬語を使っていることに気づき、ほっとした。誰に対しても無礼な態度を取りそうな魔術師であると感じていたからだ。
 しかし、その直後。
「報酬には期待できそうで何よりです」
 アルバートの遠慮のない言葉。それを耳にした途端、フレディがわずかに驚愕を露わにした表情でアルバートを見つめ直した。しかし、伯爵は特に怒った様子もなく、ただ声を上げて笑っている。
「それはもう、報酬ははずみましょう。あなたが噂通りのお力をお持ちであれば、ぜひ今後とも長くお付き合いいただきたいものです」
 そう言った後、伯爵はアルバートの頬に手を触れてにやりと笑う。「別の意味でも、ですが」
「おっしゃる意味が解りません」
 アルバートは乱暴にその手を振り払ってから、いかにも不機嫌そうな表情で続けた。「まずは報酬の金額の話からいきましょうか。無事に仕事が終わってから、報酬の値段を決めると安くなりがちなのでね」
「言い値を払いますよ」
 カーター伯爵は低く笑う。「もちろん、その仕事の内容次第ですが。……あなたほど美しい方も滅多におりますまいから、私も楽しみですな」
「くそ」
 その言葉の裏に潜んでいるもの。その目つきからしても、アルバートは伯爵が変な目で自分を見ていることが明らかだと感じていた。
「グレンに任せるべきだったか」
 彼が口の中でそう呟いた時、やっとフレディも自分の主が意図したところに気づいて戸惑っていた。アルバートは男性である。もちろん、主であるカーター伯爵も。
 もちろん、女性と見紛うばかりの美貌を持った青年であるから、奇妙な思いを抱いても仕方はないと思う。それでも、彼は眉を顰めてしまっていた。
「では、私は手を引きましょう」
 やがて、何もかも面倒になったと言わんばかりにアルバートは手を上げてドアの方へと歩き出した。「別の魔術師をお呼び下さい。この屋敷の人間全員が消える前に、ことが片づくのを願っておりますよ」
 そう言って廊下に出ようとしたアルバートの背中に向かって、伯爵が困惑したように言った。
「いなくなった人間はただの失踪でしょう。この屋敷の仕事より、よい職場を見つけただけのこと。そうではないのですか?」
「失踪? そう思われていらっしゃるのですか。だとすれば、家出人の捜索に私をお呼びになった? 第一級魔術師を家出人捜索のために?」
 ドアのところで足をとめたアルバートは、呆れたように伯爵を振り返る。「それとも、最初から私の顔を見るのが狙いでしたか。お気楽な方だ。そんなことをしていると、次はあなたの番かもしれませんよ。夜中、音が聞こえませんか? 魔物がいなくなった人間を囓るような音が?」
「え?」
 少しだけ不安げな声を上げたのはフレディだ。その場から下がるタイミングを外してずっとここに残っていたのだ。そして、二人のやりとりをずっと見つめ続けていた。
「魔物?」
 さすがに伯爵も不安を感じたようで、居住まいを正してアルバートを見つめ直す。「魔物がこの屋敷にいると?」
「いますね」
 それにあっさりと頷く魔術師。
 その直後から、顔色がだんだん失せていく伯爵。
「いくら欲しい?」
 突然、慌てたように伯爵は訊いた。「私も命は惜しい。いくらでも払いましょう。その魔物を追い払ってくれるのなら」
 すると、アルバートはまさに天使の笑みを浮かべて言ったのだ。
「では、前金でお願いします」

「……あなたは先ほど、簡単だとおっしゃっていたようでしたが」
 伯爵の部屋を出たアルバートの後ろから、そうフレディが声をかけた。アルバートはたんまりと報酬をもらって、それを大切に懐にしまい込んでから一階へと下りていく。
「簡単だな、私にはね」
 階段の途中でアルバートが返事をする。
「私には?」
 フレディがそう繰り返すと、美貌の魔術師はそこで足をとめて振り返る。
「何が言いたい? ああ、簡単な仕事のくせに、金だけはたくさんもらう守銭奴だとでも?」
「そうは言っておりません」
 フレディは否定したが、ぎこちない口調なのは隠しきれていなかった。アルバートはそこで皮肉げに笑う。
「そう思ってくれても結構。他人にどう思われようと気にはしない。何もかも面倒だ。しかし、頼まれただけのことはやる。金を手に入れるということは、こういうことだ」
「……」
 フレディは何と応えたらいいのか解らず、ただアルバートを見つめ続けていた。すると、会話は終わりだと言わんばかりに、アルバートはフレディから目をそらすと階段を降り始めた。そして、どんどん一階の奧へ続く廊下を進んでいってしまう。
 フレディは慌ててその後を追った。一体、何をしようとしているのか、見届けなくてはいけないと思ったからだ。
 そして。
 廊下の奥の方、そこは使用人達がよく使う部屋が並んでいる。洗濯室や調理場、召使いたちの談話室。
 そんな部屋が立ち並ぶ途中でアルバートは足をとめ、ふと何もない真っ白な壁を見つめる。その視線はやがてゆっくりと床へと降りていく。
「ここか」
 そう呟いて、彼はその場に跪き、口の中で何ごとか呪文の詠唱を始めた。途端に、辺りに巻き起こる風。
 フレディが暴れる前髪を押さえようと手を上げた時、アルバートがいきなり手を床の中に突き入れた。
「えっ?」
 フレディの驚きの声は、途中で途切れる。
 目の前で起きていることが信じられなかったのだ。
 アルバートの腕は、何の抵抗もなく床に突き刺さっている。まるで、水の中に腕を入れたかのように、床に波紋が広がる。
 その波紋は、『生きて』いるかのようだった。
 生物が脈動を打つかのように、奇妙なリズムを持って辺りに広がる。フレディの足の下にある床も、ぐにゃりと歪んで彼はよろけて壁に手をついた。
「どこにでも穴は空くものだな」
 アルバートはそう静かに言いながら、腕を穴から引き抜いた。
 その途端。
 何かが千切れるような音と、ギィィ、という奇妙な鳴き声らしきものが辺りに響く。
 フレディが息を呑んだその時、アルバートの右手の中には、真っ黒な『何か』がぐねぐねと巻きついていた。
 その『何か』から、ぼたぼたと水滴が落ちる。それは、真っ黒な水のように見える。
 形を自在に変える『それ』は、時には毛糸玉のように、時にはミミズのような形へと変化し、苦しげに身をよじっている。痛みを覚えているかのようだ。
「な、何ですか、それは」
 フレディが恐る恐る口を開くと、アルバートは薄く笑って見せた。
「何だか解らんが、おそらく『あちら側』の生き物だ。そして、餌を取りに『こちら側』にきていた」
「餌を取りに?」
「そう、餌とは人間のことだよ。放っておけば、この屋敷の人間全員が、『あちら側』に連れていかれて頭から食われる。よかったな、早いうちに私に依頼して」
 アルバートは楽しげに笑いながら、手の中にいる物体を見つめ続ける。それは、とても興味を惹かれているように見えて、フレディはそんなアルバートの方にも恐怖を感じた。
「面白い、面白いね、実に」
 アルバートはやがて浮かれたような口調で呪文の詠唱を始める。
 途端、彼の手の中にあった物体が青白い光を放ち始める。光に包まれたそれは、明らかに苦痛を覚えているようだった。ギィィ、という歯ぎしりのような音。それは悲鳴だったのかもしれない。
 しかし、その呪文が終わった後、手の中にいたそれは、また別の形をしていた。
 一見、黒猫のような形に変化し、その直後、鳥のように翼を生やした生き物のような形へとなる。その翼がまた形を変えて球状なものへと変わり、最終的にはアルバートの腕に輪となって巻きついて黒い帯となった。
「使い魔が欲しいと思っていたところだ」
 アルバートはそう言ってにやりと笑うと、右腕に巻きついた帯に向かって囁いた。「逆らうのならお仕置きをしよう。しかし、私に従っているうちは可愛がってやる」
 すると、その帯がかすかに震える。
 怯えだったのか、それとも歓喜だったのか。
 少なくとも、アルバートはもうその帯に対しては、何の危険性も感じてはいないようだった。その代わりに、彼の視線はまだ脈動を打ったままの床に落ちて、少しだけその表情が引き締まる。
 そして、また始まる呪文の詠唱。
 今度の呪文は長かった。
 しかし、確実に床の脈動は収まっていき、やがて何の変哲もない床と壁へと変わっていく。
 それからしばらくして、アルバートの呪文が終わった。
 彼は少しの間、床を見下ろしたままだった。そして、少しだけ疲れたように髪の毛を掻き上げた後、フレディを見やる。
「さて、私は帰ろう」
 アルバートがそう言った瞬間、フレディが我に返る。そして、慌てたように言った。
「いなくなった人たちは」
「……もう、破片しか残っていないと思うがね」
 アルバートが眉を顰めてそう言って、フレディは困惑したように首を傾げた。その言葉の意味が解らなかったからだ。アルバートが呆れたように続けた。
「人間は餌だと言ったろう。今から連れ戻せるのは、食い残された部分だけだ。それでも連れ戻して欲しいというのか」
「え……」
 その言葉の意味が頭に浸透したのか、フレディの顔色が失せていく。そして、それ以上何も言えなくなってただアルバートの顔を見つめるだけだった。
「じゃあ、私はこれで」
 少しだけ上機嫌な様子で、アルバートがさっさと玄関へと足を向ける。
 報酬はもう払ってある。
 彼の仕事は終わっている。
 引き留める理由はない。
 フレディはただ、彼の背中を見送ったのだった。

 楽な仕事ばかりだったらありがたいのだが。
 アルバートは街中をのんびりと歩きながら考える。
 彼の今までの住処は、辺りに人家はなく、静かな場所だ。もちろん、仕事の依頼など数えるくらいしかない。
 だが、彼の魔術師としての腕を知っている人間は、そんな辺鄙なところにも足を伸ばしてくるから、今までは金に困ったこともなかった。それに、特に贅沢な生活をしているわけでもない。食べるもの、服装すらほとんど気にしたことはない。
 だが、それも近々変えなくてはならない。
 ブラウンのためにも、もう少し住みやすい場所に移動しなくては。
 そして、人が多い場所に住むということは、それだけ仕事も増えるということだろう。きっと、今までよりも気楽に足を運べる分、人間たちも仕事の依頼にやってくることが増えるだろうからだ。
「人一人を養うからには仕方ないのだろうが、面倒だな」
 彼はふとそんなことを呟いてから、小さなため息をついた。
 そして、近々引っ越しする場所を考えねば、と気が重くなったのだった。

 彼が家の玄関のドアを開けた瞬間、ふわりといい香りがした。
 アルバートは小さく首を傾げ、居間の方へと歩いていく。すると、奧の台所からブラウンが慌てたように飛び出してきて、アルバートにぎこちなく微笑みかけてくる。
「お、お帰りなさい、お師匠様」
 ブラウンはまだ、誰に対しても怯えたように接するのが常だ、と彼は思う。
 まだ少しだけしか一緒に暮らしていないのだが、ブラウンの過去がそうさせているのだとアルバートは気づいていた。
 しかし、少しずつ彼が自分に懐いてきていることにも気がついて、それが嬉しいとも思う。そう考えている自分が奇妙ではあったけれども。
「いい匂いだな」
 アルバートがそう言いながら居間の中に入ると、テーブルの上に料理の皿がいくつか並べられていた。それは、ブラウンがこの家にきて、初めてと言ってもいいくらいに『普通の』食事だった。
 アルバートは料理が苦手だ。
 というか、全くできない。
 美味しい食事が食べたいとは思うが、自分では作れないのでいつも家にあるものを適当に食べているだけで、まともに食材に火を通すこともない。焼けば焦がすし、煮ればそのまま鍋を放置して火事を起こしそうになる。
 しかし、勿体ないので焦がした料理を食べるのが当たり前だった。
 だから、ブラウンがこの家にやってきて、料理を作るようになって随分と助かった。少なくとも、焦げてはいないからだ。まともに食べられるものであるからだ。それだけでブラウンを引き取ってよかったと思えるくらいに。
 しかし、今日は違った。
 丸くふっくらとしたパンや、鶏肉の香草焼き、ヨーグルトと果物のサラダ、野菜たっぷりのミネストローネ。
「すごいな、どうしたんだ」
 アルバートがテーブルの前に立ちつくして、その料理を見下ろしていると、ブラウンが控え目に微笑み、嬉しそうに言う。
「グレンさんが」
「グレンが?」
「色々教えてくれました」
「へえ」
 アルバートが感心したように頷いて見せる。「あの筋肉馬鹿も役に立つ……」
「馬鹿で悪かったな」
 と、そこにグレンの呆れたような声が響いて、アルバートは「まだいたのか」と言いたげな視線を声のした方向、ドアの方へと向けた。すると、グレンはテーブルのところまで歩いてくると、さっさと椅子に腰を下ろしてこう続ける。
「食え」
「……まあ、食うけどな」
 アルバートはいつになくあっさりと頷き、ブラウンを促して椅子に座った。そして、喜色を浮かべた瞳を料理に向け、いそいそとパンに手を伸ばした。それぞれの料理を口にして、彼は無言ではあったものの、美味しいと思っているらしい笑顔を口元に浮かべながらブラウンにも食事をするようにと態度で示す。
 ブラウンもまた、料理を口にして笑顔を見せた。
 ──餌付けしている気分だな。
 グレンはそんな二人を見つめ、内心で苦笑していた。
 自分の作った料理を美味しいと思いながら食べてくれるというのは、嬉しいものだ。
 それが、特にアルバートのような相手であれば、なおさらだ。
 アルバートという男は他人を近くに寄せ付けない。今まで、グレンはことあるごとにアルバートに話しかけるようにしていたが、笑顔すら滅多に見せてくれない相手だ。
 だから、こういう姿を見るのは新鮮であったし、何より魅力的だと思う。
 ──食事で釣れば一発だな。
 彼はそう考えながら、アルバートを見つめ続けていた。
 こうして気を許している彼を見るのは、本当に面白い、と考えながら。
 そして、アルバートはと言えば、食事に夢中でグレンの様子など気にしていなかった。ただ、これだけ美味しい食事を作れるのであれば、たまには家に呼んでもいいかもしれない、と考えていただけで。

 そしてまた、ブラウンはブラウンで師匠であるアルバートのために、自分も料理を上手く作れるようにならなくては、と決意を新たにしていた。もっと、グレンに料理の作り方を教えてもらえると嬉しいとも思うのだ。
 それは、少しだけ、それぞれの思惑が一致したひとときでもあった。


   第二話 了

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