15

 田崎医院はこの町に古くからある、入院施設も整っている中規模の開業医院だ。
 心は産婦人科として覚えているが、実際は産婦人科専門ではない。小児科、内科から婦人科まで、開業医らしくなんでもござれといった感じだ。先代院長夫妻が双方とも医師で、夫人の専門が産婦人科だったため、町でも大きな産院の一つになった。
 そのため町のかなりの人々が、田崎医院で出産する状態になっている。
 黒姫家も代々掛り付けで、恋も愛も心もここで生まれた。現在は姉と弟の二人で経営しており、姉の田崎 玲那(れいな)女史が院長を務めている。彼女の専門は婦人科医療で、院長を継ぐ前は大学で不妊治療の研究をしていた。
 心は幼いころ病弱だったが、ほとんどは自宅療養で先代院長が往診してくれた。
 偶に通院したとき、妊娠中の女性がやたらと目に付いたため、その印象が強く残っているのだろう。
 しかも小学校の高学年くらいからは、ほとんど医者に掛かる事が無くなったので、なおさらにその印象は強い。
 恋の運転するBMWが正面ではなく、裏口にじか付けされる。いわゆるVIP専門の入り口だ。
「愛ちゃん、心ちゃんをお願い。車を停めてくるから。あら?――」
 職員らしき中年の男性が駆け寄ってくる。
「お早う御座います。お車はわたくしどもでお停めいたします。
 まことに失礼でございますが、鍵をお預かりさせていただきたく――」
「あら、でもお忙しいのに、申し訳ないわ」
「いいえ、滅相もございません。それに本日は大変混み合っておりますもので」
「うーん――それでじゃ、お願いしますわ」
「はい。承らさせていただきます」
 音が聞こえてきそうなほどキビキビした動き、丁重な態度だ。
 (あーあーあーあー。きたよきたよきたよ)
 心はこの『特別扱い』が好きではない。本人は認めたがらないが、父にもっとも似た点だ。
 所詮は世の中、『こういう点』ではコネが重要なのだ、と見せつけられている感じ。
 自分だって幼いころ急病になった時、さんざん世話になったくせに嫌悪感を抱いてしまう、そんな自身の青臭さも含めて余計に嫌な感じがするのだ。
 だからといって、この丁重な態度で接してくる職員の男性に対して、どうこういう訳ではない。
 自分と黒姫の家に対して、猛烈な嫌悪感を感じるだけだ。
 むしろ相手に対しては強い敬意を感じる。だから相応しい態度で接しなければいけない、そう思うのだが……それが出来ない、辛い。
 恋に手を引かれて受付に向かう。こんなところでも当たり前のように心の手をとってくる。
 はっきりいって恥ずかしい、止めて欲しいのだが、たぶん無理だろう。
 受付に着く前に、あちらから迎えられてしまう。
「お早う御座います。黒姫様、院長が待たさせて頂いております。こちらでございます」
「おはようございます。わざわざありがとうございます。お世話になりますね」
 恋はさも当たり前といった様子で対応している。愛も普段通りの態度だ。
 心だけが居心地の悪さを感じている。真っ赤になって俯き、大人しくついて行く。
 案内された先は院長室だ。立派なつくりの扉がやけに重々しい。
 ここまで案内してくれた看護婦さんがノックする。
「どうぞお入りください」
 若々しい女性の声だ。扉を開けてくれるが、看護婦さんは入らずそれをささえている。
「どうぞ。わたくしはこちらで失礼させていただきます」
「ありがとうございます」
 中に入ると、奥へと続く扉が見える。看護婦ではなく、スーツ姿の若い女性が迎えてくれる。
 おそらく秘書なのだろう。ここは来客の待合室で、院長室はさらに奥だ。
「おはようございます。こちらへどうぞ」
「おはようございます」
 秘書の女性が奥に続く扉をノックする。
「入っていただいて――」
 聞き覚えのある、優しげな声が答える。内側から扉が開いていく。
 正面に立派なつくりの机が見える。そこに着いている、見覚えのある女性。
 扉の傍にピンクの制服を着た、若く可愛らしい看護婦さんがいる。
 彼女が扉を開けてくれたらしい。
「おはよう。しばらくでしたね? 心ちゃん」
 机の女性が優しげに問いかけてくる。彼女こそ医院長の田崎 玲那先生だ。
「おはようございます。お久しぶりです」
「おはようございます。田崎先生」
「おはようございます。あれ? 看護婦さん変わってる?」
 心、恋、愛の順に挨拶を返す。こんな時でも愛は余計なことを言う。
 国中という名札をつけたその看護婦さんは、困ったような顔で苦笑している。
 心は田崎先生を知っている。男の時にも当然に顔見知りだった。
 だが、彼女に診てもらったことは一度もない。彼の主治医は先代院長だったし、先代が引退したころには、もうほとんど病院に行くようなことはなくなっていたからだ。
「どうぞ、お掛けください」
 中央のソファーを示される。皆が席について看護婦さんが傍らにたったところで、田崎先生が口を開く。
「本日はどうなさいましたか? 何か心ちゃんに?」
「いいえ、特に異常というわけではないのですが――先生に診ていただきたくて」
「そうですか――心ちゃん。何か、お身体の調子のおかしいところはないかしら?
 何でもいってちょうだいね?」
「特にないです……あっ、今朝、お腹の下のほうが…ムズムズしました」
 ほんの一瞬、恋の顔に動揺が走る。
「そうなの。それじゃあちょっとだけ、先生に診させてちょうだいね――国中さん、準備を」
「はい」
 看護婦さんが隣の部屋へ入っていった。この部屋に入って向かって右に、もう一つ部屋がある。
 院長専用の診察室だ。すぐに全員がそちらに通された。
 先生と真正面で向かい合って席に座る。恋と愛は部屋の端の席で、心配そうにこちらを見ている。
 (それにしても、相変わらずいい女だなぁ。良いね、じつに良い)
 心は年上好みだ。彼女ははっきりいって物凄くタイプだ。男の時、年に数回顔を合わす程度だったが、かなり気になっていた。確か30才になったかならないかぐらいだと記憶している。
 ゆるくウェーブのかかった長い黒髪を無造作に纏めている。化粧気のあまりない顔が、清潔感を増している。少し垂れ気味の目はやさしげで、左目の下のホクロがなんとも言えず絶妙、濡れたような唇が非常に色っぽい。今は診察のために赤いフレームのかっちりした眼鏡をかけている。
 下手をすれば野暮ったくなりかねないそれが、全体の雰囲気を知的に引き締めている。
 スタイルも素晴らしく、心の好みの『大人の女』そのものだ。
 心の手をとり、脈を診てくる。小首をかしげて、今度は首筋に手を当ててくる。
「うーん? 心ちゃん、ちょっと緊張してるのかな? 大丈夫だから落ち着いてね?」
 (そんなこと言われても……無理ですって、たまんねぇ)
 自分の好み直球ど真ん中ストライクな女性に手をとられ、そのうえ首筋に手を当てられて、心配そうな瞳で見つめられて緊張、いや興奮しない男がいるのだろうか?
「それじゃあ、ちょっとだけ、前を開けてちょうだいね?」
 聴診器を手にして言う。
「はい……あっ」
 あたふたとワンピースの前を開けて、心は動揺する。下はビスチェだ、胸元からお腹までピッチリと覆われている。自分では脱ぎ方もよく分らない。
 気付いた恋と愛が駆け寄って緩めるのを手伝ってくれるが、緩めただけでは駄目なようだ。
 結局脱いでしまうことになった。この場は女性ばかりだから、上半身ハダカを晒すこと自体に抵抗はない。
 けれど下着すら一人で脱げないことを、見られてしまったことが恥ずかしかった。
「今日はずいぶん可愛らしいのを着けてきたのね。とっても似合ってるわ」
 先生の言葉が追い討ちをかける。恥ずかしくてそちらを見れない。
 ひんやりと冷たい聴診器が、心の胸に当てられた。少しづつ場所を変えて、何度も触れてくる。
 聴診器が『冷酷』で『怖い』ものだというイメージが浮かんで、頭にこびり付いて消えない。
「あらあら、心ちゃんはやっぱり恥ずかしがり屋さんねぇ――そんなに緊張しなくても、大丈夫よ。怖くないから、ね?」
 聴診器がゆっくりと、お腹にまで下りてくる。冷たいのが『怖い』、鳥肌が立ってくる。
 (どうして? 何で?何で?何で?何で?何で?何で怖い?何?)
 先生の手がそっとお腹に触れてきた。ほんの少しだけ冷たいが、聴診器と比べるとずっと温かい。
 その温もりにとても安心する。ふにふにと、お腹の柔らかさを確かめるように触診が続く。
 今すぐに先生の腕に抱きついてしまいたいほど、『やさしい』
「それじゃあ、向こうをむいてちょうだいね――」
 椅子ごと、くるりと回転させられる。背中にまた、冷たい聴診器が当てられる。
 やっぱりまだ『怖い』、だけどこれを操っているのはあの『やさしい』手だと思えば、我慢できる気がする。聴診器が移動する度にビクッとして、待遠しさが募る。
 はやく『やさしい』手で触れてもらいたい、温もりが欲しい。
 (先生ノ『やさしい』手ガ好キ。心ハ先生ガ好キ、モット触ッテ欲シイ)
 甘い気持ちが溢れてくる。これまで感じたことのない、甘い甘い気持ち。
 また先生の手が触診を始めると、甘い気持ちはどんどん膨らんでいく。
 そっと当てられる手、トントン、トントンと響く打診のリズム――
 (先生、モット)
 口をついてその言葉が出てしまいそうになる。
「はい、とりあえずお終いです。服、直してけっこうですよ――あ、まって。
 ごめんなさいね、その下着はもう少し待ってください。また触診するかもしれないの」
 とりあえず心はワンピースの前を直す。なんだか少し残念なような、物足りないような、おかしな気持ちがこころにわだかまる。
「えーと、それではあちらへ。心ちゃん、今度は先生と二人だけですからね?
 だからもう、あんまり恥ずかしくないわよね?」
 部屋の一角の、カーテンで区切られたベッドを示される。
「二人だけ、ですか?」
「ええ、二人だけ。看護婦さんもお姉さんたちもいないから、恥ずかしくないでしょう?」

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