2月14日 2



 どんな顔をしたらいいのだろう。
 俺はずっと洗面所の鏡の前で固まっていた。
 どうやら夕べ、俺は友人にしてはいけないことをしてしまったらしい。信じられないことだが、どうやらそれは事実のようだ。どんなことをしたのかは覚えていない。でも、夢の内容は覚えている。
 由梨を抱いていた。
 以前と同じように。
 そう、由梨に振られる前までと同じように。

 とにかく、仕事にいかなくてはならない。夜が明けて、今日が休みだったらよかったのにと何回ため息をこぼしたことだろう。
 いつもと同じように顔を洗って着替え、会社へと向かう。会社へ到着するまでの間、俺はどうやってあいつに声をかけたらしいのか悩んでいた。
 夕べ、俺はあいつに「ごめん」と謝った。あいつは「忘れよう」と言ってくれた。それがありがたい。
 おそらく、友情を守るために言ってくれたのだということは解る。でも、俺が別の奴にそんなことをされたら、許せるだろうか。忘れようと言えるだろうか。
 多分、言えない。
 でも、あいつは俺を気遣ってなのか、いつもと同じような冷静な顔をしてみせたのだ。
 それなら俺も、それなりの態度で接しなくてはならない。
 友情を守るために。

 顔色が悪い。
 それが今日、職場であいつを見かけたときの第一印象だった。もともと、あいつは色が白い方だ。でも、今朝はさらに輪をかけて顔色が悪い。やっぱり、昨夜のことが原因なのか……と、俺の罪悪感が滲む。
 俺はあいつの姿に気づいても、近寄ることができなかった。
 何て声をかけたらいいのか全く解らなかったからだ。
 何て言う? 何て言って今まで通りの自分を装う?
 ――大丈夫か?
 ――気分は?
 ――昨日はごめん。
 最悪だ。
 デリカシーのかけらもないというのは俺のことか。
 もともと、由梨にも「君はどうしようもない男だな」と笑われていた。その時は、「何を馬鹿なことを言ってるんだ」と笑って返していたのだが、確かに自分は馬鹿だったな、と今は思う。恋人というのは、いつか別れたらそれで終わりだ。でも、友情というのはよほどのことがない限りずっと続く。それなのに、俺は恋人を失ったばかりか友人まで失いそうになっている。
 あいつは今一番身近に感じている友人であるというのに。
 彼。
 倉知忍。俺と同期の男。
 顔立ちも整っていて、いかにも女性に好かれそうな端正なもの。短めの髪の毛と、銀縁眼鏡。物静かでクールな横顔。
  俺があいつと話すようになったのは、何がきっかけだったのか。とにかく、一見すると気難しそうにも見える顔立ちなのに、話してみるとそうでもない。むしろ、他人の話をよく聞いて、真面目に反応を返してくれる。いかにも血液型はA型だな、と思わせる。
 俺の馬鹿話にいつも付き合ってくれて、ささやかな悩みがある時も真面目に聞いてくれる。俺ばかり色々話をしているような気もするが、あいつはいつも「話は聞いている方が得意だ」と笑っていた。
 だから、あいつには色々話をした。由梨と付き合いだしたことは曖昧にしか話をしなかったが、それとなく気づいていただろう。だから、昨日は飲みに誘ったのだ。彼女と別れて、愚痴を聞いてもらうために。
 それが、何がどうなったのか。
 酒に弱いとは思わない。でも、強いとも思わない。昨日は少し飲むペースが早かったのだ。
 そして、意識が途切れた、と思った。

「おはよう」
 急に、後ろから同僚の男に声をかけられて我に帰る。肩をびくりと震わせて振り返ったものだから、そこにいた同僚は驚いたように俺を見やり、苦笑する。
「どうした、冴えない顔だな」
「生まれつきの顔をそんな風に言うな」
「あ、ごめん、冴えない顔色だな、と言いたかった。お前の顔が冴えない顔立ちってわけじゃなく……」
「解った解った」
 俺は頭を掻きつつ、自分の机へと足を向ける。自分の机のそばには、倉知の机もある。必然的に顔を合わせることになるわけだ。
 くそ。
 俺は内心毒づきながらも、ちょうど倉知が自分の席に腰を下ろそうとしているところにぶつかって息を呑んだ。机を挟んで向かい合い、俺は倉知の顔を正面から見つめる。
 あいつも俺のことを見て。
 少しだけ緊張したように、その肩が震えたのが見えた。
 一層白くなる頬。
「……おはよう」
 やがて、倉知は青白い頬にかすかな笑みを浮かべ、短く言った。
 俺はしばらくの間、何も言えずにいた。すると、倉知は沈黙に負けたかのように目を伏せ、そのまま椅子に腰を下ろした。
「あ、おはよう」
 俺が慌てて言うと、彼はこちらを見ないままで頷く。そして、机の上にあったファックス用紙や書類に視線を落とし、まるで俺には興味ないというようなそぶりを見せた。
 何でだ?
 昨日の今日だろ? 何か言いたいこととかないのか。俺がその――そういうことをして、本当に何も感じてないんだろうか。
 俺はじっと彼の頬を見つめる。顔色の悪さは、もしかしたら俺と会話をしたくないから……なんてことも考えた。それなら納得がいく。俺と顔も合わせたくないのだ。それなら解る。
 でも、それは認めたくなかった。一番仲の良い友人ともいっていい彼。それを失いたくないと思いつつも、これは自分が導き出したことなのだと思うと何も言えない。
 どうしたらいいんだろう。

 その日の仕事は、あまり手際よくいかなかった。それはそうだろう。ずっと、余計なことばかり考えていた。
 せめて倉知には、お昼休みに声をかけて、何とか今まで通りの態度を取っているように見せようと思ったのに、どうしても声をかけられない。お互い、別々に食事を取った。これは珍しいことだ。いつも、俺は彼と一緒にお昼休みを過ごすからだ。
 俺が彼に声をかけなかったように、倉知も俺に声をかけてこない。目も合わせようとしない。
 怒っている。
 そうなんだろう。それが当たり前だ。
 でも、何とかしたい。

 その日の仕事が終わり帰る時間となって、俺は荷物をまとめる。そして、鞄の中に入れてあった携帯電話を取り出した。
  悩みがあった時、いつも相談するのは倉知だったというのに、今は相談相手がいない。でも、一人で考えるのはもう無理だ。頭の中が混乱していたし、誰かにしゃべって楽にもなりたかった。
  でも、内容が内容であるだけに誰にでも相談できるというわけではない。
  しばらく考えて相談相手として選んだのは。

「もう連絡をしてこないと思ってたよ」
  俺はその声を聞いて、少しだけほっとした。聞きなれているクールな声。わずかにハスキーで、他人を突き放したかのような響きを持つ声ではあったけれど、冷やかではない。
 駅の近くにある小さなイタリアンの店で、俺たちは待ち合わせをしていた。正確にいえば、俺が彼女を呼び出したのだ。もしかしたら来てくれないかもしれないと思いながらも、彼女はなんだかんだいっても優しいから、来てくれるだろうとも踏んでいた。案の定、その通りになった。
「由梨」
  俺は椅子から立ち上がり、彼女が自分の前の椅子に座るのを待つ。黒いパンツスーツを着ていて、それが華奢な身体によく似合う。背が高く、髪の毛はショートカット、銀色のピアスが耳元で光っていた。
 切れ長の瞳、 形のいい唇。美人ではあったけれど、性格には色々問題がありそうな女性だ。それがよかったというのは惚れた者の目線だったからだろうか。
 付き合い始めたのは、何がきっかけだったのか。とにかく、気づいたらいつの間にかホテルにいっていた、という関係。
 俺は彼女と付き合っているつもりだった。でも、彼女はそうではなかった。俺が彼女を束縛するようになって、「君は面倒だ」の一言で捨てられたのだ。
 捨てられたというか、もともと付き合っていなかった。彼女の認識はそうなんだろう。俺がどんな考えを持っていたにしろ。
「君は結構プライドが高いからな」
 由梨は椅子に腰を下ろしながら笑う。「私があんなことを言ったから、もう電話などしてこないと思ったのに。少し意外だな」
 由梨の言葉遣いは女性らしいとは言えない。男性みたいな口調で話すが、やはり女性らしい性格でもある。そのバランスに惚れたんだと思う。
「で、用件は?」
 食事の注文を済ませると、由梨が煙草を取り出して火をつける。くわえ煙草のままにやりと笑い、短く言った。
「よりを戻そうっていうならお断りだ」
「……そういう話も、まあ、したいとは思うけどさ」
 苦笑しつつ応え、俺はため息をついた。そうだ、もともとそうしたかったんじゃないのか、俺は。由梨と別れたくなかった。しかし。
「何度も言うように、君は面倒だ。元々、君との関係は遊びだと言ったろう。本気にはならないと。最初は君もそれに納得したはずだ」
「確かにそうだな」
 そう、その通り。
 初めて彼女とホテルに行った時、彼女は俺に本気にはならないと宣言した。寝るだけの関係だと。普通、女がそんなことを言うかよ? 表向きの言葉だと思ってた。会話するのは楽しいし、一緒にいて嬉しい。彼女は美人だったから、男どもが羨ましそうな顔で見てくるのが何より快感だった。それに、彼女も俺といて楽しそうだったし、期待してもいいじゃないか。
「それがいきなり本気になったと言われても、こっちは困るだけだ。友人づきあいなら歓迎なんだがな」
「相変わらずだよなー……」
 俺は頭を掻きながらただ苦笑する。何て言ったらいいのかも解らない。
 頼んだ料理が運ばれてきて、しばらくお互い食事に専念した。いつもだったら、俺が色々つまらない話を彼女に聞かせて、つまらないジョークに笑っているところだ。しかし、今日の俺はそういう気分ではなかった。
 そんな俺の様子は、彼女にも奇妙に映ったらしい。
 食後のコーヒーを飲みながら、彼女が「どうしたんだ」と訊いてきた。不思議そうに目を細め、俺の様子を観察している。
「いや、そのさ、俺、ふられただろ? 由梨にさ」
 やがて俺は言葉を探し出す。
 由梨は黙って俺の次の言葉を待っている。
「よりを戻したいとか色々考えていてさ、ちょっと荒れてるみたいで。情けない話、本当に駄目だなあって思うわけだよ。よりを戻したいと思うし、由梨がそばにいてくれれば、馬鹿な俺ももうちょっとマシになるかもしれないと思うし」
「まだるっこしいな、君の話は。よりを戻すのはお断りだと言ったような記憶があるが、君にはその記憶がなかったかな? つまり、何が言いたい」
「いや、その」
 何を言ってるんだか、何を言いたいのかも解らない。ただ、頭の中が混乱していることだけは事実だ。
「昨日、バレンタインだっただろ? 一人でいるのもアレだし、由梨を誘うわけにもいかないだろうか別のヤツを飲みに誘って、荒れたらしい。ちょっと、飲み過ぎたらしくて」
「……で?」
「酔って……その、よからぬことをしてしまったらしい」
「よからぬことって?」
「由梨にするようなこと」

「……は?」
 由梨はしばらくの間、何も言わなかった。ただ、無表情のまま俺を見つめ、やがて理解できないと言いたげに眉を顰めた。
「いや、そういうつもりじゃなくて、手を出すつもりもなくて、ただ酔っぱらっていたから由梨と間違えて……その」
「女友達に手を出したって?」
 由梨が煙草の煙を唇から吐き出した後、小さく続ける。「まさか、無理矢理?」
「……そう」
 俺はテーブルの上に視線を落として、由梨を見上げることができなかった。やがて、由梨は短く吐き捨てる。
「最低だな」
「そう、その通りだ。否定できない」
 彼女が『女友達』と誤解してくれたことに感謝した。さすがに、男に手を出したとは言いにくい。
 でも、それが女友達であったとしても、俺がやったことが最低であることは間違いない。
「避妊はしたのか」
 由梨の声が辺りを気にして低くなった。だから、俺もそれに合わせて声を潜めた。
「してない」
 する必要もなかったなんて言わない。妊娠する可能性はゼロだ。でも、もしも相手が倉知ではなくて、他の女性だったら? と思うと背中が冷える。もしも一度の過ちで妊娠してしまったら?
 いや、そんなことはどうでもいいんだ。
 問題としているのは倉知の心なのだから。俺は友人を傷つけてしまったのだから。それが何よりも優先して考えなくてはいけないことだ。
 俺は唇を噛んだ。
「死んだ方がいいと思うね」
 やがて、由梨が軽蔑したような声を上げた。それが耳に突き刺さる。
「ごめん」
「私に謝るな。本人に言え」
「ああ、謝ったんだ。相手も忘れようって言ってくれた。でも、合わせる顔がなくて」
「当たり前だ、あってたまるか」
 由梨はうんざりとしたように俺を見つめ直す。そして、冷ややかに続けた。
「馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、そこまで馬鹿だとは」

  返す言葉もございません。

「合意の上の行為でなかったのなら、とにかく謝り倒せ。そして、自分なりの誠意を見せろ。君は本当に馬鹿だ。別れて正解だな」
 やがて、由梨がそう言い捨てて立ち上がる。もう、会話は終了ということか。
 俺は由梨の顔を見上げ、しばらく言葉を探していた。
 確かに、倉知は俺を避けている。怒っているからだ。ならば、何回でもいいから謝り倒そう。あいつが許してくれるまで。それで拒絶されたらそれまで……とは思いたくない。
「話せてよかった」
 やがて、俺は由梨に頭を下げる。
 彼女にばっさり言われて、何だか心の整理がついた気がする。
 自分ができることをしよう。それしかできないんだろう、きっと。
 心の奥につかえていたものが取れたみたいで、楽になった。今なら多分、倉知に声をかけられるだろう。いや、かけなくちゃいけない。
「藤崎」
 ふと、由梨が形のよい眉を顰めて言った。「不安だから言っておく。君は私に恋をしていると言った。だから、付き合いたいと。しかし、君は勘違いをしている。君は私に惚れてなどいなかったし、私も君に惚れていなかった」
「惚れてたよ」
 俺がそう口を挟むと、不機嫌そうに俺を見て首を振る。
「いいや、惚れてなどいない。君は、思い違いをしているだけだ。君の感情を教えようか。寝たから『情がわいた』のだ。恋じゃない」
「情?」
「なのに、それを恋と勘違いして私に告白した。同じことを繰り返すな。どうやら今回の相手は、君にとって大切な友人なんだろう。だからそれだけ悩んで、私を話し相手として呼び出したんだろう? だったら、相手のことをよく考えてやれ」
 恋と勘違いした?
 寝たから情がわいた?
 そんな馬鹿な。俺は由梨に惚れていたし、手に入れようと思った。それが恋だろう?
 俺はじっとその場で考え込んでいた。
 由梨が店から出て行ったことも気づかないままで。

 次の日、職場に早めに出社して倉知がやってくるのを待った。倉知はいつも、早めに出社する男だ。少しくらいは話をする時間が取れるだろう。
 夕べは由梨と別れてから、色々考えた。でも、よく解らなかった。ただ、倉知にはもっと正面から向き合わないといけないとは思う。
 だから俺は意を決して倉知に声をかけた。
 相変わらずのクールな表情、物静かな雰囲気をまとわりつかせている彼に。

「おはよう」
 こちらから声をかけると、倉知は少しだけ緊張したように俺を見つめてきた。それから、小さく「おはよう」と返してくる。
「その、ゆっくり話がしたいなと思って」
 俺がそう言ったとき、他の社員もどんどんその場に姿を現して、あまりのんびり会話をするという雰囲気ではなくなってきた。だから、何とか笑みを浮かべつつこう言った。
「今夜、どこかで飯を食ってかないか?」
 断られたらどうしよう。
 誘ってからそう不安になる。
 しかし、倉知は無表情のまま、小さく頷く。
「解った」
 そう聞いて、俺は安堵のため息をついた。
 断られなかっただけでも、大成功と言うべきだ。
 このささやかな進歩に、俺は気をよくしてさらに言った。
「昼はどうする? 社食で?」
「そうしようと思ってる」
「じゃあ、一緒に」
「解った」
 よかった。
 俺は嬉しくなった。倉知の声は平坦だ。静かで落ち着いていて、あまり感情を見せない。
 安堵はしたものの、俺のことを嫌悪の目で見ているんじゃないかと急に不安になって倉知を観察する。じっと見つめていると、わずかに居心地悪そうに俺から顔をそらす。それでもずっと見つめていると、彼は困惑したように俺を見つめ直した。
「私の顔に何かついているのか」
「いや、そうじゃなくて」
 俺はあわてて首を振り、笑顔を作ってこう言った。「俺のこと、嫌いにならないでくれ」
 倉知はほんの少しだけ、言葉に詰まったように見えた。しかし、やがてうっすらとその口元に笑みを浮かべ、「嫌いになどならない」と囁いた。

 俺は馬鹿みたいだ。いや、由梨には馬鹿だと言われているから、馬鹿なんだろう。
 嫌いにならない、と言った彼の言葉だけで、ものすごく嬉しくなる。不安になっていた反動からか、その日の昼食の時も浮かれていたし、夜はよく行くレストランに入って彼の食事を奢った。倉知は遠慮していたが、「お詫びだ」と俺が言うと、困惑しながらも頷いた。
 相変わらず俺は自分の話ばかりで、倉知は聞き役だ。
 でも、これじゃいけないと思って夕食の時には倉知にも色々話を振った。ほとんどが世間話であったけれど、倉知もだんだん笑みを見せてくれるようになったから、本当に嬉しかった。
「じゃあ、また明日」
 と言って別れた後も、俺の気分は高揚していてどうにもならなかった。
 そして、自分のアパートについてから気がつくのだ。
 少しも謝罪していないことに。

 次の日は土曜日で、仕事が休みだった。だから、俺は倉知に電話して食事にいこうと誘った。今度こそ、謝らなくては。
 そう思って、都心に近い駅で待ち合わせをする。
 約束の時間ちょうどに到着すると、倉知はもう待ち合わせ場所の改札口横で待っていて、行き交う人々の流れを見つめていた。倉知は目立つ。だから、通り過ぎる女性の中には、ちらりと彼に視線を走らせる人もいる。モテそうだもんな、と俺はつい笑ってしまう。
 それから、「よう」と彼に声をかけると、倉知はほっとしたように俺を見つめ、小さく笑った。
「早いな」
 俺は携帯電話を取り出して、時間を確認する。午前十一時、ジャスト。
「時間ちょうどだけど」
「お前にしては、という意味だ」
「ひでえ」
 俺は倉知の背中をばしりと叩き、くくく、と笑う。くそ、冗談を言ってくれるのも嬉しい。何だかあまりにも嬉しかったせいか、テンションが高い。笑いがとまらない。俺が笑ってばかりいるせいか、倉知もいつになく笑みを見せてくれる。そしてまた、嬉しくなる。
「どこで食う?」
 俺は昼食をどこで取るか決めてはいなかった。町中に出れば、店はたくさんある。選び放題だ。だから、倉知に決めさせようと思っていた。
「どこでもいい。お前の好きなところで」
 こいつはいつもこんなことを言う。何でもかんでも俺の好みを優先させる。だから、俺はつけあがるんだと思う。
「いや、駄目だ。今日は、お前の好みを優先させる」
 俺は断固としてそう言った。「お詫びのつもりなんだ」
「……藤崎」
 倉知は困惑したように眉を顰める。「気にしないでくれ」
「気にするよ。当たり前だろ? 俺がやってしまったことは、取り返しがつかない。少しでも、謝りたいんだ」
 そこで俺はいったん言葉を句切り、駅の改札口のそばで、改まって頭を下げる。「本当に悪かった」
「いや、もういいんだ」
 倉知が慌てたように手を挙げて、俺の頭を上げさせようとする。「忘れようと言ったろ?」
「忘れられるのか?」
 俺は頭を上げてから首を傾げる。正直、そんなことはできないと思う。そうだろ?
 でも、倉知は穏やかに笑うのだ。
「もう、忘れたよ。私たちは友人同士だろ? もうそれでいいじゃないか」
 本当に?
 本当にそれを信じてもいいんだろうか? 倉知の言葉をそのまま受け入れても?
「それに、結構よかったよ」
 ふと、倉知がぎこちなく唇を歪めるようにして口を開いた。「女好きを豪語しているだけのことはある」
 一瞬、何を言われているのか解らなかった。
 でも、理解した瞬間に頭がぐらぐらした。
「そ、そ、そうか」
 俺はぎくしゃくとした動きで、駅のロータリーへと足を向けた。ああ、ええと、どこにいくんだっけ?
「冗談だけどね」
 背後で倉知が苦笑混じりにそう言うのが聞こえて、あいつの首を絞めたくなった。

 食事は俺が奢った。案の定、倉知はそれを拒否しようとした。でも、俺の気が済まない。何度も繰り返し言っていると、やっとあいつは折れてくれた。多少、不満げではあったけれども。
 それから買い物をし、倉知が好きそうなサスペンス系の映画がやっていたのでそれを観て帰路につく。映画も結局、俺が金を払った。さすがにそこまでくると、倉知の表情は険しくなった。
 でも、俺は説得した。
 お前がどう言おうと、俺がやったことは最低の行為なんだ、と。同意の上での行為じゃない。このことを持ち出すと、倉知も強く言い返せないようだった。
「忘れろと言っているのに」
 と、倉知はため息をこぼす。そんな時の彼は、物憂げで頼りなげだった。切なげに眉根を寄せ、俯く。そんな彼を見ているうちに、変な気分になった。
 俺はあの夜、どんなことをこいつにしてしまったんだろう。
 冗談とは言ったが、「結構よかったよ」と言われると心臓が跳ねる。相手は男だ。もちろん、男性同士で性行為を持つ人間はいるだろう。でも、本当に女性と同じようなことができるんだろうか?
 馬鹿なことだとは思うが、その最中、倉知がどんな表情を見せたのか気になった。何で俺は覚えていないんだろう。

 俺は女好きのはずだ。
 今までの恋愛対象は、全員女だった。
 なのに、何で急に倉知のことが気になり始めたのか。
 これが由梨の言う、『一度寝ると情がわく』という感情なんだろうか。

 倉知は気遣いが上手い。おそらく、何でもないような態度をして見せているのは、俺への配慮……なのかもしれない。でも、違うかもしれない。本当に何でもないことなのかもしれない。もしかしたら、男性と寝るのも気にしないヤツなのかも。でなきゃ、こんな風に俺といつまでもつきあい続けていられるはずがない……ような気がする。
  俺は倉知の考えていることが知りたいと思う。いつもその表情は平静を保っていて、滅多に慌てる様子を見せることはない。
 だから、余計に気になるのだ。
 倉知の考えていることを知りたくて、その本音が聞きたくて。
 だから当分の間、俺は倉知を毎日食事に誘うことにした。

 数回食事を奢り続けていると、倉知は仕事帰りに食事に誘っても「行かない」と言い出すようになった。だから、仕方なく割り勘で食事に行こうと誘った。するとほっとしたように笑ってくれる。
 ああ、いい笑顔だな、と思う。
 そして、そんなことを考える俺は馬鹿だと思った。
「今日は飲みに行かないか?」
 ある夜、食事が終わってから俺は倉知と別れるのが惜しくなり、そのまま二軒目へ足を向けたくなった。ちょうど、その日は金曜日で、明日は仕事が休みという夜。
「あ、でも俺は飲み過ぎないようにするから」
 前回のことも踏まえて、俺は自分に規制をかけることにした。また、以前と同じことを繰り返したら馬鹿以下だ。
「……いいよ」
 一瞬の逡巡の後、倉知は頷く。
 何だろう、やばい。そんなささやかな倉知の仕草にすら、心を乱される。何だろう、俺は何をしてるんだろう。
 とにかく、自分という男が何を考えているのか解らなくなってきた。自分の感情すら把握していないんだから、他人の心なんて解るはずがない。くそ。

 普通だったらデートで使うような店に、俺は倉知と入った。
 少し店の明かりが暗くて、カップル同士で入るような店だ。カウンターにはバーテンが立っていて、その場でカクテルを作って出してくれる。
 倉知は少し、戸惑っているようだった。店内を見回し、俺の後についてテーブル席に座る。テーブルにおいてあったメニューに視線を落としながら、倉知は小さく言う。
「こういう店に入るのは珍しいな」
「そうだな。倉知とは、居酒屋にいくことが多いもんな。女とだったら、ここはデートコースにしたりする」
 それを聞いて、わずかに倉知が首を傾げる。眉を顰め、俺を見つめた。
「どういう風の吹き回しだ?」
「お前を口説こうと思って」
 途端、倉知が息を呑む。
 その数瞬後、俺はにやりと笑った。
「冗談だけどな」
 そい言った直後、倉知に殴られた。

 ほろ酔い気分で帰路についている途中、俺たちは色々と話をした。わざと裏道を通って、人通りのないところを通り抜けていく。
 馬鹿な話に笑い合い、盛り上がる。
 楽しいと思う。倉知と一緒にいるのは楽しい。
 そして、歩きながら倉知の横顔を観察する。わずかに酔って、上気した頬。潤んで見える瞳。夜目にも白い肌。
 時々、途切れる会話。でも、重い沈黙じゃない。
 時折倉知は切なげに目を伏せ、何事か考え込む様子を見せる。それが妙に色気があって、頭のどこかを刺激される。
 くそ、何でこんなに気になるんだろう。
 一度セックスしたからか。その記憶はないけど。
 倉知は覚えているらしい。その夜のことを。でも、どんな風に俺が抱いたかなんて訊けない。当たり前だ。
 でも、気になる。
 ゆっくりとした足取りで、俺たちはアパートへと向かう。もうすぐ俺のアパートの前、それからしばらく行き過ぎると倉知のアパートだ。
「じゃあ、ここで」
 やがて、倉知が俺のアパートの前で軽く手を挙げた。
 そのまま帰ってしまうのか、と思った途端、俺は倉知の腕を引いていた。倉知が俺の胸元に倒れ込んでくると、俺は彼の顎をつかんで引き寄せた。
 乱暴に重ねる唇。
 倉知の驚いたように開いた唇を自分の舌で割り開き、お互いの舌を絡ませた。
「んん、んっ!」
 倉知の両腕が、俺を押しのけようと必死に突っ張る。でも、逃がすつもりはなかった。倉知が抵抗をやめるまで、俺はあいつの舌を吸い、お互いの唾液を絡ませ、お互いの体温が上がっていくのを確かめていた。
 やがて、倉知の手から力が抜ける。
 俺が彼から離れると、倉知は信じられないと言いたげに俺を見つめ、自分の唇を手で覆う。
 さっきまで、酒のために上気していた頬。でも、今はそれ以上に赤い。それが可愛いと思えたのは、きっと酒のせいだ。
「上がっていかないか」
 俺は自分のアパートの方に視線を投げる。倉知は何も言わない。
 ささやかな酔い。それでも、俺の理性を断つには充分だったらしい。
「俺、前にどんなことをしたんだ? お前、結構よかったって言っただろ」
「でも、あれは」
「もう一回、やってみないか。その、乱暴にはしない」
「でも、藤崎っ」
 倉知がわずかに顔色を青ざめさせて首を振った。「私たちは友人で」
「だから、寝るだけの関係ってのもあるだろ」
 それは、付き合い始める時に由梨に言われたのとほとんど変わらない。俺たちの関係は、恋愛ではない。ただの身体だけの関係。でも、寝れば情がわく。それだけなんだろう。
 そうだ、恋じゃない。
 どんなに倉知のことが気になっても、その仕草の一つ一つに心を乱されても、俺たちは友人同士だ。恋になど発展しない。
 倉知の切なそうな表情に欲情したのも、全部気のせいだ。無理矢理にでも抱いてみたいと思っているのも、全部気のせいだ。ただ、興味がわいたから。倉知のすべてを知りたいと思ったから。セックスをしたらどんな声を上げるのかも、知りたかったから。
 男同士なんて、恋愛に発展するはずがない。
 だから、遊びだ。
 お互い、気持ちよければいいじゃないか。
 恋じゃない。恋になどならない。
「お前と寝てみたいんだ」
 俺は倉知の腕を引き寄せ、その耳元で囁いてみる。すると、倉知が身体を強ばらせ、怯えたように俺を見上げる。眼鏡の奥の瞳に、不安がちらついている。それでも、ただ苦しげに、切なげに震える睫毛。
 何て顔をするんだろう。そんな顔をされたら、いじめたくなる。乱暴に扱いたくなる。
 くそ、俺はいったいどうしたっていうんだ。

「……ん」
 やがて、倉知は緊張した表情のまま頷いた。
 寝てもいいってことか。本当に?
 俺は眩暈すら覚えながら、もう一度倉知の唇に自分の唇を重ねた。震えている唇が、たまらなく可愛かった。


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