あなたしか見えなくて
二人だけの世界
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ローナの瞳が永遠に閉じられた。
寿命を迎えるにはまだ早く、花嫁となった当時と変わりない美しい姿のまま、愛しい妻は永遠の存在となってしまった。
己が身を引き裂かれるほどの喪失を感じてはいたが、心は少しも乱れていない。
いつか訪れるべき日が、多少早く来てしまっただけのことなのだから。
眠っているかのような安らかな顔をしばし見つめて頬を撫でる。
ローナを寝かせた棺は大きく、人が二人余裕で並ぶことができるように作らせてあった。
もしも、私が先に亡くなったのだとしても、きっと彼女もこうしただろう。
私達は永遠に離れないと誓ったのだ。
片翼を失った鳥が二度と大空へと舞い上がることがないように、私の人生もここで終わる。
棺が安置されている聖堂内にいるのは私だけだ。
聖堂を遠巻きにしている民衆の嘆きの声が微かに聞こえるが、私とローナの旅立ちの儀式に障りがあるほど煩くはない。
むしろ、周囲に悼まれつつ逝くのも良いか。
私がこれからすることを、皆が知っている。
止めに来る者などいないだろうと思っていたが、予想に反して一人だけ立ち入った者がいた。
扉が開き、足音が近づいてくる。
顔を向けずとも誰だかわかった。
この国の国王であり、長年利用してきた最も優秀な手駒、そして彼女の兄君だ。
「アレックス、本気でローナと共に逝くというのか?」
キースの問いかけに、そちらを向く。
彼の顔は何とも形容し難い表情で、質問の意図が分からなかった。
「当然でしょう? 彼女がいない世界で私が生きている理由などない。ああ、死後ならば引き離せるとお思いになられぬように。私達の亡骸を別々に埋葬しようなどとすれば、瞬く間にこの国は滅びますよ。私の腹心の部下達がその命が尽きる時まで見張りをしてくれるそうですから」
私の一途な想いに感動して、死後まで意思を引き継いでくれる奇特な者達がいるのだ。
念のためにと脅しを口にしたが、キースは気の抜けた様子で首を振った。
「そのようなつもりはない。ただ、お前の本心を確認したかっただけだ。そうか、お前に必要だったのは本当にローナだけだったのだな」
「ええ、その通りです。ご安心を、私は彼女と共に去ります。あなたの心労の種は消えて無くなるのです」
これで全てが終わる。
胸のポケットに入れていた薬瓶を取り出し、栓を抜いた。
妙に高揚してきて、声を出して笑った。
キースは青い顔をして私を見つめている。
まるで異常者を哀れむような目をしているが、彼の心境などどうでも良い。
早くローナを追いかけていかねば。
私はこの上なく幸せな気持ちで、致死量の毒薬を躊躇うことなく飲み干した。
満足して迎えた死の先に待っていたのは、新たな生だった。
いいや、新たな、というのは語弊がある。
私は戻ってきたのだ。
「またしても天使の小娘にしてやられおって! これで何度目だ! 愚か者めが!」
黒い男がこちらを睨みつけ、唾が飛ぶほどの勢いで喚き立てた。
我々の周囲、視界に映る者達もまた黒く、黒い髪に赤い瞳、浅黒い肌、耳は尖っていて、私も例に漏れず同じような姿をしていた。
ぼうっとしていた頭が鮮明になるにつれ、記憶が戻ってくる。
人であった頃のものと、それ以前の記憶が、次々と溢れ出てきた。
私は悪魔王の息子で、人と魔物が長年繰り広げている天使達との代理戦争に勝利するべく、下界に仮初の肉体を使って魔王として降臨しようとしていたのだった。
目の前で喚いている男は父親で、つまり悪魔王。
魔界を統べる全能の神……のはずなのだが、以前は確かにあったはずの威圧感がまったくない。
すぐに私の力が強すぎるのだと気がついた。
下界への降臨が失敗するたびに、私の神としての力は増していった。
この父が、魔界の悪魔達を総動員して、私を無敵の魔王に仕立て上げようとこの身に力を送り込んだ結果だ。
「魔王として目覚めれば、人間共など瞬く間に消すことができように、貴様は何をやっておるのだ!」
叱責は我が心に欠片も影響を与えず、上の空で聞き流しながら人界へと降りた記憶を遡った。
人や魔物の子の体に宿って生れ落ち、仮初の肉体が覚醒に耐えられるほどに育つ前に、彼女は必ず現れた。
王女、聖女、巫女、時には村娘であったり、魔物に捧げられた哀れな生贄など。
まるで仕組まれたように、彼女は私の近くに産み落とされ、すれ違うことなく巡り合って来た。
いいや、違うな、訂正しよう。
全ては仕組まれていたのだ。
父が私を送り込もうとしてきたように、天使の王は己の娘を下界に降ろし、魔王降臨を阻止してきたのだ。
そして私は天使達の思惑通りに娘に心を奪われ、本来の目的を思い出すこともせず、彼女を得て平穏な一生を過ごし、帰還して父に怒鳴られるという愚行を繰り返してきた。
愚行と述べたが、それは彼女に心を奪われたことではない。
幾度も出会いと別れを繰り返してきてしまった、己の間抜けさに対してのものだ。
私が愚鈍であるがゆえに、今この時、我々は離れ離れになってしまっている。
ああ、本来の彼女はどんな姿をしているのだろうか。
どれほど姿が変わろうとも、魂の輝きが変わることはない。
私はすぐに見つけだす。
愛しい、愛しい、私の唯一の伴侶を。
我慢できない。
今までの私はなぜ耐えられたのだ。
下界も、天界も、魔界も、全てがどうでも良い。
周囲で喚く煩いこれらも、私と彼女の邪魔をするなら消えればいい。
煩わしさを隠すことなく周囲を見渡した途端、視界から動くもの全てが消えた。
消えればいいと願えば、本当にその通りになってしまった。
私の魔力が強すぎて、触れただけで消し飛んでしまったらしい。
彼らにも何が起こったのかわからなかっただろう。
私もだ。
強張った顔をした父が、次の瞬間には溶けるように消えていた。
確かにこの力があれば、人間を全て消滅させることも可能だっただろうな。
念のために魔界を隅々まで廻ってみたが、私が放った力は魔界全体に影響を及ぼしてしまったようで、生き残った者はいない様子だ。命の気配がまったくしない。
建物や世界は存在し続けているのに、生き物だけが綺麗さっぱり消えてしまった。
死する世界となった故郷を歩くうちに、笑いがこみ上げてきた。
自暴自棄になっているわけではない、嬉しいのだ。
この力があれば、彼女を迎えに行ける。
今度こそ、彼女と私、二人だけの世界を作ることが出来る。
界を隔てる障壁を難なく通り抜け、辿り着いた天界の神殿で彼女は眠っていた。
人の姿と似ているが、髪は銀色で、閉じられた瞳は他の天使達と同じなら、きっと金色をしている。
初めて見る天使の少女は、姿は違えど、やはり彼女だった。
清らかな魂と同じく清楚な寝姿を見て頬が緩む。
幾度も出会い、愛した人。
やっと会えたと歓喜に思わず涙が溢れた。
先ほど聞いた天使達の会話で、彼女の下界での記憶は全て消されていることを知った。
下界で私と出会ったことも、愛し合ったことも、何一つ覚えていない。
天使達は仮初の体でのこととはいえ、彼女が悪魔の妻となったことを汚らわしいと考えており、下界で起きたことは忘れた方が良いと本人に言い聞かせてきたようだ。
無駄なことを……。
幾ら記憶を消そうとも、彼女は私を覚えている。
その証拠に、私達は出会うたびに惹かれあい、結ばれてきたのだ。
嘲笑と共に、天使達を消し去った。
悪魔達と同じように、彼らもまた私の魔力に触れただけで灰も残さず溶けてなくなった。
今、私は一人で彼女の目覚めを待っている。
この世界にも誰も居ない。
起きた彼女の瞳に映るのは私だけ。
なんて素晴らしい、これでようやく心から安らげる。
目覚めた彼女は私を見て驚きはしたが、天使達が全て消えてしまったことに衝撃を受けてしばらくは泣いてばかりいた。
もちろん、私が手を下したなどとは告げていない。
ここに来た時には、すでに彼女以外の者はいなかったのだと白を切った。
私は彼女に寄り添い、私も一人になったこと、寂しさに耐えかねて天界まで来たのだと話した。
幾日か経ち、ようやく彼女の涙が止まった。
泣いていても、誰も戻らないことを悟ったらしい。
やがて私の存在に慣れたのか、ぽつりぽつりと会話が始まり、打ち解ければ仲が深まるのは早かった。
「不思議だわ、あなたのこと、ずっと昔から知っているような気がするの」
彼女がそう言って私に微笑みかける。
「奇遇だね、私もそうだ。君と初めて会った瞬間に心を奪われてしまったほどだから、この世界が創造された時、すでに運命の糸で結ばれていたのかもしれない」
「まあ、そんなこと……」
私の言葉で照れた顔も可愛い。
薄く開いた可憐な唇に己のそれを重ね、抱き寄せる。
私達の前には小さな泉があり、下界の様子が映し出されていた。
天使と悪魔が所有権を巡って争っていた箱庭は、主人が消えても変わることなく生の営みを続けている。
私にはどうでもよいものだが、彼女は楽しそうに彼らの様子を見ていた。
その表情が愛らしいので、下界の生き物は消すことなく放っておいた。
手を伸ばして、肌を弄れば、彼女の意識はすぐにこちらに戻ってくるのだから。
「あ……、だめ、さっきしたばかりなのに……」
したばかりと言われても、私としては一日中繋がっていても構わないぐらいだ。
だが、彼女の意向を無視することもできないので、腕に捕らえた体に触れるだけで我慢する。
悪戯を咎めるつもりなのか、手の甲を抓られた。
痛くも痒くもないが、和ませるためにわざと痛がる振りをしてみせる。
彼女が笑みを浮かべると、胸が温かくなってきた。
「ねえ、あなたの名前を教えて?」
彼女からの問いかけ。
そして、自分の名も呼んで欲しいと言われた。
名など、我々に必要だろうか。
これまでも幾つもの別の名で彼女を呼び続けてきたせいか、私は名前に価値を見出せなかった。
「ここにいるのは私と君だけだ。君が呼びかける相手は私だけ、私が呼ぶのも君だけだ、それは永遠に変わらない。正直に言うとね、私ではない者がつけた君の名前にも嫉妬してしまうんだ。私の名も、もはや意味を成さない。私と君以外の誰かと区別する必要などないのだから」
「そうね……、そうかもしれない」
彼女は頷いて、再び私に体を預けてきた。
今度はいつまで独占できるだろう。
人であった頃よりも長いだろうが、いつか終わりが来るかもしれない。
そうなれば、また求めるだけだ。
しっかりと結びつけた運命の糸を辿り、彼女を見つけ出して手に入れる。
「私を愛している?」
甘い声が我が血を沸騰させ、全身を駆け巡る。
目の前の彼女の笑みが深くなった気がした。
「愛している! 愛している! あなただけが私の全てだ、他に望むものなど何もない!」
理性を失い、猛る私を抱きしめ、彼女が囁いた。
「嬉しいわ、愛しいあなた。もう私しか見えない、誰もあなたの目には映らないのね」
嬉しそうに彼女が笑う。
どんな小さな仕草だろうと、彼女のものだと思うだけで愛おしくなる。
その通りだよ、愛しい人。
この心はあなたに囚われて、それ以外の存在を受け入れることを拒否してしまう。
私の瞳に映るものは、これからもずっとあなただけだ。
END
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