2月14日 1



「随分もらったなあ」
 そう言って、私の提げる紙袋を覗き込んできたのは、同僚の藤崎圭吾だ。彼の手にも、私と同じような紙袋がある。今日の戦利品が入った紙袋が。
 今日は二月十四日、いわゆるバレンタインデーである。数日前から会社の内部でも、女性たちが楽しげに「どこのチョコを買う?」なんて会話が聞こえてきていた。最近は自分のためにチョコを買う女性たちも多いらしい。男性に贈るチョコレートよりも、ずっと高価なものを自分にプレゼントするのだそうだ。
「義理ばかりだがな」
 私は藤崎にそう苦笑混じりに応え、ずり落ちそうになった眼鏡を指先で押し上げた。
「ああ、俺も義理ばかりだ」
 藤崎もそう言いながら頭を掻き、そのまま帰宅の準備を始めた。窓の外はもう暗くなっていて、他の同僚たちも次々に職場を出ていこうとしている。
 私は藤崎の横顔を見つめつつ、『義理ばかり』というのは本当だろうか、と考えた。彼は、いかにも女性に好かれそうな精悍な顔立ちをしている。スポーツジムに通うのが趣味という彼の肉体は、痩せてはいるがしなやかだと思う。
 彼は女性にモテるはずだ。時々、彼の交際関係の噂も聞こえてくる。ただ、あまり女性と付き合っても、長続きはしていなさそうなのが不思議だ。
「帰り、どこかで飲んでいかないか?」
 珍しく、藤崎が私を飲みに誘ってきた。
 我々の帰宅手段はお互い電車であるから、酒を飲んでも特に問題はない。私は少しだけ考えた後に、それに頷いた。
 藤崎とは結構話す関係であったから、お互いに一人暮らしであることも知っているし、今現在、お互いに誰とも付き合っていないことも知っていた。
 だが、私は苦笑混じりにこうも言った。
「バレンタインデーの夜に男二人、というのは周りの同情を誘うようなものだということを忘れないように」
 だが、藤崎は私よりも色々と考えていたらしい。
「そこが狙いだ。二人連れの女性を見つけたら、同情を誘って飲み仲間にしよう」
 なるほど。
 私は笑って見せたが、内心は少し複雑だった。

 女性と会話をするのは苦手だ。どうも、上手い話題を出せない。
 もちろん、付き合ったことは何度かあるが、やはり上手くいかないままに別れることを繰り返している。問題は、自分にある。
 あまり、女性に興味がない……というか、全く興味を感じないというか。
「もったいないよな」
 飲み屋の一角に陣取った我々は、それぞれビールを飲みながら向かい合っている。そんな時、藤崎が興味深そうに私を見つめていた。
「何がもったいないと?」
 私がそう聞き返すと、彼は明るく笑う。
「結構、綺麗な顔をしてんのに、浮いた話を聞かない。俺がお前みたいな顔をしてたら、絶対悪用するけどな」
「悪用……」
 私は首を傾げる。「結婚詐欺にでも使うつもりか」
「いや、違う違う。女の子と付き合い放題じゃないかってこと」
「馬鹿なことを言う」
 私はそこで苦笑した。そして、テーブルに置かれた料理に手を伸ばす。しばらく食事に専念していると、藤崎がビールを飲み干して追加の飲み物を頼んでいた。
 いつの間にか、我々の飲み物は日本酒に切り替わっている。辛口の日本酒は私も好みではあったが、酔うのが早いから自然と飲むペースが緩やかになる。だが、藤崎のペースは落ちなかった。酒が強いな、と彼を見つめていると、藤崎がそれに気がついて「どうした?」と言う。
「何かあったのかと思って」
 ふと、気になってそう訊いてみた。
 すると、彼はわずかに困惑したように笑ってから、小さく唸るように言った。
「今回はちょっと本気だったのにな……」
 どうやら、女性にフラれたらしい。
 少しだけ落ち込んでいるような瞳に気がついて、私はただ、彼の空いた小さなグラスに日本酒の瓶を傾けた。

「お前は誰かと付き合わないのか」
 藤崎がそう訊いてきて、私はただ肩をすくめて見せた。
 特に今のところ、その必要性を感じない。仕事だけで手一杯だし、休日は読書や映画観賞で一日を潰す。それで充実していると感じるうちは、このままでいいようにも思う。
 飲み屋からの帰り道、私たちはゆっくりと夜道を歩いていた。電車に乗れば、もっと早くお互いのアパートに帰れるだろう。しかし、酔いを冷ますことも考え、駅の前を通り過ぎて歩き続ける。
「飲み直すか? 寄っていけよ」
 藤崎のアパートの前に到着した。藤崎は二階へと続く階段の前で足をとめ、私にそう声をかけす。
 あと十分も歩けば、私のアパートがあった。
 もちろん、明日も仕事があるし、もう夜も遅い。藤崎の顔は酔いのために赤く染まっていて、どこか眠そうでもある。本当ならば、ここで断るべきだったのだろうと思う。しかし、私はそれに頷いていた。
 私は彼の誘いを断れない。
 馬鹿なことだと思う。
 私は、自分は男だというのに、彼のことが好きなのだ。絶対に間違っている感情だ。とめなくてはいけないことだ。しかし、彼と一緒に飲みにいくことや会話をすることで心臓が震える。一緒にいるだけで嬉しいとも感じる。
 愚かなことだ。
 絶対に叶わない想いだ。
 絶対に彼は、私のことをただの友人と思っている。当たり前だ。彼は女性が好きなのだ。まさか、私という男に想いを寄せられていることなど思いもしない。

 自分が眼鏡をかけていてよかったと思うのは、感情が隠せるからだ。
 できるだけ冷静な口調を選び、彼と会話をする。そうして彼を見つめていると、自分が情けなくなる。変な感情を抱いていることが、彼に申し訳なくなるのだ。

「上がれよ」
 そう言われて、彼の部屋に上がり込む。
 やはり、男性が暮らしている部屋だ。あまり荷物はないが、雑然とした印象のある部屋。リビングの隅に積まれたままの洗濯物や、洗わずに放置されたままのグラス。
 私がそれとなく見回していると、藤崎が乱暴に辺りを片づけ始めた。だが、それも長くは続かない。冷蔵庫から缶ビールを取りだして、一本を私に渡し、ソファに座るように促してきた。
 テレビをつけ、そこから流れてきたお笑い番組に視線を奪われる。
 それから、彼は今日もらったばかりのチョコレートの包みを一つ開いて、口の中に放り投げた。

 自分も結構酔っているらしい。
 そう思ったのは、いつもだったらそれほど気にしない彼の仕草に、目を奪われているからだった。
 我々はテレビを観ながら談笑している。酔いも手伝って、私の口も滑らかになっている。いつになく色々と話をしたように思う。
 いつの間にか随分と時間が過ぎて、気がつくと藤崎がソファにもたれかかるようにして眠っていた。
 テレビから聞こえてくる音楽が、ひどく明るく感じる。

 どうしよう。
 私は高鳴り始めた心臓に気づく。
 彼の伏せられた目。睫の長さ。少しだけ開いた唇。緩められたシャツの胸元。
 見てはいけない、と思うのに、やはり見てしまう。そして、よからぬ想像をしてしまう。

 彼は眠っている。今なら、触れても気づかれないかもしれない。
 でも、気づかれたら終わりだ。そして嫌悪の目で見られるかもしれない。
 触れることはできない。
 見ていることしかできない。
 でも。少しだけなら。少しだけなら。

 私はおずおずと立ち上がり、そのまま彼の前に膝をついた。警戒心のない寝顔。ずっと、好きだった彼。何て自分は馬鹿なんだろう。早く離れろ、自分のアパートに帰れ。
 そう思いながら、そっと指先を伸ばして彼の唇に触れた。

 まずい、駄目だ。絶対に駄目だ。

 私は慌てて彼から離れ、辺りを見回した。床に落ちた、チョコレートの包み紙。飲みかけのビール。
 せめて、少しだけでも片づけてから帰ろう。
 私は震える心臓をそのままに、必死に冷静になれと自分に言い聞かせながら、狭いキッチンへと立った。飲みかけのビールを流しに捨て、流しに置いてあった洗い物もついでに片づけてやろうとシャツの袖をまくり上げたとき、急に背後から藤崎の腕が腹へと回されてきた。
「おい?」
 心臓が跳ね上がる。
 何をふざけているんだ、と言いたくて彼の方に目をやると、どこか遠くを見ているような目つきの藤崎がいた。まだ酔いも冷めず、まるで夢の中にいるかのような彼。
「由梨、泊まってく?」
 私の耳元で、知らない女性の名前を呼んだ藤崎はそのまま私の首の後ろにキスを落とした。

 誰かと間違っている。
 一気に私の酔いが冷めたと思う。
 そして、やっぱり彼には好きな女性がいたのだという失望がわき上がってくる。頭の中がぐらぐらしているような気がした。だから、抵抗するのが遅れたのかもしれない。
 藤崎の手がわずかに乱暴にシャツのボタンを開けようとする。酔っているから、それはおぼつかない手つきではあった。自分も酔いの残る腕で彼に抵抗しようとしたが、藤崎の腕は私よりも鍛えられていて、ふりほどけなかった。とめることができなかった。
「由梨」
 藤崎が優しくその名前を呼ぶ。
 耳元で震える彼の声は、私の心をも震わせた。
 苦しい。
 いつの間にか彼の手が私の腰の辺りに降りて、ズボンのベルトに気づいて、わずかに困惑したように思った。私は男で、『由梨』というのは女性だろう。あと数分もすれば、藤崎も気づくかも知れない。酔った勢いで私を女性と間違って抱きしめているのだと。当たり前ではないか。私の肉体は、女性よりもずっとしっかりと筋肉がついている。
 もしも彼が我に返ったら、私はどうしたらいいのだろう。
 どうしたら。

 ぐるぐると色々なことを考えているうちに、藤崎は私を床に引き倒し、腹の上に馬乗りになってきていた。
 どうしよう。
 私は彼を見上げる。
 心臓が不安に震える。でも、それは本当に不安だけだったろうか。一瞬でも期待しなかっただろうか。ずっと私は彼のことが好きだった。彼に邪な気持ちで触れたいと思ったことはなかっただろうか。夢の中でもいい、彼に触れて欲しいと思ったことは?

 彼の手のひらがシャツの上から腹を撫でていく。そのまま、下半身に伸ばされそうになって、慌ててそれを振り払った。
「抵抗すんのか」
 藤崎が急に不機嫌そうに鼻を鳴らし、私の右手首を掴む。抵抗しなくてはいけない。そうではないか。もしもこの状態で藤崎が酔いが冷めて、自分が男性を抱いていると知ったらどうなる? 嫌悪の念を抱くだろうし、これからの態度だって今までのものとは違ってしまうかもしれない。
 せめて、友人のままでいたい。
 どうせ、想いが叶わないなら。
 私は必死に藤崎の手を振りほどこうとした。声など上げられるはずがない。藤崎がこのまま何も知らずに、酔いつぶれてしまえば一番いいのだ。何もなかったことにできる。
 しかし、彼の手はとまらなかった。
 乱暴に服を脱がされて、下着すら下ろされてしまう。私はただ唇を噛み、彼の手から逃げようとする。しかし、彼の手のひらが私の内腿を撫でていくと、小さな悲鳴を上げそうになって慌てて自分の手で口を塞いだ。
 どうしよう、どうしよう。
 情けないことに、泣きそうだった。
 あまりにも想像したことのない展開であったから、自分の頭が上手く働いてくれない。どうすればいいのか思い付かず、ただ藤崎が女性を抱いているという夢の中にい続けてくれることを願った。
 藤崎の手が内腿からゆっくりと移動する。おそらく、女性だったらあるはずの、男性を受け入れる場所。でも、私にそれはない。藤崎がそのことに気づいたら、やはり不思議に思うだろう。たとえこれが夢の中の出来事であったとしても。
「……藤崎」
 私は恐る恐る、声をかけてみる。相変わらず、彼の目は焦点を結んでおらず、ただぼんやりと楽しげな笑みを口元に浮かべたままだ。
 今まで、そんな彼の表情を見たことがない。……誰かに情欲を抱いているような表情を。それが私の心をかき乱している。感じてはいけない感情。期待。
 しかしそれ以上に、恐怖が先にあった。
 頼むから、もうこれ以上何もないまま終わって欲しい。
 そう願っても、そう上手くはいかない。
 藤崎の手が私の男性器に触れそうになって、小さな悲鳴を上げた。そのまま、身体を捻って逃げようとし、しかし強く押さえ込まれているから逃げられないと怯え、腰を浮かせてそのまま藤崎の手から遠ざかろうとする。それが私にとってはいけなかったのかもしれないが、彼にとってはちょうどよかったのかもしれない。彼の指先が、私の双丘の中心に触れたのだ。そして、そのまま乱暴に彼の指が押し入ってきた。

「んん……っ」
 私はさらに強く唇を噛んだ。もともと、そこは何かを受け入れるための場所ではない。私の身体は反射的にそれを拒否していた。
 狭すぎる場所。しかし、酔って意識の朦朧としている彼には、何も感じることはできなかっただろう。それが女性のものでないことも気づかず、多分、いつも女性を抱くときのようにしたのだと思う。
 あっという間に増やされる指。私は痛みに首を振り、悲鳴を押し殺していた。
 無理だ、無理だ。
 痛い。痛い。
 でも、自分の中に入ってきているのが藤崎の指だということだけが大切だった。
 何故、こんなに私は藤崎のことが好きなんだろうと思う。同僚で、一緒に仕事をしている、ただそれだけの関係。彼は女性が好きで、たくさんの女性と付き合ってきただろう。だから、私は今までずっと諦めていた。彼と一緒に仕事ができるだけでいいんだと思い続けてきた。
 彼の無邪気な笑顔とか。
 楽天的な性格とか。
 明るくて、節操がなくて、憎めない。
 しかし、意外に繊細な性格をしているのだ。その見かけからは想像できないくらいに。
 一緒にいて、私が男性だったからこそ、彼が女性には見せないであろう場所を見せられてきた。女性の前では格好をつけて、クールな男性でいることを目指しているらしい彼。しかし、その素顔はとても親しみやすい。だから、こうして色々話すようになった。友人という立場で、色々会話するようになった。
 でも、私にとっては彼は友人じゃない。
 いつだったのかは忘れたけれど、彼が友人以上の存在なのだと気づいたのは、他の誰と一緒にいるよりも、彼と一緒にいる方が幸せだと感じたから。
 大丈夫だ、私は大丈夫だ。だから、彼の目が覚めないで欲しい。そのまま早く終わって欲しい。失望なんて覚えないままに。
 彼はどこかおざなりにそこを指で掻き回した後、私の両足を割り開いて抱え込み、自分のモノをズボンから引っ張り出すと、痛みに震えたままのそこに押し当てた。
「……ふじ、さき」
 これから起こることであろうことに恐怖し、私は喉を震わせた。
 でも、彼はあまりにも無造作に、腰を進めたのだ。

「ん……ううっ……」
 身体が引き裂かれるというのは、こういうことを言うのだろうか。
 私の両腕は何か掴まるものを探して床を彷徨う。しかし、フローリングの床に爪を立てることしかできない。
 テレビがついたままでよかった。
 明るい音楽と出演者の笑い声。それが私の悲鳴をかき消してくれる。
 あまりの激痛に私の頭の中は真っ白になり、呼吸すら忘れて身体を強ばらせていた。
 一気に最奧まで貫かれた形になった私はといえば、両足をつま先まで震わせ、激痛による涙をこぼしながら藤崎の熱を感じていた。
 気が遠くなる。
 このまま意識を失ってしまいたい。痛みを忘れたい。
 しかし、藤崎はそのまま乱暴に腰を前後させ、私にさらなる苦痛を与えた。
「きついな……」
 頭上で、藤崎が小さな笑い声を上げているのが解った。そして、激しくなる抽送。
「うう、んんっ……」
 やっと呼吸を取り戻した私は、喉の奥から苦痛の呻き声を上げた。今の自分の状況が解らず、ただ首を振る。しかし、その頃には私のそこからは出血によって濡れていて、藤崎は先ほどよりは楽に動けるようになっていた。ただ、私だけが悲鳴を殺しているだけで。
 早く、終わってくれ。
 頼むから。
 痛い。痛い。
 私はそう願いながら、時々かすかに目を開けて藤崎の顔を見つめる。快楽に流されている彼の表情。それが唯一の救い。私によって、彼が快楽を得ているのだと実感することだけが。

 私の意識もだんだん朦朧としてきていて、痛みに唇を震わせ続けていた。しかし、やがて藤崎の動きが一層激しくなり、私の中に入ってきている彼のモノが、びくびくと脈打つのが解った。私は何が何だか解らないままに、自分の中に弾ける熱を知る。
「……ああ……」
 藤崎のモノが乱暴に引き抜かれて、私はやっと息をついた。
 しかし、痛みはずっと続いている。身体が動かない。動こうという気力もない。
 藤崎が私の上にのしかかり、そっと私を抱きしめる。それから彼は、私の唇にキスをした。わずかに、チョコレートの香りがする。それが、あまりにも現実感のない出来事の中で、ひどく鮮烈に感じた。
 そして彼は、私の耳元で「由梨」と耳元で囁く。彼が夢の中にいることをよかったと思うと同時に、切なかった。彼の意中の女性の代わりに抱かれたこと、それは喜ぶべきことではないだろうか。彼が酔っていなかったら、こんなことはあり得なかった。彼が私に触れることも、抱きしめることもなかったはずだ。ましてや、こんな風に性交渉を持つことなんて絶対になかったはずなのだ。
 喜べ。
 幸運に感謝しろ。
 そうだろう?
 私はやがて静かな寝息を立て始めた藤崎の身体を押しのけ、のろのろと身体を起こした。そして、情けない自分の格好を見下ろす。床に点々と飛び散った血。
 私はそれを見つめたまま、少し泣いた。

 それからどのくらいの間、茫然としていたのか解らない。しかし、藤崎がこの状況を見たらどうなるのかと考えて恐怖が襲ってきた。
 私は必死に身体を動かして、傷ついたその場所が激しく痛むのを我慢しながら、掃除を始めたのだ。せめて、血だけは何とかしておかないと。
 私は自分の荷物からハンカチを取りだして、目につくところの血は拭き取った。そして、慌てて自分の身を整える。それから、藤崎の乱れた服装を直そうと四苦八苦した。
 しかし。
 その途中で藤崎が小さく唸って目を開く。
 そして私は、身体を強ばらせたまま彼を見下ろしていた。
「……どうした?」
 わずかに呂律の回らない口調で、藤崎が私に訊く。
 夢は続いているだろうか。
 藤崎はまだ、私を『女性』だと思っている?
 私はしばらく彼を見つめ続け、そして慌てて身を引いた。わずかに理性の輝きを放つ彼の瞳に気づいたからだ。そして私は、リビングに置いたままの自分の荷物を掴み、そのまま玄関へと向かう。
「待てよ、おい」
 藤崎が軽く頭を振って、慌てて私の後を追ってきた。彼はまだ、自分たちの状況がよく解っていない。だから、このまま逃げてしまおうと思った。
 しかし、どうやら私の動きはいつもより遅いらしかった。自分では走ったつもりだったのに、身体に残る痛みと違和感が動きを鈍くさせていた。藤崎はあっさりと私の手首を掴み、引き戻す。そして彼は私の顔を覗き込んできた。
「俺、寝てた? ごめん」
 藤崎が笑いながらそう言う。「何だか、変な夢を見てたよ。ヤバイな、俺……」
 そこで、彼は何か異変を感じたかのように動きをとめた。そして、乱れたままの自分の服装に気づいたらしく、頭を掻きながら途方に暮れたような声を上げる。
「夢、だよな?」
「夢だ」
 私はそれに頷いて、藤崎の手を振り払おうとする。しかし、彼の力はこんな時でも強い。頼むから放してくれ。
「夢……? 俺、何をした?」
 藤崎が少しだけ冴えない顔色で私を見つめ直した。その瞳にちらついている不安の影。私は彼から目をそらし、小さく微笑んで見せた。それは、とてもぎこちない笑みだった。
「いや、別に」
 声が震えたのが情けなかったが、自分の目の感情は何とか眼鏡で隠せたに違いない。そんなことを自分に言い聞かせながら、必死に笑みの形を唇に貼り付ける。
「自分も酔っていたから、よく覚えていない。明日も仕事だから、もう帰るところだったんだ」
「いや、待て」
 藤崎が慌てたように辺りを見回し、何か異変がないかと探しているようだ。しかし、結局その視線はまた私に向けられ、その目が細められた。
「酔ってたから……俺、何かしただろ。その……俺、お前に。俺、夢の中で、つまり」
 だんだん、困惑から不安に変わっていく藤崎の声。
 明らかに、彼は自分のしたであろう行為に気づき始めている。おそらく、夢の中では女性を抱いていた。しかし、現実には?
「忘れよう」
 私はできるだけ冷静な声を作りつつ言った。
 虚を突かれたように藤崎が動きをとめる。
「お互い、男だし。その、忘れた方がいい」
 私が俯きながらそう言うと、藤崎がぼんやりとした口調で繰り返す。
「男だし……忘れた方が……」
 その直後、彼は目を見開いて大声を上げた。「そうなのか? やっぱり俺、お前に!?」
「いや、あの」
 私は慌てて首を振り、掴まれたままの腕を振り払おうと必死になった。「だから、なかったことにしようって」
「なかったことにって、だから何が? つまり、そういうことなのか?」
 藤崎の顔から血の気が失せていく。
 それを私は盗み見て、不安になっていた。
 彼は嫌悪の目で私を見るだろうか?
 そして、そんなことしか考えられない自分が愚かだと思った。

 やがて、藤崎がその場に座り込んで頭を抱えた。深いため息が彼の唇からこぼれる。それから続いた沈黙に、私はいたたまれなくて玄関へと足を向けるしかなかった。
「男同士だもんな」
 私が玄関のノブに手をかけたとき、背後から小さな声が響いてきた。力のないその声は、どこか疲れているように思えた。
 私は足をとめ、振り向かずに彼の次の言葉を待つ。
 すると、思いきったような彼の声が聞こえる。
「忘れた方がいいよな、その、もしもそうだとしたら。もしも俺が……お前にそういうことをしていたんだとしたら、だけど。……したのか、俺」
 私は何も応えない。
 ただ、じっと床を見下ろしているだけだ。
 すると、藤崎がわざとらしく笑いながら言うのだ。
「俺、好きな女がいる」
「知ってる」
 私もすぐに笑って応えた。
 すると、藤崎は自分に言い聞かせるような口調で続けた。
「男同士なんて、本気じゃない。酔っていたからだ。解るだろ?」
「ああ、解る」
「ごめん、その、そういうつもりじゃなかった。……ごめん」
「いや、忘れよう」
「そうだよな。忘れよう。どうせ、男同士なんて笑い話にもならない。そうだろ? いや、それとも笑い話かな? 酔ってたからつい、遊んだ、みたいな?」
「かもしれない」
「そうか、遊びか。そうだよな。そういうことにしよう」
 藤崎がそう言って笑う。
 私も笑う。
 何て情けないんだろう、私は。
 そのまま、私はドアノブを回して外に出ようとした。すると、藤崎が苦しそうに笑う。
「本当に、ごめん」
 その声を聞きながら、私はその部屋を後にした。

 歩くのもつらかった。
 何も考えられなかった。
 でも、よかったじゃないか。たった一度でも、彼に抱いてもらったという記憶が残れば。
 あれは夢の中の出来事のようで、何もかも現実感などなかった。ただ、痛みだけしかなかった行為だったけれど、でも、それで充分だ。
 彼が自分に与えてくれたもの、それだけで充分。

 私は自分のアパートに帰り、風呂に入る。他人には言えない部分の痛みを、あんな抱かれ方をしてもなお、嬉しいと思う自分は何なのだろうと思いながら。
 藤崎には絶対に言えない。
 あれは遊びだった。それで終わりだ。
 また明日からは、ただの友人に戻る。彼が今まで通り、私に接してくれれば、の話だが。

 私はその夜、風呂場からずっと出ることができなかった。



>>藤崎視点の話へ続く


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