首筋の契約 23


 目の前にいる彼が誰なのかとか、そんなことを考えている余裕もなかった。
 彼は何の躊躇もなく私の服――浴衣のような病院の服をはぎ取ると、その下にあったであろう私の傷に触れた。
  痛みなど感じなかった。ただ、触れられると脳天を突き上げるかのような快楽がわき起こる。今、私に触れているこの吸血鬼は、これまで会った他の吸血鬼とは格が違う。それだけは間違いない。
 ただ喘ぎ、首を振る。あまりの快楽に気が遠くなりそうで、何かにすがりたくて自分の手がシーツを掴んでいた。でも、何てその感覚の心許ないことか。
 何をされても抵抗などできない。
 抵抗などしたくない。
 でも、抵抗しなくてはいけない。ただ何となく、そう感じる。一瞬だけ潤の顔が思い浮かんで、理由の解らない後ろめたさを感じた。
「……面白い」
 ふ、と目の前の彼が笑う。
 私は力なく首を振りながら、彼を見上げる。
 その瞬間、私が怪我をしたときに潤がそうしたように、彼も自分の手首に噛み付き、そのまま『食いちぎった』。
 潤ほどの勢いはなかった。
 そして、暗闇であったからだと思うが、その血は真っ黒に見えた。
 ゆっくりと、ぼたぼたと落ちてきた血が私の腹の上に落ちた時。
 激痛と、それを凌駕する快楽。
 認めたくはなかったが、おそらくその時、私は達していたと思う。苦痛による悲鳴を上げながらも、ただ身を捩って目を閉じ――そして、気を失った。

 目が覚めた時、私はひどくすっきりとした感覚を覚えていた。
 あまりにも目の前がクリアに見えて、そして混乱もしていた。
 何があったのか、少しの間思い出せなかったからだ。自分はどこにいるのかと不安になり、慌てて身を起こし、そこでやっと何もかも思い出して自分の腹の方を見下ろした。
 ベッドの上。
 真っ白なシーツ、わずかに消毒の匂いのする毛布、そして真っ白な病衣。
「三日間かかりましたよ」
 と、突然聞き覚えのある声が耳に飛び込んできて、私は心臓が止まりそうなほど驚いた。
 部屋を見回せば、部屋の片隅にあったパイプ椅子に真治が座っていて、ひどく真剣な表情で私を見つめている。
「……三日間」
 わけが解らず、そう言葉を繰り返して見せると、そこでやっと彼は薄く笑った。
「あなたの傷が塞がるまでの時間です」
「塞がる?」
「そして、目が覚めるまでさらに三日間」
  ただ茫然と彼を見つめてしばらくしてから、私はゆっくりと視線を自分の身体に落とした。
 傷、は?
 病衣の襟元に手をかけ、そっとめくる。包帯なども巻いていない。痛みもない。
 しかし、そこには明らかに大きな傷跡があった。縫合した跡はない。傷を放置して、自然に治癒させた感じの傷跡。
「傷跡は残るようです」
 真治が申し訳なさそうに言った。「あなたが契約して吸血鬼となれば、傷一つ残らず治ったと思うのですが、残念です」
「……何で生きているんだ?」
 私はその傷に手を置きながら顔を上げた。あれは死んでもおかしくないほどの怪我だったと思う。一体、どうして私はまだ生きている?
「だいたい予想はつきませんか?」
 真治がそう言って肩をすくめる。
 解るような気はする。しかし、彼の口から聞きたかった。だからじっと見つめたままでいると、真治が小さくため息をこぼす。
「我々の血には、人間の治癒能力を高めさせる効力があります。ただ、あなたが受けた傷は小さくはありませんでした。潤様の血ではどうにもならなかった」
「それで?」
「聖様の力をお借りしました」
 ひじり、様。
 名前を聞いただけで心臓が震えた。強烈なイメージが頭の中に弾け、一度見たら忘れられなくなる彼の顔を思い出してしまう。彼の名前が聖、というのか。
「そう、儂の力で助けてやったのだ、感謝しろ」
 と、突然響き渡る声に私は身をすくませる。
 病室のドアのところに、なぜか私が着ているのと同じ病衣をまとった彼――秋葉聖が両腕を開いて立っていた。その後ろに頭を抱えたような仕草の七瀬さんと、神妙な顔つきの潤。
 潤を見た瞬間、わずかに心のどこかが痛むような気がしたが、それ以上に聖の存在感が圧倒的で、何か潤に言いたかったことがあったはずなのに忘れてしまう。
「あ、ありがとうございます」
 私はついベッドから降りて頭を下げたが、聖が呆れたように笑って見せた。ひらひらと手を振りながら私のそばによると、無造作に肩を押してきた。自然と私はベッドに腰を下ろす。彼を見上げる形になった私は、いつの間にか眩しいものを見るかのように目を細めていたようだ。
 一体なんなのだろう、この奇妙な感覚――感情は?
「病人は寝ておけ。ちっとは様子を見ないといかんし」
「様子を?」
 やっぱり自分は思考能力が低下しているのかもしれない。ただ彼の言葉を繰り返していると、七瀬さんが気遣うように言ってきた。
「蓮川さんは疲れているはずだから、あまり触らないであげてね、おじい様」
 ――おじい様。
 潤が『じいさん』と言っていたのは彼のことなのだろう。
 そして、黒崎に狙われていたのも。
「言われなくても解っておるわ!」
 聖という男はひどく時代がかった言葉遣いをする。そして、長い髪の毛を両手でぐい、と後ろにまとめ上げながらぶつぶつと呟く。
「邪魔だの、これは」
「切ってあげましょうか?」
 七瀬さんが無表情のまま言うと、聖が心底厭そうな表情をした。
「儂は忘れておらんぞ。そう言って以前、お前は儂の髪の毛を三つ編みに」
「それは子供の頃の話!」
 七瀬さんが頬を赤く染めて叫ぶのを、どこか奇妙なものを見ているような感じで見つめていると、七瀬さんが私のことも軽く睨んできた。
「あんまりおじい様の言うことを信用しないで!」
「え……」
 私が何て言ったらいいのか解らずに隣にいた真治を見やり、それから潤へと視線を投げた。そこで、潤がひどく心ここにあらずといった様子で立っていることに気づく。
 何があった? と聞きたかったが、その前にとんでもない会話が隣で繰り広げられそうになっていたので声を失ってしまう。
「で、『これ』は誰の提供者だ?」
「ちょ、おじい様?」
「儂がもらってもいいのか?」
「駄目よ、蓮川さんはっ」
「えっ」
 そこでやっとの思いで声を上げる。
 私はまだ誰かの提供者になると決めたわけではない。だから――。
「血を飲んだ時、潤の血が混ざっていることには気づいたがな」
 聖はそう意味深に笑いながら言い、黙り込んだままの潤へと目をやった。しかし潤は薄く笑って首を振る。
「大介は俺の提供者じゃない」
「じゃ、もらってもいいか?」
「それは」
 潤はまるで泣きそうな顔で聖を見る。そして、そんな潤の様子を楽しげに見ていた聖だったが、すぐに私に顔を向けた。
「どうだ人間、潤と違って甲斐性だけはあるぞ。手を組まんか?」
「いや、それは」
 あまりにも鮮やかな、そして無邪気な笑みに気圧されて何も言えなかった。聖に逆らうということ、そんなことは何一つできそうにない。
 しかし、提供者になると言えるはずがない。
 もしも万が一にでも提供者になるとしたら。それは。その相手は。
「申し訳ありません、聖様。今、私が蓮川さんを口説いている最中ですので、結果が出るまでしばらくお待ちいただけませんか?」
 そこに割り込んできたのは真治だ。そっと真治の横顔を盗み見たが、冗談を言っているような気配はない。
 断ったはずだ、とも言えなかった。
 とりあえず、聖の申し出は受けてはいけないと感じたからだ。だったら、真治に任せておこうと思った。
「おぬしがか」
 少し意外そうに目を細め、聖が低く唸る。そしてすぐに軽く頷いて、明るく笑った。
「そういう話ならかまわん。儂は適当に見繕うことができるからな。久々の娑婆は楽しそうだ、遊んでこよう」
 と、彼はすぐに病院の窓の桟に手をかけた。まるで、今すぐにでも外に出ようとしているその姿を見て、七瀬さんが鋭い声を上げた。
「何をしてるのおじい様! 少しくらい大人しく――」
「できると思ったら大間違いだぞ」
「だったらその格好はやめて」
 七瀬さんが聖の病衣の襟を掴んだ。こんなに困った様子の彼女の顔を見たことがない。ほとほと呆れたように顔をしかめ、彼女は小さく言った。
「時代が違うんだから、洋装が嫌いとか言わないで。さっきのスーツ、どこに脱いできたの」
「別に白装束でもかまわんだろ」
 聖は納得がいかないと言ったように病衣の襟元を撫でながら首を傾げたが、すぐに七瀬さんに怒鳴られた。
「それは着物ではありません!」

 何だか楽しそうだ、と他人事のように思った。
 本当に頭が働かない。

「家にあった着物は樟脳臭くてかなわん」
 ぶつぶつと呟き続ける聖に向かって、七瀬さんがまたため息をこぼしながら言った。
「干しておけばすぐに匂いはとれるでしょ? それとも、これから着物を買いに行く? でも、外出着としては使えないわよ? 今の時代、着物は花火大会くらいにしか着ないと決まってるんだから」
「花火大会が待ち遠しいな」
「おじい様!」

 どうも話が長くなりそうなので、私はそっと真治に向き直って訊いてみた。
「ところで、私はどうしたらいい?」
「え」
 真治は我に返ったように息をついて、慌てて私に向き直った。そして、穏やかに微笑んで見せたが困惑しているようでもあった。
「蓮川さんには本当に申し訳ないんですが……」
 と、言いかけて少し沈黙し、やがて思い切ったようにまた口を開く。「あのアパートは修繕中です。しばらく時間がかかるようですし、また当分の間は秋葉家に」
「っていうかね、蓮川さん」
 すぐに七瀬さんが会話に加わる。「あなたを秋葉家から出すわけにはいかなくなったの。もう、なりふりなんてかまってられない。申し訳ないけど、無理にでもとどまってもらうわ」
「一体どういう」
「簡単に言うわね。蓮川さんはまだ人間。でも、潤とおじい様の血が混ざってる。ただの人間とはもう言えないの」
「何……?」
 意味が解らず、しかし急に心の中に芽生えた不安に駆られて問いかける言葉を探す。しかし、見つからない。
「吸血鬼になる方法は吸血鬼の血を飲んでもらうこと。それも、大量にね。その結果、人間は吸血鬼へと遺伝子から変化する。でも、今の蓮川さんの現状は違うわ。少し吸血鬼の血が混ざっただけ。それも傷口から、その傷の修繕のために使われただけの量。でも、混ざった吸血鬼の血が問題。潤だけだったら問題なかったわ。おじい様の血というのが厄介なのよ」
「だからそれは」
「血が強すぎるの」
 七瀬さんの表情は真剣だった。こちらが不安を覚えるほどに。
「人間だけど、吸血鬼の血の影響を受けると思う。そして、多分、黒崎のようなおじい様の血を狙うヤツに目をつけられる。あなたの血を吸えば、他の吸血鬼たちも秋葉の血の強さに影響を受けるってこと」
 つまり、それは。
「我々が守ります」
 真治が言う。「そのためにも、秋葉の家に戻ってきて下さい。我々の目の届く場所に」
 少しの間、私は何も言えなかった。
 今までよりも自分が厄介なところに立っている、という状況は理解できた。
 逃げ場がない、というのは正にこういう状況なのだろう。
「いくら謝っても謝りきれないと思う。あのまま放置しておいて、蓮川さんが人間として死ぬことも選ぶことができた。でも、わたしたちはそれをしなかった。あなたの命を守るという名目で、さらに危険な状況に追い込んだ。許してくれなくてもいいわ。憎んでくれてもいい。あなたが求めるものにはできる限り対処する」
「いや」
 私はやっとの思いで声を出した。そして、一度口を開けば後は簡単だった。
「命を助けてくれたことに感謝する。あのまま死んだら、何もかも終わりだった。やり残したことはたくさんあると思う。だから、これでよかったのだと思う」
 それは本心だ。
 死ぬことが怖かった。
 それがあの時に感じた真実。
 確かに厄介な状況にいるとは思うのだが、これからのことにあまり不安を感じない。それが自分でも不思議だ。
 提供者になって家族との縁を切ること、それは絶対に受け入れられないことだと今までは考えていた。しかし、何かが自分の中で変化している。
 提供者になってもいいのではないかと考え始めている。
 確かにまだ、気持ちの整理はついていない。だから、もう少し考えなくてはいけないとは思うのだが、明らかにこれまでの自分とは違う考えが頭の中にあるのだ。
「本当に?」
 わずかに不安に揺れる七瀬さんの瞳。
 私は彼女に微笑んで、小さく頷く。すると、彼女は泣きそうな表情で微笑んで見せた。そこで、彼女の肩がわずかに落ちる。その動きで、彼女がとても緊張していたのだと知ることができた。
「丸く収まりそうで何よりだ」
 聖が窓の桟に腰を下ろした格好でそう言った。そして、軽く首を回しながら唸る。
「しかし、まだ起きるのが早かったな。本調子ではない」
 ふと、私はその言葉に眉を顰めた。
 『起きた』のは、私の命を救うためだというのは間違いないだろう。ずっと、眠っていたということか。
 そんな私の考えを読んだかのように、聖が小さく頷く。
「前の戦いでちと怪我をしてな、完全回復するまで眠っておくつもりだった。でも、すぐによくなるさ。娘はまだ眠っておるが、じきに目を覚ますだろう。うむ、また忙しくなるな」
「そうね、お母様が目を覚ませばもうちょっと楽になるわね。おじい様を縛り付けておくのに」
 七瀬さんが深いため息混じりにそう言うと、聖が大きく声を上げて笑った。
「じゃあ、目が覚めるまでの間、せいぜい遊び回ってこよう」
 と、声だけがその場に残る。
 気がつけば聖の姿は窓のところにはなく、七瀬さんが慌てて窓のところに駆け寄って外へと向かって叫んでいた。
「せめて着替えていってよ!」
 しかし、もちろんその言葉に返事などなく。

「すみません、蓮川さん」
 真治がそう言うのが聞こえて、私は顔を上げた。私は相変わらずベッドに座ったままで、軽く頭を掻いて微笑む。
「まあ、仕方ない。なるようにしかならないのが現実だ」
 そう言ってから、私は潤の方へ目をやった。
 ほとんどこの場にいて話をしない彼。
 だから、少しだけ気にかかっていた。本当は彼に何て言ったらいいのかすら解らない。これからどう接したらいいのかも。だから、彼からの言葉を待っていたのかもしれない。
 彼が何て言うのか、それ次第で何かが変わるような気がしていた。
 しかし。
「ごめん、大介」
 やっと彼から聞こえた言葉は、謝罪のそれだった。
 潤は私から目をそらしたままで、苦しげに息を吐いた。
「俺、一生をかけて大介に償うつもりだから。何でもする。全部、俺のせいだから、何でも言ってくれ」
「潤?」
 私は戸惑ったような声を上げてしまう。
 今さら謝罪の言葉など必要ない。そんなことよりも、もっと別のことを――。
「真治だったら頼りになるよ。きっと、いいパートナーになれると思う」
「潤?」
 さらに私は声を上げて。
「いいんですか?」
 真治が詰問するかのような口調で言った。「私が蓮川さんを提供者としても?」
「うん、いいよ」
 潤は笑いながら頷く。「それが大介のためなんだ」

 私はただ、潤のことを見つめ続けていた。
 そして、潤は私のことを見ようとはしなかった。


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