気づけば、この騒ぎを聞きつけたらしい人間たちがこの場に集まり始めていた。
クリストは笑顔のままであったが、その気配だけはとても友好的とはいえないものだと誰もが気づいたので、集まってきた人間――見回りに出ていた騎士たち、魔法使いたちも困惑してこちらの様子を窺っている。
「何か誤解をしているようだ」
ヴァイロンは穏やかに口を開いた。「貴殿の息子を襲わせたという事実はないし、それに……貴殿の息子とやらはそこにいるだろう」
と、ヴァイロンの目がこちらに向けられた。その瞳には明らかに探るような輝きがあったし、生理的な嫌悪も感じられるものだった。俺が思わず眉を顰めて彼を見つめ返すと、ヴァイロンはどことなく楽しげな口調で続ける。
「それに、貴殿の言っていることは矛盾している。私が貴殿の息子を殺させた、と? では、何故、そこにいる? まさか、死者を蘇らせたとでも? 貴殿の治療魔法については、私も一目置いているが――」
そこで、彼は一度言葉を区切った。
その鋭い視線がクリストに向けられ、口元の皺が醜く歪んだ。
「死者の命まで操れる……そういうことかね? 貴殿は以前否定していたが、やはり人間の寿命すら」
「ああ、やっぱりそういうことだったんですか」
クリストがヴァイロンの言葉を遮って言った。「あなたは気にしてらしたから。私の姿が若く見えること、不老不死となる術を知っているのかとしつこく訊いてきましたよね。そのたびに私は言いました。神官ですらできないことを、私ができるはずがない、と」
「だが、それは嘘だったというわけだな、クリスト殿。もし、その賊が言っていたことが事実なら、貴殿の息子は殺された……はずだった。だが」
「いいえ」
そこでクリストは笑みを消して冷ややかに続けた。「おめでとうございます。あなたの狙い通り、私の息子は殺されました。よかったですね、あなた様を差し置いて、この城の中で大きな顔をしている魔法使いに思い知らせることができましたね」
「何を馬鹿なことを」
ふと、ヴァイロンの目に暗い影が落ちる。
困惑したように俺に視線を投げてきた彼に、クリストはさらに言った。
「よく似ているでしょうが、別人です。本当は、その身代わりの人間を餌にあなたとその取り巻き連中を罠にかけようと企んでいたのですが、その計画は頓挫したようです。どうも私には残された時間はないようなので」
「別人……」
そう呟いたヴァイロンの眉間に深い皺が刻まれた。
だが、俺が気になっていたのはそんなジジイの様子などではない。先ほど聞いたクリストの言葉。
――餌、ね。
俺が思わず小さく舌打ちすると、クリストの視線が一瞬だけ俺に向けられた。
冷ややかな、それでいて少しだけ複雑そうな色の浮かんだ双眸。
しかし、彼はすぐにこの場に集まった人間の顔を見回すと、僅かに呆れたように笑った。
「しかし、これだけの人間にこんなところを見られたとなれば、ヴァイロン様も悪い噂が立つでしょう。まさか、この場にいる邪魔な人間全てを口封じとして殺すなんてことはしないでしょうね?」
「そんなことをする必要はない」
「何故です? あなた様のお得意なやり方でしょう? 自分の下に取り込めない異物は排除する。役に立たない人間も、任務に失敗した人間も排除する。それとも、この場にいる人間全てに記憶操作の魔法でもかけますか?」
――どうせ、できないだろう、と言いたげな口調だった。
そして、周りにいた人間たちの表情もこの会話を聞いていて、状況を理解してきたらしい。クリストの皮肉げな口調も、敵意あふれる態度も、同情らしきものを含んだ目つきで見つめる人間が多くなってきていた。
息子を殺された魔法使いに対するぎこちない感情。
それと、『殺したかもしれない』疑惑の人間――ヴァイロンに対する不信感も少しだけ広がる。
そこでヴァイロンが苦笑を漏らした。
「先ほど貴殿は、罠にかけるとかそういったことを言ったか? 貴殿が……いや、この城の中で働く魔法使いたちには、私を邪魔に思う者も多い。つまり、今回のことも貴殿の罠なのかもしれないわけだな。私の立場を悪くするために、貴殿の息子殺しの罪を負わせようとした茶番の可能性もあるというわけだ」
「なるほど」
クリストは苦々しく笑った。「権力のあるあなた様がおっしゃれば、たとえそれが真実でなくても真実になりそうですね」
ただの潰し合い、だな。
俺は内心でそう考える。
つまらない、実につまらない話だった。
この城の中での魔法使いたちの権力争いというわけだ。
俺が知りたいと思った『理由』、そして今回のことの『原因』、それはもう明らかだった。このクソジジイのつまらない野望のため、か。
野望というのもおこがましいほどの、つまらない理由。
簡単だった。
『老い』を恐れた、ただそれだけ?
クリストを脅し、手に入れたかったもの。クリストが使ったと思われる魔法を求めた。実際には魔法とは違う、ただの人間とは違うからこそクリストが持っていた力を。
何だか急に興味が失せた気がした。
何故、俺はこんなことに巻き込まれている?
こんな、ありふれた内部争いなんかに。
くだらない。本当にくだらない。
クリストという男がどんなに優れた魔法使いだとしても、その周りを取り巻く人間関係は低俗なのだ。
俺は一体何を期待した?
死んだと思っていた実の父親に、何を期待したというんだ?
心が冷えていく。目の前の光景が色を失って、俺にとって無価値なものへと変化していく。
――全く、くだらない。
「でも、ヴァイロン様」
そう、言葉を続けたクリストの声が楽しげな感情を含んだ気がした。
この場でただ一つ、色を持って見えているもの、それはこの男だった。認めたくはないが、彼は――酷薄なだけの微笑を浮かべたクリストは、ぞっとするほど魅力的な人間に見えた。
彼はヴァイロンに数歩近づいて、僅かにその手を彼に向って差し伸べ、小さく言った。
「例えあなた様がどれほどこの城内でその権力を誇示しようと、その肉体は日々老いていくのです」
それを聞いた途端、ヴァイロンの目が忌々しげに細められた。そして、挑むかのように彼もまた、クリストに一歩近づいてぎこちない笑みを向けた。
「何が、言いたい」
そう言いながら、僅かに目を細めつつクリストの手を振り払う。すると、振り払われた手を見つめながらクリストが静かに続けた。
「あなたに残された寿命はあとわずか、ということですよ」
「……何?」
「私が手を下さずとも、おそらく長くはない。そう解っていても……」
クリストの伏せた目が、奇妙に輝いたのを誰もが見ただろう。誰かが息を呑んだ気配が伝わる。
「そう、解っていても、私は、あなたを」
クリストの右手に、魔力が集中していく気配。
空気が揺らぐ。
背筋をビリビリと震わせる波動。
彼より魔力の弱い者なら、身動きなど取れなくなりそうなほどの圧力。
――殺す気だ。
俺はそう直感し、そして困惑していた。
とめるべきか、それとも関わるのを避けた方が得策か?
握りしめた手は、かろうじてだが動かせるだろう。魔法も――使えるはずだ。
だが。
「クリスト様、駄目です、引いてください」
ハルが血の気の失せた顔でクリストの前に立っていた。その表情には余裕の欠片などどこにもなく、最初に彼を見た時のお気楽さの片鱗すら見つけることはできなかった。
「城内でこんなことをすれば、クリスト様の立場が」
おそらく、今のクリストを前にして、ハルは言葉を発することすら苦痛を伴うのだろう。白い頬がさらにくすんでいき、土気色に変わるまでそれほど時間を必要とはしなかった。それでも、ハルが必死に何か言いかけようとするのを、クリストは低く笑って遮った。
「立場などもうどこにもないよ、ハル。何もかも遅かった。全て後手に回った」
「しかし!」
「下がりなさい、ハル」
「いいえ、お断りします」
「……君は私の弟子だったはずだが」
意外だったのは、クリストの目から少しだけ険が和らいだことだった。一瞬だけではあったが、困ったように笑ったようにも見えた。
だがすぐに、その笑みは消えた。
ヴァイロンが冷ややかな声を上げたからだ。
「貴殿は私を殺そうというのか? もしそうなら、貴殿もただでは済むまい。たとえキンケイド家の後ろ盾があろうと、王家に仕える魔法使いを殺せば――」
「その後ろ盾はありません」
クリストはその右手に魔力を集めたままで応えた。「キンケイド家はあなた様の手下の者に跡取りを殺されました。原因は私が彼の父親であったからです。そしてこれ以上、身内に犠牲を出したくないという当主の考えにより、私はキンケイドの姓を名乗るのを禁止されました。有体に言えば、キンケイド家を追い出された。だから、あなた様を手にかけたとしても、もう失うものはないのですよ」
「後ろ盾がないというのなら」
ヴァイロンの声に焦りのような感情が混じった。「この私が力になれる。貴殿の力は我々にはかけがえのない戦力と」
「我々? あなた様が必要なのでしょう? 従順な下僕として?」
クリストが笑う。
――嗤う。
「本当に、くだらない世界だ」
彼のその言葉は、酷く俺の心の奥まで突き刺さった。
――くだらない。
ああ、そうだ。
「本当に、この世界はつまらない」
繰り返された彼の言葉。それを肯定する自分と、それを自覚した時の奇妙な感覚。
この男は間違いなく、俺に似ている。いや、似ているのは自分か。
ただ、似てはいるが違う。少しずつずれている。
何がずれているのかは解らない。
これは共感覚というものなんだろうか。
「何事だ」
その時、この場に誰かの声が響いた。
誰もがそちらの方向へと目をやった。クリストとヴァイロンの視線がそちらに向かうのは酷くゆっくりだった。そして、俺も彼らの後に続いて視線を動かして、そこにいる人影たちを確認した。
その場に集まっていた人間たちが、その場に膝をついて頭を垂れている。
その先にいるのは、公式行事で遠くから見たことしかない国王陛下の姿だった。それほど身長は高くはない。穏やかな雰囲気と、知性の高さを知らせる瞳の輝き。
「陛下」
ヴァイロンが膝を地面に突いて頭を垂れても、クリストは複雑そうな感情を交えた瞳のまま立ち尽くしていた。
何故なら。
国王陛下の背後には、見覚えのありすぎる顔が並んでいたからだ。
「よう、お待たせー!」
手を俺に向かって振りながら、邪気のない笑顔を浮かべるバカ――ギルバートと、彼が連れてきた人間たち。
ライルと、そして何故かアリウスと義父の姿まで。
「……なるほど。ある意味、面白い」
微かに苦笑交じりにクリストが独白し、ゆっくりとその場に膝を突く。
一体、どういう経緯でこの面子がこの場に集まっているのか、あのバカに問い詰めたい気分であったが、俺もその場に静かに膝をついて地面を見下ろした。
「俺、連れてくるの早かっただろ? 褒めていいぜ、むしろ褒めてくれ!」
頭上で聞こえてくるバカの声を聞きつつ、目を閉じた。
別のことを考えていないと、反射的にこのバカの頭を殴りつけてしまいそうだった。
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