「結局さ、どうなってんの」
松下がアパートに上がり込むなり言った。部屋の隅や廊下に置かれたままのダンボール箱に視線を向けたままで、私を見ようともしない。しかし、その声は真剣だった。
「どうなってるとは?」
私はそう聞き返したが、どこか上の空とも聞こえるような声音になっていることに気づいた。
松下たちがこうして引っ越し後の手伝いに来てくれることは有り難い。あまり他人の力を借りずに自分だけで片付けようと思っていたが、どうもそれどころではなくなっている。その、精神的に。
部屋を片付けようという気力が全くなかった。
「やっぱ、お前結婚すんじゃないの? 噂になっている通りに」
松下の声音は明らかに探るような響きがあり、しかし、興味本位という感じは少しも感じられない。むしろ、緊張しているかのようでもあった。さやかさんは黙ったままで、松下の後に続いてアパートの部屋の中に入ったまではいいが、身の置き所がないといった様子で廊下に立ちつくしていた。
「とにかく、座ってくれ」
私はリビングに目を向け、そこにあったソファを手で示した。
彼らがリビングに入るのを待ってから、台所へと向かう。何だか酷く疲れていて、普通だったらお湯でも沸かしてコーヒーでも……となるところが、冷蔵庫の中に入っていた缶ビールを三本引っ張り出し、二人の前にあるテーブルに乗せるという行動に出た。
何だか、自分らしくない。
他人事のようにそう思う。
松下は缶ビールのプルタブに指をかけ、小気味の良い音を立てて開けた。そして、一口飲んでからまた言うのだ。
「助けてくれた人の弟と、ここで何をしてたわけ? 普通、そこまで仲良くなるってことは何かあるよな? やっぱ結婚準備か」
「その話から離れようという気はないみたいだな」
私はため息をこぼしてから缶ビールに手を伸ばした。
さやかさんはじっと固まったまま、缶ビールを見つめている。居心地が悪そうだった。そして、私もこの奇妙な空気に困惑し、逃げ出したい気分でどうにもならないでいる。
「……結婚は考えていない」
何とかそう口に出して言ったものの、それ以上何と続けたらいいのか解らず、ただビールを飲んでみる。松下もどうしたらいいのか解らなかったらしい。やがて、一気にビールを飲み干すと勢いよく立ち上がった。
「よし、一番最初の目的に戻ろう! 何か手伝えることはないか?」
ぎこちない笑顔を私に向けた松下は、積まれたままのダンボール箱に歩み寄って手をかける。「何かヤバいもんが入ってたら開けるのはやめるけど?」
「ヤバいもんって何だ」
私は苦笑して、軽く首を振った。「正直、食器や調理器具は出さないといけないと思っていた」
「よし、開ける」
松下の声は、どこか無理矢理明るくしようとしているのが丸わかりだった。
松下と私の表情に自然な笑みが浮かぶようになると、さやかさんもほっとしたらしい。
ダンボールを開け始めた松下の隣で、新聞紙に包まれた食器が取り出されるのを受け取って、「どこに並べる?」と私に訊いてくる。私の言う通りの食器棚へと向かう彼女を見守りながら、自分は新聞紙をできるだけ小さく畳んでまとめ始めた。
そして、食器がほとんど片付いて服の入ったダンボールに突入した頃、松下が辺りを見回した。
「トイレどこ?」
「廊下の左側」
私がそう返すと、彼は「借りるぜー」と言いながらリビングから消えた。
「ビール飲むと腹が冷えるよな」
とか言いながら歩いていったが、それはどことなく違和感を覚えるような口調だった。わざとらしいというか、何と言ったらいいのか。
しかし、リビングにさやかさんと二人きりで残されるという状況になって、「ああ、これが狙いだったのか」と思った。
緊張した眼差しを私に向けたさやかさんには、威圧感のようなものが感じられて、私はただ言葉を失って彼女を見つめ返していた。
「蓮川さん」
やがて、彼女が口を開く。
今日、私のアパートに上がってからほとんど会話らしい会話がないままだった私たち。
お互い、会話を避けていたような感じもある。
「本当は、こんな時に言うことじゃないんだろうけど、でも」
彼女は私の視線を避けたように俯き、目を閉じた。緊張に震える唇、握りしめられて色を失った手。見ているこちらも緊張してしまう。
「言わなきゃいけないことだってあるって、松下さんが言うから。その」
「……ああ」
心臓が早鐘を打つ。
「もう遅いかもしれないし、もしかしたら蓮川さんはその人と……ううん、そんなことは関係なくて」
そこで彼女は挑むように私を見上げる。
細い肩。
蒼白とも言える頬の色。
「わたし、蓮川さんが好きなの。前から、ずっと。今まで言えなかったけど、好きだった」
どうしたらいい。
私はしばらくの間、身じろぎ一つ取れなかった。
それは多分、さやかさんも同じだったろう。
緊張しすぎているからか、彼女の表情には何の感情も読み取ることができなかった。息を詰めて私を見つめるその唇が、きゅっと引き結ばれている。
「……私は」
やっと私は口を開こうとしたものの、言葉が続かない。
どうしたらいいのか解らない。
何て言うべきなんだろう。
私は、私は?
彼女のことをどう思っている?
潤のことは?
「あんた、早く結婚しろよ」
そう言った潤のことを思い出す。あの苦しげな表情。
私が結婚すれば、潤は救われるのだろうか? 私みたいな男を抱きたいと思う、彼の心が消えるのだろうか? そうすれば何もかも丸く収まるのだろうか?
潤は私のことを忘れて、他の人間を好きに……いや、人間じゃなくてもいい。私よりもずっと、彼の役に立てるような存在に恋をして、そして。
全部、終わる。
そうだ、それを望んでいたはずだった。
なのにどうして、今になって迷う必要があるのだろう?
私は潤に対して特別な感情など抱いていない。恐怖だけだ。人間ではないものに対する、本能的な恐怖。そして、嫌悪。もともと、男性同士ではないか。私は昔から、女性にしか心が動いたことがない。さやかさんのことだって、気になっていたはずだった。
目の前にいる彼女は本当に魅力的だ。
真面目で大人しくて、でも冗談も通じて……多分、気も合うだろうと思う。
それなのに、彼女からの告白をはねつける口実を探している自分がいる。そして、黒崎に狙われていたことを思い出して、安堵すらしているのだ。
下手に付き合ったら、彼女にすら身の危険が及ぶではないか。
そうだ、だから断らなくてはいけないのだ、と自分に言い聞かせてさやかさんを見つめ直し、そこで彼女が悲しげな目をしていることに気づく。
「……困らせるつもりはなかったの」
私が口を開くよりも早く、彼女は言った。「それに、言うつもりもなかった。無理なような気がしてたし、告白して……会社で会話すらできなくなるのは厭だった。でも、焦っちゃったみたい」
彼女は微笑んでいる。それを見てとても気丈な女性だと思った。それに引き替え、自分はどうなのだろう。彼女にだけつらいことをさせている。告白なんてものは、そう簡単にできるものではないはずだ。
「その、正直に言うととても嬉しい」
私は少しだけ口早に言った。「こんなことを今さら言うのも申し訳ないんだが、多分……もっと早くにこういうことになったら、付き合ってくれ、とこちらから頼んだだろうと思う。その、君はとても……素敵だと思うし、私にはもったいないくらいの女性だ」
「でも、駄目なのね」
そこで、彼女の目から堰を切ったようにあふれ出した涙。
私はみっともないくらいに慌てて彼女の肩を掴み、そしてその震えに気づいて離し、そしてまた困惑しながらそっと手を肩に置く。
「すまない」
私が掠れた声でそう言うと、彼女は俯いたまま首を振る。
「みっともない」
彼女の声が震えている。今にも消え入りそうな声。
「馬鹿みたい、わたし」
「そんなことはない」
私は必死に続けた。「本当に、嬉しかった」
「やめてよ」
そこで、彼女は泣き濡れた顔を上げる。目元が真っ赤になっているのが痛々しい。しかし、私には何も言う権利はなかったのかもしれない。
「変に優しいと、勘違いしちゃうよ、わたし。冷たくしていいよ。その方が楽だよ。中途半端に優しいのは酷だって解ってよ。じゃないと……嫌いになれない……」
「すま、ない」
かろうじてそう言った私の手を振り払い、彼女はぐい、と涙を手の甲で拭った。
「ごめんなさい。悪いのはわたし。謝る必要なんてない」
さやかさんは私から目をそらし、そのままソファに置いてあった彼女の荷物を掴むと、玄関へと向かう。「また会社でね。今夜のことはなかったことにして。全部忘れて、普通に今まで通りになってね」
そして彼女がドアの向こうに消えるのを、私はただ黙って見送った。
松下がトイレから出てくるまで、私はただその場に立ちつくしているだけだった。
「どゆこと?」
松下はさやかさんのいないリビングに戻ってくると、その表情を強ばらせた。私が黙って彼を見つめると、松下が目を細めて見つめ返してくる。
「振ったのか?」
「……ああ」
「お前、馬鹿?」
「解ってる」
私はまた台所に立ち、冷蔵庫を開ける。後ろについてきた松下に冷えていた最後の缶ビールを渡し、私は冷蔵庫に入れておかなかった缶ビールを戸棚から引っ張り出してきた。これでこのアパートにあるビールは品切れだ。もっと買っておけばよかった、と後悔する。
「何でだ?」
松下はビールを手にリビングに戻り、ソファに腰を下ろした。「さやかさんのどこが駄目?」
「彼女が駄目とかそういうわけじゃない」
「じゃあ?」
「……よく解らない」
「何だそりゃ」
わずかに松下の声に怒りが混じる。いい加減な対応をしたと思われたのだろう。真面目に告白してきた彼女に対して、誠実な対応をしなかったと。
私は彼の向かい側のソファに腰を下ろし、缶ビールを開けないまま弄び、言葉を探す。
「自分が、よく解らないんだ」
私は深いため息をこぼす。
何て言ったらいいのか解らないし、今の自分がどんな立場にいるか、正直に話すことなんてできるはずもない。
かといって、明らかに怒っているであろう彼に対してもいい加減な態度を取るわけにもいかない。
くそ。
最悪だ。
私が口を噛んでいると、松下のため息が聞こえた。
「で、手っ取り早い話、その美人に惚れたってわけか? 命の恩人だもんな? 金持ちらしいし?」
呆れたような口調に反論する元気すらない。
むしろ、そういうふうにしておいた方がいいのかもしれない。
そうだ、私が七瀬さんに惚れていることにすればよかったのではないか。そういう嘘の方が、彼女にとってはよかったのかもしれない。
「おい、蓮川、聞いてるのか」
「……聞いてる」
私は顔を上げた。そして、心の整理もつかないままに口を開く。
「惚れているわけじゃない。……じゃないんだが」
どう言えばいい。
私は途方に暮れつつ、頭を掻いた。ただ乱暴に痛みすら感じるくらいに。
そして、潤のことを思い浮かべながら言った。
「好きでもなんでもない相手に告白されたら、お前だったらどうする?」
「は?」
松下はしばらく固まった後、短く言った。「断る」
「ああ、そうだろうな。でも、断っても断っても、それでも好きだと言われたら?」
「警察に通報」
「真面目に答えてくれ」
「真面目に言ってるだろ」
松下はビールをぐびりとやって、またため息をこぼす。「何だよそれ、命の恩人に言い寄られてるってか? まさか、助けたことを盾にとって?」
そこで少しだけ、松下の声が低くなった。ひどく真剣な口調。
「いや、違う。盾に取られたことは一度もない。……そのつもりはないから断ったし、相手も解ってくれたと思う。好きな相手と早く結婚してくれと言われたし……」
「よく解らん」
松下も頭を掻く。
「でも、そのつもりが全然なくても、だんだん……最近」
「ほだされた?」
……そうかもしれない。
これは同情だろうか。
そうだったら簡単だ。そうだったら。
「最初は嫌いだと思った。迷惑だと思った。そう、単純に。でも、だんだんと……でも、絶対にあり得ないことだ。好きになるはずもないし、付き合うことも絶対にないし、立場が違いすぎるし……断る理由はたくさんありすぎた」
「で? お前、結局どうしたいんだよ」
「それで悩んでいる」
それが私の今の一番素直な言葉だった。
どうしたらいいのか解らない。
私はいつの間にか、笑っていたようだった。
情けない。
さやかさんは彼女自身のことをみっともないと言ったが、それは私の方だと思う。
「でも多分、こんな状態で誰かとつきあえるはずもない。さやかさんに対して、彼女の真剣な思いを利用するなんてことをしてはいけないんだ」
「利用、ね」
松下は小さく唸る。「お前って馬鹿みたいに真面目なのな。いや、ただの馬鹿。好きでもない女に義理立てして、さやかさんを振るなんて一生に一度の大間違いだって気付け」
そうなのだろう。一生に一度の大間違い、その通りなのだと思う。あんなに素敵な女性に告白されるのはこれが最後かもしれない。私はそれ以上何も言えなかったし、松下も黙り込んでしまった。
「じゃ、また明日」
会話がないままお互いビールを飲んで、そして松下は帰っていった。
私は玄関を開けたまま彼の後ろ姿を見送る。心の中にあるもやもやとした感情は晴れないままで、そして胸が少しだけむかむかしている。悪酔いしたのかもしれない、とため息をこぼした時、すぐ近くから冷ややかな声が響いた。
「人間って馬鹿ですねえ」
心臓が跳ね上がるほどの驚きと同時に、素早くドアを閉める。がちり、と鍵を閉めた後、リビングの方から声が響く。
「あなた、本当に提供者候補ですか?」
嘲るような笑いと共に、そう声が飛んできて。
私は素早く振り返った。背中に玄関のドアが当たる。冷たい感触。
そして、目の前には久住の笑顔。
限りなく邪悪な、私を――人間を憎んでいるような表情。唇は笑みの形をしているのに、その目は笑っていない。
まずい、と思った。
時間を稼いで、何とかこの場から逃げなくては、と。
「違いますよね? あなたは秋葉とは何の関係もない人間のはずだ。でなければ、秋葉の家で出てくるはずがない」
「なぜ」
私は必死に言葉を探した。
久住の意識を別のものに向けなくてはいけないと思ったからだ。
だから、疑問を探して言葉にした。
「お前だって『提供者』なのだろう? あの黒崎という男の提供者なのならば、元はお前だって人間の」
「あなたと一緒にしないで下さい」
久住は蔑みの表情を見せ、まるで私にキスをするかのような距離にまで顔を近づけた。
心臓が恐怖に震える。
しかし、それを気取られないようにと彼を睨みつけ、さらにこちらから顔を近づけて見せると、久住がわずかに身を引いた。
「私はあなた方とは違って、純血種ですよ」
「純血?」
「血が混ざったがゆえの吸血鬼ではありません。生まれながらにしての吸血鬼。黒崎と同じように、秋葉の者と同じようにね」
わずかに自分が混乱しているような気がした。
提供者とは、人間がなるものではないのか?
七瀬さんは何て言った?
人間が協力する代わりに――。
「元々、我々は吸血鬼だけで生息していける種族です。それを、いつの間にか時代が変えていってしまった。人間などという下賤な生き物の血で餓えを満たして、さらには仲間にするということで我々吸血鬼の血を弱めてしまった。人間など……人間は家畜ですよ。せいぜい力の弱い吸血鬼の餌になるのが似合いの、害虫にすぎない」
「な、に?」
いき過ぎた恐怖は感じなくなるのだろうか。
私はただ茫然とその美しい顔を見つめる。
「私は全く解りませんよ」
久住の細い指が私の頬に触れる。
途端に、震えだしたこの身体。
その震えを感じて、私の恐怖を感じて、悦に入る久住は正に悪魔のような感じがした。もしも悪魔というものがこの世に存在するとしたら、それは正に。
「黒崎にしろ秋葉にしろ、なぜ人間を提供者にしたくらいで守らなくてはいけないと言い出すのか。人間なんて消耗品じゃないですか? 死んだら次を準備すればいい」
声が出なかった。
久住の指が頬から首筋へと降りていく。
冷たい。
そしてそれが痛みに変わる頃、私はただ潤のことを思い浮かべていた。
今すぐ、ここにきてくれと、ただそれだけを願った。
しかしその前に、この場に現れたのは。
「全く、何をしているんだ」
気がつくと、久住の背後にいたのは黒崎だった。一体どこから入ってきたのかという疑問がわくよりも先に、久住と二人きりではないということに安堵する。
黒崎は久住を背後から抱きしめる。
久住はどことなく陶然としたような表情を見せ、私という存在から興味を失ったようだった。私から身体を離し、黒崎を見上げて微笑む。
黒崎は久住をさらに抱き寄せ、彼の首筋に己の唇を寄せる。その整った唇から覗いた鋭い犬歯。
「黒崎……」
そう名前を呼んだ久住の笑顔はあまりにも鮮やかで。
しかし。
「勝手なことはするなと言った」
そう黒崎は冷たく囁いた瞬間、久住の身体が大きく跳ねた。
凄まじい音がして、久住が壁際で崩れ落ちているのが見えた。本当に一瞬のことで、何があったのか解らなかった。ただ、アパートの壁の一部にひびが入り、ぱらぱらと粉状のものが天井から落ちてくるのが解った。
「く、ろ……」
唇の端から血を滴らせながら、久住がゆっくりと身体を起こす。
しかし、その前に立った黒崎の威圧感は凄まじいまでのものだった。身体中から怒りの気配が立ち上っているのが解る。
「お前が人間を家畜と思っているのは解っている。だが、俺は人間を利用すると決めている。そのためには」
「黒崎!」
久住は首を振った。「あなたは解ってない!」
「解ってないのはお前だ」
そして、もう一度久住の身体が大きな鈍い音と一緒に跳ねた。天井近くの壁に久住は一度ぶち当たり、その身体が床へと落ちる。黒崎の身体は微動だにしないままだ。
人間ならば死んでいるとしか思えない衝撃。
「お前が人間を憎むのも蔑むのもどうでもいい。俺の邪魔さえしなければ、な。しかし、以前から訊いてみたかった。お前は人間のことを害虫だと言う。それでは、お前が仲間にしたあの男は何なんだ? あれも元は人間だろう。お前にとって、乾という男は」
「彼は関係ない!」
「関係ない? じゃあ、乾が死んでも別にどうでもいいということだな?」
「関係ないっ!」
そこで、久住の声がわずかに掠れた。
それを見た黒崎の唇に嘲笑が浮かんだ。
「そうか、あれは『餌』にするか」
「黒崎っ!」
どうしよう。
私は訳も解らず、切羽詰まっているこの場の空気からただ後退る。そして、慌てて玄関の鍵を開けようとした。早く逃げなくてはいけないと解っていた。
潤や――それに真治や七瀬さんのこと、色々な人のことを思い出しながら。とにかく、逃げなくては、と。
しかし。
尋常ではない何かの気配を感じて振り返った瞬間、目の前に現れたのは。
「久住!」
そう叫んだ黒崎の声。
目の前にある久住の歪んだ笑顔。
そして、「大介っ!」という聞き覚えのある潤の叫び声と。視界の隅に見えた彼ら――潤や真治、七瀬さんの存在に安堵するよりも早く、私は『それ』を見下ろしていた。
凄まじいまでの圧迫感と。
赤。
朱。
血。
「な」
声を上げようとした瞬間、目の前にいる久住が狂ったような笑い声を上げて。
返り血を浴びた。
それは、私の血だった。
久住の腕が私の腹の中へとめり込んでいて、それが抜かれた瞬間に飛び散った血が視界を紅く染めていた。
「大介っ! だいすけっ!!」
背後から潤に抱きしめられて、私はただ小さく息を吐いた。
何もかもが赤く見える。