「くっそ」
そんな声が聞こえたのは、真っ暗な夜道のことである。
私は仕事帰りで、駅から徒歩で自分のアパートへ向かっていた。駅の近くのスーパーで買った食材の入ったビニール袋を下げ、のんびりと歩いていたら、脇道のほうから若い少年の声らしきものが聞こえてきたのだ。
街灯の明かりもなく、月夜でもなかったから辺りは薄暗く、民家の窓から漏れる明かりだけが頼りの夜だった。
私といえば、そんな声が聞こえてきても特に足をとめるわけではなく、あと数百メートルに迫ったアパートに帰って、これから作る食事のことで頭がいっぱいだった。
私は一人暮らしだ。
仕事のために両親と弟を置いて一人で上京してきてから、ずっとである。仕事が忙しくて浮いた話の一つもなく、どんどん時間が流れていく。
さすがに二十代後半ともなると、両親がさりげなく誰かいい女性はいないのかと訊いてくるようになった。
結婚も考えなくてはならない。
そう思っても、やはり仕事だけで精一杯なのだ。
「家のことを任せられる女性なら……」
そういう女性なら、結婚してもいいだろう。
そう考えていたせいか、急に後ろから声をかけられていつになく驚いた。
「ちょっと、そこの人」
私が慌てて振り向くと、ちょうど路地から高校生くらいの少年がふらふらした足取りで出てくるところだった。
「どうした」
私が訊くと、彼は力無く首を振って、こう言った。
「手ぇ貸してくんない」
「ケンカか」
私はそう言いながら彼のところに近寄り、その腕を掴んで支えた。すると、彼は苦笑して首を振る。
「ケンカってわけじゃないけど。ちょっと、腹が減ってて」
「……そうか」
私は眉をひそめながらそう応えた。
いくら腹が減っていても、そんなに足元が危うくなるほどだろうか。どこか違和感を覚えつつも、あまりしつこく訊くのもためらわれたので、そのまま彼の横に並んで夜道を歩き出した。もちろん、彼を支えながら。
「お兄さん、近くに住んでるの?」
その少年の声は、ひどく澄んでいるように聞こえた。遠くまで響くような、わずかに高い声。
「まあ、近くだ。君は? 近くなら送ろうか」
「近く……じゃないんだけどね」
そこで私は、彼のほうを見やる。私よりも小さい身長、華奢な体つき。暗くてよく見えなかったが、白い頬と高い鼻筋は、女性に人気があるだろうと思えるような、端正な顔立ちに見えた。
Tシャツにジーンズ、薄手のジャケット。そして、財布にはチェーンがついているらしく、そのポケットからは銀色の輝きがベルトへと伸びている。
本当に、今時の少年、である。
「……何か食わせて……って言ったら怒るよな」
彼はどこか期待するかのように私を見上げ、その瞳をこちらに向けた。そのとき、その目があまりにも吸い込まれそうに綺麗だったので戸惑う。
「いや……別にいいが」
そう応えてしまったのは、つい、その目の綺麗な輝きに負けて、だったのかもしれない。
「お兄さん、お人好しって言われない?」
歩きながら、彼が小さく笑った。
私は戸惑いながら、真面目に考え込む。
「……いや、そんなことはないが」
「でも、見ず知らずの俺に、食い物をくれようとしてるじゃん」
確かに、私は今、彼と一緒に自分のアパートに向かっていた。元々私は、こんなに簡単に誰かに関わるような人間ではないはずだった。
まあ、悪い人間ではなさそうだからいいだろう。
私はもう一度彼を見やり、そう自分に言い聞かせて歩き続けた。
「それに、無口だって言われない?」
「それは……そうかもしれないな」
その言葉には、苦笑を漏らすしかない。口べたなのは今に始まったことではない。思い起こしてみれば、学生時代から口べたでよく人に誤解されることが多かった。
怒っているのとか、つまらないの? とか、付き合っていた女性に不機嫌になられたことも多かった。
もっと、話さなくてはいけないのだろうと思っていても、そう簡単に気軽に話せるような性格でもない。
「この辺、人、少ないね」
少年がそっと呟いて、私はそれに頷いた。
「駅の近くは人通りが多いが、この辺は八時過ぎるとほとんど人の姿は見ないな。女性は一人歩きはしてはいけない。よく、痴漢も出るという話だから」
「ふうん。女性、ね」
彼はどこか奇妙な口調でそう呟く。私はまじまじと彼の横顔を見つめた。すると、少年はそんな私の視線に気がついて、にやり、と笑う。そう、にこり、ではなく、にやり、と。
「男性だって危険だと思うな、俺」
「ああ、ひったくりとかか?」
「違うよ」
彼はそう苦笑した後、急に眩暈を覚えたようにその額に手を置いて唸った。
「大丈夫か?」
私が慌てて彼の体を支えると、少年が「駄目」と囁いた。彼は私の腕を掴んで、ぎゅっと力を込める。
「腹、減った。我慢、できねえ」
「もう少しだから」
──歩けないか、と続けようとしたとき。
少年の手が、ぐい、と引かれた。
私はその意外なまでに強い力に負け、その場に膝をつく。少年もそこに座り込んでいて、ほとんど密着するような体勢になったところで、彼は言ったのだ。
「ねえ、お兄さん、信じる? 俺、吸血鬼なんだよね」
何をバカなことを。
私はきっと、そんなことが相手に伝わる表情をしたに違いない。
でも、やがて私は息を呑む。
目の前にある少年の瞳が、ゆっくりと赤く染まっていったからだ。その色は、明らかに人間の持つものではなかった。
「ごめん、お兄さん」
少年はそう囁くと、驚いて身動きできない私の首筋に、そっと顔を近づけた。
「な」
慌てて彼を押しのけようとしたとき、彼が顔を埋めた私の右の首筋に、ちくりとした痛みが走った。
嘘だろう。
そう考えたのも一瞬。
彼の唇の感触が首筋に伝わった瞬間、私は小さくうめいていた。
それは、今まで感じたことのない感覚だった。
全身を走る、甘い疼き。指先が震え、足から力が抜けていく。
あまりにも、心地よくて。
最初は、彼のほうが私にすがりついているような体勢だったのに、いつの間にか私のほうが彼にもたれかかっていた。彼の華奢な体にすがりつき、必死にその場に倒れ込まないようにするのが精一杯。
辺りは暗く、誰も通らない。
静かな夜。
そして、彼の唇が離れる。そのとき、わずかに濡れた感触が首筋に残った。
「……お兄さん、最高」
彼は、急に元気よく立ち上がり、私の腕を掴んで引き上げる。さっきまでの彼とは違う、力強い姿。
彼は満足そうに笑いながら私の頬に手を置いて、に、と笑う。その途端、白い犬歯がそこに覗いて。
吸血鬼。
嘘みたいだ、と私は遠く思った。
思考能力が低下していて、彼を見つめているだけしかできない。だから、彼が乱暴に私に唇を重ねてきたときも、まったく抵抗できなかった。
乱暴なキス。
無理矢理私の唇に割り入って、彼の舌が差し込まれてくる。
またちくりとした痛みが私の舌先に走り、それと同時に襲ってきた快感に私は立っていることができなかった。ずるずるとその場に座り込んで、彼の唇から逃れる。荒い呼吸を繰り返していると、上から少年の声が落ちてきた。
「そんなに気持ちいい?」
「……お前……」
もう、彼のことを礼儀正しく「君」なんて呼べなかった。混乱してどうしたらいいのか解らない。それに、足が震えて立てそうになかった。
「もっと気持ちいいことしてあげようか?」
そう言いながら、少年の手が私の首筋に伸びる。「さっきより、もっと、ね」
そうして落ちてきた、二度目の首筋へのキス。
「やめ……」
急に恐怖を感じて、彼の頭を遠くに押しやろうとした。でも、それはあっさりと交わされて私は快感に震えることになる。彼のキスは首筋から下のほうへ移動していく。彼の手はあまりにも自然に私のネクタイをほどき、シャツのボタンに伸びる。
「駄目だっ」
必死にそう声を上げたのと、彼の唇が私の鎖骨の上に落ちたのが同時。
そして。
「見つけたわよ、このくそガキ!」
と、ひどく険悪な女性の声がその場に響いた。
私は顔を上げることもできないまま、そこに座り込んだままで。
少年が、「やべ」と小さく呟いたのが聞こえた。
「さっさと家に帰ってきなさいって何度言ったらわかるの!」
軽やかな足音が近づいてくる。私は何とか必死に顔を上げ、その声の主を見上げた。
どこか、少年と似た顔立ちの少女がそこに立っている。オレンジ色のTシャツ、白いデニムのジャケット、そして黒いミニスカート。細くて伸びやかな足がそこに覗いていて、さぞかし男性の視線を引くだろうと思わせる。
しかし、その美少女というのにふさわしい顔立ちのほうが印象的だった。整った顔立ちも、気の強そうな口元も、そして長い黒髪も、何もかも強烈な印象を放っている。
「さ、帰るのよ!」
そう彼女は少年に向かって叫んだ後、私の姿に気がついて眉をしかめた。
「……もうちょっと遊びたいんだけどな」
少年がそう呟いたけれど、少女はそれを聞いていなかったようで、さらにこう続けた。
「何でそう、あんたって節操がないの。次から次へと獲物を食い散らかして!」
「いや、節操がないわけじゃないよ。俺にだって、好みってのがあるしさ」
だんだん、少年の声色が冴えないものになっていく。どうやら、この少女には頭が上がらないといった様子である。
「とにかく、記憶操作してから帰るわよ。この人間に変なこと言いふらされたら困るもの」
記憶操作?
私がぼんやりとしたままの頭でその言葉の意味を考える。そして、一瞬遅れてからぞっとした。
何をされるのか解らないからこそ、不安になる。
「記憶操作……しなくちゃ駄目かな」
しかし、少年は笑いながら言う。「俺、そのお兄さんの味、気に入ったんだよね」
「何言ってんの! あんた、バカ?」
「頼むよ」
「駄目。早くなさい」
「ちぇー」
少年はやがてあきらめたように笑うと、その手を私に伸ばした。私は慌てて立ち上がり、すぐにその場から離れようとしたものの、彼の手からは逃げられなかった。
「ごめん」
少年の吐息が私の耳元で感じられた。
私が何か言う前に、彼が小さく言った。まるで、少女には内緒だ、と言わんばかりの声で。
「また、会いにくるから」
会いたくない、と言いたかった。でも、すぐに気が遠くなって、それどころではなくなっていたのだ。
ずるずるとその場に崩れ落ち、そして気がついたら。
「……あれ」
私は困惑して辺りを見回していた。
持っていたスーパーのビニール袋はいつの間にか地面に落ちていて、自分がなぜこんな場所に座り込んでいるのか思い出せない。
何かあったのだろうか?
どんなに考えてみても、仕事の帰りにこの道を通った、ということくらいしか覚えていないのだ。
私はやがて汚れたズボンを軽く叩くと、そのままアパートに向かって歩き出した。
このときの私は、何もかも忘れていたのだ。
遠からず、また問題の少年に会うことになろうとは知らなかった。