「だい、すけ」
背後から抱き留められた後、私の身体はゆっくりと地面へと下ろされようとしていた。自然と視線が上がり、潤の泣きそうな顔が目に入る。
震える彼の唇。
そして、恐怖の色が浮かんだ瞳。
変な感じがした。
今にも死にそうなのは、潤の方だと思ったからだ。
ぼんやりとかすむ視界と、そして聞こえてきた黒崎の声。そちらを見ようとしたわけでなかった。自然と頭が垂れていき、偶然入ってきた光景だった。
「俺が言いたいことが解るか?」
黒崎はいつの間にか、久住の身体を床に押しつけていた。倒れた久住の喉仏の辺りに、ぐい、と自分の足を乗せて。
その双眸は紅く染まっていた。口元には笑みなどなかった。
「俺がお前にいつも何て言っているか、よく解ってるはずだ。俺の命令には逆らうな、俺の命令ではないことはするな、だ」
「く、ろ……」
久住の目が苦痛に歪む。そして、必死に起き上がろうとする。
しかし、黒崎の足にさらに力が加えられ、骨が軋むような音が聞こえた。久住の身体が強ばり、わずかにその瞳に不安が見えた。
「なぜ、こんなことをした? 何が狙いだ?」
「……狙い、など」
「じゃあ」
「た、だ」
久住が掠れた声を上げる。それは小さな悲鳴にも似ていた。呼吸なのか何なのか解らない、そんな空気が久住の喉から漏れ、やがて彼は狂ったような笑みを浮かべながら叫んだ。
「人間の、くせに。むかつくんですよ! 提供者ってだけで、ただそれだけで大切にされるなんて、そんなのはっ!」
「……大切にしてやったろ? お前のことだって、俺はな」
「でも、あなたはっ」
「面倒くせえ」
黒崎は大きくため息をつくと、頭を掻きながらこちらの方へ視線を投げた。そこにいたのは七瀬さんだったと思う。
「俺の監督不行届だ。もう、どうにもならん。お手上げだよ」
黒崎は神妙な顔つきで続けた。「秋葉からは手を引く。本当はあんたのところの血が欲しかったんだがな、それどころじゃない」
「勝手なことを言わないで」
七瀬さんの低い声が飛んだ。「あなたたちが何をやったのか、忘れろというの? うちの弟にも怪我をさせて、その上、蓮川さんにまで……」
「詫びの言葉すら見つからない」
黒崎は目を細めて、今度は私を見た、と思った。
気が遠くなる。
指先が冷たい。
ただ、触れている潤の体温だけが温かい。
「大介」
潤が私の頬を軽く叩いている。「駄目だ、目を開いて」
それは無理だ、と思った。
何だろう、こんなことばかりを繰り返している。
病気で、潤に血を飲まれて、死にそうになって病院に運ばれて。
でもおそらく、今回は駄目なのかも知れないと感じた。本当に死んでしまうのだ、と感じた。死ぬのは怖い。死にたくはない。
でも、意識が途切れそうになる。
不安でたまらない。
死にたくない。
死にたくなどない。
目の前が暗い。
凄まじいまでの孤独感。
「厭だっ、大介!」
急に、腹に激痛にも似た熱が弾けた。
凄まじい悲鳴が聞こえた。しかしそれは私の喉から発せられたものだった。遠のきかけた意識が一気に覚醒する。
閉じかけていた自分の眼が見開いている。そして、潤が泣きながら私を見下ろしているのが解った。熱い滴が私の頬に落ちてくる。彼の涙。
そして、潤の唇が血で濡れているのも見えた。
彼はいつの間にか、自分自身の手首に噛み付き、食いちぎっていたみたいだった。ぼたぼたと落ちてくる彼の血が私に降りかかってくる。
何をしてるんだ?
そう問いかけたつもりが声にもならない。
勢いよく流れ出した潤の血は、私の腹の傷口の上に流れ込もうとしていた。そして、それによって熱湯でもかけられたような熱さが私を襲っていたようだった。
「どうしよう」
潤が泣きながら言う。「傷口、塞がらない」
「潤様」
真治が潤の隣に膝をついて、何か言おうとしている。でも、その表情が苦渋に歪んだ。
助からないってことか。
私は必死に声を上げようとした。しかし、腹に力が入らず、何も言えなかった。
「信じてくれなくてもいい」
血で濡れた彼の手が私の頬に当てられる。その指が震えている。
「俺、あんたのことが好き。愛してる。死んで欲しくない」
信じるも信じないも、そればっかりじゃないか、と私はつい笑ってしまった。
あれだけ熱烈に色々言っておいて、今さら信じてくれなくてもいい、とは。
男性同士の恋愛など今でもよく解らない。何しろ、我々の出会いは最悪だった。
絶対に、私は彼のことを受け入れることはないだろうと思っていた。本当に、心の底から迷惑でしかないと思っていた。
それなのに。
「潤」
私はかろうじて声を上げた。途端、喉の奥から熱いものがこみ上げてきて咳き込んでしまう。口からあふれ出したのは大量の血。苦しくてえづきそうになりながらも、私は続ける。少しだけ手を上げて、彼の手首に触れながら。
「……私も、嫌いじゃない」
いや、こんな時にこういう台詞は駄目だろう。
私はこれが最後なのだから、と暗い絶望の中で囁いた。
「少しは、好きなのかも知れない」
途端、潤が大きく首を振った。泣きながら私を抱き寄せ、震える声で言う。
「契約しよう。このままじゃ大介、死んでしまう。だから、俺のためじゃなくていい、あんたが生きるために契約して、吸血鬼になってくれ」
「潤」
七瀬さんが少しだけ慌てたように声を上げた。
でも、潤は断固とした口調で続ける。
「俺が責任を取る。秋葉のしきたりには死ぬまで逆らわない。姉貴の言うとおりに何でもする。だから、大介を仲間にさせて欲しい」
わずかな間があった。
私は頭が働いておらず、ただぼんやりと潤の真剣な目を見つめていた。
そして、七瀬さんが頭を掻いてため息をこぼしているのも解った。
「お嬢様」
真治が緊張した様子で立ち上がり、七瀬さんのそばに寄った。「この騒ぎで人間が来ます。この場を封鎖しなくては」
「頼むわ」
疲れたように手を振って、七瀬さんは真治を見ようともしなかった。しかし、真治の姿が一瞬にしてこの場から消え失せた。しかしその直前、少しだけ私に苦しげな視線を投げたようだった。
「お互いの同意がない限り、契約はできない」
七瀬さんがやがてそう言って、私のそばに歩み寄る。私を見下ろしながら、わずかに困ったように微笑んで言う。
「同意してくれるかしら?」
そうだな、生きるためには。
頷かなくてはいけない。
しかし。
どうしても、頷くことができなかった。
提供者になることですら受け入れられない自分。家族を捨て、別々に生きることすらできないというのに。
人間であることを捨てるということ。
全くそれは、私の想像できる範疇を超えていた。
吸血鬼になるということは、どういうことなのだ?
私も誰かの血を飲んで生きていくということ。ただそれだけか?
でも、もしそうだとしても。
こんな状況の時に考えられることではない。
いや、こんな状況だからこそ、迫られている決断だというのに。
「死ぬのは、怖い」
私は正直に囁いた。
そう、本当に怖いことだ。しかし、でも、受け入れられないこともあるのだ。
私はただこう続けた。
「決められない」
「蓮川さんが死んだら、そうしたら」
突然、七瀬さんが声を上げて黒崎を見た。
そして、私の頭上で大きな声が上がる。
潤の声。
真っ赤に染まった瞳は黒崎と久住へと向けられていて、大きく開けられた唇から犬歯が伸びる。そして、怒りの言葉が辺りの空気を震わせた。
「殺してやる、お前ら、絶対に殺してやるっ!」
潤の眦からこぼれ落ちる涙。その涙すら赤く見えた。
「俺のせいじゃないか、俺の!」
潤の肩が震えている。「俺が大介に関わらなければよかったんじゃないか! 俺のせいで大介が死んだら、そうしたら……!」
そこで一度言葉を切って、そして潤の目からあらゆる感情が消え失せた。「黒崎、俺はあんたを殺すよ。仲間も、全部、全部、全部……殺して、終わらせる」
落ち着け。
私はつい、そう言いたくて手を伸ばす。しかし、潤には届かなかった。腕に力が入らなかった。
腹が熱い。
私がかろうじて意識を保っていられたのも、潤の血が傷口に与えられたからなのだろう。しかし、それももう限界だ。
意識が消える直前、黒崎が深く頭を下げるのが見えた。
あの彼がそんなことをするとは考えられなかった。もっと彼は、『悪』に近い存在だとばかり思っていた。
だが。
顔を上げた彼は、わずかばかりの笑みを口元に浮かべていた。
「なら、俺は逃げる」
黒崎はくくく、と笑う。「確かに今回のことは済まないと思うが、俺だって大人しく殺されるわけにはいかない。だから、逃げるさ。力の限り、精一杯な」
少しだけ肩をすくめた彼は、そのまま忌々しげな視線を足元に転がったままの久住に向けた。そして、その直後に弾けた奇妙な光。
何が起きたのかは解らないが、久住が低く悲鳴を上げたのが聞こえた。
「お前のせいだ」
黒崎は短くそう言って、辺りを見回した。途端、いくつもの影がその場に現れる。
「おい、帰るぞ」
影の一つに向かってそう言った彼は、去り際にもう一度久住を蹴ったようだった。また壁にその身体を叩きつけられた久住は、もう起き上がることすらできないでいる。
そして、奇妙なものが見えた。
久住の白い首の周りに、ぐるりと巻き付けられた紐のようなもの。いや、紐ではなく、赤黒いリング状の痣。
「もう俺の提供者でも何でもない。『餌』だ」
汚らわしいものでも見るかのような目を久住に向けた黒崎は、ちらりと七瀬さんを振り返った。そして、久住の方へ顎をしゃくって見せると、にやりと笑う。
「好きにしていいぜ。『餌』を殺すなりなんなり、遊んでやってくれ」
「結構よ」
鼻の上に皺を寄せてそう言った七瀬さんは、久住を見ようともしなかった。そして、私の方を見て薄く微笑んだ。
「帰りましょう。やれるだけのことはやらないと」
潤はただ低く唸っている。まるで、獣が威嚇するかのような声。
そして、久住はただ茫然と自分の喉元に指先を這わせていた。その赤黒い痣がどんなものなのかは解らない。
ただ、『餌』という言葉だけが私の頭の中を回っていて、そしてやがて薄れようとしていく。
「死なせないわよ」
七瀬さんの声が目を閉じても聞こえた。「そうでしょ、潤」
そしてまた、腹の上で熱が弾けた。
死ぬのだと思っていた。
何もかも、もう終わりなのだと。
しかし、死の淵から連れ戻されたのだと知った。
そう、無理矢理に目を覚まされたのだと。
理由など解らない。
なぜ生きているのかも解らない。
気がつくと、私は暗闇の中にいた。
状況が解らない。頭の中が霞がかかっているのようで、何も考えることができない。
ただ、ゆっくりと目が暗闇に慣れてくると、自分がいるのが病院らしいと気づく。だが、気づいてもそれまでだ。
自分が何か呼吸器らしいものをつけられているようだと知り、身体が少しも動かないことを知り、全身に何の感覚もないことを知る。
本当に生きているのだろうか?
もしかしたら死んでいるのに気づかないだけで、実はここは死後の世界で……などと考えたような気もする。
疲れている。
そう、死にそうなほど。
なのに、目が覚めたのはなぜだ。
急激な寒気。
突然戻ってきた、全身を襲う痛み。何だ、これは。
しかし、身体は相変わらず動かない。意識が朦朧とする。気持ち悪い。
何だ、これは。
恐怖と不安。そんなものが混じり合っているというのに、何もできずにいる。
そして。
音が聞こえた。
何だ、と思う。
必死に目だけを動かした。暗闇の中、確かに浮かび上がったのは病室の光景だった。私の腕につながっている点滴のチューブ、よく解らない機械がベッドの脇に置かれている。
誰もいない病室。
また必死に目を動かすと、わずかに窓らしいものが見えた。
星すら見えない夜空がカーテンの向こうにあるようだ、と思った瞬間。
そのカーテンが揺れた。
理由など解らない。
圧倒的なまでの恐怖感が私の中に生まれる。
何だ、これは。
何だ、あれは。
何がいるんだ。
カーテンの向こう側。そこには窓があるはずだった。ああ、確かに窓はあった。窓枠がカーテンの隙間から見えて、そしてその窓が開けられているらしいと気づく。
窓が開いているからカーテンが揺れているだけだ、と思う。そう願う。
しかし。
その窓枠に、誰かの手がかけられているのが見えた。
そう、外から。
声など上げられない。身動きも取れない。
本能的な恐怖が、早くこの場から逃げ出せと叫んでいる。
しかし動けない。
その黒い手がゆっくりと動く。そして、気がつけば限りなく闇の色に近い影が目の前にあった。
悲鳴も上げられず、ただ見つめ続けるしかできない。私は怯えながらそれを見上げ、心臓を震わせて『その時』を待った。
死の瞬間を。
その影は、人間には見えなかった。
女性のように長い髪の毛はばさばさと広がっていて、わずかに風に揺れている。肌はまるでひからびているかのようで、細い腕は骨と皮だけと言っても差し支えなかった。
その前髪から覗いた双眸だけが紅く輝いていて、ああそうか、と気づく。
彼も、吸血鬼だ、と。そうだ、女性ではない、彼は男性だ。
そう理解した途端、奇妙な感覚に襲われた。
彼の腕が伸びて、今にも折れそうな細い指が私の髪の毛に触れる。
「……っ」
びりびりとした感覚。
髪の毛に神経など通っていない。
それなのに、彼に触れられた瞬間、甘い疼きが身体の奥に広がる。
それは間違えようもない性的な快感だった。身動きも取れないほど身体は憔悴しているはずなのに、無理矢理引き起こされた欲情の波に間違いなかった。
彼の指が私の頬を撫でる。
そして首筋を。
さらに唇の上を。
心地よい。とても気持ちいい。
解らない。自分がどうなってしまうのか解らない。
ただ、願うのだ。
彼に殺して欲しい、と切望した。
ふと、目の前の彼がにやりと笑った、と思った。
その瞬間、ひからびた彼の唇がにいっと横に伸びて、犬歯が覗く。
早く、と願った瞬間、その影が私に覆い被さってきた。私の喉元に突き立てられた牙を感じ、私の身体のどこにそんな力が残っていたのかは解らないが、ただ彼の背中に両腕を伸ばし、爪をたててしがみついた。
そうしないと、何もかもが壊れてしまいそうだった。
そして、潤のことを思い出した。彼はどこにいるのだろう? そして、目の前にいる彼は誰なのだろう?
血が自分の肉体からなくなっていく。
この感覚はよく知っている。潤があの時したような……と、遠く思ったところで、急に身体が自由になった。
「……は」
私の身体の上にかかった髪の毛が、ゆらりと揺れた。彼の喉から満足げな吐息がこぼれ、その細い手が髪の毛を掻き上げる。
先ほどまで枯れ木のようだった腕が、みるみるうちに瑞々しさを取り戻していく。
ばさばさと広がっていた髪の毛も艶やかさを放ち、今では完全に人間の姿になろうとしている。
「生き返った」
そう小さく呟いた彼の声は、何て魅力的だったことか。
年齢は多分、二十代後半から三十代に入ったばかり、といった感じだろう。見た目だけは、だが。
柔和と言っても間違いではない目元。しかし、ぞっとするほど美しいと思う。私がただ陶然と彼を見上げていると、そんな私を見下ろした彼は人なつこい笑みを浮かべ、私の喉についているだろう牙の跡を指で撫でた。
「じゃ、今度はお前を生き返らせてやろう」
彼はそう言って無邪気に笑った。「すこーし、痛いがな。それがイイんだよ、それがな」