首筋の契約 2


「今夜、飲み会があるんだけど」
 仕事の休憩時間に、同僚の松下が私にそう声をかけてきた。私たちはお互いの机の上にそれぞれ弁当を置き、割り箸を手にしている。
 松下は私と同じ同期の人間で、彼もアパートに一人暮らしである。さすがに出社するまえに弁当を作る暇はないため、お互い会社のそばにあるホカ弁の常連となっているというわけだ。
「飲み会?」
 私はマグカップに入れたインスタントコーヒーを飲みながらそう応える。すると、松下はニヤリと笑って続けた。
「明日は会社が休みだしな。女性陣、結構集まるらしいぞ」
「へえ」
 私はそれなりに興味を惹かれてそう言ったのだが、松下は私の反応が薄いと思ったのか、さらに続けた。
「可愛い子もいるしさ、ちょっと出ねえ?」
「そうだな」
 私は少しだけ考え込んだ後で、頷く。こういった付き合いが、潤滑な仕事につながるということも解っている。それに、もちろんのことだが、女性に興味がないわけではない。
「でも何だか今日、顔色悪いけど大丈夫か?」
 ふと、松下が少しだけ心配そうに眉をひそめ、私を見つめた。
 私は我に返って松下を見つめ直し、そして苦笑する。
「何だかよく解らないんだが、今日は貧血気味なんだ。食生活のせいかもな」
「肉食え、肉」
「そうする」
 私は彼に笑いかけながら、昨夜からわずかに体に残る疲労感を忘れようとしていた。
 昨夜、私はどうもアパートに帰る途中で貧血を起こしたらしい。仕事が忙しいというのも確かだったが、食生活だけは気をつけているのも確かだった。
 バランスの問題だろうか?
 私はここ最近の食事を思いだしてみて、野菜は少なかったかもしれないな、と反省した。
 しかし、心配事はそれだけではない。
 昨夜はひどく疲れていたせいか、風呂にも入らずに寝てしまった。だから朝、シャワーを浴びたときに気がついたのだが、自分の知らないうちにできている傷が私の首筋にあった。あまり大きなものではないが、赤黒く点々とついたそれは、どこか奇妙でもある。
 虫さされというわけではない。それよりもずっと大きい円形をしているから。その周りがわずかに腫れていて、もしかしてこの傷口から黴菌でも入って体調が優れないのだろうかとも考えた。
 救急箱の中にあった消毒液をそこに塗り、絆創膏でそれを覆ったものの、身に覚えのない怪我というのは不安になるものだ。
 痛みがないのが救いだろうか。
「おい、蓮川」
 松下がわずかに心配そうに私の名前を呼んだのが聞こえて、我に返る。そして、彼に視線を投げてそっと笑った。すると、彼は訳が解らない、と言いたげに苦笑した。

 飲み会の雰囲気というのは好きだ。
 あまり会話が得意ではなくても、周りが盛り上がってくれるからそれを見ているだけでも楽しい。
 私は常々、飲み会のような場所では人間ウォッチングに集中する。不思議なもので、仕事以外で見えてくるその人の人となりというものが面白いと感じる。仕事では真面目な人間が、遊びとなるとしっかりと切り替えて盛り上がっている様を見ると、尊敬に近い感情を抱く。私にはできないことだからだろうか。
「蓮川さん、飲んでる?」
 急に、私の横に女性がやってきた。そして、手に持っていたビール瓶を傾け、私の空になったグラスにそれをつぐ。その慣れた手つきを見ながら、私はそっと笑う。
「飲んでる」
 その彼女も同期の女性だったから、話しやすい。私はいつもと変わらない口調でそう応えた。
 私たちがいる飲み屋は、駅の近くの大衆居酒屋で、若い人たちから年配の人たちまで幅広く入ってくる人気店である。店のスタッフも元気よく、明るい雰囲気が心地よい。
 私の勤める会社の人間十数人が集まり、座敷に上がり込んでそれぞれくつろいでいる。気心が知れている仲間だからか、皆も酔うのが早いらしい。
 次々に並べられる料理の減りに比べて、酒が追加されるのが早い気がする。
 そんな中、私はマイペースにビールを飲んでいた。もちろん、食事もしっかりと取りながら。
「蓮川さんって、不思議だよね」
 そんな私の横に座った彼女は、栗原さやかさんという。おそらく、私と同い年で、未婚である。彼女はどうやら私の横に腰を落ち着けるつもりらしく、自分の飲んでいたグラスや、料理の取り皿などもそこに運んできている。
「何が不思議なんだ?」
 私はそんな彼女を観察しながら、周りの声に負けないように、いつもより大きな声を上げて言った。
「本当の年齢より上に見られない? 中身がさ」
「……それは解らないな」
 私はただ苦笑する。
 すると、さやかさんは長い髪の毛を掻き上げながら笑った。彼女はとても仕草が綺麗な人だと思う。それに、笑い方とかが。
 あまり大声を上げてふざける感じの人ではないし、仕事ぶりも真面目だ。女の子の友だちも多い。
 そのままずっと彼女の様子を見つめていたら、さやかさんは居心地悪そうに笑った。
「何?」
「いや」
 そして、落ちる沈黙。
 よく解らないが、その後、お互い隣り合って座っていたけれども、あまり会話は弾まなかった。多分、私が口べたなせいだろうとも思う。彼女は気を使って私に声をかけてくれていたのだから。
 やがて、そんな私の右側に松下がやってきて、酔った彼は上機嫌に色々と話しかけてきた。私はそんな彼と色々バカな話を交わしながら、男性とばかり話しやすいというのも問題だな、と思った。
 飲み会がお開きになるという時間。
 皆で駅に向かって歩きながら、それぞれ自分の家に向かうべく電車に乗ったりタクシーを拾ったりする光景が見られる。
 私は電車通勤だったから、当たり前のようにいつものホームに向かうだけだったのだが、やはり女性陣の帰り道というのは心配になる。他の男性陣も、それぞれ女性陣の帰りを心配して、送る人間も出てきた。
 そして、それぞれ帰宅する方向が同じ男性が、その女性を送ることになった。
 私は松下と一緒にさやかさんともう一人、別の女性を送ることになったのだ。
「蓮川さんって、彼女いないんだよね」
 その別の女性がわずかにアルコールで頬を赤く染めながら言う。私は彼女に頷いて見せると、どこか意味深にさやかさんのほうを見やる。さやかさんは少し慌てたようで、その彼女を軽く睨みつけてから首を振る。それを見た松下が何を思ったのか、突然こう言った。
「俺、彼女を送っていくから」
 そう言って、彼はこの場に私とさやかさんを残したまま、その女性の腕を取って別のホームへと足を向けた。彼女の家はそっちの路線だっただろうか、と奇妙に思いながらも、やがて私はさやかさんにこう言った。
「送るよ」
「……ありがとう」
 さやかさんの頬が、まだ少し赤い。
 
 彼女の家は、私のアパートよりも手前の駅で降りたところにある。私は一度駅を出て、彼女がタクシーに乗るところまで付き合う。
 それまで、どこか彼女は心ここにあらずといった様子で、ときどき口を開きかけては私を見つめ、やっぱり何も言えないと言いたげに唇を噛む。
「大丈夫?」
 私はタクシーに乗り込んだ彼女にそう声をかけると、さやかさんは困ったように笑った。そして、「また来週ね」と言うと軽く手を振った。
 何か私に言いたいことがあるらしいとは気づいたものの、それが何なのか解らない。それに、無理矢理聞き出すというのもためらわれて、結局私は彼女の言葉に頷いてそこで別れた。
 何だか、心に引っかかるものがある。
 しかし、それが何なのか解らない。
 私はやがて考えることをやめ、自分のアパートへ向かって歩き出したのだ。
 月曜日、お昼休みに私は松下にこう言われた。
「さやかさん、お前に気があるんじゃないかな」
「まさか」
 私は無造作に笑ったのだが、そんな私を見つめた彼は、呆れたように肩をすくめる。
「あれから、どうしたんだよ? 飲み会の後」
「後って、さやかさんを送ってから帰ったが」
「それだけか?」
「ああ」
 途端、松下が「せっかく気を利かせたつもりなのになあ」と呟いて頭を掻いた。なるほど、そういうことか。
 私は松下がいきなり私たち二人をあの場に残した意味を理解して、そっと笑う。でも、多分、彼の読みは間違っていると思う。
 そんなことを内心考えていると、松下はそんな私の心の動きまで読み取ったように笑い、こう言った。
「相手がお前みたいなヤツだと、女の子も苦労するだろうなあ」
 それは否定しない。
 松下がどういう意味で言ったのかは解らないが、多分それは事実だろう。

 結局、私とさやかさんの関係はそれきり進展することなく──だから、きっと松下の勘違いだろう──、日々が滞りなく過ぎていった。
 いつの間にか私の首筋にあった傷口も消え、貧血といった症状もあれきりなく、平和な毎日である。
 仕事は相変わらず忙しく、職場とアパートを行き来するだけで毎日が過ぎていく。
 そんなときである。
 私は、また『彼』と会ったのだ。




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