25

 しかし、男である心には対応が異なってくる。男子も女子もクラスメートとしては、一応相手をしてくれる。だが、男子はプライベートでは話ですら付き合ってくれない。
 なかには、心の容姿を理由に『女々しい』ヤツだと、侮る者もいた。
 女子はプライベートでも、ごく軽くは付き合ってくれるものが少数いたが、心にはそんな気もないのに、『妙なこと』になったら困る、という警戒心があるらしく、だんだん離れていって、まわりで騒ぐだけに変わっていく。
 心は小学校の高学年くらいから、見ためはともかくも身体は健康になっていったから、自分の容姿をからかわれたり、相手が乱暴な手段にでたときには、遠慮なく叩きのめした。
 中学にあがってからは特に荒れ始め、ろくに学校にも通わなくなり、町で出会った女たちと、『遊んで』ばかりになってしまった。
 だからといって、決して心は自ら暴力をふるうような真似をしたことはない。
 あくまで、降りかかる火の粉をはらってきただけだ。学校で暴れるようなこともなかった。
 分かり易い不良とは違うが、まともな生徒とも言い難い状態だった心にも、そのうち、ようやく友人らしきものができた。
 中一の冬に転校してきた、秋月 百合だ。
 彼女は海外から引っ越してきたため、黒姫家のことなど気にもしなかった。いや、むしろ純粋に好奇心をもったらしい。ほとんど初対面の心に、無遠慮に色々と尋ねてきた。
 父が陶芸家、母が画家ということもあって、彼女自身、なんというか変わり者だった。
「可愛いわね。きれいな子は好きよ」
 いきなりそういって、キスをしてきた。初対面でだ。
 五日ぶりに登校してみたら、いつの間にかやってきていた転校生に唇を奪われたのだ。
 さすがに心も面食らった。なんでも心の噂を聞いて、現れるのを待っていたらしい。
「きれいな子が好きなの。だから、確かめたかったの、それだけ」
「どうしてキスしたのさ!! どういうつもりなの!」
「思ってたよりずっときれいだったから――話し方もかわいいのね」
「……」
 気にしていたことを指摘され、言葉につまった。心の言葉遣いは、丁寧語中心だったものを、無理矢理に変えようとしたせいで、なんとも子供っぽい、中性的なものになっていたからだ。
 母の躾は厳しく、しっかりしていたから、言葉遣いもきちんとさせられていた。
 もともとは家族のことも、父様・母様・お祖父様・お祖母様・姉さん・愛さんと呼んでいたが、小学校の高学年になったくらいで気恥ずかしくなり、特に外では言葉遣いを変えるようにしていた。
 だが、それがうまくいかず、余計にからかわれる原因になっていた。
 そのせいで、元々あまり喋らないタイプだった心は、どんどん無口になっていった。
 のちに清十郎と付き合うようになって、彼の影響を受けながら『男らしい』言葉遣いを覚え、喋ることも苦でなくなっていくのだが、このころは丁寧語にならないようにするのでやっとだった。
「気にすることないわ。似合ってるもの」
 同じ歳なのに、まるで年上のような態度だ。態度だけでなく、彼女は容姿も大人っぽく、どことなく、男好きのする感じだ。
「帰るよ……」
「あら? もう? まだ二限目よ?」
「もういいよ。つまらないし」
「じゃあ、私も」
「は?」
「ねえ、町を案内してくれる?」
「なんで僕が!」
「あなたが気に入ったの。友達にならない?」
「……え?」
 友達――という言葉にこころ惹かれた。はっきり言えば寂しかったのだろう。
 結局この日、二人で学校を自主早退したあと、心と百合は町を適当にぶらついた。
 そのあと、百合の家に招待され、両親に紹介されて夕飯までご馳走になったあげく、百合まで『ご馳走』になった。
 別に二人とも初めてでもなかったし、ごく気軽な感じで関係を結んだ。
 それで恋人だとか、特別な付き合いになったわけではない。
 肉体関係を含めて、あくまで気楽な友人としての関係がずっと続いた。
 心と同じ高校に進学した、同じ中学出身の女子とは、百合のことなのだ。
 清十郎とつるむようになってすぐ、心は百合をひきあわせた。とはいっても、三人とも同じクラスだったから、二人は顔見知りではあったのだが。
 そのときの百合の言葉は、彼女らしいものだった。
「心を選ぶなんて、いい趣味してるわ。でも、いくら可愛いからって、いじめたり、へんなことしちゃ、駄目。心は、私の大切な子だから。悪戯するなら、私に断ってね?」
 清十郎も似たようなものだった。
「なんだ、この女――心、お前ね、彼女ってのは人柄をよくみて選べよ。いくら美人でも、こういう頭がユルいヤツは駄目だ。伝染(うつ)るぞ?」
「彼女じゃないよ……百合も莫迦な冗談はやめて……」
 どっちもどっちだと、そう心は思った。

 中学三年になって、心の身に大きな転機が訪れる。
 母が死んだ。
 それから、心はろくに家に帰らず、町で知り合った女たちのもとを転々としながら、『武者修行』と称して喧嘩に明け暮れた。
 父に『復讐』する、その力を身につけるためだ。
 そのとき、もっとも長いあいだ世話になったのは、他ならぬ百合とその家族だった。
 百合の父も母も、『おもしろいから』という理由だけで、心をあたたかく迎えてくれた。
 とても感謝しているが、同時にすごく変な家族だと思ったものだ。
 百合は言った。
「工甚くんも、枝里さんも、私と同じよ。きれいな子が大好きなの。それに、二人の仕事はインスピレーションが大切だから、刺激をくれるあなたは貴重なのよ」
 そういえばあの親子は、それぞれを名前で呼び合うのだ。
 それも心には信じがたいことだった。
 半年ほど『武者修行』を続けて、父に挑んだものの、あっさりと返り討ちにあい、心は考えた。
 いくら喧嘩慣れしようが、本当に身体と技術を磨いた人間には、まず勝てない。
 ならば、その相手である父から、その力を盗み取ってやろう、と。
 それから心は父に弟子入りし、短い高校生活の中で、技を磨いた。
 父を倒すために、父のもとで、父が死ぬ、そのときまで。

 すでに述べてあるように、心の『復讐』は遂げられることなく、高二の春に父は死んだ。
 正確にはまだ、進級の前だった。
 酒に酔った状態で、暴漢に刺されたのだ。
 駅に車で突っ込んだ暴漢が、匕首を振り回して暴れていた。それを取り押さえようとして、刺されたという。しかも、車が突っ込んだとき、すでに父は足に怪我を負っていた。
 暴漢を殴り倒しての、相打ちだった。
 (親父らしいや)
 連絡を受けたとき、心はそう思った。
 葬儀と事後処理がすべて終ったあと、心は一人、自室で泣いた。
 あんなに憎んだはずなのに、涙が止まらなかった――

 そして学校が始まり、心と清十郎は違うクラスになった。
 心は文系、清十郎は理系のクラスを選択したためだ。百合とは同じクラスになれたが、彼がいないだけで、なんとなく、授業もおもしろく感じられなくなっていた。
「――よう。元気……ねえよな」
 すでに、清十郎は父の死を知っていた。葬儀にもきてくれていたのだ。
 放課後に待ち合わせたとき、心はなぜだか、彼の前で泣きたくなった。
 だが、我慢した。
「泣いていいと思うぜ。お前にとって親父さんは、ただの親父以上だったからな」
「泣けないよ。男だから」
「俺なら、泣くぜ? 照れくさいなら、俺は消えるぞ?」
「いいよ。気なんか、使わないで……ううん、一人に、しないで」
「心?」
「一人になったら、我慢、できない」
「そうか」
 清十郎の手が、心の頭にのせられた。ぐりぐりと、力いっぱい撫でてくる。
「ずるいわね。男の子同士だと、そんなに仲良くできるの」
 いつの間にか百合がきていた。
「あと、頼む。やっぱ、泣くときは、泣いた方がいい」
「ええ、頼まれなくても、ずっと、ずっと抱いててあげる」

 さらに心を追い詰めるように、あの事件が起こった。
 元A組の不良くんたちが、心に対して仕返しを謀ったのだ。
 不良くんたちは辛抱強く、ずっと機会を待ち続けてきた。
 心と清十郎のクラスが分かれた上、心は父の死で、あきらかに覇気を失っていた。
 いまがチャンス、そう判断したのだろう。
 結果は、見事に失敗。
 総勢十一人で、得物まで準備した挙句のことだ。まさに完全敗北。
 心は校舎中を走りまわりつつ、相手戦力を分断して各個撃破していった。
 七人まで片付けたところで、残りは逃げていった。
 中心の五島たちを潰されたためだ。
 どこかで歯止めを失っていた心の拳足が、冷酷に、徹底的に彼らを破壊した。
 連絡を受けた清十郎が駆けつけたとき、心は泣いていた。
 夕日の射す教室、百合に抱き締められて、血塗れの両手をだらりとさげたまま。
「もういいの、無理しないで……心、いいのよ」
 清十郎は初めてみた、心が泣く姿を。
 赤子のように、百合の胸に顔をうずめて、静かに涙を流していた。
 {ああ、やっぱりきれいだ}
 そう思った。
「清十郎……僕は、どうしたらいい?」
「心…」
「やっぱり、ずるい。私には聞いてくれないもの――」
 百合がそっと、唇を重ねた。血の味がした。

 そのあとは以前すでに述べたとおり、心は自主退学のかたちで高校をやめた。
 高校をやめてしばらくのち、心は清十郎に呼び出された。
 その日も、クールベで話した。
「なにか、用かい?」
「心、お前、俺に聞いたよな? どうしたらいい? って」
「うん」
「だから、答えてやる。ついてきな」
 心はある場所に連れていかれた。総合格闘技の道場。いや、ジムといった方がふさわしい外観だ。
「清十郎? ここ……」
「こい!」
 扉を開き、ずんずん進んでいく清十郎。仕方なく、ついて行く。
「おやっさん! いるか!!」
 小柄な老人が振り向く。
「おう! 嶋岡の小倅か」
 驚くほど、声が大きい。
「どうした? 今日は貴様の練習日でないぞ?」
「言ってあっただろ? 例のヤツを連れてくるって」
「おお! そうだったか――で? どこにいる?」
「目の前にいるだろ?」
「なに……小さいな――おい!」
「はっはい!」
 いきなり声をかけられて、正直びびった。射抜くような視線が、痛い。
「ふーん? やはり小さいのお……おい、清十郎よ。本当にコイツか?」
「ウソいってどうすんだよ? コイツだってーの」
「清十郎? なに、これ……この人は、だれ?」
「おい!! 小さいの。こっちへこい!」
 (小さいのって……自分だって)
「はやくこい!!」
「はい」
 慌てて駆け寄る。
「叩け!」
「はあ?」
 いきなりサンドバッグを示された。
「いいから、早く叩けい!」
 しぶしぶ、準備もなしに左拳を叩きこんだ。サンドバッグが、まるでひねり上げられるように、たてに跳ね上がった。場内の空気が変わる。
 静まり返って、皆が注目しているのが、わかる。
 (あれ?)
「おい、見たか? あれ100kgのバッグだよな……」
 ヒソヒソと、誰かが話す声が、聞こえた。
「むう……」
 清十郎におやっさんと呼ばれた老人は、目を見開いて唸っている。
「?……あの?」
 (あれ? なんだろう?)
「心! もう一発だ。見せ付けてやれ! お前の、自慢の拳を!!」
 清十郎の声がかかる。なんだか楽しそうだ。心も久しぶりにウキウキしてきた。
「うん!!」
 こんどは右で、腰をきちんと入れて、しっかりと『突いた』
 先ほどより、尚一層はげしく跳ね上がる。バッグの表面の革に、拳の当ったねじり込むような跡が、くっきりと残る。
 (気ン持ちいい〜〜〜〜〜〜)
「どうだ? おやっさん、わかったろ? コイツが俺の親友だぜ?」
「むうー……おい、小さいの、名前は?」
「黒姫 心です」
「……ずいぶん、可愛らしい名前だの――心よ、お前は強くなりたいか?」
「はい」
「そうか……なら、ここに通え。清十郎から話は聞いとる。あっぱれな親父さんだったのう」
「――はい、あの、あなたのお名前は?」
「わしか? どうでもいいじゃろ……む……楠木 三郎じゃ」
 なぜか照れくさそうに、小声で名乗る。
「楠木さん、いいえ、おやっさん。聞いてもらいたいんです」
「なんじゃ?」
「僕は最初、親父を打ん殴りたくて、それで強くなりたかった。けど、親父は死にました。
 でも、僕には守りたいものがあるんです。だから、いまも、強くなりたい」
「ああ、それでいい」
「――だけど、それだけじゃない。僕はただ、強くなりたい。こいつで、一番になりたい」
 拳を握り締めて、突きつける。
「いったな? 清十郎、聞いたか?」
「ああ、聞いた」
 清十郎が嬉しそうに答える。
「心よ。もしそれが本心なら、もう逃げられんと思え!! 貴様はたったいま、世界中の同じ思いを持つ奴らに、喧嘩を売った!!」
 今度は逆に、心が指を突きつけられた。
「俺にも、だぜ?」
 清十郎は満面の笑みだ
「もちろん、そのつもりです」
 涼しげな微笑を浮かべて、心は答えた。
 ***************************************
「しかし、ずるいよね。ずっと秘密にしてたんだから」
 あとで分かったことだが、清十郎は入学後半年くらいから、楠木ジムに通っていた。
 つまりは心に出会った、その直後からということだ。
「いや、だから、何度も誘ってたろうが――悪かったよ、謝るって」
 いまの心の、可愛らしい顔で上目遣いに睨まれては、清十郎も太刀打ちできない。
 昔のことなのに、心は昨日のことのように思い出して――なんだかダダをこねているみたいだ。
「で、どうすんだ? これからも続けるのか?」
「この手で? この、身体で?」
 小さな可愛らしい手を、目の前にかざしてみせる。
 {無理だよな……}
「最初の頼みごとは、そのことなんだ。おやっさんに伝えて欲しい」
「なんて言えばいいんだ?」
「家庭の事情、かな。それで続けられないって、そう伝えて……」
「分かった。伝えてやる。でもな、いつか戻るかもって、そうも言っておくぞ?」
「お見通しなんだね……戻れるかなぁ?」
「いきなりそうなったんだ。いきなり戻るかもしれねえだろ」
 ケーキを半分ほど食べ終わり、カフェオレを一口、心は小さな溜息をついた。
「しっかし……ほんとにまあ、可愛くなっちまったな。ケーキが似合うこと――なあ?
 いまのお前と俺、まわりの奴らがみたら、どう思うんだろうな。兄弟か? まさか恋人はねえよな」
「さあ、ね」
「下手すりゃ俺、誘拐犯かもな。そうでなくても、援交みてえだ。どっちにしろ逮捕か?」
 ひたり、と清十郎の鼻先にフォークが突き付けられた。心が睨んでいる。
「不愉快……だよ? もう、やめて」
「すまん。わかった、悪かった」
 {こんなに本気で……やべぇ、可愛い}
「とりあえず、危ないから下ろせ」
 フォークを心の手ごと掴んで、下げさせる。柔らかで、華奢なその手にドキリとする。
 それにしても、心がこんなに簡単に腹を立てるのを、初めてみた。
 心のこころは確実に、以前とは違う。清十郎には理屈でなく、直感でそのことが分かる気がしていた。
 {身体に、引っ張られて……まさか、な}
 あのいつでも冷静だった心が、まるで子供のように、簡単にヘソを曲げる。そして、頼りない。
 放っておけない。確かに心は男のときから、『放っておけない』タイプだった。
 百合とも、よくそのことで話したものだ。しかし、違う。根本的に、まったく違う。
 {こいつは、いまの心は、誰かが――俺が守らねえと、危ねえ。俺が……}
「清十郎、ねえ! 清十郎!」
「……ああ、何だ?」
「もう一つの頼み事なんだけど、これから、一緒にきて欲しいんだ。いいかな?」
「ああ、いいぜ。今日一日はまるっきり空けてある」
「それとね……これ、食べる?」
 食べかけのケーキを示す。
「なんだよ、いらねえのか?」
「あの、思ったより、食べられなかった……」
 頬を染めて俯きながら、消え入りそうな声でいう。
 {あ〜〜〜〜!!! 可愛いなあ、おい、ちくしょ〜〜〜!!!}
 つとめて冷静を装いながら、清十郎は言った。
「んじゃ、もらうぞ」
 一口で平らげる。そんな様子を、心はじっと見つめている。
「ずるいな……いいな」
「――ん? なんだよ、やっぱり惜しかったか?」
「違うよ。たくさん食べられて、羨ましいなって、ずるいなって」
 {ずるい、か……}
 ――百合がときどき、口癖のように使っていた言葉。彼女も相当に変わった女の子だった。
 もっとも心に聞いたら、百合の口癖は『きれい』と『かわいい』だ、というのだろう。
 紹介されて間もなく、百合はこんなことをいった。
「あなたも、男としてはきれいな方ね。男性的な美しさ、嫌いじゃないわ……でもね、心には遠く及ばない。知ってる? この世で完璧なものは、少年の身体とバイオリンと船体なの」
「はあ? なに言ってんだ? 頭ワイてんのか、お前」
 心底へんな女だと思ったものだ。
 百合は誰の前でもはばかることなく、心が一番大切な友達だと言い切った。
 休み時間など毎度のように、心に抱きついたり、キスをしたり、膝枕などもさせていた。
 誰の目にも、二人は恋人同士にしか見えなかった。清十郎もはじめはそう思っていたのだ。
 だが、心によって引き合わされたとき、百合のことを友達だと、心はそう紹介した。
 百合も、心は一番大切な友達だという。二人はたしかに、表面では同じことを言った。
 しかし、清十郎はまるで釈然としなかった。
 だからそれぞれに、二人きりのとき聞いてみた。少しづつ、そして何度も。
 心はいつも『友達』だと言い切った。
「百合は誰にでもやさしいよ? 誰とでもあんな感じだよ?」
 たしかに、上辺だけならそうだろう。
 百合は、少しづつ、複雑に、言い訳でもするように言った。
「心は『一番大切な』お友達よ。あの子が求めてるのは、友達。私にとって一番は心。
 だから、私はあの子の『友達』でいたい。心の傍にいつづけたいの」
 彼女の言葉をまとめるなら、こんなものだろう。
 間違いなく、百合は心に惚れていたのだ。
 同じ高校に進学したのも、心が先に決めて、百合がそれを追いかけたのだという。
「心は『放っておけない』子だから……」
 二人を見ていると、甘えているのは心だと感じた。だから、心が百合を追いかけたと思っていた。
 {もどかしい……面倒くせえなあ!!}
 清十郎はそう感じたが、余計なことをするのも野暮だと思った。だから、放っておいた。
 親しくなるにしたがって、百合は清十郎に訴えることがあった。
「お願い、心をとらないで――男の子同士はずるいわ。なにもしなくても、自然に、あんなに仲良くできる。でも、私は……」
 彼女にしか、できないことはたくさんあった。
 心は彼女のまえ、百合の胸に抱かれてしか、決して泣かない男だった。心が甘えられるのは、死んだ母以外、彼女しかいなかったのだ。だけど、
「莫迦いうな。俺には、そんな趣味ねえよ」
 こういってやるのが、精一杯だった――
「んで? どこへ行こうってんだ?」
「大学。確かめたいことが、あるんだ」
 *****************************************
 心の大学は都内にある、ここから電車で40分ほど、心の町からだと小一時間ほどかかる。
 むかしの話になったおかげで、車内でも自然と百合のことが話題になった。
 心が高校をやめてしばらく、百合も高校にこなくなった。
 清十郎が気になって連絡をとってみると、心と二人でなにやら調べているらしい。
 黒姫家と例の《カミサン》のことだという。半年ほどはろくに登校せず、週に一・二回くればまともなくらいだった。
 登校してきたところで、清十郎に心の状況を報告しにきているようなものだった。
 やがて調べ物が終って、普通に登校するようになっても、相変わらず心中心の生活をしていた。
 心がジムに通うようになると、そこにも年中、顔を出すようになった。
 そんな調子でも、もとより成績は超がつくほど優秀だった百合は、危なげなく進級、進学した。
 大学二年から、スイスのなんとかいう大学に留学したが、心とは頻繁に連絡をとっていた。
「それで、百合には連絡したのか?」
「何ていえばいいの? 女の子になっちゃった――って? 無理だよ」
 それにここ最近、心が女の子になったのと重なるように、向こうからの連絡も止まっていた。
 さすがに今は、百合がずっとどういうつもりだったのかは、心にも分かっている。いや、本当は、ずっと前から分かっていた。でも、巻き込みたくなかった、母のようになって欲しくはなかった。
「もしかしたら、姉さんや愛や先生と同じで、僕が最初から女だったことになってるのかも、ね」
 (もしそうなら、その方がいい。百合とは知らないもの同士で、いい)
「先生って、あの例の女医さんか? お前が惚れてたっていう」
「うん、そう。先生は、今の僕の主治医なんだ」
「どっか悪いのか?」
「ううん……よく、分かんない」
 (あ……そういえば)
 いま分かった。玲那と百合は、どことなく似ている。
 (なあんだぁ……最初から、ずっと近くにいたんだ)
「なに笑ってんだ?」
「ううん、何でもないよ!」
 {……くそ!! 可愛いじゃねえか}
 心の笑顔が眩しくて、清十郎には直視できなかった。

「――よっと!」
「わあ! なにすんの?! はなせっ!!」
 心が手足をばたつかせて、暴れる。
 大学の最寄り駅について、歩きはじめるとすぐ、大きな水溜りがあったのだ。
 清十郎は何気なく、心を抱え上げてしまった。
 {軽いな……}
 それにものすごく、柔らかい。まるで、仔猫でも抱き上げたようだ。
「ほい、着地っと――機嫌直せって」
 心は真っ赤な顔で、そっぽを向いたままだ。
「バカにして、バカにして……なんだよ、なんだよぅ」
「悪かったよ。でもな、汚れるよりいいだろ? お前、あの水溜り越せたか?」
「それは、そうだけど」
 たしかに、いまの心では難しい。『心』の身体では……いくらバネがあっても、サイズの問題がある。
「大学で、何を調べるんだ? もとに戻る方法か?」
 無理矢理に話題を変える。
「まさか、違うよ」
 構内に入ってすぐ、心は図書館へと向かっていく。
「調べたいのは、卒業アルバム。前年度の、ね――ちょっと待ってて、トイレ」
「小便か?」
「大声で聞かないでよ……恥ずかしいなあ」
「何を女みたいな――あ、いや、その」
「いいよ、『か・ら・だ』だけは女の子だから――ほんとは、ムカつくけど」
 トイレで心は絶句した。噂には聞いていたが、女子トイレがここまで汚いとは……これなら、男子トイレの方が数段まともだ。
 さっさと用をたして、清十郎のところに戻る。
 こちらに歩いてくる心に、清十郎は見惚れてしまう。やはり、可愛い。たしかに心は男のときから、『きれい』なヤツではあった。顔立ちもスタイルも、とても整っていた。
 当然のことだが、清十郎には男色の気などない。だから、妙な目で心を見たことはない。
 例えるなら彫刻とか、絵画とか、美術品でも鑑賞するようなつもりで『きれい』だと思ってきた。
 百合がことある毎に、心のことを『きれい』・『かわいい』・『美しい』というのを笑いながら、こころの中ではそれに賛同してきた。それを表に出さなかっただけだ。
 ――そうであったのだが、いまは違う。どうしても違ってしまうのだ。
 清十郎は男で、心は身体だけとはいえ、女だ。
 意識するなという方が無理というもの、ましてや、心は異常なまでに整い過ぎている。
 気を抜くと、衝動的に抱き締めてしまいそうだ。
 {本当に、本当に女なのか?}
 あの身体を、隅から隅まで調べてみたい。そんな考えが頭から離れない。
「待たせたね。……どうした?」
「ん、何でもねえ。それより、アルバムなんか調べてどうすんだ?」
「ゼミの集合写真があるんだ。そこに、僕が写ってるはずなんだけど――」
 黒姫 心という『男』が、この世に存在した証拠を確かめにきた。そういうことだ。
 アルバムはすぐ見つかった。集合写真もそこにあった。
 だが、いない。心は写っていない。
「いない、ね。僕、写ってないね――清十郎、僕はどうしたらいい?」
 心の肩が、小刻みに震えている。自分の身体を抱き締めて、心は震えている。
 涙こそ流していないが、心は泣いている。間違いない。
 清十郎の大きな手が、心の肩に乗せられた。続いて頭にも。ぐりぐりと、力いっぱい撫でてくる。
 いつかの、あの日のように。
「大丈夫だ。お前のことは、俺が覚えてる。お前は確かにいた。今もいる、俺の目の前に。
 まだ、高校の写真も名簿もある。ジムにもある。俺が調べてやる。俺が一緒だ」
「せい、じゅうろ……お」
 ぽろぽろと、心の瞳から涙がこぼれる。
 むかし心という男は、百合という女の胸に抱かれて泣いた。
 そしていま、女の子になった心は、清十郎という男の胸で泣いている。
 あの頃、百合にしかできなかったこと、いまは清十郎にもできること――
 {守ってやる。いくらでも、気の済むまで泣かせてやる}
 あの頃の百合の気持ちが、いまようやく、清十郎にもわかる。
 『男と女』が……どうしても邪魔をする。

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