お嬢様のわんこ
第三章・苦労性魔術師の愚痴りたくなる日々
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【9】
ディオンは殿下に畏敬の念を覚え、忠実に付き従うようになった。
それはいいのだ。
こちらの言うことさえ聞いてくれるのなら、ディオンはそれなりに使える男だ。
もう少し分別がつけば、殿下の側近として申し分ない働きができるようになるだろう。
だが……。
「どうしてもわかりません。何故、殿下は奴隷などという屈辱を受け入れておられるのか。その者は殿下をも凌ぐ力を持っているのですか?」
殿下の現状を説明したものの、ディオンには理解できなかった。
力以外で主従関係が成り立つなどと、思考の外にあるのだろう。
「お嬢様は武力などお持ちではない。我が国に来られたならば、子供にすら負けるだろう。人族はただでさえ身体能力で劣るのだ、何の訓練も受けていない普通の娘であればなおさらだ」
「なるほど、そこで奴隷契約が必要になるわけですな! 力無き者が卑劣にも殿下を罠にかけて隷属を強いたと! 許せぬことです!」
己の力以外で相手を屈服させるなど許されない!と吼える馬鹿の頭を、とりあえず殴っておく。
「殿下は不本意に隷属させられているのではない。望まれて、あの立場に固執しておられるのだ。できることなら、お前にも見せてやりたい。主人を前にした時の、だらしのない、締まりのない顔を! でかい図体をした男が子供みたいに甘えている姿を!」
奴隷、隷属などという非道な言葉が、あの二人の前では、まったく意味の違うものになっている。
殿下は確かに奴隷なのだ。
恋だの、愛だのという、そっち方面の奴隷だ。
肉欲もあるかもしれないが、そうなっても隷属させられている側の殿下にとっては、ただのご褒美にしかならない。
王子が奴隷にされている!などと、憤る必要性をもはや私は感じていない。
勝手にやっててくれという心境だ。
「奴隷契約が結ばれているとなれば、確かに体裁は悪いが、魔術師でもない限り見た目ではわからんので構わない。いざ、国に帰るとなれば、お嬢様のお人柄を考えれば契約を解除してくださるだろう。それより、お前の思考が問題だ。いい加減、力以外で上下関係が決まることもあると理解しろ!」
実例を示せればいいのだが、生憎と適した関係性を持つ者などここにはいない。
次第にディオンも不満や疑問を口にすることがなくなり、ようやく理解したのだろうと安堵した。
表面上は穏やかな日常が続き、仕事らしい仕事といえば本国から送られてくる書類の山を捌くぐらいで油断していた。
崩壊の時は、突然やってきたのだ。
その日の殿下は少し様子がおかしかった。
集中力に欠け、始終そわそわと落ち着きがなく、魔獣狩りにも身が入っていないようだった。
私が早めに切り上げるように提案し、いつもより早く街へと戻ることになった。
もう少し早ければ、未然に防げたのだろうか。
後で、繰り返し考えてみたが、起こってしまったことは取り返しがつかない。
今朝まで平穏だった街の空気は一変し、人々が上げる恐怖の叫びで騒然となった。
脅威に立ち向かう者などいない。
住人の多くが獣人であるこの国の人間なら本能でわかるはずだ、アレには絶対に勝てないと。
ようやく殿下に追いつけば、理解不能の光景が待ち受けていた。
見るのも嫌になっていた、殿下の愛の巣である小さな家の周辺は、近辺の住人が集まってきたのか、大勢の人で溢れていた。
家を背に、ぐったりと倒れ込んでいる少女の姿。
呆然とした顔で突っ立っている、剣を持った馬鹿な部下と、その前で天を仰いで叫ぶ殿下を見て、この場で何が起きたのか理解した。
辺り一帯に響き渡る悲哀に満ちた慟哭は、二度と聞きたくないと思っていた、かつて王妃様を失った時の陛下の慟哭そのものだった。
慟哭は人のものから獣の叫びへと変わっていく。
怒りが獣人に宿る獣の本性を引き出し、その姿を変えようとしていた。
「だ、団長! どうしましょう、殿下のお姿が変わって、まさかあれは……!」
背後にいた部下が、焦った声を出した。
苦々しい思いで、変化していく殿下のお姿を見つめた。
頭部はすでに人の形をしておらず獣のものとなり、狼の黒い毛皮で覆われた四肢はさらに強靭な筋肉を纏い、体格は人であった時の三倍は大きくなった。
獣人族の本性ともいえる姿となった殿下は、恐ろしいほどの威圧感と殺気を宿していた。
変身能力を持つ獣人には、人獣化と呼ばれる変身形態がある。
普段使われる時は、人の体の一部だけを獣の力を融合させた姿に変化させる。人と獣、二つの力を合わせることで、より強い力を得ることができた。
だが、全身を変えてしまった場合、よほどの強い精神力を有していない限り、引き出される力の大きさに負けて精神が耐えきれず、闘争本能に支配されて、ただ暴れるだけの獣に成り下がるのだ。
特にきっかけが、憎悪や怒りの場合、敵を殺しても破壊衝動は治まらず、目についた全てのものに攻撃を仕掛けてくるだろう。
「急ぎ、王城へ行ってリオン王に報告を! 万が一、殿下が暴走なされれば、止められるのは王だけだ!」
「は、はい!」
最も足の速い部下が城へ向けて駆けて行く。
殿下がディオンに攻撃を仕掛ける。
あれに抗える力などなく、ディオンは嬲られるまま吹き飛ばされて、見る間にボロボロになっていく。
助けに入るより先に、やるべきことがある。
見捨てる気はないが、それまで持ち堪えられるよう、ヤツの頑丈さに期待するしかない。
「騎士は王が来られるまで、住人に被害が出ないように体を張って周辺を守れ! 魔術師は殿下の注意が逸れたらディオンを回収して治療をしろ!」
部下に指示を出し、私はお嬢様に駆け寄って、体を横に寝かせた。
呼吸が止まっている。
殿下との契約も消失していた。
彼女の魂はすでに体を離れている。
「闇の精霊よ、肉体より離れ、冥界へと向かう魂を束の間だけ現世に引き留めよ」
束の間と、制限を加えたにも関わらず、持っていかれた魔力の量は体感で全体の三分の一ほどだ。
急激に奪われた脱力感が酷いが、まだこれからだ。
「光の精霊……」
呼びかけただけで気配を感じた。
貪り食う気満々の忌々しい奴らめ。
「死に至る傷を癒せ」
剣で傷つけられた心臓を修復する。
死に至る傷だ、治すには代償も大きい。
引き摺り出されていく魔力はこれもまた多い。体が冷えて行くのがわかった、流れる汗も冷たく感じる。
巡りを止めた血が再び流れ出す。
肉体が脈を取り戻し、肌に色が戻った。
彼女が小さく息を吹き返した瞬間、私は声を振り絞って、殿下に呼びかけた。
殿下に両腕を噛み千切られたディオンは、腕ごと回収されていった。
あれは生命力の強い男だ。
骨も内臓もやられているが、魔術師二人がかりで頑張れば、腕を繋げて、一命を取り止めることはできるだろう。
私はその場に座り込んで、殿下が行使する魔法を見ていた。
精霊に魔力のほとんどを持っていかれて、動くことすらままならない。
死者の蘇生を試みるなど、自殺行為と言われても仕方のないことをしたのだ。まだ命があっただけ良しとしよう。
死者蘇生には条件があった。
無条件での蘇りを、世界は決して許しはしない。
寿命で死んだ者はもちろん蘇生しない、病が原因でも同じだ。
例外は肉体を損壊した場合の死だけ。
すぐさま致命傷を癒し、黄泉へ行く前の魂を繋ぎとめることができれば、一度息を止めた者は復活できる。ちなみに長い時間が過ぎて、肉体が腐ってしまえば蘇生は不可能となる。
問題は魔法を行使できるのは一度に一人だけだということだ。
何人でも集まって行使できるのなら、もっと蘇生も楽に行えるのだが、そう都合の良いことはない。
私が彼女の魂を、束の間だけ戻すと条件をつけたのは、致命傷を治すためだ。
傷を治すより魂を繋ぐ方が膨大な魔力を必要とした。
私の魔力では、両方は補えなかった。
どちらにせよ、一度彼女が生き返れば、殿下の暴走は止まる。
闇の精霊が、復活のためにどれほどの魔力を要求するのかは、私にもわからない。
最悪の場合、殿下の命をも奪い取るだろう。
それでもリオン王に討たせるよりはいい。
すでに迷惑をかけまくっているが、王の手を借りてしまえば、さらに賠償額が増えて遺恨も残る。陛下とナゼール殿の心労が増えるな。
外交問題を、こんな状況でも心配している自分に笑うしかない。
彼女も殿下も助からなければ、責任を問われて私も死ぬしかないな。当然、あの馬鹿もだ。エドモン殿はどうするだろう、あの人も今度こそ自決するだろうな。
陛下、王妃様、申し訳ありません。
あなた方に託された大切なお役目でしたが、私の力が及ばず、もはや運を天に任せて見守ることしかできません。
殿下とお嬢様の魂が、闇の精霊の仲介で契約の魔力で結ばれていく。
相手を己の眷属と成す隷属の魔法だ。
眷属にすることで、従者となる者の能力が、主人の影響を受けるのは本当だ。
ただ、誰も好き好んで他人に隷属したいなどとは思わないだろう、あれは本来なら疎まれ、唾棄すべき契約だ。
それでも奴隷契約を問題にしない二人なら構わないだろうと思った。
どちらが主人でも従者でも、魂の結びつきさえあれば安心して満足する。
三年間も、辟易しながら見守ってきたのだ。
彼らがお互いだけを必要とし、相手のことを心から思いやりながら生きてきたことを知っている。
殿下は命を投げ出しても、精霊に彼女を助けろと命じたことだろう。
もしも、殿下が死んで彼女だけが助かったとしたら、きっと絶望して死のうとする。
そうなれば、どうすればいい。
これ以上、蘇生は行えない。
もう一人か、二人の力の強い魔術師か、いっそ陛下かナゼール殿でも来てくれたら何とかなるのに!
意識を失えれば楽なのだが、そうはならないので、私は最悪の事態と対処法を考えながら状況を見守った。
ふいに二人の周りに、精霊の気配が集まり始めた。
闇だけではない、光、火、水、風、土などの全種類の精霊の気配を感じる。
なんだ?
誰もいないのに、多くの喜びの感情がこの場に溢れている。
まさか、精霊なのか?
心など持たないと思っていた連中が、まるで何かの誕生を祝うように、辺りを舞い踊っているかのようだった。
その瞬間、信じられない現象が起こった。
お嬢様の姿が変わっていく。
始めに肌の色が変わり、色素の変化は髪にまで及んだ。
新たに彼女がまとった色は、全て殿下とそっくり同じだった。
体格は変わりないが、人族の耳が小さくなって消えていき、頭頂部に我ら狼族の象徴ともいうべき狼の獣耳が出現した。
服で隠れてるが、おそらく尻尾も生えているのでは?
眷属の契約で、こんな現象が起きるなんて記録にない。
信じられない思いで変化の終わりまで見届けると、殿下の体がぐらりと傾いた。
どさりと横たわった殿下に這い寄ると、呼吸をしているのが確認できた。
良かった生きてる。
お嬢様の方も息があり、蘇生が成功したのだと知った。
「パトリス様、御無事ですか! リオン王が参られました!」
城へやったはずの部下の声が聞こえ、そちらを向くと、黄金の輝きを放つ獅子の王が大勢の兵士を連れてやってくるのが見えた。
ああ、やっと一息つける。
ほっとしたせいか気が抜けてしまい、一気に目の前が暗くなっていく。
残っていた気力も尽きた私は、抗うことなくその場に倒れ込んだ。
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