紅き雫、舞い落ちて花  ――― 前編 ―――

                   翠 はるか



 シリンは、荒れ果てた野を前に立ち尽くしていた。
 そこに、かつての面影はない。雪に覆われ、所々から雑草と焼け焦げた柱の跡だけが覗いている。
 分かっていた事とはいえ、胸に甦る苦い思いにシリンは口唇を噛みしめた。
 けれど、こうしなければ。
 シリンはゆっくりと腕を上げながら、挽歌を詠じた。
 ただ一人、百年ぶりの故郷で舞う。
 いつもの惑わせるための舞ではなく、初めて踊る鎮魂の舞を。

 彼女が、京を出ようと決めたのは、もうずいぶんと前のことだった。だが、ここへもう一度来るのに数月を要したため、未だ京に留まっていた。
 だが、ようやくここへ来る心構えができた。この後、もう一つ訪ねれば、それで終わり。
 すぐに京を出、二度と戻ってこない。
 シリンは深閑とした空気を深く吸い、両腕を高く上げた。空へ、雲居へ、天の高みへ。
 この地には、彼女の家族も眠っている。それだけではない。大半の鬼の骸が、この京には眠っている。鬼が京を離れる事ができなかったのも、半分はそのため。それが、地縁というもの。
 シリンは、腕が急に重くなった気がした。
 同朋の魂に、引き止められている気がする。京への恨みを忘れたのかと、責める声がする。それは幻だが、振り切ったはずのシリンの憎悪を鮮やかに甦らせる。ここに来れば、そうなる事は分かっていた。ためらったのはその為だ。だが、ここに人が訪れるのはこれが最後。ここに眠る魂を知る者は誰もいなくなる。
 だから、せめて、最後の鬼の一族として、最後の祀(まつ)りをしようと決めた。そうでなくば、身体は京を出ても、心は京に捕らわれたままになる。
 シリンは目を閉じ、重い腕を引き剥がすように舞を続けた。憎悪をなだめ、無心に踊り続けていると、次第に身体が軽くなってくる。
 白雪の上で、翻る袖が鮮やかな紅い花を咲かせ、人ひとりいない隠れ里に、密かに春をもたらしていた。



 「舞を奉納したい?」
 松尾大社の神主は、突然現れた白拍子の申し出に、かすかに首を傾げた。
 「志は貴い事じゃが…、何かの供養かね?」
 「過日の災厄で亡くなった御魂の慰めに」
 短く答えながら、シリンはじっと神主の言葉を待った。
 院と帝を呪った異形の白拍子は、京中の噂になっている。髪と瞳の色をきちんと染め変えてきたとはいえ、警戒しているだろう。
 ややして、神主が答えた。
 「では、頂戴いたしましょう。しかし、今は祭壇がふさがっておりましてな。半刻ほどお待たせするがよろしいか」
 シリンはほっと息を吐き、頷いた。
 「では、それまで境内を回りなさるか。あちらの控えで待たれるのも良いが」
 「控えで待たせてもらいます」
 神主は頷いて、シリンを自ら控えの間へ案内した。
 途中通った境内は、それなりに人が満ちていた。その辺りにいる者たちは、みな絵馬を手にしている。近くに絵馬を奉納する場所があるのだろう。
 シリンの視線に気付いた神主は、にこやかに笑った。
 「この所の参拝客は、誓願成就を書いていく者が多くなりましてな。以前は、救いを求めるものや、意味のない叫びのようなものばかりだったが」
 シリンは静かに頷いた。
 それは、百鬼夜行の形を取った絶望を、彼らが昇華したためだろう。
 とは言え、人の心から、絶望が消える事はない。また、同じ事が繰り返される可能性もある。だが、心の強さを失わなければ、絶望に支配される事はない。それをやり通せれば京人は生き、できなければ絶える。それは、自分が決める事ではない。
 シリンは目線を前に戻し、控えの間へ向かった。
 やがて着いた控えの間は、大社の名に恥じず立派なもので、シリンは広々とした室内の一隅に腰を落ち着けた。
 「祭壇が空いたら知らせを寄越そう。しかし、今日も冷えるの。熱い茶でも進ぜよう」
 神主は人の良さげな笑みを浮かべて、シリンを見る。対して、彼女は軽く一礼する。
 「いえ、気遣いなく」
 「よいよい。昨今、人のために祈る者は貴重じゃからな。丁重に扱って、罰は当たるまいよ」
 その言葉に、シリンは苦笑めいた笑みを浮かべた。
 自分だとて、まさかこんな事をする日が来るとは思っていなかった。人のために舞う、それもあれほど憎んだ京人への舞を。
 決して、京の人間を許した訳ではない。だが、京での自分に決着をつけておきたかった。少しでも、気にかかる事を、この地に残したくない。
 シリンは静かに目を閉じた。
 だが、舞っている間は、無心に舞おう。隠れ里でそうしたように。



 シリンが舞い終えると、それまで警戒していた者たちも、感嘆の声を上げて、彼女の側に寄ってきた。
 「これは、滅多に見られぬ見事なものでしたな。大きな功徳になるでしょう」
 「いやはや、御魂だけでなく、我らの心も和むようだ」
 「どうも」
 適当に答えながら、シリンは壁際に一人だけ動かない男を見つけた。長身で、被衣を目深に被っているため顔は見えない。だが、さして気に止めず、シリンは目線を戻した。
 「それでは、あたしはこれで」
 「もう行かれるか。長い舞を終えた後だ、疲れているでしょう。何か、飲み物なりと用意しますが」
 「いえ、舞を許してくれただけで充分ですので」
 シリンは一礼し、なおも言い募る神官たちを軽くあしらって、社を出て行った。
 これで、本当に終わりだ。

 「シリン」
 そう呼びかけられたのは、松尾大社を出て少しした所だった。
 聞き覚えのある声に、シリンの眉が寄せられる。
 「どうして、あんたがここにいるのさ」
 言いながら振り返ると、思った通り、地の白虎であった男が、長い髪と裾をなびかせながら立っている。今日は縹色の着物を身につけており、その色には見覚えがあった。
 「あんた、さっき祭壇にいた…」
 「ああ、気付いていたかい」
 「どうして、あんな所にいたのさ」
 内々の事だから、あの場にいたのは、神官だけだと思っていたのに。いつの間に、紛れ込んだのやら。
 翡翠が笑みを浮かべる。
 「私は、人ごみが嫌いではないのでね。大社にそれを求めてきたら、美しい白拍子が舞を奉納しに来たという話が耳に入ったという訳だ」
 「それで、覗き見かい? 趣味が悪いね。言っておくけど、あたしの舞は高いんだよ。こそこそと覗かれるのは不愉快だ」
 「そう。では、代価を支払わねばならないね」
 「は?」
 「私もひとつ、君が望むものを贈ろう」
 言って、翡翠はシリンを促し、身を翻した。そのまま歩き進んでいく彼に、シリンは慌てて声をかける。
 「ちょっと、あんた。どこ行くんだい?」
 「代価を支払うと言っただろう」
 「今からかい? 冗談じゃない、あたしは、これから京を出るんだよ。あんたに付き合ってる暇はないんだ」
 「では、無料にしてくれるのかい?」
 くすりと笑われ、シリンはぐっと詰まった。これは、この男の手だ。分かってはいるが、引き下がるのは癪だ。
 「ふん。それじゃ、あたしが宝珠の枝が欲しいと言えば、取ってくるのかい?」
 「それが、真実、君の望むものならばね」
 「…………」
 翡翠は、黙り込んだシリンを優しく見つめ、再び歩き出した。
 シリンは少し迷った後、その後をついていく。
 別に、彼とは、義理を感じるほどの仲ではない。だから、断らないのは、自分も望んでいるからなのだろう。

 しばらくして、翡翠が足を止め、空を見上げた。
 「何だか、雲行きが怪しくなってきたね」
 シリンも空に目を向ける。急速に雲が黒く垂れ込め、強雨の来訪を感じさせた。
 「これは、もたないかな」
 その言葉通り、空は次第に暗さを増していった。自然、早足になったが間に合わず、まだ洛西を抜け切らない内に、大粒の雨がこぼれ落ちてきた。
 「ちっ。やっぱり、あんたの誘いは、ろくな事にならないね」
 ともに走り出しながら、シリンが毒づく。翡翠はくすりと笑うと、上着を脱いで彼女の頭に被せた。
 「シリン、これを被っているといい」
 「当然の配慮だね。遠慮なく借りるよ」
 翡翠は頷き、道の先に目を向けた。京に来てから、あちこち歩き回ったおかげで、この辺りの地理は、大体頭に入っていた。道沿いに走り続け、途中で、小道に入り込む。
 「何かあるのかい?」
 「この道の奥に、小さな社がある。そこで、一時の宿を借りよう」
 「ふうん。居心地は悪そうだが、仕方ないね」
 少し走ると、彼の言った通り、小さな鳥居が見えた。そこを通り抜け、社殿に飛び込んだ時には、二人はだいぶ濡れてしまっていた。
 「まったく、ひどい目にあったよ」
 「しかし、これで、雪解けも間近だろうね。さて、火を用意しようか。ろうそくくらいしかないだろうが」
 そう言って、翡翠が物入れを探っている間に、シリンは社殿の中を見回した。
 古ぼけてはいるが、建物はまだしっかりしていて、雨漏りもなかった。参拝客用なのか、座布も幾つか揃えられている。
 「いつも、こういう所に女を連れ込んでる訳かい?」
 翡翠が振り返らずに、笑い返す。
 「口が悪いね。私も故郷を離れて宿無しの身だから、こういう所はありがたいんだよ。ああ、あった」
 翡翠は、見つけた箱からろうそくを取り出し、一緒に揃えられていた火種で火を点した。逆さにして、床に蝋をたらすと、そこにろうそくを立てる。
 ないよりましという程度の明かりだったが、暗がりに沈んだ部屋が、その周囲だけぼうっと照らし出される。
 「これでいいだろう。まあ、それに、こういう所には、大抵あるからね」
 「何がだい?」
 翡翠は笑みを浮かべると、直接には答えず、奥の神棚に向かって歩き出した。黙って見ていると、彼は神棚の前に置いてあった白いとっくりと盃を取り上げた。そのまま、呆れ顔のシリンの前に戻ってくる。
 「それで、ここに入ったのかい」
 「ふふ。お神酒というものは、なかなかの銘酒が捧げられるからね。このまま埃にまみれて捨てられては、酒も浮かばれないだろう」
 「よく言うよ」
 シリンはいよいよ呆れつつ、近くの座布の埃を払い、腰を降ろす。翡翠も、その向かいに座布を移動させて座った。
 「あいにく、盃はひとつしかないが構わないね?」
 「何だっていいさ」
 「では。最初の一献は譲るよ」
 翡翠は盃に透明な酒を注ぎ、それをシリンに渡した。シリンは黙って受け取り、酒を口に含む。
 冷ややかな液体が、喉を心地良くすべり落ちていく。苦みの中にかすかな甘味が交じり、確かに良い酒だと思った。
 「ほら」
 シリンが盃を返すと、翡翠は酒を満たしてゆっくりと飲み干した。
 交互に盃を交わしながら、言葉すくなに会話をする。しばらく、そんな他愛もない時間を過ごしたが、社殿を打つ雨音は、少しも収まる気配はなかった。
 「この分じゃ、当分、ここで足止めだね」
 「まあ、こういう時には、その場で楽しめることを考えるものさ」
 翡翠はのんびりとした口調で、盃をあおる。シリンは肩をすくめ、両腕を支えに、身体を後ろに傾けた。
 確かに、この雨では山越えは無理だろう。どちらにせよ、京に足止めされる事になっていただろうが。
 「つまらなさそうな顔だねえ。私と過ごすのは退屈かい?」
 「当たり前だろ。あたしは、さっさと京とあんた達からおさらばしたかったんだよ」
 「では、楽しんでもらえるよう、心するとしようか」
 シリンは怪訝そうに、翡翠に目を向ける。
 「やけに饒舌だね。気持ち悪いよ」
 「おや、君はもう少し男女の機微に敏いと思っていたんだが」
 シリンが更に怪訝そうに眉を寄せると、翡翠がくつくつと笑う。
 「分からないかい? 私は、君を口説いているんだよ」
 「はあ? あんた、寝ぼけてるのかい?」
 「いたって正気だよ。それに、私に極上の夢を見せてくれると言ったのは、君のほうだがね」
 シリンは顔をしかめる。
 まだ彼らと対立していた頃、八葉と神子を引き離してやろうと、目の前の男に近付いた。自分に夢中にさせてやろうと思ったのだが、結果はこの通りだ。
 「まあ、その目的は、遅まきだったが達成されたというわけだ」
 「…地の白虎は、ふざけた男ばかりだ」
 「先代とは言え、他の男を引き合いに出されるのは愉快ではないね」
 翡翠はどこか迫力のある笑みを浮かべ、盃に残っていた酒を、シリンの喉元に落とした。冷たい液体は、重力に従ってシリンの身体をすべり、胸元へと流れ落ちていく。
 「何を……」
 するのか、と問う前に、翡翠がシリンの喉に口唇を寄せた。舌で酒の跡をなぞりながら顔を下ろしていき、鎖骨にたまっていた酒を吸い上げる。
 「……っ!」
 シリンの身体が震えた。アクラム以外の男に触れられるのは、彼女の感覚で、数年ぶりの事だ。もちろん、目的達成のために、権力者たちをその身で堕とした事はある。だが、それとは違う。
 シリンは、ぐっと口唇を噛みしめた。
 「…あたしは、からかわれるのは大嫌いだ」
 「そんなつもりはないよ」
 「それじゃ、試されるのは大嫌いだと言おうか?」
 翡翠は小さく声を立てて笑った。
 「そんなつもりもなかった…と言いたいが、そうしていたのかもしれないね。すまなかった」
 翡翠は顔を上げ、自分を見下ろすシリンの口唇に、自分のそれを重ねた。彼女の背に腕を回して抱きしめ、そのまま深くしていく。
 柔らかな唇の感触を味わい、開いた隙間から舌を滑り込ませる。シリンは応えなかったが、抵抗もせず、ただ翡翠の好きにさせている。
 しばらくして口唇を離すと、シリンは厳しい目つきで翡翠を睨みつけた。
 「本気で、あたしを口説こうって言うのかい?」
 「ああ。私にも予想外だったが」
 翡翠は、先ほどの彼女の舞を思い出した。
 全てを洗い流し、再び花弁を開いた花が、こんなにも美しいとは。
 「だが、君も、嫌ではないだろう?」
 ぬけぬけとそんな事を囁くと、シリンがいまいましげに翡翠を見る。
 「その自信は、どこから来るんだい」
 「君は、私について来たからね。心を許してくれているという事だよ」
 「それは……」
 舞の代価を受け取るためだと言いかけるが、シリンはそのまま口を閉ざす。それが、言い訳だと自分が一番よく知っている。
 きっと、京を出る前に、もう一度、この男と話がしたいと思っていた。自分に、道を示した彼と。
 「……シリン」
 翡翠が再びシリンに口接ける。辺りの座布を引き寄せて、簡易な寝床を作り、そこに彼女を横たえる。
 シリンは翡翠を見上げ、腕を伸ばして、その頬を両手で包んだ。
 「代価がまだだよ」
 「ああ、そうだったね。何が望みかな?」
 「…あんたの本心。少しでも心地良い嘘を言えば、蹴り出すよ」
 翡翠は声を上げて笑い、艶めいた目で、彼女を見つめ返した。
 「私は君に惹かれているようだ。きっとね、君はこれからもっと綺麗になるよ。私はそれが見たい」
 「………」
 嘘は許さないと言った通り、その答えには、何かを約束する言葉はなかった。
 だが、シリンは頷いて、翡翠の首筋に両手を回し、彼を引き寄せる。
 応じて、身体を重ねてきた翡翠を抱きしめながら、シリンは初めて、その男の名を呼んだ。
 「……翡翠」
 やまぬ雨音が、二人を柔らかく包んだ。


<続>


 

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