あなたしか見えなくて

魔王の生贄

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 周囲を覆うのは、冷たい石の床と壁。
 目の前には鉄格子。
 私がこの牢獄に放り込まれたのは数日前のことだった。




 日課となっている夜の散歩に出た時に、空から現れた翼を持つ魔物達に連れ去られた。
 一瞬の出来事で、声を上げる暇もなかった。
 遠ざかっていく地上では、私が攫われていくのを目撃した侍女達が慌てた様子で声を張り上げ、駆け回っているのが見える。
 助けを求めて手を伸ばそうとしたけれど、すぐに雲の中に入ってしまい、視界が白い世界に覆われた。

 長い時間を飛び続け、彼らが私を運んだのは、険しい山と深い森に囲まれた古びた城の中。
 城内にいたのは人とは違う異形の者達ばかりで、私を見て歓喜の声を上げて騒ぎ立てた。

「ついに生贄を手に入れたぞ!」
「我らを導き、人間どもを滅ぼすために、魔王様が降臨なされる!」
「五日後の満月の夜に生贄の命を祭壇に捧げよ!」
「追っ手がくるやもしれぬ。儀式の日まで牢に入れ、厳重に監視するのだ!」

 言葉は共通らしく、私にも彼らの言葉が理解できた。
 なんてこと。
 私の命を捧げることで、恐ろしい魔王が現れるなんて。

 抵抗しても敵うはずもなく、地下の牢獄まで連れて行かれた。
 背を押され、暗闇の奥へと追いやられる。
 牢の中には何もなくて、埃を被った石の床の上に倒れこんだ。
 すぐに扉が閉められ、鍵をつける音が聞こえた。

「命を絶とうとは思うな。貴様が死ねば、別の姫を攫ってくるだけだ。生贄となる人間は王族の血を引いておれば誰でも良いのだからな」

 錠前から鍵を抜きながら、黒いローブを着た男が私に告げた。
 儀式を行う魔術師だろうか。
 その男は魔物達の中でも上位に位置する存在であるらしく、周囲の魔物達は一歩引いて付き従っている様子だった。

「魔王など、昔話の存在ではなかったの?」

 私が問うと、男は目を輝かせて語りだした。

「お前達人間と同じように、魔王の伝承は我らの希望が生み出した虚構だと誰もが思い始めていた。しかし、我らの神は実在した、この私に神託を下されたのだ!」

 魔物達の神とは、魔界を統べる悪魔の王のこと。
 人が天界の天使を崇めるように、彼らにも同じような神がいる。
 だけど、天使や悪魔がこの世界に現れることはなく、姿や声を聞いたものもいない。
 全て、人と魔物が生み出された頃から伝わるお伽噺の中の存在だったはず。

「あなたは悪魔の声を聞いたというの? 魔王を生み出す方法を教えられたと」
「そうだとも、王家の姫よ。お前の命を捧げることで、魔王様がこの世にお出ましになられるのだ」

 驚愕して崩れ落ちた私を残して、魔物達の笑い声が遠ざかっていく。
 立ち上がる力も湧いてこなくて、長い時間その場に蹲っていた。

 私はどうすればいいのだろう。
 命を絶っても、別の誰かが生贄にされる。
 次はきっとニーナが連れてこられるだろう。
 それならば、私がここにいれば良い。
 だけど、このまま生贄にされてしまえば魔王が……。

 どれほど考えても、良い知恵は浮かばなかった。
 儀式を阻止できる力など、私にはない。
 ただ囚われ、やってくる運命を受け入れるしかないのだろうか。




 牢の中で震えながら時を過ごした。
 地下を照らしていた唯一の明かりである松明の火は、随分と前に燃え尽きてしまった。
 日の光が届かない地下ではわからないけれど、数日が過ぎたような気がする。
 確か、儀式の日は五日後と言っていなかったかしら?
 今日は三日目? それとも四日?
 まさかもう、満月の日になってしまったの?
 完全な闇の中では、時間の感覚はさらにおかしくなって、今がいつなのか予想もつかなかった。

 食事は何度か与えられた。
 何が入っているのかよくわからない緑色のスープと硬いパンの欠片など、どれも少量で粗末なものだったけど、死ぬわけにもいかないから口にした。
 空になったスープの皿を手にして、これを運んでくる小さな魔物のことを思い返した。
 人型をしているけれど、尖った耳と蜥蜴のような長い尻尾を持つ魔物は、あのローブの男の召使いのようだった。

 魔物の世界にも厳しい身分の差があるようで、力のない者は強い者に従い、虐げられても逆らうことはできない。
 小さな魔物は姿と同じく何の力も持っていなかった。
 瞳は常に怯えを宿し、体には幾つもの小さな傷跡があった。
 最後に食事を運んできた時には、右足の擦り剥いた傷口から血が滲んでいるのが見えた。
 彼は常に主人や上位の同族達からの暴力に晒されているのかもしれない。

 私は生贄にされるべく囚われの身となった。
 魔物は人々を滅ぼそうとしている恐ろしい存在であるはずなのに、傷つき怯える小さな魔物を見てしまうと、胸に抱いた気持ちは恐れとは異なるものだった。

「あの……、待って」

 食事を持って牢の中に入ってきた彼に声をかけた。
 警戒心と恐れが含まれた視線が向けられたけど、構わずにそっと近づく。

「怪我をしているのね。今の私にはこれしかないのだけど、そのままにしておくよりは良いかと思って」

 まだ使っていないハンカチを持っていて良かった。
 白い布を裂いて広げ、傷口に当てる。
 布を足に結んでいる間、彼は動かずに私の行動を見ていた。
 抵抗されなくてホッとした。
 布を巻き終えて手を離すと、魔物は黙って牢を出て行った。

 あれから彼が姿を見せることはなかったけれど、余計なことだったのかしら?
 自分の偽善めいた行動を振り返ると、自己嫌悪にも苛まれる。
 私は何をしているのだろう。

 こうして気配が一つもない場所にいると、無性に寂しくなる。
 生贄だとしても、私が必要とされたのなら喜んでいたかもしれない歪んだ心に気がついて、再び嫌悪感が湧いてくる。
 実際には、王家の血を持つ者であれば誰でも良かったのであって、魔物達にとっても私自身には何の価値もなかった。
 どこに行っても、私は役立たず。
 代わりなど幾らでもいる、不要な存在。

 だけど、一人だけ必要としてくれる人がいた。
 こんな私を受け入れて、優しく寄り添い、傍にいてくれた。

 アレックス。
 あなたはどうしているの?
 いなくなった私のことを、心配してくれている?

 もしかしたら厄介者がいなくなったと安堵しているかもしれないと、ちらりと嫌な想像が脳裏を掠めた。
 いいえ、それが当然ね。
 あれだけ尽くしてくれた人まで信じられないような私など、見捨てられても仕方がない。




 閉ざされた世界で、延々と暗い考えを巡らせていると、急に上が騒がしくなったような気がした。
 いよいよ儀式が始まったのかしら。
 けれど、いつまで経っても誰も来なくて、次第に声や物音も小さくなって静かになってしまった。

 身を切るような空気の中、重い扉が動く音が響き渡る。
 反響する足音は一つで、しっかりとした足取りでこちらに近づいてくる。
 松明の明かりと人影が見えて、声も聞こえた。

「ローナ様! ご無事ですか!」

 これは幻聴?
 呼びかけてくる声は、紛れもなくアレックスのもの。
 嬉しさで胸が詰まり、涙が浮かんでくる。
 炎が私を照らし出す。
 覗き込むアレックスの表情に笑みが浮かんだ。

「鍵を壊しますので少し下がっていてください、すぐにお助けいたします」

 アレックスは松明を置くと、剣を抜いた。
 一振りしただけで扉の錠を叩き割り、鉄格子の扉が開かれる。

「さあ、ローナ様、こちらに……」

 差し出された手を見て、迷いが生まれた。
 このまま、彼の手を取っても良いのだろうか?
 私は、城に戻っても良いの?
 囚われてから廻り続けた思考が、形を成して現れる。
 足を一歩後ろに動かした。

「ローナ様?」
「アレックス、このまま帰ってちょうだい。ローナはここで死んだと皆に伝えて」
「何をおっしゃっているのです? 魔物達はもういない、憂いは全て取り払いました。何も心配することなどないのです」

 彼は手を差し出したまま、私が下がった分だけ歩を進めた。
 手を取りたい誘惑に抗いながら、さらに一歩下がった。

「私は戻らない方がいいの。人を傷つけて苦しめてばかりの私のことなど、もう忘れてしまって」

 アレックスを解放しなければ。
 彼へと伸ばしてしまいそうになる両の手を、体を抱きしめることで縛り付けた。
 彼が去っていく姿を見たくなくて目を閉じる。
 だけど、遠ざかっていくはずの足音が近づいてきて、すぐ傍に彼の気配を感じた。
 驚いて見上げると、アレックスは穏やかな顔で私に微笑んだ。

「それがあなたの願いなら、私もお供いたしましょう」
「アレックス、何を言って……」
「私は王家の姫ではなく、あなたを守る誓いを立てた。あなたの行かれる場所ならば、どこへだろうとまいります」
「だめよ、そのようなことを言わないで。あなたのことを、みんなが待っているのに」
「私にはあなたが全てだ。ローナ様、あなたが王女の身分を捨てると言われるのなら、臣下の分を弁える必要もない。
この手で抱くことも許されるはず」

 アレックスは力強い腕で、私を抱きしめた。
 情熱的な抱擁に、胸が熱く疼く。
 これは現実?
 夢を見ているのだと思った。
 けれど、アレックスは消えることなく、ここにいる。

「今の言葉は本当? あなたは私が王女でなくても愛してくれるの?」
「あなたが全てを失ったとしても、私はあなたを求めます。愛しいローナ、あなたこそ、私を愛してくださいますか?」
「もちろんよ、アレックス! 愛しているわ!」

 彼が私を望んでくれるなら、拒む理由はなかった。
 私には、あなたしかいない。
 あなただけが信じられる。
 そう、あなたさえいれば、私に望むものは何もない。

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