薔薇屋敷の虜囚
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【5】
城に戻ったロジェを出迎えたのはグレースだった。
子供達の姿は見えず、朝食の席に座っても、二人は部屋から出てこなかった。
「セルジュとカトリーヌはどうした?」
ロジェに問いかけられたグレースは、落ち込んだ様子で俯いた。
「昨夜、カトリーヌが癇癪を起こして暴れたの。宥めようとしたのよ? だけどセルジュまで加わってしまって、手に負えなくなって仕方なく叱ったわ。だけど、私の言うことなんてあの子達は聞いてくれなくて……」
「すまない、グレース。お前にはいつも申し訳ないと思っている。気に病むことはない、あの子達の躾は本来俺がするべきことだ。朝食を終えたら二人によく言って聞かせる」
自分の前ではおとなし過ぎるほど静かなカトリーヌだが、他の者の前では我が儘に振舞っているようだ。
祖母を亡くし、母から引き離された子供達を、周囲の者は哀れに思い、甘やかし過ぎてしまったのかもしれない。
ミレイユを外に出さないのなら、子供達を正しく導くのはロジェの役目だった。
厳しく接してカトリーヌに嫌われてはと怯えている場合ではないのだ。
ロジェは愛する娘の為に、心を鬼にしようと悲愴な覚悟を決めた。
「だめよ、ロジェ。子供達は昨夜私が厳しく叱ったのよ、あなたまでそうする必要はないわ」
グレースが労わるように声をかけてきた。
「私達、子供の頃から助け合ってきたでしょう? ロジェは私を守ってくれた。だから憎まれ役は引き受けてあげる。それに昨夜あれだけのことをしたのだもの、あの子達も気まずくて素直に話を聞いてはくれないでしょう。今はそっとしておいてあげて」
彼女の申し出に、ロジェはどうするべきか悩んだ。
グレースに子供達の問題を押し付けるべきでないことはわかっている。
しかし、そうすることが最善だと彼女は言うのだ。
グレースは責任を感じているのかもしれない。
自らの口が招いた災いを償おうと、自身の幸せを省みることなくロジェ達一家に尽くしてくれている。
十年前を思い出す。
忘れることなどできない、全てが壊れたあの日のことを。
ミレイユと結婚して、ロジェは幸福の絶頂にいた。
年老いた母と身寄りのない従姉妹を城に呼びたいとの願いも、妻は快く承知してくれた。
グレースはミレイユより一つ年上の十八才で、ロジェが城主となった今なら、条件の良い縁談がすぐに見つかるはずだ。
妹同然に愛してきた彼女にも幸せになって欲しい。
ロジェは兄として、グレースの将来を案じていた。
ある日、グレースが蒼白な顔ですがりついてきた。
「ロジェ、どうしましょう! 私、余計なことを言ってしまったわ!」
ミレイユは応接室で行商に来た商人の相手をしており、母も別の部屋に居た。
グレースはロジェの腕を掴み、怯えた様子で辺りを見回した。
「どうしたんだ、グレース。余計なこととは誰に何を言った?」
「ミレイユ様よ、あの方がまさか知らないなんて思わなくて、何気なく話してしまったの。私達が元は平民で、子供の頃は貧しい暮らしをしていたってことを」
ロジェは僅かに眉を顰めた。
彼の父は田舎街で小さな商店を営んでいたが、商売が上手く行かずに店を潰してしまい、ついには病を患い早くに亡くなった。
グレースもちょうどその頃に身を寄せてきた。
母一人が働いた程度では子供二人を養うほどには稼げず、ロジェは道端で靴磨きをしたり、大人に混ざって荷物運びをしたりして糧を得た。
家族を守ろうと必死だった彼を、物好きでお人よしな騎士が拾ってくれた。
おかげで身を立てることが出来て、家族を養えた。
地位も財産も、素晴らしい伴侶を得ることができたのも、師となった人のおかげだった。
ロジェは自分の過去を恥ずべきことだとは思っていなかった。
しかし、次に告げられたグレースの言葉で、世界が暗転した。
「ミレイユ様は激怒なされたわ。生まれも育ちも卑しい者に騙された、許さないって、私を怒鳴りつけたの」
「そんな、まさか……」
先ほどまで一緒にいたのだ。
ミレイユはいつもと同じように、微笑んでくれていたはずだ。
「一度結んだ婚姻は覆すことができない。妻は夫に逆らえない。だからあなたには本心を明かすことなどなさらないと思うわ」
「嘘だ、そんなことあるはずがない!」
「ミレイユ様はこうも言ったわ。下賎な男に穢されてしまっては、血を尊ぶ理由はない。これからは相手など選ばず好きなだけ楽しむつもりだって……」
何を楽しむのか、前後の言葉でうっすらと想像できてしまう。
脳裏に浮かんだ疑いを振り払おうと、ロジェは頭を振った。
「やめろ! 彼女は気高く優しい人なんだ! グレース、頼むから冗談だと言ってくれ!」
「私だって、こんなことを言いたくはなかった。だけど、彼女は私にこうも言ったのよ。『あなたには相応しい縁談を用意してあげる。お金持ちの老人の後妻なんてどうかしら』って……」
グレースは両目に涙を湛えてロジェを見上げた。
「私に選ぶ権利などないことは知っている。けれど、お願いよ、ロジェ! 私をそんな所に行かせないで! 私にはあなたしか頼れる人はいないのよ!」
「落ち着け、大丈夫だ。嫁ぎ先はお前を大事にしてくれる家を俺が選ぶ。城主は俺だ、ミレイユは先の城主の娘だが、口を出す権利はない」
グレースを宥めながらも、ロジェはまだ半信半疑でいた。
幼い頃から助け合って生きてきた家族の言葉を疑うことはできない。
しかし、ミレイユは生まれて初めて心から愛した女性だ。
信じたい気持ちが強く、グレースがこれはロジェをからかうための芝居だと言ってくれないかと期待してしまう。
期待が現実になることはなく、グレースは泣き続けた。
ミレイユを恐れ、頼れるのはロジェだけだと訴える。
ついにロジェは諦めてグレースに部屋に入っているように促し、ミレイユと話をしようと歩き出した。
ちょうど商人が帰る所らしく、和やかな話し声が聞こえてきた。
ロジェの視界に、にこやかに微笑み合うミレイユと若い商人の姿が映り込んだ。
グレースに聞かされた信じがたい言葉の数々が思い起こされた。
胸に激しい嫉妬の炎が宿る。
愛らしい笑顔で彼女は己を欺き、魅惑的な体を使ってどこの誰とも知れぬ男達と戯れようとしているのか。
ロジェの疑惑は急速に膨れ上がり、ミレイユが自分以外の男に微笑むだけで不貞を疑うまでになってしまった。
城主の妻として義務的に接するだけの相手まで許せず、ロジェは気が狂いそうになった。
グレースの言葉を信じても、ミレイユに対する執着は消えない。
憎もうとしてもできない。
そうしてロジェが選んだのは、妻を閉じ込め、体だけでも我が物とすることだった。
振り返れば、十年もの歳月が流れていた。
長い歳月を経ても家族の誰一人幸せとは言えない現状がロジェを疲弊させる。
そんな中で、救いの手を差し伸べてくれる従姉妹には、どれほど感謝の言葉を述べても足りないぐらいだ。
「嫌な役ばかり押し付けてすまない。子供達に向き合おうとしても、俺にはどうしていいのかわからないんだ。お前がいてくれて良かったと思っているよ」
「水臭いことを言わないで。あなたのためなら私は何でもするつもりよ」
ロジェの前にいるグレースは、幼い頃と同じ、自分を慕ってくれる可愛い妹だった。
幸せな記憶は、聡明なはずの城主の瞳を曇らせる。
微笑みの下に隠された恋慕と狂気に、ロジェが気づくことはなかった。
セルジュとカトリーヌは、セルジュの部屋で夜を明かし、そのまま一緒にいることにした。
グレースの命令通り食事はもらえないようで、部屋には鍵がかけられて、水だけが差し入れられた。
今日は一日閉じ込めるつもりのようだが、子供達にはその方が都合が良かった。
昼を過ぎた頃、セルジュが動き出した。
部屋の隅の壁を触り、扉の取っ手を見つけ出す。
手前に引いて開けると、細長い通路が真っ直ぐに伸びていた。
「おいで、カトリーヌ」
セルジュが手招き、カトリーヌも通路に入る。
天井付近に明かり取りの窓が幾つかあるらしく、薄暗いながらも足元は見えていた。
二人は足音を立てないように、そろそろと出口に向かって歩き始めた。
今朝から水しか口にしていないが、母に会えるという興奮が兄妹の空腹を紛らわせた。
屋敷に着くと、昨日と同じように壁の穴から中に入り込む。
セルジュは妹を振り返ると、小声で念を押した。
「いいかい、カトリーヌ。母上に会っても名乗っちゃダメだよ。僕達が母上の子供だと知られたら、もう会えなくなるかもしれないんだ」
「お母様と呼んでもダメなの?」
「うん、そうだよ。だけどそれさえ守れば、母上は僕達を受け入れてくれるはずだ」
妹に言い聞かせてはみたものの、セルジュはやはり不安になった。
母は昨日のように、迎えてくれるだろうか?
妹を失望させたくないのと、母に拒絶されたくない気持ちから、セルジュはうまくいきますようにと神に祈った。
入り込む場所を探して屋敷の裏手に周ると、昨日と同じ窓が開いていた。
セルジュは希望に瞳を輝かせて、窓から顔を覗かせた。
室内にはミレイユだけがいて、彼に気がつくと嬉しそうに駆け寄ってきた。
「いらっしゃい。今日も来てくれるかもしれないと思って、待っていたの」
「今日は妹も連れてきたんだ、入ってもいい?」
「ええ、どうぞ」
セルジュが窓を乗り越え、カトリーヌはミレイユが引っ張り上げた。
胴を抱えて部屋に上げると、ミレイユはカトリーヌの赤毛をしげしげと見つめた。
「私の髪と似ているわ。まるで親子みたいね」
くすくす笑うミレイユを見て、セルジュはそうだと言いたくなった。
カトリーヌも同じ気持ちだったようだが、兄の言いつけを守り、懸命に口を結んでいる。
「あなたが来た時にあげようと思って作っておいたのよ」
ミレイユは手編みの小さなカゴを差し出した。
中には甘い匂いのするクッキーが入っていて、お腹が空いていた二人はごくりと唾を飲み込んだ。
「あの、あの……、食べてもいい?」
耐え切れずにカトリーヌがミレイユに問うた。
ミレイユはにっこり笑って、彼女にクッキーを一枚手渡した。
「お腹が空いているのね? ちょっと待ってて。他にも何か探してくるわ」
ミレイユは二人に隠れているようにと指示して、部屋を出て行った。
すぐに戻ってきた彼女の手には、パンとリンゴが抱えられていた。
「残り物で悪いけど、お腹は膨れるでしょう」
「ありがとう、今日は朝から何も食べていないんだ」
セルジュはパンを千切ってカトリーヌと分け合い、意地悪な女の仕打ちをミレイユに打ち明けた。
「いつもそうなんだ。自分の失敗も僕達のせいにして、父上に告げ口するんだよ。だから、父上は僕らをどうしようもなく手がかかる子供だと思ってるんだ」
「まあ、ひどい。あなた達のお母様はどうしたの? 助けてくれないの?」
心から同情して、ミレイユは悲痛な声を上げた。
セルジュは妹と目を合わせて、ミレイユの方を向いた。
「僕達、母上と会ったことないんだ。すぐ近くにいるのに、会わせてもらえない」
「かわいそうに、お母様に会いたいでしょうね」
「うん、会いたい」
頷いて、セルジュはミレイユの様子を伺った。
大丈夫かもしれない。
声を出す一歩手前までいったが、心に圧し掛かる怯えが告白を止めた。
「あのね、抱きしめてもらってもいい?」
代わりに声を出したのは、カトリーヌだった。
言葉足らずな妹は、我慢できずに母に手を伸ばした。
ミレイユは驚いていたが、母の代わりに抱きしめて欲しいのだとすぐに理解して、伸ばされた手を迎え入れた。
「小さいのね。でも、とても温かい。いつまでも抱いていたいわ」
ミレイユはカトリーヌを抱きしめて、頬をすり寄せた。
セルジュは妹を羨ましく思ったが、自分もとは言えずに黙って側にいた。
「あなたも抱きしめて欲しい?」
ミレイユには何でもお見通しらしい。
彼女はセルジュも招き、二人の子供を腕に抱いて穏やかに笑った。
「私にも子供がいるの、産んですぐに取り上げられたから名前も知らないけどね。あなた達の名前を教えてくれる?」
「僕はセルジュ」
「カトリーヌよ」
兄と妹は母に名前を覚えてもらおうと、すぐさま名乗った。
「セルジュにカトリーヌね。素敵な名前だわ」
ミレイユは子供達の頬にキスをして、もう一度抱き寄せた。
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