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 ズダァアアン!!!!
 ぶち砕かんばかりの勢いで、木製の分厚いドアが開け放たれる。
 味があるといえば聞こえはいいが、正直にいえば、ただ古臭いだけの館の一角がビリビリと震えた。
「…………」
 カツン カツン カツン カツン カツン カツン カツン カツン カツン カツン カツン  
 足音を響かせて部屋へと侵入してきたのは、愛だ。
 まわりの風景が歪んでみえるほどの、濃密な何かが、彼女の全身から噴き出している。
 愛の態度から、それは明らかに『怒り』なのであろうと想像できる。
 ――だが待て、怒りが目に見えるオーラになった、とでもいうのか?
「あらあら、はしたないですよ?」
 一方、部屋の主のほうは、のほほんとしたものだ。
 愛のすさまじい怒りを、真正面から受け流し、恋は微笑んでいる。
「恋姉……わかってるんでしょう? 聞こえてたんでしょう? ――呼んでる。心が、呼んでる」
 意外に静かな声で、愛はつづける。
「あんなにはっきり呼んでたのに、恋姉に聞こえてないワケないよね? 『助けて、お姉ちゃん助けて』って……こんなに強いの、『あの時』以来だよ? どうして? なんで平気な顔してんの?」
 怒りを無理矢理に噛み殺し、静かに問いかける愛の口元は、かすかに痙攣している。

「『どうして?』ですって? 決まっているでしょう? あなたの方こそ、わかっているはずですよ? 
《お方》様のご意思を、はっきりと『感じて』いるはずでしょう?」
 革張りの椅子を鳴らして、恋は作業していたデスクから離れ、愛の方へと歩み寄る。
「わかってるわよ!! だけど、いくら《お方》様のご意思だって、耐えられるわけないじゃない!!」
 愛の全身から噴きだすものが、さらに密度を増していく。
「アイツだよ? 心を助けたのは、いま一緒にいるのは、あの龍鬼なのよ? アイツのせいで、心がどれだけ酷い目に遭ってきたか忘れたわけじゃないでしょう? 恋姉には、今も『視えて』るんじゃないの?」
「ええ、もちろん視えていますよ」
 あくまで微笑みを絶やさず、穏やかな恋。
 愛の表情に、変化が現れる。小刻みに震えていた口元が、ピタリと動きを止めた。
「――でしょうね。姉さんはそれはそれは『器用』ですからねぇ。目も耳も、そして『力』も、すべて私の方が優れているけれど、あなたには『外法』がある。今こうしている間にも、あなたは観ているのだろう? ヤツに、龍鬼に、心が辱められている、その様を――何故だ? どうして取り澄ましていられる? 答えろ、姉者」
 表情のみを落ち着かせた――いや、落ち着かせたというよりも、無駄だからコントロールするのを切り捨てた、というのが正確な表現だろう――愛の口調が、男っぽいものに変わっていった。
「落ち着きなさい。今は、我慢して」
 微笑みが消え、恋は真顔になる。その瞳に見つめられると、愛のまとう怒りのオーラが、薄れてゆく。
「何故だ……どうしていま、私を『制限』する」
 愛は抗うように、恋の瞳を見つめ返す。

《ならん。ならんぞ。静まれ、黒姫の子らよ》

「「《お方》様!!」」
 瞬きするより短い一瞬で、部屋の中、二人を包む空間のすべてを、闇が満たしている。
「お久しゅうございます。《お方》様御自ら、お声をかけて下されるとは、いつ以来でございましょう」
 恭しく、恋は頭を垂れる。愛も同時に、軽く頭をさげる。
《挨拶なぞいらぬ。我はいつでも、すべてを見ている故な》
「いつもいつも、いつもいつも何故です! どうして、心ばかり――」
「愛! ひかえなさい」
《――良い。もとより礼儀など、お前たちに求めてはおらぬ。いまはまだ、御子を助ける事は、ならん。こたびの役目は、終わってはおらんのだ》
「…お役目…」
 ふたたび『動きだした』顔をゆがめ、苦々しい表情で、愛はつぶやいた。
《うむ。終えるまで、邪魔する事はまかりならん。……愛よ、不満そうだな? 『お役目とはいえ、心だけが何故、度々このような目に遭うのか』とな? 確かにこのようなことは初めてだ。これまでの御子のうち誰一人として、心のような者はいなかった。あれは、ただの御子ではない。心は特別なのだ。我が目的のためにも…それゆえ、な…》
「目的のための、特別な御子――でございますか?」
 初めて聞かされた言葉に、恋は興味をひかれた。
 いま自分たちが対話している存在が、目指すものとは何なのか?
 『御子』つまり『お役目』に選ばれた者である、というだけで特別なはずなのに、その上さらに『特別』とは、いったい?
 この存在に従っている自分たちは、何ひとつ知らされてはいないのだ。
《知らずとも、よい事だ。――それにしても、お前たちがこれ程までに取り乱すとはな。確かに我は、御子のことを第一に考えるように、お前たちを『創った』。だが、それにここまで囚われようとは……いかに強大な力を与えようと、所詮は人間ということか》
 “声”の気配に、わずかな変化がおこる。
「お喜びいただけているようで、何よりでございます」
 恋は、艶然とほほえむ。
《お前には分かるか、恋。確かに、面白い。とても愉快だ》
「いざとなれば、御子のために《お方》様を裏切るやもしれません。そうなったとしても、よろしゅうございますか?」
《良い。それで良い。それでこそ、そのためのお前たちなのだ》
 部屋を満たした闇が、静かに蠢いている。
 面白くて面白くて、愉快で堪らない……そんな気配が、闇の中に広がってゆく。
 ――しかし、
「《お方》様!! いったい、いつになれば御子を、心を助ける許可をいただけるのです!!」
 突然、闇を押し退けるようにして、紅い色が空間に染み出しはじめた。
 その発生源は、愛だ。
 あまりにのんびりした、“声”と恋のやりとりに、愛は焦れていた。
 部屋中が闇に満たされたためなのか、彼女がまとっていたものが、色をもってはっきりとみえる。
 凝った血のような紅――鮮やかでありながら、仄暗く不透明――それもまた、闇なのだ。
 愛の身体から噴き出した紅い闇は、どんどん膨れあがってゆく。
《そう急くな。……ふむ。おそくとも、あと数日のうちに役目は終るであろう。時がくれば追って伝える。それまで、手出しはならんぞ? よいな?》
「はい。確かに承知いたしました」
 すぐさま、恋が答える。愛はうつむいたまま、答えない。
《よいな? 手出しは、ならんぞ?》
 現れたときと同じく一瞬で、闇は消え去った。
 あとに残ったのは、いつもと変わりない書斎――恋の仕事部屋に、恋と愛の二人。

「恋姉、どういうつもり? 数日なんて、今すぐにでも助けなきゃ……心に、何かあったら……」
 愛はコブシをにぎり、ワナワナと震えている。
 激昂する妹を、恋は背後からそっと抱きしめた。
「大丈夫――《お方》様のことですもの、きっとお考えあってのこと。心ちゃんに危険はないはずよ。それに《お方》様は、『手出し』を『待て』と仰っただけ、準備するなとは仰らなかったでしょう?」
「え……? それってどう――」
 ふりかえった愛の唇に、自らのそれを重ねてふさぐ。
 そのまま片手で、机のうえのディスプレイを回転させて、こちらへと向ける。
「これって――」
「ごらんの通り、必要な『道具』の手配はもう済んだわ。打ち直し、こしらえ――双方とも万全のはず。存分にふるってちょうだいね? あなたのための、あなただけの特別な得物なのだから」
「もちろん。楽しませてもらうわ」
「それから、『兵隊』は数をそろえないとね。御子のためですもの、示しがつかないから」
「ふふ、いよいよ完全に『切る』のワケね?」
「さすがに目に余りますからね、今回で最後よ。――明日中には、すべて整うわ」

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