「殿。もう一献いかがですか?」
「…ああ、もらおうか」
友雅は、女房に手にしていた盃を差し出した。注がれる酒に月が映り、水面とともにゆらゆらと揺れる。
歪んだ月…。
友雅は揺らめく月をしばし眺めた後、水面がなだらかになる直前に盃をあおった。
冷えた液体が、喉を焼きながら滑り落ちていく。 友雅はその夜、八条の邸に来ていた。
方違えに訪れたのだが、ちょうど望月の晩だったので、簀子に出て女房相手に月見酒を嗜んでいるところだ。
彼女は気が利いていて気心も知れている、気に入っている女房の一人だ。酒も程よく回っている。しかし、艶めいた気分にはならなかった。
「…君、もう下がって構わないよ。私ももう少し月を楽しんだら休むから」
友雅が夜空を見上げながら、女房に告げた。彼女は一瞬目を細めた後、提子(ひさげ)を置く。
「さようでございますか。では、高杯だけお下げしておきます」
「ああ、ありがとう」
女房は酒の肴を乗せていた高杯を片づけながら、そっと主の顔を窺い見た。
友雅は空の盃を手に、冴え渡る望月を眺めている。見慣れた光景だが、今日の彼は少し様子が違う。いや、今日だけでなく、以前来た時もそうだった。
何をしていても、いつも何かに気を取られている。友雅とは、以前の女主人の元に彼が通ってきた日からの付き合いとなるが、いつも飄々として掴みどころがなく、こんな風にはっきりと行動が読めるのは珍しい。
とは言え、簡単に踏み込ませないところは相変わらずで、何が彼の心を捉えているかまでは窺い知ることはできない。
「…どうした? 手が止まっているが」
「あ…、失礼しました」
いつの間にか考え込んでしまっていたようだ。女は手早く高杯を重ねると、立ち上がった。
「それでは、私はこれで」
「ああ、ご苦労だったね」
女房が一礼して下がっていく。向きを変える時に、彼女の着物の裾が翻り、衣にたきしめていた香がふわりと漂った。
「……荷葉、か」
「はい? 何か仰せられましたか?」
「いや、何でもない。下がっていいよ」
「はい」
女房が再度礼をして、廊下を歩き去っていく。その背を見ながら、友雅は苦笑を禁じえなかった。
香りに敏感になっている。あの夜のように、ふと漂う香りに反応せずにいられない。
春の夜に漂った金木犀の香り。友雅は、数月経った今でも、あれを追い求めている。
…一夜の夢にいつまでも惹かれているのは、よほど人生に飽いているという事か。それとも、手に入らぬものだから、手に入れたくなっているだけか。
人には何物にも捕らわれないと言われるが、その実は、何にも興味が持てないだけ。心が熱くなったことなど、ここ数年来、ついぞ記憶にない。
このまま、ゆるゆると朽ちていくのが自分には似合いかもしれない。己の死すら興味が持てない。むしろ、この心の空ろを拭い去ってくれるものなら、安んじてそれを待とうと思う。それとも、もっと踏み込んで死の深淵を覗き込んでみれば、何か見えるだろうか。
友雅は小さく笑った。
…ああ、なんだ、単純なことだ。あの少女は一時の間、空ろを忘れさせてくれた。だから、求めてしまう。
何も求めていないと言いつつ、やはり、この心を埋めてくれるものを探しているという事か。
「人とは、いじましいものだね…」
友雅は苦笑混じりに呟き、目を閉じた。今夜は少し風が強い。酒で上気した頬を、裏の林から抜けてくる風が冷やしてくれる。目を閉じると、それがいっそう心地良く感じられる。
そうやって夜風を楽しんでいると、ひときわ強い風が林を抜けてきた。髪が頬に絡み、友雅はうるさげにそれを払う。そして、はっとした。
一瞬だが、風の吹きぬけた後に、かすかな香りを感じた。涼やかな花の…、金木犀の。
しかし、それを感じたのは本当に一瞬のことで、既に強風はやみ、香りもしない。気にかける余りに幻香をかいだのかもしれない。しかし。
友雅は林に視線を向けた。木々の合間を先の見えない深い闇が埋め、深淵が口を開いて待っているかのようだ。こんな中になら、何がひそんでいても不思議ではないかもしれない。
友雅は、ゆっくりと立ち上がった。
月明かりを頼りに、友雅は少女と出会った地へ向かっていた。
林を進むと、進むだけ香りが強くなっていく。
先ほど感じた香りは、やはり幻ではなかった。今でははっきりと感じる。この季節には似つかわしくない花の香りを。
自然、早足になる。夜とはいえ、歩きなれた地のこと。大した苦もなくその場所近くまでたどりついた。
そこで、友雅ははっと足を止める。
木々の合間に、着物の裾が見えた。風に翻る薄萌黄。
そっと、そちらへ近づいていく。ひとつ木を通り過ぎるたびに視界が開けていき、やがてその光景をあらわにした。
―――彼女だ。
友雅は立ち止まった。
花を降らせる金木犀。そのむせ返るような香り。まばゆいばかりの月光。それらに包まれ、彼女がいる。
月光をまとい、ただ花だけを愛しげに見つめている。
……綺麗、だ。
この間より驚きが少ない分、彼女の僅かな動きにも目が行く。舞うように散る花を追う腕。長い髪が揺れて、肢体をすべる様。
見惚れる彼の前に、橙黄色の小花が風で流されてきた。ひらりと空を舞うそれは、友雅の前まで来たところで、その姿を消す。はっとして、花に注意を向けてみると、散った花はいずれも木から離れて少し経つと、その身を消していた。
…やはり、あれは幻なのだろうか。
夜に現れ、闇に消えていく花。
…触れてみようか。
ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。
触れれば分かる。いっそ、ここで彼女の前に姿を現し、そのまま捕まえてしまおうか。
思わず手に力がこもる。だが、友雅はすぐにその手をゆるめた。
確かに、幻かどうか触れれば分かる。だが、そうしたくなかった。幻ならば、触れた瞬間に消えてしまうだろう。せっかく見つけた彼女を消したくない。どちらにせよ、いずれは消えてしまうだろうが、今はまだ見ていたい。
友雅は視線を花と戯れる少女へと戻す。
少女は友雅の思考など知らず、相変わらず舞うように花を追っている。彼女が動くたびに髪が揺れて、月光を孕んでつややかに光る。
…そういえば。
友雅は夜空を見上げた。深い群青の空に、望月がまばゆく輝いている。
以前、彼女を見かけた時も望月の晩だった。朧月のかそけき光に包まれて、彼女は儚げな、人ならざる者のような美しさをかもし出していた。
…もしかしたら、この少女は望月の晩だけ現れるのだろうか。
たった二度の邂逅では断言できない。だが、彼女には確かに月の光がよく似合う。月から降りてきた月夜見(つくよみ)の姫と言われても納得できる風情だ。それに、前に出会ったとき、彼女は月が隠れると同時に姿を消したのだ。
友雅はふと微笑んだ。
そんなこと、今はいい。彼女が幻であれ何であれ構わない。彼女が私の前にいる。そのほうがずっと重要だ。
友雅はそのまま彼女の姿が消えるまで、そこに立っていた。
―――また、望月の晩に来てみよう。
―― 続 ――
|