その涯を知らず  ―― その後 〜 如月(1) ――

                  翠 はるか



 友雅の考えは当たっていた。少女は望月の晩に姿を現す。虫の気配さえ静まる深夜に現れ、一時過ごして消えていく。
 それが分かってからは、友雅は望月の晩には八条の邸に泊まるようになった。金木犀が香る頃になると出かけ、彼女の舞う様を己一人を観客に眺める。
 そんな一方的な逢瀬は、半年あまり続いた。


「如月」

 二人の関係が崩れたのは、彼女を知って二度目の春。やはり、朧月の美しい夜のことだった。
 いつものように林へ出かけた友雅は、少女がいるはずの場所を覗いて、目を見開いた。
 彼女が金木犀の前に立っている。それはいつも通り。だが、様子が全然違う。
 いつもふわふわと漂う花を追っている両腕で、今は自身の身体を抱きしめている。顔を伏せ、背を丸め、まるで苦しんでいるようだ。それに、金木犀も咲いていない。
「……う…」
 不意に声が響き、友雅はどきりとした。少女の声だと理解するのに少しかかる。彼女が声を発するなど、初めての事だった。
「あ…ああ……」
 更に、少女は声を漏らす。容貌に違わず澄んだ声だ。苦しみの声であるにも関わらず。
 そして、友雅は彼女の様子が違う最大の理由に気づく。彼女のまとう雰囲気が違うのだ。
 今までの彼女は、月光に包まれた様子が、まるで神気をまとっているようだった。
 その近づきがたい雰囲気がない。そこにいるのは、嘆き苦しむ―――人。
 存在がひどく現実的で、今ならば触れても消える事はないだろうと思われる。
「……ふ…っ…」
 固まったように少女を見続ける友雅の前で、少女がよろめいてがくりと膝をついた。そのまま崩れ落ちていきそうな様子に、友雅は弾かれたように木陰から出て行った。
 予想通り、彼女の身体がくず折れる。友雅は腕を伸ばし、かろうじて地につく直前に少女を抱きとめた。その瞬間、触れた部分から少女の体温が伝わる。
 確かに感じる肢体の感触に、友雅は動揺を隠せなかった。
 一方、少女も驚いたように友雅を振り返った。だが、彼の姿を認めると、ほっと身体の緊張を解く。
「あなたなの…」
 納得したような口調に、友雅は更に驚いた。
「私を知っているのかい?」
「ええ。いつもその木陰にいたでしょう」
 少女は淡々と言って、それきり口を閉ざした。
 友雅はその言葉と少女の表情で理解した。
 ―――彼女は友雅に興味がないのだ。
 友雅は苦いものが胸に染みていくのを感じた。
 彼女にとっては、友雅の存在はその辺の木石と同程度の価値しか有していないのだろう。気付いていても視線さえ向けない、いてもいなくても同じもの。自分は触れる事さえためらわずにいられなかったと言うのに。それが、ひどく腹立たしく、悔しい。
 友雅の手に力がこもる。だが、そんな事には気付かぬげに、少女はあらぬ方向に目を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「……もうすぐ―――が来るのね…」
「え?」
 小さな呟きは、側にいても聞き取れなかった。だが、友雅が問い返す前に、どこからか突風が吹いて少女の周りを包んだ。乱流に友雅がひるんで腕を緩めた瞬間、少女の身体は僅かに浮き上がり、かき消える。
「待ちなさ…っ!」
 友雅が声を上げるが、もう遅い。その場には、もう何も残っていなかった。友雅の腕に残る体温以外は。
 …行ってしまったか。
 彼女との別れは、いつも唐突だ。だが、今日のそれは少し意味が違う。
 友雅はしばらく考え込んだ後、立ち上がった。
 今夜は、彼女はもう来ない。

 邸に戻ると、友雅は疲れたように、簀子に腰を降ろした。
 朧月が己を照らす姿を、苦い思いで見つめる。
 …触れてはいけない禁域を犯した気がする。
 この短い間に、ただ邂逅を楽しみにしていた気持ちが、苦く焦げ付くような気持ちに変わってしまっている。
 恐らく、彼女に触れたのでなければ、こうはならなかっただろうに。
 幻ならば、それに対する気持ちも泡沫のようなもので済んだ。だが、あれは人だった。血の通った女性だった。
「…………」
 友雅は静かに首を振り、深みにはまりそうな思想をとどめた。まだ、見たくないものを見ないで済ます事ができた。
 …今夜は休むか。
 友雅は小さく息をつくと、立ち上がって部屋へ向かった。
 夢路には彼女は訪れない。彼女は友雅に興味がないのだから。


―― 続 ――


さて、ここからです(;;。

あと、最後の文の意味ですが。この時代は、夢に誰かが出てくるのは、
その相手が自分を思って、夢路を通ってきているのだという俗信があっ
たのです。今と逆の考えですね。だから、「彼女は夢には出てこない」と。

 

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