薔薇屋敷の虜囚

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 【6】

 子供達の訪問は、ミレイユに新たな喜びをもたらした。
 一人だけでも可愛い子供が、二人に増えたのだ。
 しかも、カトリーヌは赤毛だった。
 本当に自分の子かもしれないと思うほどに、少女には最初から親しみを持てた。
 子供達が帰ってしまっても浮かれた気分は残り、ロジェの前でもこぼれてしまったようだ。
 召使いの報告と妻の様子から、異変に気づいたロジェが問いかけてきた。
「今日は随分と食欲があったそうだな?」
 お茶菓子にクッキーを焼き、さらにパンとリンゴを厨房から持ち出した。これまで三度の食事さえ満足に食べなかったのだから、彼が不思議に思うのも無理のないことか。
「いつもはもっと食べろと言うくせに、いざご指示に従えばやめろとおっしゃるの? 相変わらず身勝手な人ね」
 ミレイユは反抗的に言い返し、そっぽを向いた。
 ロジェの機嫌を取る気はない。
 今まで沈黙を守ってきたのは、無駄な力を使いたくなかっただけだ。
 だが、今日は違う。
 ミレイユは毅然と夫を睨み返し、口答えをしたのだ。
「悪くはない。だが、どういった心境の変化か教えてもらえるとありがたいのだが」
「あなたには関係ないことよ。私が何を考えようと、どう抗おうとも運命は変わらないのでしょう?」
「そうだ、君は死ぬまで俺に囚われ続ける。何も考えなくていい、その方が幸せだ」
 ロジェは低い声で囁いて、ミレイユに口づけた。
 肌をまさぐり、胸の膨らみに手を置いてゆっくりと撫でる。
「君に意志は必要ない。外に逃れ出る意志ならばなおさらだ。体で感じ、認めろ。その身が唯一欲するもの、必要とするものは、俺が与える快楽だけだと」
 心地良く、燃えるような愛撫を与え、ロジェはミレイユを追い詰めていく。
 拒む意志に反して、体は応え、声さえも彼女を裏切って甘い響きを含んだ喘ぎを生み出した。
「素直になれ。君は俺を求めているんだ、ミレイユ」
 ええ、そうよ。
 夫を体に迎え入れて、情欲の奔流に抗いながら、ミレイユは心で叫んだ。
 どれほど憎もうとも、体は彼を求めた。
 逞しい体が合わさると、喜びに震え、貪欲なほど求めてしまう。
 心が消えても、それは変わらない。
 ミレイユが己を罪深いと思う理由だ。
 浅ましい本能だけで生きる自分には何の価値もないと、彼女は絶望した。




 セルジュとカトリーヌは、毎日城を抜け出して母に会いに行った。
 憎悪を隠さなくなったグレースの虐めは、体罰を交えた激しいものになっていたが、二人は母との時間を拠り所にして耐えた。
 ミレイユは子供達の様子がおかしいことにすぐに気づいた。
「ねえ、セルジュ。その痣はどうしたの?」
 ミレイユが内出血でできた痣を持つ腕に触れる。
 グレースの鞭から頭を庇うために腕を使ったせいだ。
 グレースが痛めつけたいのは母に似ているカトリーヌの方だったが、セルジュは妹から片時も目を離さずに守っていた。怒りの矛先を自分に向けることによって、妹に危害が及ばないようにすることが、今の彼ができる精一杯のことだった。
「何でもないよ、ぶつけたんだ」
 セルジュは笑ってごまかした。
 母に会えるなら、心配してもらえるなら、こんな痛みはどうってことない。
 カトリーヌは泣きそうな顔で兄を見ていたが、真実を言ってはいけないのだと思って黙っていた。
「薬草があれば手当てできるのだけど、この屋敷の庭にはなぜか薔薇しかなくて……」
 ミレイユは美しく咲き誇る薔薇の花を思い出して肩を落とした。
 セルジュは申し訳なさそうな母の姿に胸が詰まり、心が満たされた。
「心配しないで、すぐに治る」
「あなたは強い子だわ。将来は身も心も強い騎士になれるわね」
「そうしたら、あなたをここから出してあげる。囚われの姫君を助け出すのは騎士の役目だ」
 助けだすのは姫ではなく、母だけど。
 セルジュは父と対決するつもりでいた。
 何年かかっても、必ず母をこの牢獄から出してみせる。
 守るべき存在と目標が、小さな体に強い意思と力を与えた。




 ロジェとミレイユの間になかった会話は、ここのところ毎晩交わされていた。
 今日も口火を切ったのはミレイユで、彼女は夫に一度も口にしたことのない屋敷についての希望を述べた。
「庭に薬草を植えたいの。それにどれほど見事に咲いていても薔薇ばかりでは飽きるわ。別の花も植えてくださらない?」
 庭園の植え替えを願い出た妻をロジェは冷たく一瞥した。
「あれは君のために作った庭だ。だが、君がその意味を理解していない以上、変えることは認めない」
「意味ですって? 栽培して売っているならともかく、同じ花ばかりの庭に何の意味があるの? わたしのための庭なら、好きなように手を入れていいはずだわ。この屋敷に住んでいるのは、あなたではなく私なのよ!」
「この屋敷は俺のものだ。敷地にあるものは住まう者も含めて、俺の所有物だ。無駄なものはないし、意味のないものもない。君に必要だと思えば与える。だが、薬草は必要ないだろう。入用なら調合したものを召使いに運ばせる」
 ミレイユは唇を噛んだ。
 まったく話にならない。
 これは嫌がらせだ。
 ロジェはミレイユを困らせようと、退屈な庭を押し付けて、必要な薬草も植えてくれないのだ。
「城の庭は薔薇だけではなく、多彩な花々が彩る美しい庭園だったわ。薬草園だって充実していた。あれは私が幼い頃からあったものよ。同じものを私が望んで何がいけないの?」
「なぜ急に花に拘る? 植え替えに人を寄越しても、作業が終わるまでは屋敷から出さないぞ。男が欲しくても、俺が相手をしてやるまで我慢するんだな」
 ロジェの言うことはメチャクチャだ。
 ミレイユが庭師を誘惑したがっているなどと、どこからそんな発想が飛び出すのだろう。
「ご心配はなさらないで。私は男女の営みはあまり好きではないのよ。相手があなたでも他の人でも、進んで身を任せたいとは思わないわ」
 ムッとしたように、ロジェの表情が硬くなる。
「そうなのか? 君は好きだと思っていたが」
 そう言って、ロジェはミレイユの腰を抱いて引き寄せた。
「嫌いよ、大嫌い! 私に触らないで!」
 ミレイユは腹立ち紛れに拳でロジェの胸を叩いた。
 ロジェは構わず、彼女の唇に口づけて罵り声を封じた。
「君は俺の妻となった。死が二人を別つまで、神の御前で誓った言葉は有効だ。忘れたわけではないだろう?」
「あなたがどんな人間か知っていれば、誓いの言葉は言わなかったわ!」
 ミレイユが投げつけた侮蔑の叫びに、ロジェはますます表情を険しくした。
「俺もだよ。君がどんな人間か知っていれば、侯爵様のご不興を買うことになったとしても縁談は辞退した。だが、我々は出会い、俺は君を妻にした。変えられないものは仕方がないだろう。君も諦めろ」
 諦めろと言われて、ミレイユの魂に火がついた。
 忘れていた激情が甦り、彼女は夫を罵倒した。
「私は諦めてきた! 牢獄に入れられて、何もかも奪われて、後は死を待つばかりの日々を送ってきたのよ! これ以上、何を諦めろって言うの! あなたにそんなことを言う権利はないわ!」
「黙れ、自分を哀れむのは止めろ! 何もかも自業自得だろう!」
 二人は睨みあい、荒い息をついた。
 興奮で赤く染まった顔を憎悪で歪め、ミレイユは怒鳴った。
「この悪魔! あなただけは許さない!」
「望むところだ、妖婦め! どれだけ聖女ぶっても本性は隠せない。どちらが悪魔か今にわかるさ!」
 ロジェはミレイユを寝台に押し倒して、肌着ごとナイトドレスを引き裂いた。
 怒りに支配されていても、彼は欲望を感じていた。
 熱くなった夫の下腹部が腿に触れ、ミレイユは嫌悪感で背筋が寒くなった。
「信じられない人! よくもこんなことができるわね!」
「君は悪魔の使いだ。昔も今も俺を狂わせる。この体がいけないのか? 君の体を見れば、どんな男も瞬く間に奴隷に成り下がる」
 ミレイユの胸の頂に、ロジェは舌を這わせた。
 二人の子供を産んでも線の崩れない美しい体を撫で回し、白い肌に吸い付き、赤い所有の痕を残していく。
 ミレイユは瞬く間に夫の虜となった。
 歓喜の声を上げ、激しく身を揺らし、獣のように腰を振る。
 ロジェも口を閉じ、猛々しい唸り声を発しながら、妻の足を抱きかかえて高まった欲望を全てぶつける勢いで吐き出した。
 互いを軽蔑しながらも、肉体的には強く惹かれあっている。
 ミレイユは認めないわけにはいかなかった。
 繋がるたびにロジェを求める気持ちは貪欲になり、体だけではなく心まで欲しくなる。
 だからこそ、一度は全て諦めたのだ。
 誇りを守るために、決して得られない愛は追うまいと決めた。
 無気力になり、目を背けて生きてきたのに、彼女は再び足掻きだした。




 今夜もグレースの癇癪の標的になったのはカトリーヌだった。
 もう理由を繕う気もないのか、グレースは己が抱く不満を全て目の前の子供にぶつけた。
「あの女さえいなければ、私とロジェは幸せでいられたのに! 憎らしい、この赤い髪も、顔も、何もかも!」
 ヒステリックに喚き、グレースは恐怖で動けないカトリーヌを足蹴にした。
 転がる小さな体を何度も蹴って踏みつける。
「何をするんだ!」
 駆けつけたセルジュが妹の前に立つと、グレースの瞳が陰険な光を帯びて鋭くなった。
「あんたも憎いわ。ロジェにそっくりな顔をして、なぜ私を睨むのよ。あんた達なんて消えてしまえばいい。ロジェが必要としているのは私だけよ! 他には何もいらない!」
 グレースはセルジュの頬を平手で殴った。
 男とはいえ子供だ。
 狂気を内に宿した女に敵うはずもない。
 セルジュはグレースの意識を妹から逸らそうとあえて彼女の前に立った。
 殴られても蹴られても、彼は負けなかった。
 グレースの罵倒の声と狂ったような笑い声が城中にこだまする。
 召使い達も、兵士達も、本当に狂っているのは誰なのか気づいていた。
 だが、彼らは何も言えなかった。
 グレースは城主の信頼を最も得ている女主人だからだ。




 気が済むまでセルジュを痛めつけると、グレースは部屋に引き上げた。
 召使い達がセルジュを部屋に運んで手当てをした。
 頬は赤く腫れ、衣服の下の体は痣だらけで痛々しい。
「お兄様、お兄様」
 朝になって目覚めると、枕元でカトリーヌが泣いていた。
 母を救うどころか、自分さえ満足に守れない無力さに、セルジュは悔し涙を浮かべた。
「カトリーヌ、お前は大丈夫か?」
「うん。でも、お兄様の方が痛いでしょう」
 動くとあちらこちらが痛い。
 セルジュは何とか体を起こして、妹を抱きしめた。
「お前が無事で良かった。父上が帰ってきたら部屋を出よう。あの女も父上の前ではおとなしいはずだ」
 セルジュの考えは正しく、父が屋敷から帰宅すると、グレースは昨夜とは打って変わったしおらしい態度で出迎えた。
 留守中に異変はなかったかと城内を見回したロジェは、息子が顔を腫らしてぎこちない動きで近づいてくるのに気がついた。
「セルジュ、どうした?」
 危険な女を糾弾するチャンスだとセルジュは答えようとしたが、グレースが先に口を挟んだ。
「城をこっそり抜け出して街で喧嘩をして帰ってきたのよ。困った子ね。私が手当てしたのだけど一晩では治らないわ。でも、これで腕白坊やもしばらくはおとなしくなるでしょう」
 抜け抜けと作り話を吹き込む女に、ロジェ以外の全員が顔をしかめた。
「セルジュ、そうなのか?」
 ロジェはグレースの説明を聞いても確認を求めたが、セルジュは無言で父とその従姉妹を睨んだ。
 これまでからして、父がセルジュの話を信じたことはない。
 不信感を漲らせ、セルジュは弁解はしない代わりに、頷きもしなかった。
「負けて帰ってきたのですもの。あまり追求しては可哀想よ」
 グレースは周囲の反応などお構いなしで、ロジェの腕にすがりついた。
「入浴の用意はできているわ。外でついた汚れを落としてきて」
 猫なで声を出すグレースを、セルジュは嫌悪も露わに見ていた。
 母の痕跡を洗い流せと言っているのだ。
 父に擦り寄るグレースも、好きにさせておく父も、セルジュには腹立たしかった。




 セルジュは療養を理由に部屋にこもっていたが、カトリーヌを連れて母に会いに行った。
 ミレイユも元気がなかったが、やってきた二人を見て顔色を変えた。
「セルジュ……。ああ、カトリーヌもかわいそうに。小さな子供にどうしてこんな酷いことができるの」
 服の下に打撲の痕をつけた子供達を抱きしめて、ミレイユは泣いた。
 セルジュも泣いていた。
 妹の前では虚勢を張って頑張っていた彼も、母の前では気が緩み、弱い小さな子供に戻っていた。
「あなた達を守れる力があればいいと思うわ。でも、私には何もできない……」
 弱々しいため息をつく母を、セルジュは恨めなかった。
 逃げ場所になってくれただけでも嬉しいと思わねばならない。
 だが、父が味方でない今は、母の助けが痛切に欲しかった。
 セルジュは一縷の望みをかけて別れ際にミレイユに告げた。
「僕は城主様の子供達を知っている。彼らはいつも言っているよ、お母様に助けて欲しいって」

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