「のど渇いたな――何がいい? コーヒーか?」
「あ、コーヒーは…おしっこ、行きたくなっちゃうから……」
「そうか。じゃあ、カフェインの入ってないヤツ、適当に選んでいいか?」
「うん」
あのあとしばらく経つのに、いまだにまともに顔を見れない。
清十郎は素早く立ち上がると、心の方をろくに見もせずに走っていった。
彼もまだ、照れくさいのだろうか?
昼時ということもあって、清十郎の向かった先、自販機はどこも混雑している。
{はやく! はやくしやがれ! 心を、あいつを一人にできるか!!}
露骨に苛立ち、それを隠そうともしない清十郎。
逞しい大男が傍目にもはっきりと分かる怒気を全身にまとい、無言で立つ威圧感は凄まじい。
自然と、彼の周りから人が退いてゆく。
いま心は大学構内の、日当たりの良い裏庭にいる。
ちょうど良い木陰がいくつもあって、普段からよく利用するところだ。
(そうか、ほとんど半月ぶりなんだ……)
周囲の風景がなんとなく夏っぽくなって、空もずいぶん高くなっている。
青空を眺めながら、心は先ほどのことを思い返している。
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心の顔にぶちまけた自らの精液を、清十郎は小さめのハンカチで優しく拭き取る。
「よーし、よし。そうだ、目を閉じてな」
デリケートな心の肌を決して傷めることのないように、丁寧に、丁寧に。
顔が綺麗になると、次は大きめのハンカチをもう一枚取り出し、『お花』にそっとあてがう。
「…ぁあ……やぁ…いやぁ」
顔を真っ赤にして、心はイヤイヤをする。
「大丈夫だよ。きれいにするだけだから、な?」
「……いや」
心は恥ずかしくて堪らない。
視線を逸らして、決して合わせようとしない。
{可愛いな……ほんとに可愛い。守ってやる。ずっと、ずっとだ}
やさしく押し当てて、布地の上からすりすり、うにゅうにゅと触って愛液をしみ込ませる。
「んぅ? あ、あ、んん……もうダメぇ、触っちゃイヤぁ」
まるで心の『お花』を型取りするかのように、版画でも刷るように、執拗に弄りながら拭き取っていく。
膣口から布地をほんの少し押し込み、胎内にまで潜り込ませるようにして愛液を拭う。
すっかりきれいになると、下着を引き上げてやる。
そこでふと手を止め、鼻先を押し付けて心の匂いを嗅ぐ。
「甘い匂いがするな、ミルクの匂いだ――おいしそうだ」
「やめて、やめろよ……もう、やめてよぉ」
「分かってる。もう、なんにもしない。今日は、な……」
最後はほとんど聞こえないような、小さな声で呟いた。
レザーパンツを穿かせてやると、やさしげに微笑んでいう。
「ここでちょっと待ってろ。荷物、持って来るからな?」
「うん」
まだ、目を合わせられない。
心は気付いていないが、清十郎は愛液がたっぷり滲み込んだハンカチを、懐に仕舞い込んでいる。
一体『何に』使うつもりなのか……
ちなみに清十郎がハンカチを数枚もっていたのは、何も偶然ではない。
彼の生家の流派には、布切れ、正式にはいわゆる『手拭い』を用いた一連の技法があるのだ。
大きめのハンカチは手拭いの代わりであり、彼はいつも二・三枚は持ち歩いている。
本来は暗器であるそれは、思いもかけないかたちで収納されている。
それにもし見つかったところで、所詮は布に過ぎない。
ではあるが、彼にとっては、合法的に武器を持ち歩くに等しい。
布地一枚あれば、清十郎は刃物を持った相手でも、軽くあしらう事が出来る。
その手の護身術の類でよくある、刃物を持った手に巻きつけて……などという、そんなものではない。
ふわり、と被せるだけで簡単に刃先を逸らし、無力化してしまう。
まるで魔法のように。
男だったとき、心は実際に見せてもらい、いくつかは教えてもらったりもした。
さすがに清十郎のようにはいかぬが、多少は遣えるようにもなった。
同時に、彼の凄さをまざまざと見せ付けられ、恐ろしさを実感させられた。
割り箸、紐、紙切れ、その辺りに落ちている小枝……それだけで十分、清十郎は人殺しも可能だ。
素手での闘争など、その実力の一部に過ぎない。
本当の本気で、何でもありで遣り合ったなら、決して勝てない。
嶋岡 清十郎は、そういう男だ。
だからだろう、清十郎は自身の力を理解しており、それ故にいつでも根本の部分で冷静だった。
なのに、その彼が言ったのだ――
「声を出すな! 出しちゃ、駄目だよ? 人がきたら、そいつを殺すことになる……」
――心はいま、清十郎が恐ろしい。
昔から、清十郎は心に対してやさしい。それは今も相変わらず、いや、より一層やさしい。
だからこそ、恐ろしくてたまらない。
「――ほら、お前のだ」
心のウエストバッグを差し出す。
「ありがと……トイレ、いってくる」
「またか?」
「うん」
「そうか……女の子だもんな。顔とか、きれいにしたいよな」
「……」
今度は小用ではなく、他の用があった。すっかり落ちてしまった日焼け止めを塗るのだ。
この二週間で、心はUVケアを忘れずに、きちんとするよう愛に習慣付けさせられた。
顔を洗って、きれいに拭い終える。鏡には、潤んだ瞳の少女が映っている。
確かに、いまの自分は十分に可愛いのだろう。でも、周りが騒ぐほどに『魅力』があるとは思えない。
心の好みは、いまの自分自身とはまるで違うタイプなのだ。それに所詮は『自分』だ。
大きな溜息を一つ。
日焼け止めをきちんと塗って、さっさと清十郎のところに戻った。
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ぼんやりと空を見上げる、子猫のような心。
ぺたりと、膝を閉じてその間にお尻を落とし込んで座る、いわゆる女の子座りだ。
「――あの? ちょっといいかなぁ?」
声の方を振り向くと、少年、いや青年が二人。
どちらもいまどきの若者といった風体で、悪く言えば軽薄そうな雰囲気だ。
「君、キャンパス見学かな? もしよかったら、俺達で案内するよ? ね、どう?」
そんなもの、必要なわけがない。ここは心の通っていた大学なのだ。
それに、いくら『戻って』いようと、心とて莫迦ではない。
この二人に下心があるだろうことぐらいは、なんとなく分かる。
(面倒くさいなぁ)
どのように断ったものか……心はしばし、考え込む。
――と、不意に心は笑顔をみせる。
まるで蕾がほころんで、花を咲かせようとするような、可愛らしい微笑みだ。
{おいおい! ひょっとして――}
これは、承諾の笑顔ではないのか? 若者たちは色めき立つ。
だが、少女の視線は彼らの背後、身長より若干高い位置に注がれている。
「?――」
怪訝に思った二人が振り向いたところ、すなわちその背後には……
分厚く広い胸板が見える。視線をあげると無表情な顔。なかなかに整った男前だ。
その中心に端座する二つの眼が、あくまで冷たく、傲然と二人を見下ろしている。
何より雄弁に、その視線は語りかけてくる。
{失せろ……殺すぞ?}
「連れに、何か用かな?」
低く落ち着いた、静かな声音だ。だがそこに、底知れぬ『力』を感じさせる。
「「い、いえ! 何でも、ありません!」」
そそくさと、二人は去っていく。少し離れた辺りから、猛然と走りだした。
よほどに恐ろしかったものとみえる。
「なんだあれは――何かされなかったか? 大丈夫か?」
こちらの豹変ぶりも、かなり可笑しい。心はつい、笑ってしまう。
「大丈夫、だよ。 ……ありがと」
ようやく二人は目を合わせることができた。
「ほら、スポーツドリンクだけど、いいか?」
「うん、ありがと」
笑顔で受け取る。
清十郎は心の隣に腰を下ろした。
しばらく無言で、二人は空を見上げる。
「いい、天気だな……」
「そうだね」
不意に、清十郎の手が伸びてきて、心の手に重ねられた。
ビクンッと、心の身体が強張る。
「……」
「女の子、なんだな。本当に、女の子だった……」
とても寂しそうな声。もしかして泣いているのではないかと、そう感じられるくらいに。
彼が泣いているのを、心は見たことがない。友人たちの誰に聞いても、見たことがないと言う。
清十郎自身、泣いたことは数えるほどだと、いつ泣いたのかもよく思い出せないと、
「お袋が死んだ時ぐらいだな、覚えてるのは」
こんなことすら言っていた。
その清十郎が、泣いている。涙はこぼしていないけれど、泣いている。
なぜだろうか、いまの心には、そのことが確信できる。
「ごめんな。ごめん。俺、酷いことしちまった。苦しんでるお前を、追い込んで……すまん」
いまの心と一緒では、清十郎はどうしても冷静ではいられなくなってしまう。
だが、ほんのしばらく一人になったことで、清十郎は落ち着きを取り戻していた。
飲み物を買うその間で、彼は改めて、現在の心が置かれた状況を考えることができたのだ。
もしも自分が、ある日突然、非力な女の子になってしまったら?
元々、心も清十郎も体格の差こそあれ、男として十分に恃みとするに足る、『力』の持ち主だ。
その男の肉体という武器を、鎧を剥ぎ取られる。
しかも意識は、記憶は本来の自分のまま。
それは如何程に恐ろしく、こころ細いものであろうか。想像を絶する。
もっとも精神の点については、心の場合、どこまで本来の彼のままなのかは分からないのだが……
――物の本でよくいう、『技』があれば身を守る術になる云々、と。
心も清十郎も、その『技』に関しては多少の心得がある。
『技』は精神と身体の双方に刻まれるもの。
脳の思い描くとおり動くように、身体と神経に動きを刷り込んでゆく。
それはやがて意識せずとも、反射的に繰り出せるところまで高められていく。
しかし、最終的に人間の身体を操るのは脳であり、意識だ。
だからたとえ女の子になったとしても、心が心である限り、『技』は繰り出せるのかもしれない。
現に、ずいぶん女の子らしくなっているとはいえ、心の身のこなしの根本部分は、以前の彼のものだ。
そうではあってもやはり、いまの心の身体では『技』は『遣え』ないといえるだろう。
想像すればいい、健康な一人前の男と、非力な女の子が、全く同じ動作で拳を繰り出す場面を。
どちらがより、『遣え』るのかは明らかだ。
ましてや今の心は、女の子としても非力な部類なのだ。
要するに多少の心得など、非力な身体では何の役にも立たない。
武門の家に生まれ、育ってきた清十郎であるが故に、そのことが骨の髄まで分かっている――
そんな状態にある心を、清十郎は無理矢理に犯した。
たとえ厳密には処女を奪わなかったとはいえ、信頼を裏切り、欲望のままに蹂躙したのだ。
「ごめん。ごめん。本当にすまなかった。許してくれ、心」
広く大きな背中を丸めるようにして、謝り続ける清十郎。
心には彼の大きな身体が、とても小さな子供のように感じられた。
(…清十郎…)
音も無く立ち上がると、心は清十郎に歩み寄り、彼の頭を抱き締めた。
「――心?」
「いいよ、許す。ボクが無用心だったのは、事実だし――それに、君は…本当には、犯さなかった」
清十郎の頭を抱き締めて、胸に押し付けながら、心は百合のことを思い出していた。
あのころ自分もこうやって、彼女の胸で泣いたのだ。それに、
(さっきは、君が泣かせてくれた。だから、お返しだよ……)
男は女の、女は男の胸で、はじめて素直に泣けるのかもしれない、心はそんなことを考えている。
今日は不思議なほどに、頭がすっきりしていることも感じている。
そうなのだ、どういうわけか、今日の心は『戻る』のも『帰る』のも、とてもはやいのだ。
いまはほとんど本来の心に『帰って』いる。
「すまない、心。ありがとう」
清十郎の右目から、涙が一筋こぼれていった。
「だけど、もう二度と……あんなこと、しないでよ?」
「――それは、約束できねえなぁ」
急にいつもの調子に戻って、清十郎は心を抱き締める。
そのまま心の小さな胸に顔を埋めて、ぐりぐりと押し付けてくる。
「ひぁ?! あ…ん! 莫迦ぁ! この、調子にのるなぁ!!」
清十郎の頭を抱え直し、両肘を彼の鎖骨にがっちり食い込ますと、素早く膝蹴りを見舞う。
角度、スピードとも申し分の無い、鋭い一撃だ。
すんでのところで両手を使い、清十郎はこれをガードした。
{危ねェ……いや、やっぱり、駄目だな}
本来ならば、ガードが間に合うこともないはずなのだ。
それに防いだところで、ガードの上からでも、ダメージは必至の威力を持っていたはず。
なのにガードは間に合い、清十郎にダメージもない。
技のタイミングも、申し分なかったのに、だ。
「清十郎の莫迦ぁ!」
心は隙をついて離れた。真っ赤になって胸を隠している。
実は清十郎、ブラジャーのホックを外していた。
「ん〜〜、この…なんつーか、小っちゃいくせに、すんげぇやわらかいなぁ…ごちそうさん」
不意に真顔に戻る。
「相変わらずだな。安心したよ、技のキレは前以上かもな……だが――」
「――威力がまるでない、でしょ?」
心も真顔になる。
「多少は手加減してくれたんだろう? じゃなきゃガードは間に合わねぇ」
「いいや。ガードさせるのに、タイミングは待ったけど、あれで目一杯だよ……」
「そうか……って待てよ! 目一杯、本気でやったのか!? 酷ぇ……」
「効かないの、分かってたから……それに、ガードさせるのが目的だもん」
両手を使わせて、離れるのが目的だった。そういうことだ。
{なるほどねぇ……けど、なあ}
清十郎が思っていたより、心はずっとしっかりしていた。
それは分かったが、この非力さがあまりにも不安だ。
「なあ、心。くれぐれも、気を付けろよ?」
「分かってる……大事な『女の子』には誰にも、指一本触れさせない」
真っ赤になって恥ずかしそうにいうのだ。
「そうだ、俺以外には絶対に触らせるなよ」
何故か胸を張って、自信に満ちたようすで言う清十郎。
「違う、違う。それ違う。君にも、だーれにも触らせないよーだ」
少しづつ、いつもの二人に戻っていく。
「それにね……ほら! これ」
「確か、そいつは」
心がウエストバッグから取り出したのは、件のスロウイングナイフだ。
それが三本、ベルト状の革のホルダーに並んでいる。
「備えあれば憂いなし、だよ」
「なるほど……」
これの扱いを心に教えたのは、他ならぬ清十郎だ。故に心の腕前は、よく承知している。
心のウエストバッグは、分厚い革製のバイカースものだ。
その大きめのポケットにナイフは収められており、いつでもすぐ、取り出せるようになっている。
「さっきは、バッグごと置いてきちゃったから、使えなかったけど……」
「俺にも使う気なのか? それを?」
「当たり前! いま一番危ないのは、君だよ?」
確かに、その通りではある。
「へいへい……分かったよ。もういたずらしない、約束する」
「本当?」
「ああ、本当だ」
ようやくいつものように、二人は笑い合う。
「腹、空かないか?」
「そういえば、お昼過ぎてるね……」
「何にする?」
「今日はもちろん、おごりだよね?」
可愛らしく微笑んで、清十郎の顔をのぞき込んでくる。
「ああ、おごるよ。さっきご馳走になったお返しだ」
「……莫迦」
ふたたび真っ赤になって、心はうつむいてしまう。
「で? 何がいいのかなぁ?」
にやにや笑いながら、清十郎は心の頭を撫でてくる。
「んーと、ね――あ、危ない」
清十郎の頭があった空間を、何かが物凄い勢いで薙いでゆく。
女の物のバッグだ。それをすんでのところでかわした清十郎が振り向く。
「このぉ! 痴れ者がぁー!!」
間髪入れずに、スニーカーの靴底が顔面に向かってくる。
ガードした清十郎に、再びバッグが叩きこまれる。
見事な連撃だ。
「この! 清十郎の浮気者ぉ!! ロリコン!!」
「待てぇ!! 落ち着け! 落ち着いてくれぇ! 頼む! 透子、透子さぁん!」
************************************************
「――いやねぇ、もう、私ったら。取り乱しちゃって……」
彼女は杉原 透子、清十郎の恋人だ。
「それにしても、あの心くんが……こんなに可愛くなっちゃって」
いいつつ、心の髪を撫でてくる。
「おい、いい加減にしろ……」
清十郎は仏頂面だ。彼の左頬は真っ赤になっている。透子にさきほど一発くらったのだ。
それに透子は、心のことを説明されて分かってからずっと、心にベタベタし通しである。
「なによ? 焼きもち? それともさっきのこと? ごめんねって言ってるじゃない」
「大体なんで、俺の話をキチンと聞かんのだ…いきなり引っ叩きやがって……」
ぶつぶつと文句をいう。清十郎はさきほどからこの調子だ。
「それは、いつも清ちゃんが浮気ばっかりするから……それに、この子が心くんだなんて、普通考えないし――ねぇ、心くん?」
「ボクに聞かれても……」
透子が言う事はもっともだし、清十郎の気持ちも分からないではないが……
実際のところ、清十郎が先ほど浮気らしきものをしたことは、秘密にしておくべきだろう。
「そういえば、どうして今日、透子ちゃんがここにいるの?」
彼女は金曜日には講義をいれていない、大学にくる必要はないはずだ。
「あ、たまたまゼミの教授に相談ごとがあってね」
「進路のこと?」
「ええ、そう」
彼女と心は同じゼミに所属している。偶然そうなっただけだが、それ以前から二人は知り合いだった。
元々は入学から間もないころ、透子の方から心に声をかけたのが始まりだ。
心は大検を取得後も、すぐには進学せず、ジム通いとバイトに専念していた。
清十郎や百合が大学に進学して、その一年遅れでようやく進学した。
恋の強い勧めを、断りきれなかったためだ。
進学するまでの間で、心はその筋で多少は知られるようになっていた。
透子はその手の格闘技の興行を観戦するのが趣味の一つだった。
そのため心を知っており、声をかけてきたのだ。
清十郎と透子を引き合わせたのは心だった。いや、引き合わせ『させられた』というべきだろう。
心は清十郎と違って、人付き合いは苦手だ。それに大学へは、とりあえず通っていただけに過ぎない。
だから透子が心とまともに友人になれたのは、ひとえに彼女自身の押しの強さのおかげだといえた。
その点で、清十郎と透子は似たもの同士なカップルだ。
「可愛いわねぇ……私さ、こういう、いまの心くんみたいな妹が欲しかったのよね……」
抱きついて、頬をふにふにとつついてくる。
「あの、あの透子ちゃん? やめて……清十郎、怒ってるし……」
清十郎は仏頂面のままだ。
いまの彼がいったいどちらに、どの様な焼きもちを焼いているのか、分かったものではない。
おそらくは彼女が、親友とベタベタするのが気に入らないのだろうが……
「いいのよ。普段は浮気ばっかりしてるんだから、たまには焼きもちくらい」
英雄、色を好むとはよく言ったものだ。
女性については来るもの拒まずなところがある清十郎は、ちょくちょく浮気をする。
その度に心は、二人の仲裁をする羽目になっていた。
とはいえ、清十郎は決して『本気』にはならない。結局いつも帰るのは透子のところだ。
そういった意味で、安心して見ていられる。夫婦のような二人なのだ。
――だったのだが、心はいま、なんとなく不安を感じている。今日の清十郎は、おかしい――
「ねえ、心くん。頼みがあるんだけど」
「なに?」
「私のこと……お姉ちゃんって、呼んでくれない、かな?」
「え……」
「お願い! ね、いいでしょう? へるもんじゃないし、ね?」
「恥ずかしいよ……」
透子は心を拝んだ格好のままで、動かない。
「じゃあ、一回だけだよ? ……お姉…ちゃん」
「ああん! もう一回! 今度は名前もいって、ね?」
「……透子お姉ちゃん」
「きゃー!! もう、もうこの子は、この子は、可愛いんだからぁ!」
抱きついて胸に顔を押し付けられた。窒息しそうだ。
「……苦しい、苦しいよぉ」
「透子! いい加減にしろよ! 死んじまうだろうが!!」
「あ、ごめんね、心くん――ううん、心ちゃんがいいわ! そうよ、これからは心ちゃんって呼ばせてね?」
「え…?…いやだよ。恥ずかしいから、止めてよ」
「駄目です。もう決めました。今日からあなたは心ちゃんよ」
この辺りの無理矢理な強引さが、まさに清十郎といっしょなのだ。
「おい、心をからかうの止めろって。こいつにとっちゃ大問題なんだぞ? 洒落にならん」
「そんなこと言っても、仏頂面して唸ってたって、心ちゃんは元に戻らないでしょ?」
「まあ、確かにそうだが……」
「ね? だったら少しは今を楽しまないと、ね?」
「おもしろいのは……君たちだけじゃないか! ボクは全然おもしろくないよ!」
さすがに心も不機嫌にもなろうというものだ。
「ふふふ……じゃあ、こういうのは?」
透子は心に耳打ちする。清十郎には聞こえないように、だ。
「……ねえ、ほんとにやるの?」
「そうよ。ほら、心ちゃんはやく」
心は恥ずかしそうに、上目遣いで清十郎を見つめる。
「ん、なんだ。なんだよ、俺になにかする気か?」
「清十郎…お兄ちゃん」
「な!? な、な、なにを……心、お前……」
清十郎は真っ赤になってぶつぶつと何事かを呟いている。
照れている。清十郎は照れている、間違いない。
彼が照れるのを、初めてみた。長い付き合いで、初めてだ。
(これは、面白いかも……)
「ほらほら、もっと呼んであげたら?」
心は悪戯っぽく笑うと、さらに続ける。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「ば、莫迦野郎! 止めろ、止めろ! 気色悪いっての!!」
「嫌いじゃないくせに、こういうの」
透子は人の悪い笑みを浮かべていう。
「くそ! 透子、お前、下らないこと吹き込みやがって!!」
「よかったわね? 私たち、こんなに可愛い妹分ができて……ね?」
「お兄ちゃん……ロリコンなの?」
さらに心は畳み掛ける。
「くそ! くそう!! ちくしょー!!」
{うわぁあああ〜!! 可愛いなあ……心、可愛いなあ}
心に『お兄ちゃん』と呼ばれるたび、興奮でクラクラする。
清十郎には、年下好みなところがある。
透子にしても実際の年齢からして、1歳年下であるし、彼女の外見も、どことなく幼い。
童顔で、身長こそ低くはないものの、胸も小さめで細い身体つき、ボーイッシュな雰囲気も漂う。
そういう趣味の清十郎にとって、いまの心はどういう存在か……
簡単に想像がつくだろう。
それを分かっているから、透子は心にこれをやらせたのだ。
彼女からの明確な、清十郎に対する牽制とみて良い。
「お兄ちゃん♪ おにーちゃん♪」
「くそっ! くそぉ!!」
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しばらく二人で清十郎をからかって、心の気も随分と晴れた。
清十郎もまんざらでないどころか、じつは逆に喜んでいたのだから、八方丸く収まったといえよう。
「――それで? 今日はこれからどうするの?」
「あのね、これからちょうどお昼にするとこだよ」
「そっか、じゃあ私も」
「うん、そうしよう。今日は、清十郎のおごりなんだ」
「やっぱり当然よね。だって社会人は清ちゃんだけだし、甲斐性ってのを見せないと、ね?」
「ね?」
すっかり女の子同士の会話だ。
{なんでこいつらは、俺を無視して話を進めるんだ?}
清十郎、置いてきぼりである。
もともと男のときから心は、男とより女の子との方が話しやすく、打ち解けやすかった。
同性の友人は清十郎が現れるまでいなかったうえ、姉と妹に挟まれていたのだ。
ある意味で当然、無理もないと言えよう。だがそれが、心のコンプレックスの一つでもあった。
{でも、可愛いから、いいか}
清十郎が感じているとおり、今はそれがまるで違和感なく、ごく自然にみえる。
最初からこうなるよう、予め決められていたかのように。
「で? 飯は何にするんだ?」
「んー? Pでカレーとか、どう?」
「あ……ごめん。カレーはダメなんだ」
「どうして? 心ちゃん、好きだったじゃない?」
確かに心はカレーが、いや辛い物、特に激辛物はだいたいが好物だった。
だが、いまは食べられない。辛い物といわず、刺激の強い物はほぼすべて、身体が受け付けない。
味が濃くても大丈夫なのは、甘い物くらいだ。
この身体は、あらゆる刺激に対して、とにかく敏感なのだ。
裏を返せば、それだけ感覚が鋭敏で鋭いともいえるのだが、あまり慰めにはならない。
「辛いもの、食べられなくなっちゃった。だから、ごめん」
「私こそ、ごめんね。つらいのは、心ちゃんだもんね」
透子はもう心のことを、ちゃん付けで呼ぶことを止めるつもりはないのだろう。
「どんなモンならいいんだ?」
心はこの二週間で、何が食べられるのか大体は試している。
とはいえ、この間で口にしたものは、ほとんどが愛の手作りの家庭料理だ。
しかも手の込んだ、小洒落たものばかりだった。
何を食べたか、食べられるのかを試したことを聞いていた、清十郎と透子の表情は複雑だ。
一人暮らしの二人にしてみれば、羨ましい事この上ない。
「――それでね、久しぶりに食べたいものが、あるんだけど……」
二人をうかがうような上目遣いで、見つめてくる心。
「何だ?」
「言ってみて、なあに?」
「あのね、ラーメン……」
「ハァ?!」
「清ちゃん! 何よその態度は!」
「だってお前……自慢だか何だか分からん話を延々聞かされた挙句に、ラーメンだぞ?」
さすがに清十郎は呆れ顔だ。それを見て、心の表情が曇る。
「…だって…だって、家にずっといて、一人じゃ出かけさせてもらえなかったし、姉さんと出かけても、そういうものは食べさせてもらえなかったから……」
心はこの二週間で二回ほど、恋の『お付き合い』に同行していた。
その時に外食をしたのだが、いずれも料亭での懐石だった。
「いいのよ、心ちゃん。今日はラーメンにしましょうね」
保護欲を掻き立てられたのだろうか、透子は心を抱き締めると、頭を撫でてくる。
「まあ……いいか。んで、どこで食うんだ?」
「まかせて! 今から行けば、ちょうど源の開店時間よ」
「源って、屋台じゃねえか。場所分かるのか?」
「チェックしてないと思う? この私が――」
透子はそういうところで非常にまめというか、ぬかりない。
「んじゃ、行くか」
立ち上がった清十郎に、心の声がかかる。
「あ、あの、ありがとう。それと……トイレ行ってくるから、ちょっとだけ、待って」
「またか?! ほんとに近いな――痛ッ!」
透子が清十郎の頭を小突いた。
「清ちゃん!! 女の子にそういうこと言わない!」
「いいよ……ほんとのことだから。この身体になってから、その、多いんだ……」
もじもじと恥ずかしそうに、心は言った。
「別に、恥ずかしがることないわ――私もいく」
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