わたしの黒騎士様

間違いだらけの恋愛指南

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 【1】

 私の本職は黒騎士団副団長だが、副業で小説家もどきのようなこともしている。
 小説といっても、私はすでに用意された場面を書くことのみに集中できるので、小説家を名乗ることもおこがましく、このことは誰にも言っていない。もちろん家族や友人にもだ。
 それに内密にと釘を刺されてもいる。
 私と他二名で構成されている、ヴァイオレット=キャンベルと名乗る小説家の正体は、外部に決して漏れてはいけない秘密事項なのである。
 出版社でもこの事実を知る者は、編集長と担当の二名だけだ。

 我々の担当編集者はデビュー前から変わっておらず、レジーナ=フローリーという女性がついている。
 メガネをかけ、毅然とした態度の隙のない才媛。
 彼女の第一印象はそれだった。
 年は三十路に突入目前だが、未だ独身。
 そのことを口にすると、激しく機嫌を損ねるので、極力触れないようにしている。

 フローリー女史はエミリア姫に自らの出版社の書籍を届けるという名目で王宮に出入りしている。
 いや、以前は名目ではなくそれが本来の目的だったそうだ。
 それが縁で、編集者と作家という関係になったのだから、世の中何が起こるかわからないものだ。




 次回作の打ち合わせがあるという日。
 私にも同席するようにと連絡が来た。
 いつもはプロットが出来上がるまで呼び出されたことはないのだが、なぜか今回は違っていた。

 エミリア姫が人払いをされたので、部屋には四人しかいない。
 円形のテーブルを囲み、私の正面に姫、左手にマーカス、右手にフローリー女史が座っている。
 フローリー女史は御前に召されるに相応しい貴婦人の装いをしており、優美な雰囲気を漂わせていた。

「本日はお忙しい中をお集まりいただいて申し訳ありません。ですが、グレン様とマーカス様に少々ご質問させていただきたいことがありまして」

 女史はメガネの位置を直しながら、探るような目で我々を順繰りに見やった。

「以前から気になっていたことなのですが、やはり必要かと思いお尋ねします。お二方には恋愛の経験がおありですか?」

 思いもよらない問いに、私はうろたえた。
 恋愛の経験?
 玄人相手の体の経験ならあるのだが、この場で求められている答えはそのような即物的なものではなく、あくまで精神的なものである。
 他人の恋愛遍歴ならすらすらと出てくるというのに、深く過去を溯ってみても、そういった色気のある話はもちろん、初恋の甘酸っぱい思い出すらなかった。
 幼い頃から私の興味を引くものは山のようにあり、あまり自身の色恋には関心がなかったのだ。

「いや、私は……、その……」
「ございませんのね?」

 あたふたと答えに詰まっていると、フローリー女史は疑問系ながら断定して、マーカスへと視線を動かした。

「ありません」

 マーカスの答えはきっぱり短く明快だった。
 我々の答えは予想の範疇だったのか、フローリー女史は落胆も呆れもしていない。
 ただ、片頬に手を当てて、考え込む仕草をした。

「姫様は仕方がありませんが、架空の物語とはいえ、あなた方が書いているのは恋愛小説。誰一人として恋愛の経験がないというのは、この先の作品の成長にも関わってくるのではと思うのです」

 それは一理ある。
 フィクションの世界でも、多少のリアリティは必要だ。

「ここはお二方、特にマーカス様に実際の恋愛を経験していただければ、もっと素晴らしいお話が書けるのではと私は考えたのです」

 ああ、そういうことか。
 確かに……って、ええっ!?

 私は驚いて、姫とマーカスに視線を向けた。
 姫はぽかんと口を開けていたが、マーカスは無表情だ。
 いや、あの顔の下では驚いているのかもしれない。

「レジーナ、それは……。それに恋愛とは、相手のいることだし……」

 口を挟んだのはエミリア姫で、ことがことだけに歯切れの悪い口調で意見する。

「あら、いえ。本当にしなくてもいいんですのよ。擬似恋愛とでも言いましょうか、雰囲気だけでもいいんです。想像力を広げるための体験ですわ」

 しかし、具体的にどうすればいいのだ?
 女性と擬似的にお付き合いできる場所といえば、裏通りや貧民街近くにあるのだが……。

「グレン様、今いかがわしいお店を想像されませんでした?」

 女史に指摘されて、ドキンと心臓が鳴った。
 ち、違ったのか。
 では、一体どういった方法で体験させようというのか。

「ヴァイオレット=キャンベルの騎士と乙女シリーズは、少女が読む健全な小説です。男女の生々しい肉欲の影などちらつかせてはなりませんのよ。必要なのは、乙女の胸をドキドキさせるシチュエーション。行為は最後に軽く口づけ程度でいいのです。重要なのはそこに至るまでの心の動き、そして素敵な殿方に想われ愛し合う、読者が共感できるヒロインを描くことなのですわ!」

 フローリー女史の熱弁に、我々三人は思わず拍手を送っていた。

「……ですが、口づけの経験ぐらいは欲しいところですわね」

 フローリー女史はそう呟き、思案顔で我々の方を見た。
 とても嫌な予感がしてきたぞ。

「姫様にしてもらうわけにはまいりませんものね。王族……、いえ、乙女の唇は真に愛し合う男性に差し上げるものなのですから」

 当然、自分も除外と、女史は小声で付け足した。

「そういうわけです、グレン様、マーカス様。さあ、ここは一つ、お二人でぶちゅーっと熱く唇を重ねて……」
「できるかぁーっ!」

 あまりのことにツッコミが声に出ていた。
 テーブルを両手で叩き、女史に詰め寄る。

「男の唇も守られて然るべきでしょう! それこそ性差別だ! 男女平等万歳!」

 フローリー女史は私の剣幕に恐れをなしたのか、メガネの蔓を持ち、あからさまな仕草で視線を逸らした。

「いやですわ、冗談でしたのよ、冗談」

 ほほほほほっと、女史はあさっての方を向いて笑っているが、さっきの発言は明らかに本気だった。
 危ない所だった。
 気をつけないと、作品のためだと何をさせられるかわかったものではない。




 気まずい空気に救いの手を差し伸べるがごとく、ノックの音が聞こえた。
 人払いをしていたはずなのに来客がきたためか、姫は怪訝な面持ちで扉に向かって声をかけた。

「誰じゃ」
「エミリア、私だ。入ってもいいかい?」

 姫を呼び捨てにする落ち着いた若い男の声。
 そのような声の持ち主は、この世に一人しかおられない。
 ロシュア王国王太子殿下である、第一王子ヴィンセント様だ。

「兄上か、お入りになられてもよろしいぞ。その代わり、お一人でどうぞ。警護ならマーカスとグレンがおりますゆえ、他の近衛騎士は部屋の前で待たせてくだされ」
「わかった。聞こえたな、お前達はここで待て」
「はっ」

 殿下の声と、それに応じる騎士の声。
 ふと、フローリー女史がうっとりとした眼差しでドアを見つめていることに気がついた。

「ああ、ついに本物を間近で見ることが叶うのですね。今の命じるお声も素敵……。毅然としていながら穏やかさを備えた頼もしさ。やはり王子×騎士の絡みが王道かしら? はぁはぁ、妄想が止まりませんわ、王子萌え〜」

 萌えとか、絡みとか、なにやら耳慣れない単語を呟き、女史は興奮気味に殿下の登場を待ち構えていた。
 あわよくば殿下の妾妃に納まろうと企んでいるのかと訝ったが、それとも違うようだ。
 どちらかというと、熱狂的なファンが対象に群がっていくような感じか?

 ドアが開いた途端、飛び掛らんばかりの女史に気を配りながら、殿下の入室を見守る。
 扉は静かに開き、我らが未来の指導者はそのお姿を現した。

 齢十九のヴィンセント様は、エミリア姫と同じく金の髪とエメラルドグリーンの瞳を持つ、長身で細身の美男子だ。
 常に余裕たっぷりで、冷静な分析により導き出した指針を持って臣下を統べておられる。
 細身といっても身体は自己鍛錬により逞しく鍛えられ、王子の正装の下には健康的でしっかりと筋肉のついた体が隠されている。
 剣の腕前も、刺客を返り討ちにできるぐらいには修練を積まれていた。
 私も何度か手合わせをしたが、すでに手加減など必要ないほどで、その上達振りには目を見張るものがあった。

 おっと、まずい。
 臣下の我々が座って王子を出迎えるわけにはいかない。

 マーカスと目配せし合って、同時に席を立ち、殿下の方を向き、敬礼の姿勢を取る。
 姫もゆっくりと腰をお上げになった。
 フローリー女史の立ち上がる気配もした。

「きゃー、生王子、素敵ーっ!」

 突如、フローリー女史の絶叫が聞こえ、どたんと床に何かが打ちつけられる音が聞こえた。
 ハッとしてそちらを見やると、鼻血を出した女史が床に転がっていた。

「し、刺客か? 殿下、こちらに早く! マーカスは姫をお守りするんだ!」

 慌てて殿下を背に庇おうと動いたが、守るべき人にぐっと肩を掴まれた。

「落ち着け、グレン。そちらのご婦人は興奮のあまり失神なさっただけだ。刺客の仕業なんかじゃない」

 冷静な口調で諭され、女史の手首を取り、脈をみた。
 とくとくと正常に脈打っている。
 確かに気を失っているだけだ。
 ああ、情けない。
 ふいの出来事に取り乱してしまうとは。

 殿下はハンカチを取り出して、女史の鼻血を拭いた。
 姫と二人で介抱を始めてしまい、私は何をしていいのかわからなくて様子を見ていた。

「生王子とか言っていたがどういう意味なのでしょうな? たまにレジーナはよくわからないことを言うのです」
「本物という意味かな? どちらにしても面白い人だ」

 兄妹は仲良く談笑しつつ、女史を起こした。
 幸い、彼女はすぐに意識を取り戻し、殿下と姫に非礼を詫びた。

「申し訳ございません。憧れのヴィンセント様とお会いできて舞い上がってしまって……」
「貴女は私のファンなのかな? 気を失うほど喜んでくれて嬉しいよ」
「ああ、想像通りの貴公子様。生に勝るものはありませんわ」

 女史はハンカチで鼻を押さえながら、うっとりと殿下を見つめた。
 ハンカチが赤く染まっていく。
 まだ鼻血が出ているのだろう。

「ところでエミリア、人払いまでして何を話していたのかな? よからぬ企みではないだろうね?」

 殿下はにっこり微笑みを浮かべながら、不穏な質問を口にされた。
 エミリア姫は顔をしかめ、諦めた様子でため息をついた。

「兄上に隠し事をしても良いことはありませんからな。正直に言いましょう。まずはこれを見てくだされ」

 姫はヴァイオレット=キャンベルの最新作を取り出して、殿下に渡した。
 本を受け取った殿下はページをめくって、ふむと頷いた。

「へえ、騎士と乙女のロマンスね。この作家は知っているよ、慈善家で有名だもの」
「これを書いているのはわらわと、ここにいるグレンとマーカスなのです」
「ああ、そうなんだ」

 殿下はさほど衝撃を受けなかったようだ。
 姫が我々の役割などを説明しても、平然と聞いておられた。

「……と、いうわけで、我々は恋愛の体験をしたいのです」

 姫が事情を話し終えると、殿下は本を閉じてテーブルの上に置かれた。

「事情はわかった。実体験により近い経験であればいいんだね。それならお手本を見ればいいのではないかな? 身近なカップルを観察するのもいいだろう」
「おお、さすが兄上! では、さっそくまいりましょう!」

 カップルの観察?
 何だかおかしなことになってきたな。




 我々は王宮を出て白騎士団の敷地に入った。
 殿下を先頭にして一列に続いていく。
 途中、すれ違った白騎士達から奇異の目で見られたが、殿下と姫の堂々とした態度に、彼らはあっけに取られて見送るばかり。
 誰にも声をかけられることも、用事を尋ねられることもなく、我々は敷地内の庭を歩いていた。

「あ、いたいた。声を潜めて隠れるんだ」

 殿下の合図で茂みに隠れる。
 目的のカップルをさっそく発見したらしい。
 木の陰に隠れてこそこそ移動していくと、人の気配がしてきた。

「あふ……、うん……、やぁ……」

 情事に耽る艶やかな喘ぎ声が聞こえてくる。
 ここは騎士団の敷地内だ。
 女性などいないのが前提の場所であり、するとそこにいるのは同性カップルか?
 恐る恐る覗き見ると、木陰で白い制服が絡み合っているのが見えた。

「やだ、アーサー様。ここじゃ誰かに見られます……」
「大丈夫だって、キスだけにするから」

 木陰でイチャついていたのは、メイスンとエルマーだった。
 エルマーの制服は襟元が肌蹴られ、白い喉が露わになっている。
 メイスンは彼女の唇にキスを繰り返し、服の上から尻を撫でまわしたり、胸を触ったりしていた。

 次第に激しさを増していく口づけに、見物人である我々の緊張も高まる。
 ごくりと唾を飲み込む音は、誰のものであったのだろう。

「うわっ!」

 身を乗り出しすぎたか、エミリア姫が茂みの中から二人の前に転がり出てしまった。
 姫の後を追ってマーカスが飛び出し、次いで我々も出て行かざるおえなくなった。

 気まずい沈黙が流れる。
 静寂を破って動いたのはエルマーだった。

「いやあああああーっ!」

 見る間に顔を赤くした彼女は、メイスンを力一杯突き飛ばすと走り去った。
 パニックを起こしているに違いない。
 情事の現場に覗きが五人もいたのだから。

「あーあ、せっかくいい雰囲気だったのに」

 取り残された格好になったメイスンが、乱れた服を直しつつぼやいた。
 残念がる彼に、殿下が声をかける。

「悪かったね、アーサー。邪魔をする気はなかったんだ。恋愛の勉強のためにこっそり覗かせてもらおうとしたんだけど……」
「私は構いませんが、エルはあの通りの恥ずかしがり屋さんですからね。でも、そこがかわいいんです」

 メイスンは惚気を混ぜて、殿下ににこりと微笑み返した。

「美青年騎士に迫られる美少年従騎士……。食指が動きますわ。次回の新刊のネタはこれで行こうかしら?」

 私の背後でフローリー女史がぶつぶつ呟いている。
 何の新刊だろう?
 深く聞くのは怖いので、聞かなかった振りをしておく。

「恋愛の勉強ですか。そういえば、今日はレオンとキャロルが街でデートをしているはずですよ。行ってみたらどうです?」

 メイスンが次の参考にできそうなカップルを紹介してくれた。
 ああ、そういえば、今日の日付で二人揃って休みをとっていたな。
 新たな情報を得て、我々は街に繰り出した。




「街では私のことは名前で呼んでくれ。エミリアについてもそのつもりで」

 騎士団の敷地を出てすぐに、ヴィンセント様から指示が出た。
 私とマーカスは私服に着替え、殿下と姫も街を歩く一般人と同様の服装に着替えて、変装済みだ。

 さて、まずはレオンとキャロルを探さねば。

 二人は苦もなく見つかった。
 おしゃれなカフェに入り、二人掛けの席で楽しそうに語らっていた。
 キャロルはデート用に女装しており、どこから見ても自然な男女のカップルに見える。
 我々は近くの席に座り、観察を開始した。

「レオン、あーんして」

 キャロルが自分のパフェをスプーンにすくって、レオンの口元に持っていく。
 恥ずかしがることなく、差し出されたそれを食べたレオンは、自分の手元にあるケーキを同じようにキャロルに食べさせる。

「おいしいね」
「ああ」

 微笑みを交し合い、二人の世界を作っている。
 何だこのバカップルは。
 見ているこちらが恥ずかしすぎて鳥肌がたってきたぞ。

「いいなぁ、あれがカップルというものか」

 うらやましそうにエミリア姫が呟く。

「エミリアもやってみれば? ちょうどいいからマーカスとデートしてみればいい。お互い初めて同士だろう?」

 殿下がそっと囁いた。
 姫はハッとしたように、兄王子を見て、パッと顔を輝かせた。

「それはいい。マーカス良いな、そなたとわらわでデートをするのじゃ」
「御意」

 マーカスはこくりと頷くと、姫と二人で隣のテーブルに移り、向かい合った。
 そこへ注文したパフェが運ばれてくる。

 二人はレオン達のやりとりをマネて、食べさせあいを始めた。
 まず、エミリア姫がパフェをすくってマーカスの口元に差し出した。

「はい、あなた、あーんして」

 あなた、では新婚夫婦だ。
 ツッコミたくてうずうずしたが、邪魔をしてはならないので堪える。

「お待たせいたしました」

 残りの注文品である人数分のコーヒーを持ってきたウエイトレスが、一瞬だけ不審そうな眼差しを即席カップルに向けて下がっていく。
 やはり、無理があるのか。

「あーん」
「あーん」

 エミリア姫とマーカスは合言葉のように復唱し合いつつ、着々とパフェを片付けている。
 マーカスは棒読み口調なので、甘い雰囲気どころか、奇妙な空気を醸し出して店内の注目を集めていた。
 二人の世界に入り込んでいたレオン達も、さすがにこちらに気づき、驚いた顔を向けてきた。

「グレンじゃないか。それにマーカスと姫も、こんな所で何をやっているんだ?」

 席を立って近づいてきたレオンに問われ、苦笑を返す。
 本当に何をやっているんだろうな……。

「恋愛の体験だよ、レオン」

 代わりに答えたのは、ヴィンセント様だ。
 レオンは殿下に気づくと、顔色を変えた。

「なっ!? で……、殿下!?」
「しーっ。お忍びなんだから、ヴィンセントと呼んでくれないと困るよ、レオン」
「はっ、申し訳ございません!」

 レオンは律儀に謝罪し、頭を下げた。
 彼の後ろからキャロルが顔を出した。

「レオン、どうしたの? そちらの方はグレン様のお友達ですか?」
「わらわの兄上じゃ」

 質問に答えたのはエミリア姫だ。
 キャロルは首を傾げて考え込む仕草をしたが、すぐに気づいて目を丸くした。

「え……、あっ、じゃあ、この方は……!?」
「レオンにも言ったけど、私のことはヴィンセントと呼んでくれ。君がキャロルだね、はじめまして。今日はかわいい妹に、恋愛を体験させてあげるために街に出てきたんだ。今は君達をお手本に食べさせあいっこをしている所だよ」
「食べさせあい……ですか?」

 レオンとキャロルは顔を見合わせて真っ赤になった。
 自分達が観察されていたことに気がついて、恥ずかしくなったんだろう。
 照れるぐらいなら人前でイチャつくのは自重してもらいたいものだ。

「レ、レオン、そろそろ行こうか?」
「あ、ああ、そうだな。では、ヴィンセント様、御前失礼いたします」

 レオンは動転しているのか、いつものクセで敬礼して、キャロルと一緒に慌てたように店を出ていった。

「逃げられてしまったな。観察対象には存在を気取られてはならないということだね」

 優雅にコーヒーを口に運び、殿下はフッと微笑した。
 微笑む殿下の横顔を見て、フローリー女史が血染めのハンカチを鼻に押し当てて目を潤ませた。

「ああ、ヴィンセント様、素敵ですわ。何をなされても絵になるお方。この千載一遇のチャンスを逃さず、お姿を目に焼き付けておかなくては」

 女史は本来の仕事を忘れて、殿下の観察に夢中だ。
 パフェを食べ終わった姫とマーカスは、ナプキンで互いの口を拭きあっている。
 ……これで恋愛の体験ができているのか?
 何か間違っているような気がしてならないのだが、経験がないために強く否定できない我が身を不甲斐なく思った。

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