浅人4

浅人は振り向かなかった。
沢田の打球は高々と舞い上がっていく。角度も伸びも申し分ない。
それ以上に、浅人の中にある一つの気持ちが、彼女を振り向かせなかった。
『打たれた』
全てに裏切られた今の浅人にとって、その事実だけで足が鉛のように重くなってしまう。
やがて、歓声・・・には程遠い、欲望の雄叫びが球場に響き渡る。それが、全てを物語っていた。
レフトスタンド。そこに、沢田の打球は吸い込まれていった。
「・・・・・・」
キャッチャーマスクを外し歯を食いしばり、今帰ってきたランナーも無視し、種倉はダイヤモンドを回る沢田を睨んでいた。
三塁を回り、自分の元に向かってくる先輩に、後輩は小さく、しかしはっきりと聞こえるように呟いた。
「あんた、最低だ」
沢田は、答えない。無言ですれ違い、本塁を踏む。
「流石沢田!」
「でかしたぞ、同志!」
部員からの賛美の言葉にも、沢田は一貫して反応を示さなかった。その仮面の如き表情からは、何を考えているのか、読み取る事は出来ない。
だがそんな事、岸田にとってはどうでもいいことであった。
(浅人が、堕ちた)
狂気に歪んだ笑みを浮べ、岸田はマウンドの上で沈んでいる浅人を見遣った。
あの、浅人が。
あの、強情で目障りだった浅人が、今は自分の策にハマり、絶望に落ちている。
岸田の欲情は頂点に達していた。
あとは、打たれた分の衣類を脱がせ、自分がトドメを指すだけ───の筈だった。
「コラァーー!」」
突然、球場に怒号が響き渡った。野球部員なら誰もが聞いた事のある、その声。
「何をやってるんだ馬鹿たれ共!」
ベンチから現れたのは、この野球部を率いる監督だった。普段なら準備等を終えた頃を見計らって来るのだが、今日は何故か早く球場に足を運んでいた。
(・・・チッ)
内心舌打ちした岸田。監督の後ろには、女子マネージャーが心配そうな表情で佇んでいた。
ヤツが告口(ちく)ったのか。なら、後で罰を与えなければ。
「おい、どういう事か、説明してもらうぞ」
球場全体に響き渡る監督の怒鳴り声。その声にいち早く反応したのは、種倉だった。
「監督!実は、きし・・・」
「ただのゲームですよ、監督」
種倉の言葉を、岸田が制した。監督の前に自ら進み、真正面から対峙する。
「なっ・・・」
「前田君が女になった自分でも充分野球できるから、やらして欲しいって言ったんですよ。
で、打たれたら罰として服を脱いでやるって」
岸田は、まるでそれが真実であるかのようにペラペラと監督に報告していく。その顔には、終始笑顔が刻まれていた。
「嘘だ!先輩は、前田先輩はそんな事を言って・・」
「・・・本当か?」
監督の耳に、種倉の言葉は届いていないのか、岸田の顔を見ながら呟いた。
岸田は何という事はないように「ええ」と答え、得意げに笑ってみせる。
「岸田ぁ!てめえ、嘘ばっか言ってんじゃねえ!前田先輩も、沢田先輩も何とか言って下さいよ!」
種倉は必死に呼びかける。しかし、浅人も、そして沢田も黙って顔を伏せているだけ。
その二人を見て、種倉も言い知れぬ絶望感を感じていた。まさか、こんな事になるなんて。
暫く黙ってその状況を確認してから、監督は指示を出し始める。
「前田!とっとと服を着ろ!それから、今日はもう練習中止!全員片付けて、速攻で帰宅しろ!
それから、前田と岸田、それに沢田・種倉・舞浜は後で学校に来い!」
指示を受けた部員達は、監督の言う通りに動き始める。しかし、浅人は身動ぎ一つしない。
「前田先輩、服、着て下さい」
いつの間にか近寄っていた女子マネージャー、舞浜の言葉で、浅人の意識は辛うじて呼び戻された。
「あ、ああ・・・悪い・・迷惑かけた・・・」
「そう思うなら、早く服を着て学校に来て下さい。先輩のこんな姿、見るに耐えません」
瞳に涙を溜めて語る舞浜に、浅人は目を合わせる事はできなかった。

先生からの事情聴取が終わり、浅人は昇降口にいた。二回り近く小さくなった上履きを仕舞い、こちらもまた小さくなった靴を取り出して履く。
「・・・はぁ・・」
溜息を漏らし、ロッカーに額をあてて寄りかかる。力が出ない。入れようとすれば、何処かから抜けていく感覚。パンクしたタイヤのよう。
「・・・・・」
痛い。湿布を貼った左手の甲が、痛い。ズキンズキンと疼く痛み。
浅人の中で、幾つかの思いが渦巻いて混沌と化していた。
実力を失った自分。
仲間だと思っていた部員達の下劣な態度。
親友だと思っていた沢田の、圧倒的な裏切り。
いつもの浅人であれば、笑って耐えるか怒り飛ばしているだろう。しかし、それはできなかった。
有頂天から一変、奈落の底に落とされた浅人の精神は、最早軽く押すだけで脆く崩れてしまいそうだった。
「・・帰ろう・・」
そう自分に言い聞かせなければならない程、今の浅人は弱りきっていた。
外は既に闇がかかり始めていた。
昇降口を出て、はた、と視界に『そいつ』が映った。
「・・・沢田」
半分閉じられた、出入り口の門に寄りかかるようにして、沢田は佇んでいた。
 ド ク ン 
『見事ホームランを打った奴には・・・一晩、そいつと寝ろ』
ほんの半日も経たない前の言葉が、鮮明に甦る。浅人の心臓が跳ね上がった。
自分はこの男とセックスするのか。
自分は男だぞ?
男同士で、やると言うのか?
「浅人」
黙して自問自答していた浅人に、沢田の方から声を掛けてきた。また一つ、浅人の心の臓が跳ね上がる。
「・・・よう、裏切り者」
こんな事、言うつもりは無かった。言った直後、浅人本人がハッとして、口元を塞ぐ。
だが、それはあまりにも遅すぎる。
「・・・裏切り者・・・だと?」
沢田は寄りかかっていた門から離れ、ズカズカと大股で浅人の方に近寄っていく。
浅人が弁解の言葉を見つけ出す前に、沢田は浅人の胸倉を掴んでいた。
「裏切り者だと?それはどっちだ!心配して止めろって言ったのに、それを無視してあんな事を!」
その言葉に、そして沢田の双眸に、浅人はハッとする。
「いつもの浅人なら、あんな無謀な賭け、絶対にしなかった!100キロ前後の球なんて、丁度打ちごろだ!それをお前は・・・馬鹿が!」
バッと突き放すように、沢田は浅人を解放する。浅人は顔を伏せ、暗い表情をするだけ。
「・・・悪い・・言い過ぎた」
沢田はそう呟くと、鞄を担ぎ直し校門へと向かった。その背中に、浅人の声が向けられる。
「じゃあ、何であそこで打席に立ったんだ?そう言ってくれればよかったじゃないか!
そうして止めていればよかったじゃないか!何を今更そんな事・・・!」
 パァンッ
咄嗟に振り向いた沢田の右の平手が、浅人の頬にクリーンヒットする。何をされたのか理解できない浅人は、打たれた頬に手を当てた。痛い。疼くような、痛み。
「貴様は馬鹿か!親友の決意を無下にしろとでも言うのか!?」
その言葉と突然の痛みで、浅人の頭の中は混乱していた。何が、一体どうなっている?
「舞浜が監督を呼びに行ったのを知っているのは俺だけだった!だから監督が来るのを待ってた!
でも来なかった。そんな時にお前があの状況だ。俺でなくとも簡単にホームランを打てただろう。
だから!俺が出た!他の誰かなら確実にお前を抱くだろうが、俺はそんなつもりない!!」
つまり、沢田の言い分はこうだ。
止めろ、というのはその場では無意味だった。浅人の気持ちを踏みにじるような事はしたくなかったし、他の部員には言うだけ無駄であった。
頼みの綱は監督だけであった。学校から球場までは車ですぐだ。
勝負が始まってすぐ、マネージャーの舞浜が呼びに行ったのを確認して、安心した。
でも、監督はすぐには現れなかった。時間的には来てもいい時間ではあったが。
そんな時に、浅人の精神を打ち崩す出来事が発生した。あのままじゃ、誰にでも打てる。
だから、誰かに打たせるよりかは自分が打った方が浅人が背負う重荷は軽くなるだろう、と踏んだのである。時間稼ぎ、という意味もある。
それでも監督が来なかった場合、沢田は最悪自分の選手生命を掛けて、部員を止めるつもりだった。
即ち・・・暴力沙汰になったとしても。
浅人の中に電撃が走った。抱く気が無かった?この男は、あのゲームに乗ったのではなかったのか?
自分を助けるために、敵を欺くためにあそこに立った、と?
そう思った瞬間、浅人の瞳から・・・涙が零れた。一つ。また、一つ。
まさか泣くとは思ってなかった(少なくとも、浅人が泣いた所を今まで見たことのなかった)沢田は、当然うろたえてしまう。
「わ、悪い・・・痛かった、か・・・?」
自分の平手打ちが相当痛かったのだろうか?沢田は真剣にそう考えていた。勿論、浅人が泣いている理由は、そんな事ではないのだが。
(裏切られたと思ってた)
(仲間なんて、いないと思ってた)
(でも、それは俺の勘違いだった。思い過ごしだった)
(申し訳ない。本当に、申し訳ない・・・)
懺悔と後悔。絶望によってぽっかりと開いてしまった心の穴に、二つの涙が注ぎ込まれていく。
「ゴメン・・沢田・・本当に・・・ゴメ・・・」
次から次へと溢れる涙で、浅人は上手く喋れなかった。こんなに大泣きしたのは、いつ振りだろうか。
胸が締め付けられている感じに、浅人は自分の胸元を抱え込んだ。心臓がバクバク鳴っている。
そんな浅人を・・・沢田は抱き締めた。こいつは男だ、抱き締めるのは違う・・・。
そう頭で反芻しての結果であった。
「あ・・・」
「・・・すまなかった・・・」
厚い胸板。それに体を預けるようにして、浅人は泣いた。一昨日まで笑い合っていた親友の胸に顔を埋めることに、何の不思議を感じない浅人がいた。
もし、自分が最初から女として生まれていたら・・・頭の片隅で、そんな事を考えた。
・・・そうして、少しの時間が過ぎた。
涙が収まった浅人は、押し返すように沢田から離れる。
「何か、女々しいトコ見せちまったな」
恥ずかしそうに視線を逸らして言うと、沢田は冗談っぽい笑みを浮かべた。
「今は女だろうが、アホ」
「あ、アホって言ったな。アホって言う方がアホなんだよ」
「じゃあ、お前の方が多く言ったからお前の方がアレだな」
「む」
そう、こんな他愛ない話が出来るのが、限りなく嬉しい。一瞬でも全てを失ったと思った浅人にとって、この感覚は何にも替え難いものであった。
ふと、沢田がじっと自分を見ているのに気付き、不思議そうにその目を見返した。
「・・・どうし・・んっ」
全ての言葉を言い切る前に、喋れなくなった。口が塞がれた。
・・・沢田の唇によって。
「・・!!?」
目を見開いて驚く浅人。心臓の跳ね上がりが、わざわざ確認しなくてもわかった。
何故、この男は、俺に、その・・・キスをしたんだ?俺は・・・男だぞ?
それは浮かび上がった疑問と同時に、自分に言い聞かせるものでもあった。
そうしなければ・・・ともすれば、気持ちいいと感じてしまっている自分に負けそうになるから。
「んんっ・・・ぷあっ。な、ななな何すんだよ!?」
今度は引き剥がすように離れた後、顔を真っ赤にして咆える浅人。だが、それよりも遥かに顔を赤くする沢田。
「あ、す、すまん。こんなことするつもりじゃ・・・」
自分自身でも、何故そんな事をするのかわからないらしい。慌てて距離をおく沢田。
互いにぎこちなくなっているのを感じて、黙りこんでしまった。浅人が口を開いたのは、丁度一分が過ぎた時だった。
「か、帰ろうぜ。早くしないと、ウチの母が心配する」
「あ、ああ、そうだな」
ギクシャクとしながら互いを促すように学校を後にする二人。
(やべ、まだドキドキが治まらねぇ・・・)
浅人は自分の動揺っぷりに激しく混乱し、(何であんな事したんだろう・・・でも、気持ちよかった)
煩悩丸出しな思考をしながら歩く沢田。
明日、どんな風に顔を合わせるのか、野次馬根性がある者なら見ものであろう。

「・・・おいおいおい」
そんな二人の光景を、昇降口から見てしまった、一組の男女。
「ひゃー・・・」
顔を真っ赤に染めて、頬を手で包むようにして見ていたのは、マネージーの舞浜。
もう片方、呆れた、というか何と言うか・・・唖然としてるのは、一年の種倉。
たまたま目撃してしまったふたりが、この後、浅人と沢田より少し上のコトをするのは秘密秘密。

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