償い

第1話 雛と鷹雄

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 わたしには大好きな人がいる。
 自分の半身のように、なくてはならない大切な人。

 彼に名前を呼んでもらえることが嬉しかった。
 一緒にいるだけで幸せだった。
 わたしの幸せが、彼の不幸の上に作られたものだと知るまでは。

 わたしはあなたのために、何ができるんだろう。
 あなたの傷ついた心を癒すためなら、何でもするよ。
 たとえ、あなたがわたしを愛していなくても、わたしはあなたを愛しています。




 寝返りを打ったら、そこにいるはずの人がいなかった。
 残っている微かな温もりを確かめて体を起こす。
 胸元に落ちてきた長い髪をかきあげて、頭を振った。
 まだ、それほど時間は経っていない。
 出かける彼を見送りに行かなければ。

 何も身につけず眠っていたわたしは、床に脱ぎ落としていたバスローブを着て寝室を出た。
 リビングに行ったら、彼は支度を終えて朝食を食べていた。

「おはよう、お兄ちゃん」

 声をかけたら、彼はちらっとこっちを向いた。

「ああ、おはよう」

 表情を変えずに、挨拶を返してくる。
 昔は微笑んでくれたのに。
 望むのは愚かなことだとわかってはいたけど、やっぱり悲しい。
 お兄ちゃんという呼び方は昔のままで許してくれているけれど、彼にとってわたしは妹ではない。
 体の繋がりがあろうとも、恋人ではない。
 わたしという存在は、彼が憎しみをぶつけるためにここにある。
 それ以外に価値はない。
 わたしは彼に疎まれて当然の女だから。

 彼はトーストを食べ終わり、コーヒーを飲んでいる。
 食卓にはわたしの分まできちんと並べられていた。
 スクランブルエッグにサラダ、ベーコンと、簡単ながらそれなりにちゃんとした朝食だ。
 一緒に暮らし始めてから、朝食は彼、夕食はわたしが作っていた。

「雛、オレは今日から出張で一週間ほど帰らない。実家に帰っていてもいいぞ。戻ってきたら連絡する」
「うん、わかった。行ってらっしゃい」

 立ち上がった彼が背広を着込む。
 身につけた高級ブランドのスーツが、長身で逞しい彼の体をさらに立派に見せている。
 綺麗にセットされた短髪の黒髪。
 鼻筋の通った端整な顔立ちは野性味も含んでいて、自信に満ち溢れた表情が、見るものに頼もしさを感じさせる。

 わたしは玄関に向かう彼の後ろをついていった。
 ここは高層マンションの最上階。
 しかもワンフロア全てを使った部屋だから、バスローブ姿でエレベーターの前まで見送りに出ても、人目を気にする必要はない。

「じゃあ、行ってくる。帰ってきたら、またかわいがってやるからな」

 彼はわたしを抱き寄せてキスをした。
 舌を吸い、絡ませて、巧みなキスで翻弄してくる。
 エレベーターはまだ来ない。
 壁に押し付けられて、バスローブの合わせ目から胸元に手を入れられて、膨らみを揉みしだかれた。
 昨夜、散々いじられたはずの肌が熱を持ち、唇から甘い吐息がこぼれた。

「監視は常についている。オレを裏切ったらどうなるか、わかっているな?」

 冷たい声で、彼が念を押す。
 わたしが頷くと、体は解放された。
 エレベーターが到着して、扉が開く。
 乗り込んだ彼が降りていくことを、階層を移動する明かりが教えてくれる。
 一階に着いた。
 そこまで見届けて、部屋に戻った。




 わたしは四年制の女子大に通っている。
 現在は二回生。
 卒業後の進路はあまり考えていない。
 資格は取れるだけとろうとは思っている。
 一人になった時、困らないように。

「おはよう、雛」

 構内を歩いていたら、肩を叩かれた。
 ショートカットの元気そうな女の子だ。
 彼女は鶴田鳩音(つるた・はとね)ちゃん。
 わたしの親しい友人の一人で高校時代から付き合いが続いている。

 挨拶を返して、一緒に歩く。
 鳩音ちゃんは、合コンの誘いを持ってきた。
 人数が足りないと拝まれたけど、わたしには行けない理由があった。
 だけど、それを話してしまうことはできない。
 彼との関係は、両親にも秘密にしているからだ。

「ごめんね。その日はどうしても用事があって」
「もう、雛はいつもそう! そうやって出会いの機会を逃しているから、彼氏ができないのよ」

 はっきり言う鳩音ちゃんに苦笑を返して、こっそりため息をつく。
 わたしは彼氏を作るわけにはいかない。
 だって、わたしは彼のものだから。

「今回は引き下がるけど、次回は絶対に連れて行くからね! 予定入れちゃダメだよ!」

 まだ諦めていない鳩音ちゃん。
 困ったなぁと思いながら、わたしは曖昧に笑って彼女と教室の前で別れた。




 大学での授業を全て終えると、久しぶりに実家に戻った。
 住宅地に建つ我が家は、小さいながらも庭付き一戸建て。
 両親と兄との四人暮らしをしていた頃は、どこにでもある普通の家庭だった。
 少なくとも、小さな頃のわたしはそう信じていた。
 今この家には、両親だけが住んでいる。

「ただいま」

 声をかけたら、お母さんが飛んで出てきた。

「雛、お帰りなさい!」

 わたしをぎゅっと抱きしめて、お母さんは再会を喜んだ。
 大げさかもしれないけど、それだけ心配してくれてるんだ。

「お兄ちゃんがいない間だけ、こっちで泊まるから」

 春物の薄いコートを脱ぎながら、わたしはお母さんに説明した。
 お母さんは顔を曇らせて、そう……と呟いた。
 笑って欲しいのに。
 そんな顔をして欲しくないのに。

「それより、お父さんの方はどう? 仕事は順調なのかな?」
「え、ええ。得意先も増えて会社は持ち直したそうよ。お金も少しずつだけど返せているわ。鷹雄くんのおかげね」

 鷹雄くんというのは、彼のことだ。
 わたしの血の繋がらない、かつて兄だった人。

 お父さんは小さな印刷会社を経営している。
 社員とアルバイトを含めた従業員の数は十人前後と小規模で、社長さんといっても収入はそれほど多くない。昔から家族を養うだけで精一杯で、お母さんもお父さんを支えて頑張ってきた。
 だけど、大手の同業者に取引先を奪われて、年々経営が苦しくなり、多額の負債を抱えて、ついには倒産の危機に陥るまでに業績は悪化した。
 我が家にも借金の取立て屋が何度も押しかけてきて怖い思いをした。




 あの日も、柄の悪い取立て屋がうちに来て、たまたま一人で家にいたわたしはうっかりドアを開けてしまった。
 お金が回収できないとわかると、彼らはわたしを攫おうとした。
 家から引きずりだされ、車に押し込まれかけた。

「離して!」
「うるさい! 親父が金を返せないなら、娘のお前が体で稼げ! いい店を紹介してやる。本番も覚悟しておけ!」

 近くには誰もいない。
 近所の人もトラブルを恐れて助けには来てくれない。
 絶望の縁に立たされたわたしの耳に、別の車のエンジン音が聞こえた。
 黒塗りの高級車が目の前に止まり、中からスーツ姿の若い男性が現れた。
 黒服のボディガードが二人、彼の後ろについている。
 一瞬、幻かと疑った。
 まさか、彼が助けに来てくれるなんて思ってもみなかったから。

「その手を離してもらおうか」
「ああ? 何だお前は? 関係ないヤツが口を挟むなっ!」

 殺気立つ男達にも怯まず、彼は冷静な態度で対峙した。

「借金の件は先ほど話がついた。そっちの上役に確かめてみろ」

 男は電話をかけて確認を取ると苦虫を噛み潰したような顔をした。

「おい、そいつを離してやれ。行くぞ」

 舌打ちして、男はわたしを離すように命じ、仲間と一緒に去って行った。
 解放されたわたしは路上にへたりこんだ。
 足が震えて、すぐに立つことができなかった。

「立てるか、雛」

 彼の手が目の前に差し出された。
 大きくて頼もしい手は、わたしが一番大好きな人のものだった。

「お兄ちゃんっ」

 彼の胸めがけて飛びついた。
 大声で泣くわたしを、彼は黙って抱きしめてくれた。
 昔の優しい兄に戻ってくれたんだと思った。
 でも、彼は家の中に入るなり、態度を一変させた。
 幾つかの書類を見せて、借金は完済されたわけではなく、自分が肩代わりしたのだと説明した。

「早い話が取立て屋が変わっただけだ。オレの一存で、親父の会社は倒産だ。オレがあいつらを許すわけがないだろう? 路頭に迷って、一家心中するしか道がなくなるまで追い詰めてやる」

 彼は楽しそうに笑って、顔を寄せてきた。

「親父とちどりさんはどうなってもいいけど、雛は助けてやってもいい。オレのところに来いよ、もちろん今まで通りやることはやらせてもらうがな。その代わり、何不自由のない贅沢な暮らしをさせてやる」
「やめて、お父さんとお母さんにひどいことしないで!」

 わたしは彼にすがりつき、訴えた。

「お兄ちゃんがお父さんとお母さんを許せないことはわかってる。でも、わたしにとっては大事な両親なの。お願い、代わりにわたしが何でもするから、二人のことは助けてあげて!」

 わたしの懇願を聞いて、彼は考え込む仕草をした。
 そしてニヤリと笑って、わたしの唇に自分のそれを重ねた。
 触れ合うだけのキスをして、唇を離す。
 わたしを捉えた彼の瞳は、鋭い光を宿していた。
 復讐を完全にやめさせることはできなくても、わたしに矛先が向けばいい。
 どんな形でも、彼に両親を傷つけて欲しくなかった。
 三人とも、わたしの大事な人だからだ。

「何でもすると言ったな? じゃあ、オレのものになれ。お前がオレのものになるんなら、二人には手を出さない。借金の返済期限は延ばしてやるし、会社を立て直す援助もしてやる。ただし、お前がオレを裏切ったら徹底的に叩き潰して破滅させる。絶対に裏切らないって誓えるか?」
「誓うよ。わたしがお兄ちゃんに嘘をついたことがある?」

 わたしは彼のものなることを誓った。
 すでにわたしの体は捧げていたけど、これは完全な契約だった。
 逃げることは許されない。

 そのすぐ後に、連絡を受けた両親が会社から帰宅した。
 二人は彼からの援助の申し出を半信半疑で聞いていた。
 そしてわたしがお兄ちゃんと一緒に暮らしたいと話すと顔色を変えた。
 お父さんは、彼の目的にすぐ気がついたんだ。

「鷹雄! お前がオレを憎むのは仕方のないことだ! だが、雛は関係ないだろう!? 援助もいらない! 復讐するなら、オレだけを標的にしろ!」

 顔を引きつらせて詰め寄るお父さんを見て、彼は心外だと肩をすくめた。

「何のことだ? 戸籍の上では他人でも、あんたとオレが血の繋がった親子であることに変わりはない。援助をするのは当然のことだ。それに、雛の通う大学が、オレのマンションの近くだから引っ越してこいと誘っただけだよ。変な誤解をしないでもらいたいね。オレは今までずっと雛をかわいがってきただろう? オレも雛が大事だからな、借金のこともあるし、学費も生活費も全て面倒をみるつもりだ」

 彼に視線を向けられて、わたしは相槌を打った。

「そうだよ、お父さん。お兄ちゃんは心配してくれてるの。通学は便利になるし、わたしが家事をすればお兄ちゃんも助かるって言ってくれてる。わたしの学費を払うのも苦しいはずでしょう? 今はお兄ちゃんに頼って。わたしも頑張るから、お父さん達は借金を返すことと会社を立て直すことに専念して」

 わたしは両親に心配をかけまいと、話を合わせた。
 それに彼の所に行くのは、両親のためだけではなかった。
 一番傷ついているのは、彼なんだ。
 彼が望むことなら、わたしは何でもしようと決めていた。
 それが、半年ほど前のことだ。




 久しぶりの両親との夕食は和やかに進んだ。
 お母さんは、わたしの好物ばかりを作ってくれた。
 大学の話を始めとした近況を報告したけど、彼のことは話さなかった。
 しかし、二人はそれを聞きたかったのだろう。
 会話が途切れると、お父さんが切り出した。

「鷹雄とはどうだ? 何か嫌な目には合っていないか?」

 表情に不安を滲ませる両親に、わたしは即座に心配を否定した。

「毎日楽しいよ。生活に必要なものも、お兄ちゃんが何でも買ってくれるし、優しくしてくれてる。朝ごはんも作ってくれるんだ、料理上手なんだよ」

 本当のことだから、後ろめたく思うことなく話し続ける。
 両親もそれ以上は何も言わなかった。
 これでいいの。
 わたしは望んで彼の下にいるんだから。

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