薔薇屋敷の虜囚
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【4】
今夜も父は、母の住む屋敷に出かけて行った。
それはセルジュに物心がついた頃から変わらない。
長期の遠征に赴く時や領内で事件や災害が起きない限り、ロジェが夜を過ごすのはミレイユの傍だった。
夕闇の中、城を出て屋敷へ向かう父の顔はいつも苦しそうで、セルジュにまで悲しい気持ちが伝わってきた。
今までは母が狂っているからだと思っていたが、セルジュが会った彼女は正気でしかなく、逆に夫から邪魔に思われていると口にした。
誰の話が本当なのか、セルジュにはわからない。
尊敬する父、優しい母。
二人が揃っていれば、セルジュもカトリーヌも幸せになれるのに、どうしてここにいてくれないのだろう。
唯一頼れた祖母はもういない。
グレースが支配する城は苦痛で、何もかも捨てて逃げ出したくなる。
年齢的には騎士見習いとして他の城に修行に出る選択肢もあるが、セルジュは城を出ることができなかった。
自分がいなくなった後、カトリーヌが一人になってしまうから。
たった一人でグレースの悪意に晒されて、妹が無事に生きていけるとは到底思えなかった。
カトリーヌが女であるからか、父の関心もセルジュに向けるものより薄い。
振り返ってみても、近年のロジェがまともにカトリーヌの相手をしたことがあっただろうか。
カトリーヌも、父親に自ら近寄っていくことはない。
いつもセルジュの後ろにくっついて、そっと顔を覗かせているぐらいだ。
過去の記憶を辿ってみれば、そういう時は、大抵グレースが一緒にいた。
顔は笑っていたが、妙に強い眼差しでこちらを見ていた。
あれはカトリーヌを脅していたのか。
人知れず辛く当たられ続けたカトリーヌは、父親に近づけばそれが酷くなると理解していた。
悪意の防波堤だった祖母を失い、父親は事態を悪化させるだけの存在。
カトリーヌを守れるのはセルジュだけだった。
彼自身の手も小さなものだったが、それでも大切な妹だから守らなければならない。
先ほどからグレースの甲高い怒鳴り声が聞こえてくる。
父が屋敷に行っている間、彼女はいつも不機嫌だ。
取り繕う相手がいなくなってしまってからは、毎夜のごとく癇癪を起こして些細なことで召使い達に当たり散らす。
理由はわざわざ問うまでもなく知っている。
愛しのロジェをミレイユに取られて怒っているのだ。
子供より子供染みた迷惑な女。
セルジュは眉をしかめた。
だが、耳障りな怒鳴り声と一緒に聞こえてくる泣き声が気になった。
幼い子供の泣き声だ。
カトリーヌ!
セルジュは廊下に飛び出すと、声を目指して走った。
セルジュが声のする部屋にたどりつくと、割れた花瓶の前でグレースがカトリーヌを怒鳴りつけている。
カトリーヌは涙声で許しを請い、床に蹲っていた。
「ああ、もう! なんてグズな子なの! ロジェにはちっとも似ていないし、この忌々しい赤毛も嫌い! お前なんて産まれてこなければ良かったのよ!」
グレースはカトリーヌの髪の毛を掴み、乱暴に引っ張った。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」
この状況から逃れるために必死で謝り続ける子供を憎悪に満ちた目で睨み、グレースは手を上げた。
加減をすることもなく頬を叩き、さらに打とうと再び手を振り上げる。
「やめろ!」
セルジュは体ごとグレースにぶつかっていった。
悲鳴を上げて、グレースは倒れこんだ。
「お兄様ぁ!」
泣いて飛びついてきたカトリーヌを抱きしめて、セルジュはグレースを睨みつけた。
体を起こしたグレースは、身を寄せ合う兄と妹を怒りに燃えた目で睨み返した。
「なんてことをするの、セルジュ。私より、その子を庇うなんて……。ああ、お前もロジェと同じなのよ、その赤毛に惑わされて大切なものを見失う。お前はロジェに似ているから優しくしてやろうと思っていたのに気が変わったわ! 私を怒らせたことを死ぬまで後悔させてやる!」
グレースは近くにあった一輪挿しの花瓶をセルジュの足下に投げつけた。
花瓶は砕け散り、飛び散った水が床に広がっていく。
セルジュは妹を腕にしっかりと抱きしめ、激しい威嚇にも怯まなかった。
グレースは舌打ちして、召使いを呼びつけた。
「部屋の掃除をしてちょうだい。それと、セルジュとカトリーヌの明日の食事は無しよ。花瓶を割って謝らなかった上に、私に反抗するなんて当然の罰だわ」
グレースがいなくなると、セルジュはカトリーヌを連れて部屋に戻った。
妹は震えていて、一人では寝かせられない。
「花瓶はカトリーヌが割ったの?」
「ううん、グレースよ。怒って自分で割ったのに、私のせいにするの」
いつものことだった。
グレースは自分の非を都合よく記憶まですり替えて他人のせいにする。
あの女は頭がおかしいに違いない。
「カトリーヌは悪くないよ。でも父上に言っても聞いてもらえないだろうね。父上は僕達よりもあの女の方を信頼しているんだから」
「お父様も、グレースも嫌い。お母様に会いたいよう」
カトリーヌはセルジュにしがみついて泣いた。
直接手を上げられたことで、限界がきたのだろう。
カトリーヌが父親のことを嫌いだと口にしたのは初めてのことだった。
セルジュは妹を慰めながら、昼間に会った母のことを思い浮かべた。
カトリーヌにも会わせたい。
僕らの母親は狂ってはいなかった。
グレースなどより何倍も優しくて温かい、素敵な人だった。
「カトリーヌ、明日は母上に会いに行こう。僕が連れて行ってやる」
「ほんと? お母様に会えるの?」
「ああ、本当だ。母上は僕達を抱きしめてくれるよ」
母に会えると聞いて、カトリーヌはようやく泣き止んだ。
「抱きしめてもらえるの? お兄様がしてくれるのと同じように?」
「ああ、もちろんだ。きっと僕よりも柔らかくて温かいよ」
妹に約束したが、セルジュは不安だった。
ミレイユに願いを聞いてもらえるのか自信がなかったからだ。
何度も大丈夫と己に言い聞かせる。
あの人は僕達を振り払ったりしない。
何よりも、セルジュ自身が母の腕に抱かれたかったのだ。
荒い足音を響かせて自室に引き上げたグレースは、腹立ち紛れに扉を乱暴に閉めた。
今夜は特に苛々する。
セルジュがカトリーヌを庇う姿に、昔のロジェを重ねたからだ。
彼が守るべきなのは自分のはずなのに、いつのまにか忌々しい赤毛の女がすり替わっている。
「そこは私の居場所なのよ! 邪魔をしないで!」
目に付いた卓上の宝石箱や香水の瓶を腕でなぎ払い、短剣を振りかざしてクッションを引き裂き、気が済むまで突き刺し続けた。
子供時代の幸せな思い出と同時に、ロジェが結婚すると告げた悪夢のような時を思い返す。
あの時の彼は本当に嬉しそうで……。
頭痛がして、グレースは頭を振った。
先ほど脳裏に浮かんだはずの歓喜に満ちたロジェの姿は瞬く間に消えて、悲愴な面持ちで俯く姿に入れ替わる。
「そうよ、本当は結婚なんかしたくなかった。ロジェは私を城に呼んでくれたじゃない。私を守ると言ってくれた。あの女は仕方なく妻に迎えただけ。所詮、お飾りの、子供を産むためだけの道具に過ぎない!」
毎晩、屋敷に行くのも、まだまだ子供が必要だからだ。
愛してもいない女を抱くのは、苦痛で仕方がないのに、彼は誰よりも愛するグレースのために耐えている。
「ああ、可哀想なロジェ。あなたがどれほど苦しんでいるのか私は知っているわ。全て、私を守るため、私との生活を守るためなのよね」
グレースは恍惚とした表情で同じことを繰り返し呟き続けた。
かつては本当に理解していた真実に蓋をして、彼女は夢想の世界に心を委ねた。
そこでは愛しい人に心から愛されて、悪意のある者達により、不本意ながら引き離されている辛い立場に置かれている自分がいた。
「悪いのは、あの女。私とロジェは愛し合っている。それをあの女が……」
繰り返すほどにグレースはそれを真実と思い込む。
矛盾には目を瞑り、見たいものだけ取り込んでいく。
思い通りにならない現実は、彼女にとって偽りの世界でしかなかった。
夜明け前に、ロジェは目を覚ました。
体に寄り添う肌の温もりが心地よくて、まだ夢を見ているような心地で息を吐いた。
ミレイユは深い眠りの底にいて、微かな寝息が聞こえてくる。
無防備な寝顔は愛らしくて、出会った頃の彼女と何一つ変わらなく思えた。
目を覚ました彼女が初めて二人で迎えた朝のように、にっこりと微笑んでくれたら……。
無常な現実がそれ以上の逃避を許してはくれず、否応なく悲しい事実と向き合わされる。
一日の始まりである朝に、愛しい人から蔑みの眼差しを向けられるなど耐え難く、ロジェはいつもミレイユが起きる前に屋敷を出て城に帰って行く。
今日もそう。
ミレイユを起こさないように、そっと寝台から抜け出して別室で身支度を整える。
召使い達も心得ており、音を立てることなく身支度を手伝い、それが終われば玄関に整列し、無言で頭を下げてロジェを見送った。
冷たく静かな見送りは、屋敷に住まう人の心を映しているようだった。
城へと向かう馬の背の上で、ロジェの憂鬱は深くなっていく。
いっそ、憎んでしまえれば楽になれるのに、確かに過ごしたはずの蜜月が彼の心を縛り付ける。
あの日、グレースが口を滑らせさえしなければ、ミレイユの愛を失うことはなかったかもしれない……。
つい従姉妹を責める気持ちが浮かぶが、すぐさま振り払った。
グレースは悪くない。
彼女の口からでなくとも、遅かれ早かれミレイユの耳に入り、結果は同じことだったはずだ。
自分がミレイユを想うほど、彼女はロジェを愛してくれなかった。
ただ、それだけのことだった。
どれだけミレイユに蔑まれても拒絶されても、ロジェは諦めることができなかった。
子供ができれば、月日が経てば、誰にも会わせず二人だけの世界に閉じ込めれば、いつかは自分を見てくれるかもしれない。
誇り高い彼女が一度拒絶した出自の卑しい男のことなど受け入れるはずがないと、頭のどこかでわかっているはずなのに、微かな希望に縋りついて生きてきた。
ミレイユが蔑んだ唯一つの欠点を埋め合わせようと、ロジェは完璧な城主を目指して努力した。
この十年で、城に付随する領地は以前と比べて格段に豊かになった。
地理や畜産を専門とする学者を城に招いて知恵を借り、治水工事や開墾をして食料の生産量を増やし、万が一飢饉が来たとしても乗り越えられるほどの蓄えを作った。
領民に目が届くように役人や兵士を配置し、民の生活や治安にも気を配った成果か、大きな混乱もなく領地の運営は上手くいっている。
侯爵に信頼され、領民達からは慕われても、閉じ込めたままでは一番欲しい妻からの賞賛や尊敬は得られない。
とはいえ、外に出してこれまでの成果を見せたとしても、ミレイユが認めてくれるという自信がどうしても持てなかった。
さらにもう一つ、ロジェの心を重くする事柄があった。
それは子供達のことだ。
ミレイユにはああ言ったものの、子供達はグレースに懐いていない。
実際に子供達を育てたのはロジェの母だった。
二人は祖母に懐き、素直な良い子に育っていた。
しかし、その祖母が二年前に亡くなると、途端に反抗的で我侭な面を見せるようになってきたのだ。
セルジュはグレースの言うことを聞かない。
時々、悪戯や勉強を疎かにした罰だと食事を抜かれているが、まったく懲りていない様子だ。
逆にグレースが自分達を不当に虐げていると言い出すこともあり、ロジェは頭を痛めていた。
妻と不仲なロジェや、祖母を失った子供達を心配して、嫁がずに行き遅れになってしまった従姉妹に対して罪悪感が募る。
そして、娘のカトリーヌ。
母そっくりの髪の色と面影を宿す娘は、ロジェの救いだった。
生まれて間もない赤子に笑いかけられた瞬間、ロジェは思わず涙を流してしまった。
指を差し出せば、小さな手が握り返してくれる。
二人の間で育まれた二つの命を愛していれば、愛されない我が身が多少なりとも報われた気がした。
それも、カトリーヌに物心がつくまでの幸福だった。
幼い娘は祖母と兄にくっついて、父親には近寄らなくなってしまった。
今では話しかけても返事はなく、セルジュの後ろに怯えたように隠れてしまう。
関係を少しでも改善しようと、王都で少女達に人気だと評判の人形を贈ってみたが、気に入らなかったらしくボロボロの状態で城の焼却場に捨てられているのを見てしまった。
渡した時は喜んでいる様子も窺えたのに、まるで憎しみをぶつけるかのように痛めつけられた人形の姿に、己を重ねて胸が痛くなった。
どうしてそんなことをしたのかと、問い詰めることなど恐ろしくてできない。
妻に似た娘にまで、面と向かって拒絶されたら、もう立ち直れないからだ。
自分の何が悪いのか、ロジェには分からず途方に暮れる。
亡き母も、最期の時まで心配していた。
『ミレイユ様と話し合いなさい。あの方はお前が何者であろうとも受け入れてくださるはず。私やグレースまで快く城に迎えてくださった優しいお方が、そのような狭量な心の持ち主であろうはずがない』
生前から母は何度も二人の間に誤解があるのではないかとロジェに訴えた。
その言葉が本当であれば良かったと思う。
だが、現実は残酷で、ミレイユはロジェを汚らわしい恥知らずと蔑み、何年経とうとも心を開いてくれることはなかった。
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