2月14日 おまけ


 ◆倉知視点◆

 藤崎と外出することが多くなった。
 人はそれをデートと呼ぶ……のだろうか。
 仕事が休みである土日は、いつも藤崎が私に「どこかに出かけないか?」と声をかけてくる。もちろん、それを断る理由はなかった。
 彼と一緒に行く先は買い物であったり、ビリヤードやボウリングだったり、期間限定で公開されている美術展だったり。よくもまあ、色々考えつくものだと最初は感心したものだった。
 藤崎は私と一緒にいる時はいつも上機嫌で、色々と話しかけてくる。その笑顔につられて、私もつい饒舌になった。自然と、お互いのことについて詳しくなる。
 藤崎の家族は千葉に住んでいるらしい。両親と五つ年の離れた妹がいる。正月やお盆などといった時期は、そちらに帰るのが常だと知った。
 私には帰るべき家がない。両親は私が高校生の時に亡くなったからだ。未成年だった私は叔父のところに世話になり、大学を卒業した。そこで独り立ちのために叔父の家を出て就職したのだ。
 両親が死んで一人きりになってしまった時の衝撃は今でも忘れることはできない。叔父は優しかったし力になってくれた。それでも、やはり淋しかった。
 だから、藤崎が私の身の上を知って「大変だったな」と優しく肩を叩いてくれた時は、素直に胸に響いたのだと思う。
 やっぱり、私は藤崎のことが好きだと思う。
 いつまで彼が私のそばにいてくれるかは解らないが、せめて彼が私と一緒にいてくれる間は、少しでも……近い存在でいたいと思う。
 でも。
 藤崎の考えていることは、やはりよく解らない。

 我々の日常の関係において、明確に変わったことがある。
 藤崎の私に対する視線もそうだが、いつも仕事帰りに我々が別れる場所が変わった。いつもは藤崎のアパートの前で別れて、私はその足で自分のアパートへと向かっていた。しかし、藤崎は私をアパートまで送ってくれるようになった。
 一体、どうしたらいいのか。
 私は少しだけ戸惑う。
 彼は多分、私を送るだけのつもり……なのかもしれない。
 ドアのところで「また明日、職場で」と彼が小さく言ってから、元来た道を戻る。それを見送って、私はそっと溜息をこぼす。
 今日も、何もなかった。
 時折、さりげなく肩に触れてきたりするものの、それ以上のことはほとんどしない。彼が私のことを好きだと言ってくれた日からずっと。
 恥ずかしいことだから、認めたくないと思う。今の関係が物足りない、と感じている自分がいることは。
 性的なことを期待する自分が情けないし、彼がそういったことをしない、と決めているのなら仕方ない。今の関係は、本当に奇跡的なことだと思うからだ。
 こうして彼と一緒にいられるだけでも、感謝しなくてはならない。週末、彼と一緒に出かける時も、そう自分に言い聞かせる。彼との会話は楽しい。彼が笑うと私も嬉しくなるし、些細な一言で幸せになれると思う。
 でも少し、不安だった。
 盛り上がっているのは、私だけのようが気がして。

「明日はどうする? 映画でも観にいくか? それとも、何か予定は入ってる?」
 金曜日の帰り道、私のアパートの前で藤崎が笑いながら言った。明日は休みで、私は掃除や洗濯くらいしかやることがない。だから、すぐに応える。
「予定は何もない。映画に行くなら付き合うよ」
「観たい映画はあるか?」
「最近は何も観ていないから、いくつか観たい映画がたまっていたような気がする」
「そうか。じゃあ、映画館に行ってから決めよう」
 藤崎の笑顔は明るい。「ここに迎えにくるの、十一時くらいでいいか?」
「ああ、大丈夫」
 迎えにくる、という言葉にどきりとしたが、私はそれを心の奥に隠した。こんな言葉で心が乱される私もどうかと思う。何だか本当に、我々は付き合っているんだな、と何度目かの確認をしているようで。
「じゃ、明日」
 そう彼は小さく言って、誰も近くにいないと辺りの様子を確認した後で、私にキスをした。
 久しぶりのキス。
 ただ触れるだけの軽いキスだというのに、私の身体が震えた。しかしすぐに藤崎は私から離れてしまっていて、私からは何も言うことはできない。下手なことを言って嫌われたり、呆れられたりしたら厭だと思う。
 わずかな胸の痛みは、切なさからきている。
 多分、そうだ。
「どうした」
 藤崎が私の顔を覗き込んで、心配そうに眉を顰めた。彼の手のひらが私の頬に触れた時、また心臓が震える。
「そういう顔をされると弱いな」
 藤崎は小さく微笑み、少しだけその指先で私の頬を撫でる。
「……ん」
 と、私が唇を噛んだ時、また藤崎が私に唇を重ねてきた。
 駄目だ、と思った瞬間、私は自分から彼のシャツを掴んで彼の身体を引き寄せていた。すると、シャツ越しに藤崎の身体が緊張したように強張るのが解る。
 失敗した。
 どうしよう。
 私の頭の中に、不安というよりも恐怖に似た感情が渦巻くのが解った。こんなこと、しては駄目だ。そう思ったのに。
 藤崎の舌が私の唇を割って中に入り込んでくる。久しぶりに濃厚なキスを与えられて、我を忘れそうになった。
 いや、我を忘れたのかもしれない。
 お互いの舌が絡み合った時、自分からそれを誘ったような気がする。もっと激しくしてもらいたくて、もっと深いキスをしたくて、自分から藤崎にねだりそうで。でも微かに残っていた自制心や羞恥心といったものが私にセーブをかける。だから、必死に彼から離れようとした。あまり上手くいかなかったけれども。
「駄目だ、倉知」
 離れたのは藤崎が先だった。
 眉根を寄せて私を見つめてくる彼の瞳はどことなく苦しげで、そんな彼に気づいた私もきっと、似たような表情をしていただろう。
「ごめん」
 私はすぐにそう言って自分の部屋の扉の前に逃げ、急いで鍵を開けた。
「倉知」
 背後から私のことを呼ぶ藤崎の声は、少しだけ焦っているようにも聞こえた。しかし、そんな彼の今の表情を確認するのが怖くて、私は「また明日」とだけ返すと、自分の部屋の中に滑り込んだ。

 どうしたらいいんだ。

 ――倉知が認めてくれるまで。

 藤崎はそう言った。
 認めてる。もう、認めたじゃないか。
 これ以上、どうすればいいというんだ?


 ◆藤崎視点◆

「強姦する夢を見た……」
 俺はテーブルに突っ伏して、そう呟いた。「これでも必死に我慢してるんだ。これ以上ひどいことをしたくないから」
「ほほう」
 俺の頭上から、これ以上はないだろうと思えるほど冷ややかな声が降ってくる。「相談に乗ってくれというからきたというのに、それは何だ。また愚痴か。それとも惚気なのか。小一時間問い詰められたいか」
「由梨」
「さあ、君のスマホを出してもらおう。私の連絡先を削除してやる」
「それは困る」
「うるさい、馬鹿者」

 確かに由梨に頼りすぎているかもしれない。いくら他に相談できる相手がいないとはいえ、前回の呼び出しからそれほど日は経ってはいないのだ。
 しかし、この深夜の呼び出しにもかかわらず、彼女は駅前のイタリアンレストランにまで足を運んでくれた。
 いつもだったら、断られただろう。
 付き合っていた――俺が付き合っていると思い込んでいた時からそうだ。彼女はあまり俺との時間を大切にはしていなかった。必要な時だけ会う、そんな感じだ。
 だが、由梨に『別れたよ』と告げてから、少しだけ優しく接してくれているのは、どんなに馬鹿な俺でも理解できた。そこに付け込んで呼び出したのには、罪悪感がある。でも、仕方ないと割り切るしかない。
「いつの間に寄りを戻した?」
 ウェイトレスが俺たちの注文した飲み物を運んできてくれたので、俺はのろのろと顔をテーブルから上げた。すると、満面の笑みをたたえた由梨の顔が目に入る。
 まずい。
 完全に怒っている。
「……いや、まだ完全には元に戻れたわけじゃなくて」
 俺は必死に弁解を始めた。「何とか許してもらおうと努力をしている最中で。でも、どうも上手くいかない」
 椅子ががたん、と音を立てる。
 気が付けば由梨が椅子から立ち上がり、帰り支度を済ませて出て行こうとしているところだった。
「ちょっと待ってくれ」
 俺は慌てて彼女の腕をつかみ、何とか椅子に引き戻す。「こんな馬鹿な相談をできる相手なんて誰もいない。頼むよ」
「馬鹿に付き合わされる私の相談には誰が乗ってくれるというんだ」
「えーと、あ、すみません、チーズケーキとフォンダンショコラください」
 俺は通りかかったウェイトレスにそう声をかけて注文すると、慌てて由梨に視線を戻して笑いかけた。「奢るから勘弁してくれ」

 由梨の前にケーキの乗った皿が二つ置かれると、少しだけぴりぴりした空気も和らいだ気がした。
 彼女がフォンダンショコラをフォークでつつき、その中からチョコレートが流れ出してくるのを見ながら、俺はぽつぽつと話し始める。あまり詳しくは説明できないものの、何とか別れた相手に執行猶予をもらえて付き合いを継続していることだけは伝わったと思う。
 そして、ずっと手を出していないということも。
 ――いや、多少は……手を出している。でも、何とか我慢しているわけだ。

「よく解らんな」
 俺が言葉を切って黙り込んでしまうと、彼女は低く呟いた。「相手には本命ができたから別れたと聞いたのに、それが勘違いだった?」
「そうだ。それは俺の勘違いだった。その勘違いから……色々ひどいことを」
「それで、なぜ君はその彼女と会話せず、こうして私を呼び出した? 前も言ったろう? 君が会話すべきなのは私じゃない、その彼女のはずだ」
「解ってるんだけどな、それは。ただ、きっとあいつとこのまま一緒にいたら、我慢できない。……多分、夢でもやったように、強姦する」
「死ねばいいと思うね」
「だろ? だからあいつには話せないし、色々気をそらして考えないようにしないようにしてる」
「やっぱり馬鹿だな、君は」
 そこで、由梨が小さく鼻で嗤い、突き放すような口調でさらに続ける。「女性にだって性欲はある。ただ、好きでもない相手には何も感じないがね。もしも彼女が君のことを好きなら、別に問題はないはずだ。ただし強姦はせず、土下座してやらせてもらえ。そして、結局断られて落ち込むといい」

 由梨に相談したのが間違っていたのか。
 俺は自分でも意外なほど落ち込んだ。
 由梨は酷く割り切った考え方をするのを忘れていた。肉体関係すら例外ではない。
「だいたい、その彼女はどうなんだ? 君と寝たいと思ってるんじゃないのか?」
「それは……」

 そう、かもしれない。
 でも、違うかもしれない。
 でも、どうやって確かめたらいい?
 そういう雰囲気になると、倉知の身体が強張るのが解る。不安げに俺を見つめてくるあいつの目を見つめていると、心臓が痛くなる。

「せいぜい頑張ればいいじゃないか。私は君たちのベッド事情など知りたくもないしね、もうこんなつまらない話で呼び出しは勘弁してもらいたい」
 俺がテーブルの上に置かれたカップを見つめて考え込んでいると、由梨がどことなくからかうように言ってきた。
 その台詞を聞いて、恨み言じみた言葉が俺の口をついて出た。
「由梨は誰かに本気になったことはないのか。こんな風に悩むことは?」
「ないね」
 彼女は僅かに肩をすくめ、苦笑を漏らす。「一度、男性に告白されて付き合った。しかし、あれほど面倒なことはなかった」
「面倒?」
「ああ。私はメールなども一日に一度あれば多い方だと考える質だ。なのに、付き合った瞬間から毎日何度もメールを送られてみろ。しかも、メールが届いてたった五分、返信しないうちに次のメールがくるあの鬱陶しさには辟易したよ」
「……確かに」
 それは面倒かもしれない。
 ただ、理解はできる。好きな相手なら、しつこくしてしまうことだってある。
 俺が倉知にそうしそうになっているように。倉知のことをもっとよく知りたいと思っているように。
 何でもいいから、好きな相手と関わっていたいのだ。

 でも、どうやら由梨は違うらしい。
 彼女は空いた皿をテーブルの端に手で押しやると、冷めたコーヒーに口をつけながら続けた。
「だから、今はそういった関係は望んでいない。四六時中誰かと一緒にいるなんて面倒だ」
「それは、好きじゃないからだろ?」
 俺の声は意外ときつい感じに響いた。「本当に好きなら、面倒なんて感じない」
「だろうね」
 由梨は穏やかに頷いて言葉を返した。「ただ、そういう相手に出会えていないってだけでね」

 由梨に同情といったものを感じたのはこれが初めてだった。
 しかし、その同情めいた感情は、次の彼女の台詞で吹き飛んだ。

「そうだ、倉知君といったか、君の友人。後で紹介してくれないか」
「え」
 俺は眉を顰めて動きをとめた。
「ビジネスライクに付き合えるなら、彼の顔は結構好みだ」
「断る」
 瞬時に俺はそう返した。「由梨の毒牙にはかけさせない」
「毒牙とか」
 由梨がくつくつと笑う。そんな彼女の様子に苛立ち、俺は身を乗り出して強く言った。
「あいつは真面目なんだよ。遊んで捨てようなんて、絶対駄目だ」
「ほう」
「帰る」
 俺は胸に酷くつかえるようなものを感じつつ、椅子から立ち上がった。テーブルの脇にある小さな入れ物から伝票を抜き取ると、そのままレジへと向かった。
 レジで精算している時に、由梨が座っている席へとつい目が向かってしまう。
 由梨はのんびりとカップに口をつけていたが、俺の視線に気づいたかのかこちらに目を向けた。
 その視線から逃げるように、俺は店を出る。

 由梨はまずい。危険だ。
 倉知には絶対に近づかせないようにしないといけない。
 そんなことを考えながら、俺は自分のアパートへと続く道へ足を向けた。


 ◆倉知視点◆

 藤崎が私のアパートに迎えにきたのは、約束の時間よりも早かった。出かけるのにほとんど準備などいらないから、別に困るわけではない。
「まず映画の席を予約してから食事にいこうぜ」
 藤崎がいつものように明るく私に笑いかけてくる。
「ああ」
 そう応えながら、何となく違和感を覚えて眉を顰めた。
 藤崎の様子がいつもと違う気がした。一緒に駅までの道を歩きながら雑談しつつ、そっと彼の横顔を観察する。しかし、彼の口から出てくる会話は、いつもと全く変わりがなかった。
 テレビの話、最近読んだ本の話、ニュースの話。
 あらゆる雑談。

 藤崎は知らないだろう。
 こうして普通に接している今でさえ、私の頭の中では口にはとても出せない感情が渦巻いていることを。
 できるだけ以前と同じようにしようとはしている。ただの友人であった頃と同じく、冷静に受け答えしようと。
 しかし、どうしても意識してしまうのだ。藤崎が何かしている時――例えば、職場で缶コーヒーを飲んでいる時のその指とか、パソコンで資料をまとめている時の集中した目つきとか、本当に何でもないはずの仕草の一つ一つに目を留めてしまう。

 自分でも情けないと思う。
 アパートに帰って一人だけの時、彼に抱かれた夜を思い出して、彼がしたように自分のモノを触れようとするのを必死に我慢する。
 こんな自分は知らなかった。そして、彼には知られたくなかった。

「由梨と会ったこと、あるんだろ?」
 ふと、その言葉に我に返り、思わずその場に足をとめた。
 駅が近い場所で、それなりに人の行き交う場所だ。辺りには薬局やコンビニ、小さな商店も並ぶ道。
 そんな場所で、藤崎は足を止めた私を振り返ってこう続けた。
「由梨がお前と話をしたことがあるって言ってたのを聞いた」
「あ、ああ」
 思考能力が停止した時の私の癖は、動きが止まってしまうことだ。私は慌てて何とか笑みを口元に作ると、藤崎の方へと歩き出した。映画館はもう少し歩いた場所にあるデパートの最上階だ。そんなことを考えつつ、藤崎が私の隣を歩き出すのを横目で確認する。
「由梨が、お前に会いたいって言ってた」
「何?」
「興味があるんだって言い出してる」
「なぜ?」
 私は困惑して眉を顰める。
 すると、藤崎が不機嫌そうに鼻を鳴らして頭を乱暴に掻く。
「お前と……付き合いたいとか考えているらしい。もちろん、断っておいた」
 突拍子もない話というのはこういうことなのだろう。
 私は言葉を失って藤崎の横顔を見つめ、彼はそんな私の視線に気づくと苦笑を見せた。
「もし彼女から接触があったとしても、できれば由梨とは関わらないで欲しい。あれほど性格に問題のある女はいない」
「……それは」
 どういうことだろう。
 私は必死に言葉を探す。断った、ということは。
「彼女と付き合って欲しくない、と?」
「当たり前だ」
 藤崎が吐き捨てるように言うのを聞いた途端、私の心に不安が広がった。何となく考えていたこと、それは。
「君はまだ、彼女のことが?」
「はあ?」
 藤崎が驚いたように私を見つめ、眉間に皺を寄せて小さく囁いた。「俺より馬鹿がいたのか」
「……何」
 私がただ彼を見つめていると、藤崎は私に顔を近づけ、私にだけ聞こえるくらいの声で短く続けた。
「お前を他の誰にも渡したくないってこと」

「……本当に?」
 私の声が情けなくも震えてしまう。信じられないという思いが半分、そして嬉しさが半分。
 私は何とか平静を装い、呼吸を整える。心臓が奇妙に高鳴っているのも、気のせいにできる。
「当たり前だろ」
 藤崎はこともなげにそう言って、デパートの前で足を止めた。デパートの入り口辺りには、今上映している映画の上映時間やポスターが貼り出されている。それに視線を落としながら、少しだけ苦しげに笑う。
「……結構、大変なんだぜ、我慢するの」
「何を」
「それを訊くかねえ」
 彼は辺りを見回してから、意味ありげに唇を歪めた。「待つって言ったろ?」

 私はおそらく、変な顔をしただろう。
 藤崎が困惑したように私を見つめ直したからそう解る。

 もし、自分から――誘えば。もし、抱いて欲しいとお願いしたら、藤崎はその通りにしてくれるだろう。
 でも、そんなことができるだろうか。
 どうしても忘れられないことがある。それは彼が口にした言葉だ。
「……淫乱だと思われたくない」
 つい、そんな言葉が零れ出た。「君にだけは」

「映画は中止にしよう」
 俯いている私の耳に、藤崎の声が僅かに性急な雰囲気で響く。「もういい、我慢はきっと身体によくない」
「藤崎?」
 私が顔を上げると、彼の思いつめたような瞳に視線がぶつかる。それには見覚えがあった。
 そして、私の腰の辺りに震えが走るのも感じた。

 藤崎のアパートに戻るまで、お互い、ほとんど言葉がなかった。
 彼はアパートの鍵を開けるとすぐに、私の身体を玄関の中に押し込んだ。鍵を施錠することも、靴を脱ぐことすらもどかしく感じる。
 玄関先でどちらからともなく唇を合わせる。
 藤崎が私の唇を割って舌を絡めてくるのを、ただ待つことはできなかった。自分から彼の舌を吸い、彼のシャツに手をかけた。
 頬が熱かった。
 こんな自分を見られたくないと頭のどこかで考えながらも、一度始めてしまうと止めることなどできなかった。
「ここじゃ、無茶できない」
 藤崎が私を無理やり押しのけると、乱暴に腕を掴んで寝室へと引っ張っていく。
 寝室のベッドの上には、脱ぎ散らかしたままの藤崎の服が投げ出してあった。でも、彼はそれを気にした様子もなく、その上に私を押し倒してシャツに手をかけてきた。
「くそ」
 彼の短い悪態。
 そして、私のシャツのボタンがどうやら引っかかって上手く取れないのだと気づく。私はそこで自分でシャツのボタンを外し始めると、彼はその手を私のズボンのベルトにかけた。

 自分がどんな格好をしているかなんて、考える余裕などなかった。
 気づけば私のモノに藤崎が触れ、もうすでに勃ち上がろうとしているその先端を指の腹でぐりぐりとこすっている。
 凄まじいまでの快感。
 すぐにでも達してしまいそうなほど気持ちよくて、私は藤崎の首に手を回して唇を噛んだ。
「淫乱でいいんだよ」
 藤崎は私の耳元で熱に浮かされたように囁く。「俺にだけ淫乱になってくれるなら」
 当然じゃないか、そんなことは。
 こんなこと、藤崎以外の人間にはされたくない。
 そう言いたくても、私の喉はいうことを聞いてくれなかった。口から漏れるのは、切羽詰まったような喘ぎ声だけだ。唇を噛んで我慢していないと、余計なことまで叫んでしまいそうで怖かった。
「く、う……」
 食いしばった歯の隙間から、喜悦の吐息が漏れる。私の下半身は酷く呆気なく、彼から与えられる愛撫に降参してなすがままだった。
 あっという間に絶頂はやってきて、私はびくびくと爪先を震わせた。
 気づけば私が吐き出したものが、藤崎のシャツを汚しているのが見えた。裸になっているのは私だけで、藤崎はまだ上着を脱いだままの状態。
 そして、衣服は身に着けていないというのに、靴下だけ履いているという自分の状況に気づくと、羞恥とはまた違う後ろめたさに心臓が締め付けらる気がした。

 正に、淫乱そのものではないか。
 そう思ったら、私の唇から「ごめん」と言葉がついて出る。

「何がごめん? 早かったから?」
 藤崎は小さく笑いながら意地の悪い笑みを浮かべて私を見下ろしている。「大丈夫、出なくなるまでやろう」
「え」
 私が思わずそう声を上げた時、彼が私の両足を大きく割り開いてきた。思わず膝を閉じたくて力を入れたものの、彼の指がそこに触れた瞬間、どうでもよくなった。
 彼を受け入れる場所。
 彼しか触れたことのない場所。
 そして、しばらく藤崎に――されていなかったから、きつく閉ざされている場所。

 でも、ずっとその奥が熱くてたまらなかった。
 じりじりとした焦燥。そんなものがずっと続いていて、どうにかして考えないようにしようとしていた場所。

 彼の骨ばった指が入ってきた瞬間、私は甘い悲鳴を上げた。
 とにかく早く奥まで入れて欲しくて、必死に呼吸を繰り返す。何とか力を抜いて、もっと奥まで突き入れて欲しくて。
「相変わらずきつい」
 笑い声が上から降ってくる。
 こんなのはフェアではない。私だけ、こんなに感じている状況なんて。
 一度達してしまった身体が敏感になることは、今までの藤崎との行為でよく解っていた。その場所を指で弄ばれているうちに、簡単に私のモノは勃ち上がってしまう。まだ、彼が入れているのはたった指一本だというのに、もうすでに私は。
「は、やく」
 たまらず、私は彼に懇願した。理性が消し飛んでしまうのを自覚しながら。
「君の、が、欲しい」
 そう言った途端、藤崎が小さく息を呑むのが聞こえた。

 痛くてもいい、とにかく藤崎を早く身体に受け入れたかった。
 彼の熱を早く身体の奥に感じたかった。

 でも、藤崎は無言で私の中に入れる指を増やしただけだった。
「い、やだ」
 私は必死に声を上げる。
 私の中で彼の指が蠢く。弱い場所を探し出し、そこを乱暴に突いてくる。
 このままだと、また達してしまう。彼の指の動きは、酷く卑猥で、そして意地が悪い。ああ、このままだと。
「や、だ、藤崎っ、や」
 力の入らない手で彼を押しのけようとしつつ、私は涙をこぼした。「い、く、から! 駄目、だ」
「なんで」
 さらに指が増やされる。限界まで大きく拡張される感覚と、そして急激に押し寄せてくる快感の波。
「い、……あ」
 駄目だ、いってしまう。
 早く達してしまいたい、という思いと、彼の指じゃなく……彼自身のモノで達したいという思いが相反している。
「ふじ、さき……っ」
 身体が痙攣し、喉がのけぞる。
 その時、藤崎が私のモノの先端をぎゅっと押さえつけ、達することができないようにした。
「や、いや、だっ」
 私は必死に手を伸ばし、彼の手を掴んでそれから引きはがそうとした。
「いきたくないんだろ?」
 彼が私の耳元で囁き、軽く耳たぶを噛んだ。そのぞくぞくした感覚が脳天にまで伝わる感じがする。自分でも気づかないうちに、腰がうねっていた。
「いきたい……」
「じゃあ何で抵抗するんだ?」
 彼の唇が私の喉に押し当てられ、そのままゆっくりと鎖骨の方へと下がっていく。時折、きつく肌を吸われ、そのたびに喉が快感に震える。
「指、じゃ、厭だ」
 働かない思考。
 黙っておきたかったことも、簡単に口をついて出てしまう。
「……君のが、いい」

「お前を強姦する夢を見たんだ」
 藤崎が私の胸元に頭を押し当てて、嬉しそうに囁く。「厭だ、って泣くお前を無理やり押さえつけて、無理やり突っ込む。起きた時の罪悪感、半端なかった」
「……藤崎」
「でも、欲しいって言ってくれるなら、いいよな。ちょっと、乱暴にしても」
「ふじ、さき」
 ゆっくりと藤崎の手が私のモノから離れた。
 いかせてもらえる、と期待したのは一瞬で終わる。痛みと共に我に返ると、私のモノに何かが絡みついているのが解った。
 藤崎はベッドに投げ出してあったネクタイを手に取って、それを私のモノに巻き付けて縛っていた。私が達することができないようにするためだ、というのはすぐに理解できた。そう、絶望に似た感情と共に。
「お前を泣かせるのは俺だけだよな?」
 藤崎が笑う。
「いきたい、んだ」
 泣き声に似た声が私の口から零れる。
 しかし、藤崎はそんな私にキスをしてから、彼は自分のズボンのジッパーを下ろした。ズボンの上から見ただけでも解る、彼の興奮の証。つい、それを期待と共に見つめてしまう。
 すぐにでも入れて欲しい場所、そこは自分でも恥ずかしいくらいに疼いていた。彼のモノが押し当てられた瞬間、簡単に開いていくのが解る。
「大丈夫、最後には俺のでいかせてやるから」
 憎らしいくらいにまで嬉しそうな彼の声を聞き、私が何が恨み言を言ってやろうと口を開きかけた時、彼のモノがじわじわと中へ入ってきた。
 こうなってしまうと、羞恥心とか罪悪感とか、あらゆる負の感情が消えてしまう。
 私は必死に腰を揺らしながら、彼に抱き付いて囁いた。
「早く」

 意識を失っていたらしい。
 私はベッドの上で目を覚まし、小さく息を吐いた。
 藤崎の部屋の家具が目に入り、何とかのろのろと身体を起こそうとして気づく。私の腰に背後から藤崎の手が回されていて、動けない。

 それと。

「ああ……」
 つい、そんな声が上がる。
 まだ感じる、自分の中に入っている異物感。温かく脈打つモノ。
 私の背後で寝ている藤崎は、どうやら私の中に自分のモノを埋めたままらしい。身体の奥が熱いのは、おそらく彼の出した……。

 そこまで考えて、私は無性に恥ずかしくて仕方なくなった。
 とんでもないことをしてしまった。いつでも理性的であろうとしていたのに。
 カーテンの向こう側はまだ明るい。でも、僅かにカーテンの布地がオレンジ色のように思える。夕方だろうか。
 とにかく、シャワーを借りないととても帰れない。こんな状況では。
 私は何とか藤崎の腕を解き、ゆっくりと彼から離れようとした。彼を起こさないように、そっと腰を動かしてそれを引き抜き――そして案の定、目を覚ました藤崎に腕を掴まれて引き戻された。
「まだやりたりない」
「……起きたのか」
 私は何とか静かにそう返した。「寝てていい、ゆっくりしていたらどうだ」
 すると藤崎は僅かに不満げに私を見上げたまま、小さく言った。
「……忍」

 反則だ、それは。
 私は彼を睨みつけたものの、それは何の迫力もなかっただろう。
 気が緩んだせいかもしれない、私は自分の太腿辺りに暖かい感触が流れ落ちていくのを感じて慌てて藤崎を押しのけた。
「エロいな」
 藤崎が私の背後で笑う。
 先ほどまでの藤崎との行為の後処理ができていない。藤崎のモノを飲み込んだまま眠っていたせいで、今、流れ出てきた彼の精液。内腿を伝う感触が、また私の身体の奥に潜む情欲を引き出してしまいそうで、慌てて立ち上がる。
「シャワーを貸してくれ」
 振り返らずにそう言うと、藤崎がからかうような口調で続けた。
「俺のことを名前で呼んでくれたら貸してやる」
「何?」
「藤崎圭吾。普通、恋人だったら苗字じゃなくて名前で呼ぶ」

 ――恋人だったら。

「……圭吾」
 僅かに声が震えた。彼のほうを振り返ることすらできない。
 すると、藤崎が嬉しそうな笑い声を上げた。聞き慣れている、無邪気ともいえる笑い声。
「浮気したら許さないからな、忍」
 浮気? そんなこと、できるはずがない。むしろ、浮気しそうなのは藤崎自身じゃないだろうか。
「特に、由梨には手を出されないでくれ」
 そこで、妙に真剣な響きが声に伝わってきて、私はゆっくりと彼のほうに視線を向けた。
「由梨さんが?」
「由梨が恋敵だったら絶対に敵わないから。本当、マジで困る」
「私は……そんなことはしない」
「そうか」
 藤崎はそう言って立ち上がると、私のそばに歩み寄った。思わず後ずさったものの、壁際に追い込まれて立ち止まらずを得ない。
 そして、彼からのキスを待った。

<了>

 


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