その涯を知らず  ―― 弥生 ――

                  翠 はるか



 朧月夜の美しい春の夜。
 穏やかな夜気が帳を降ろし、月影の至らぬ里はない。
 薄明に照らし出された京は、幽玄な雰囲気を漂わせていた。

 そのおぼろな月光の下、橘友雅は八条近くにある雑木林を歩いていた。
 ここは、友雅の別邸の裏手になっている。その邸は、元は友雅が通っていた女のものだったが、身寄りのないその女が若くして死んだ時、友雅が家人ごと引き受けたのだった。
 この林は寂寞とした中に凛とした空気が張り詰めていて、煩わしい物事を忘れるのに適している。彼の気に入りの場のひとつだった。
 とは言え、そう度々訪れる訳ではない。ましてや、こんな夜中に出歩く事などほとんどない。
 だから、彼が今夜ここへ赴いたのは、ほんの気まぐれ。それだけのために、彼はそれと出会ってしまった。

「――――?」
 友雅はふと足を止めた。武官である彼の鋭敏な感覚が、何かの気配を捉えたのだ。
 夜ともなれば、八条辺りは夜盗も徘徊する物騒なところ。それを警戒して、心持ち身体を緊張させて辺りの様子を窺う。もっとも、それと承知で供もつけずに歩いているのだから、友雅の酔狂ぶりも大したものと言える。
 しかし、しばらく辺りを窺ってみたものの、それきり何の気配も感じなかった。
 気のせい…か?
 友雅はなお辺りを窺う。その時、どこからか花の芳香が漂ってきた。
 覚えがある香りに、記憶をたどってみる。
 ……これは…金木犀? まさか、あれは秋の花だ。
 香りの元を追って、友雅は身体を反転させる。陰った木の連なりが見えるだけだ。だが、その一角に、うら寂しい林にふさわしくない鮮やかな色を捉えた。
 目を凝らしてみると、木陰からちらちらと見え隠れするそれは衣のようだった。やはり、人がいるらしいが、近づいてくる様子はない。友雅は逡巡したが、すぐに自分から気配を殺して近づいていった。
 先に進むにつれ、友雅は身体の緊張を解いていく。段々とはっきりしていく気配は荒々しいものではない。少なくとも賊の類ではないようだった。
 そのまま、友雅はある程度近づいたところで足を止めた。木陰に身を隠して、人影のいる方向を覗き込む。
 そして、目を見開いた。
 そこにいたのは一人の少女だった。
 こんな時刻、このような場所に少女がいるというだけでおかしな状況だが、それより更に友雅を驚かせたものがある。
 少女は淡い桜色の着物に身を包み、角髪(みずら)のように髪を結っていた。白い肌に、濡れたような漆黒の瞳と桃色の口唇が映える。美しい少女だった。
 そして、その前には橙黄色の小花をつけた木があった。涼やかな香りを放つそれは、やはり金木犀だ。春に咲くはずのない。
 友雅が思わず身を乗り出す。
 不可思議な光景に、身体が自然に動いていた。
 降り注ぐ月光が結界のように彼女を包み、そこだけ世界が切り取られたかのようだ。
 咲くはずのない花を前に微笑む少女。
 まるで、人ならぬ者。
 近づきがたく、清麗で、例えようもなく美しい。
 友雅は確かにその瞬間、目を奪われ、周囲の状況を忘れた。思わず一歩を踏み出し、足元で草を踏む音がしたが、それにも気付かない。また、その音が耳に届いただろうに、少女も身じろぎすらしなかった。
 降るように小花を散らす金木犀を、ただ愛しげに見つめる。
 その光景はどれくらい続いたのか、群雲がいつの間にか月を完全に隠し、月光が途切れた。その瞬間、少女の姿がかき消えた。
「――――!?」
 友雅は目を瞬かせた。だが、少女の姿はどこにも見出せなかった。そこは、いつもの通り寂しい林で、木々の間を風が吹き抜けるばかりだ。
 友雅は木陰から出て、少女がいた場所に立った。そこには金木犀の木があった。ただし、花の跡はどこにもない。
 …神の散策にでも出くわしたか。
 友雅は先ほど見た光景を思い出し、そんなことを思った。それほどに貴かった。
 だが、神と呼ぶには余りにもひそやかな存在だった。
 一体、今のは……。
 友雅は思考に耽りかけて、ふと己の鼓動が高鳴っている事に気づいた。思わず苦笑する。不可思議な出来事に遭遇して興奮している。こんなに心躍るのはどれくらいぶりだろう。
 生きていれば、こういう面白い事もあるのだね。
 友雅は邸へ引き返すことにした。これ以上、ここにいても何も起こりそうにない。
 その時、雲が切れて、再び顔を出した月が帰り道を照らした。


 それ以来、友雅がその林を訪れる回数は多くなった。鬱陶しい気分を払拭したいときには、その林を選ぶようになったという程度のものだが、あの神乙女との再会を期待していることは間違いない。
 心躍るものを日常に見出せない友雅にとっては、あの邂逅は単に美姫を見つけた以上の刺激があった。新しい玩具に喜ぶ子供にも似ている。けれど、夢中になるには、彼は退屈に慣れてしまっていて、思い出したように訪れたくなるという程度の影響にしかならなかったが。
 しかし、「神」との遭遇は、やはり得やすいものではなかった。
 友雅は、何の気配もない林を見渡し、小さく息をついた。
 …やはり、あれは一夜の夢だったのだね。
 あのはっきりとした感覚は夢や幻ではありえない。だが、正体も分からず、二度と会えないのなら夢と同じだ。
 友雅は興を失って、別邸へ戻ることにした。気に入っていた林の雰囲気も、もう彼を引き止める力を持たない。あの邂逅の後では、色褪せて見える。
 ひいきの地ひとつと引きかえに見た夢だったのかもしれないな。
 そんなつまらない事を思う。
 だが、それもいいかもしれない。夢は夢のまま。月光の見せた幻に踊らされたと考えるのも。
 友雅の姿が、やがて林から消える。人の気配の絶えた林は寂々と静まり返っており、木々の落とす暗がりは、風でその姿を変え、魍魎のようにも見える。こんな中に少女がいたなど、やはり夢のような話だ。月に惑った者が見た夢。
 だが、その夢は一夜きりのものとはならなかった。


―― 続 ――


 

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