償い

第2話 過去−亀裂−

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 物心がついた時、わたしは平凡な四人家族の一員だった。
 大好きなお父さんとお母さん、そしてお兄ちゃんがいて幸せだった。
 小さかったわたしは、この家庭環境が作られた経緯など知るはずもなく、それゆえに生まれた家族の危うい関係にも気づくことができなかった。
 三人とも、わたしには愛情を注いでくれていたからだ。

「おにいちゃん。ひな、幼稚園でね、お絵かきしたの」

 わたしは彼の部屋に行って、話しかけた。
 この当時、六つ年上の鷹雄お兄ちゃんは小学校の五年生。わたしは幼稚園の年少組に入ったばかりだった。
 お兄ちゃんは学校から帰ってくると、友達と遊びにすぐ出て行って、日が暮れるまで帰ってこない。
 帰ってきても、お風呂に入ってご飯を食べると自分の部屋に入ってしまって、お父さんが帰ってきても、呼ばれたりしない限りは出てくることがなかった。
 少しでもお兄ちゃんと一緒にいたいから、わたしは毎晩彼の部屋に押しかけていた。

「そうか、どんな絵描いた?」
「先生が家族の絵を描きましょうって言ったから、おとうさんとおかあさんとおにいちゃんとひなを描いたの」

 ふーんと、お兄ちゃんは生返事をして視線を読んでいた漫画に戻した。
 お兄ちゃんの前で、お父さんとお母さんの話をすることは勇気のいることだった。
 彼の機嫌があからさまに悪くなるからだ。
 それでもわたしは食い下がった。
 お兄ちゃんに両親と仲良くしてもらいたい一心で。

「お休みになったらね、おとうさんが遊園地連れてってくれるの。おにいちゃんも一緒に行こうよぉ」

 ベッドを背もたれにして漫画を読み続けている彼に抱きつく。

「やだよ、行かない」

 お兄ちゃんは冷たく言ったけど、思い直したように顔を上げた。
 こっちに向けてくれた顔は笑顔で、頭を撫でてくれる手は優しかった。

「もう少し雛が大きくなったら、二人だけで行こうな」

 幼心にも、お兄ちゃんが両親を嫌っていることはわかった。
 特にお母さんのことは「ちどりさん」と名前で呼んでいる。お母さんも「鷹雄くん」って、よその子を呼ぶように遠慮がちに声をかける。
 お父さんもお母さんも、お兄ちゃんとの接し方に困っているみたいで、腫れ物に触るように必要以上の干渉はせず、ほとんど会話のない日々を過ごしていた。
 わたしは家族団らんの輪の中にお兄ちゃんを入れようと、子供なりに頑張ってみたけど、努力は全て空回りして徒労に終わる。
 それどころか、お母さんが変なことを聞いてきた。

「雛、お兄ちゃんのお部屋に行って、嫌なことされてない?」

 心配そうなお母さんを、わたしは理解できなかった。

「おにいちゃんといるの楽しいよ。ひな、おにいちゃんが大好きだよ」

 お兄ちゃんがどれだけ優しくしてくれるのかを一生懸命に訴えたら、お母さんは「なら、いいの」って、表情を和らげた。




 わたしが小学校に上がった頃から、お兄ちゃんと両親の亀裂は目に見えて深くなった。
 それに比例して、お兄ちゃんは荒れていった。
 中学生になると髪を染めて金髪になり、制服も校則違反のものにわざと仕立て変え、悪いお友達と付き合うようになった。
 一度、タバコを持っているのを見かけた時は、泣いて止めた。
 ちょうどテレビで、子供の喫煙が及ぼす悪影響についてやっていたのを見たせいだ。

「お兄ちゃん、病気になっちゃうよ。お兄ちゃんが死んじゃったら嫌だ」

 誰の注意も聞かないと聞いていたのに、わたしが捨ててってお願いしたら、お兄ちゃんは中身の入ったタバコの箱をゴミ箱に投げ入れた。
 そして泣いているわたしの頭を撫でて、お酒もタバコも、病気になるようなものはやらないと約束してくれた。
 わたしの前でだけは、彼は優しい兄でいてくれた。

 お兄ちゃんの問題行動は、日を追うごとにますます激しくなった。
 中学も三年生に上がる頃には深夜の帰宅が珍しくなくなり、素行の悪い人達とコンビニの駐車場とか公園で集まっているのを見かけたと近所の人が話しているのを立ち聞きもした。
 学校もサボって無断欠席を繰り返し、お母さんが先生に何度も呼び出されていた。
 ついにお父さんも黙っていることができなくなったんだろう。
 お兄ちゃんが家を飛び出した、あの夜がやってきた。




 夜更かしはいけないと先に寝かしつけられたわたしは、階下から聞こえてくる声で目が覚めた。
 物が倒れる音やお皿が割れる音もしている。
 お父さんとお兄ちゃんの怒鳴り声、お母さんの悲鳴みたいな仲裁の声が入り乱れていて、わたしは嫌な予感で落ち着かなくなった。
 たまらず部屋を飛び出して、階段を駆け下りた。
 三人がいるリビングを覗くと、目を覆いたくなるほど部屋は荒れていた。
 家具が倒れて、割れた食器が散乱している部屋の真ん中で、お父さんとお兄ちゃんが掴みあっている。
 自分より体の大きいお父さんが相手でも、お兄ちゃんは少しも恐れていない。

「てめぇに、とやかく言われる筋合いはねぇ! それにオレがこうなったのは、元はといえばてめぇらのせいだろうが!」
「親に向かってなんて口の聞き方だ! それにどんな環境で育ったのだろうが素行の悪さの言い訳にはならん! 問題をすり替えるな、自分のやったことを反省しろ!」

 激しく罵りあう、お父さんとお兄ちゃん。
 お母さんはお父さんにすがりついて、落ち着いて話そうと説得していた。
 そんなお母さんに、お兄ちゃんは冷ややかな目を向けた。

「ちどりさんも、いいお母さんの振りしなくっていいんだよ。あんたもオレがうっとうしかったんだろ? 残念だったよなぁ、このクソ親父に甲斐性がねぇばっかりに邪魔者が残っちまってよ。正直に言えばいい、面倒ばかりかける厄介者は出て行けってな」

 お母さんは青い顔をして、お兄ちゃんを見つめた。
 それを聞くなり、お父さんは腕を振り上げて、お兄ちゃんの顔を平手で殴った。
 お兄ちゃんは後ろのソファに倒れこんだ。
 口の中を切ったのか、血が出ている。
 お兄ちゃんの血を見て、わたしはリビングに飛び込んで、お父さんの前に両手を広げて立った。

「お兄ちゃんを叩いたりしたらダメ!」

 いきなり飛び込んできて叫んだわたしに、お父さんとお母さんは驚いて動きを止めた。

「どくんだ、雛」

 お父さんは、わたしの肩を掴んでどかせようとした。

「嫌! どかない! お兄ちゃんを叩くお父さんは嫌い!」

 お父さんにきつい口調で言われても、わたしは首を振ってお兄ちゃんを庇い続けた。
 わたしがお父さんに反抗したのはこれが初めてだった。
 どれだけそうやって立っていたんだろう。気がついたら、後ろからお兄ちゃんに抱きしめられていた。
 なぜか、お母さんが大声を上げた。

「やめて、鷹雄くん! わたしは何を言われても、殴られても構わない! だけど、雛は何も悪くないの。お願いだから、その子には手を出さないで!」

 どうしてお母さんは、お兄ちゃんがわたしを傷つけるなんて思うんだろう。
 彼の腕の中はこんなに温かくて安心できるのに。
 不思議に思ってお母さんを見つめていると、耳元でお兄ちゃんが囁いた。

「ありがとうな、雛。でも、もういいんだよ」

 お兄ちゃんはわたしを抱きしめていた腕を緩めて、立ち上がった。

「心配しなくても雛に危害を加える気はない。オレは今日限りでこの家を出る。今まで世話になったな。二度と帰ってこないから、安心してくれ」

 お父さんとお母さんは呆然と立ち尽くしていた。
 わたしも、お兄ちゃんの突然の宣言を、すぐに受け止めることができなかった。
 お兄ちゃんは、その間に玄関に向かった。
 扉が閉まる音を聞いて、我に返って追いかけた。
 外に出たら、たくさんのバイクの排気音が聞こえた。
 家の前に派手な装飾の大きなバイクがたくさん集まっていて、乗っているのは怖そうな人たちばっかりだった。
 お兄ちゃんは、その内の一台の後ろの部分に乗っていた。
 出てきたわたしに気づきもせずに、彼らは一斉に走り始めた。

「お兄ちゃん、待って! 行っちゃやだぁ!」

 パジャマに素足のまま、必死で追いかけた。
 だけど、彼らの姿はどんどん小さくなって闇に紛れてしまい、バイクの音も聞こえなくなった。

 お兄ちゃんが行ってしまった。
 この家から、わたしの前からいなくなった。
 暗い道の真ん中で立ち止まり、わたしは泣いた。

 泣き続けていたら、お父さんとお母さんが来てくれた。
 二人はお兄ちゃんにはまた会えるからと言って、わたしを家に連れて帰った。
 お父さんに抱っこされて、お母さんに慰められても、お兄ちゃんを失った悲しさに涙が止まらなかった。

 お兄ちゃんの荷物は、いつの間にか運び出されていた。
 お父さんとお母さんは、お兄ちゃんの居場所を知っているみたいだった。
 それなのに迎えに行こうとしない二人に失望した。
 二人とも、お兄ちゃんを捨てたんだ。
 生まれて初めて両親に怒りを覚えた。




 お兄ちゃんがいなくなって、空虚な毎日を過ごした。
 ほとんど家に寄り付かなくても、必ず帰ってくると知っていたから我慢できたのに、その絆さえ断ち切られてしまった。
 彼に会いたくて、わたしは毎晩涙で枕を濡らした。

 そんなある日、小学校からの下校中、コンビニの駐車場の前を通りかかった。
 お兄ちゃんと同じ中学の制服を着た怖そうな人達が、男女合わせて十人ぐらい集まっていた。
 怖かったから、急いで通り過ぎようとしたけど、どうしてだか気になってちらっとだけ見た。
 そうしたら、いたんだ。
 会いたくてたまらなかった、お兄ちゃんが!
 髪は黒くなってたけど、見間違うはずがない。
 怖い、なんて思ったことも忘れて、わたしはその集団に駆け寄った。

「お兄ちゃん!」

 驚く周りの人達には構わず、わたしはお兄ちゃんに飛びついた。
 この手を離したら、もう会えなくなりそうだったから、力いっぱい抱きついた。

「雛。苦しい、離せ」
「やだ、一緒に帰ろう。家に帰ろうよぉ」

 しがみつくわたしの頭を、お兄ちゃんは優しい手つきで撫でた。

「鷹雄。その子、何? 妹ぉ?」

 お兄ちゃんの隣にいた、妙に甲高い声でしゃべる女の人が、不機嫌そうな声を出した。
 息が止まりそうなほど強い匂いがした。
 お母さんの化粧品の匂いを何倍にもした強烈な香りだ。
 顔は派手目で綺麗だったけど、ツリ目できつそう。
 わたしがお兄ちゃんにくっついて離れないでいたら、目がさらに吊り上がった。
 この人がわたしとお兄ちゃんを引き離したがっていることが、それでわかった。
 なぜか危機感を抱いて、しがみつく手に力を込めた。

「こいつはオレの大事な女だ」

 お兄ちゃんがそう言うと、周りの人たちはゲラゲラ笑い出した。

「鷹雄、冗談キツイ。ランドセル背負ってるじゃん。それ、犯罪だって」
「やめてよね、本気にしかけたじゃない」

 お兄ちゃんも笑っていたけど、結局は妹だと訂正しなかった。
 寂しかったけど、大事って言ってもらえたから、気にしないことにした。

 お兄ちゃんはお友達と別れて、わたしを連れて歩き始めた。
 さっきの匂いのきつい女の人は不満そうな顔をして、しつこく引き止めてたけど、お兄ちゃんに睨まれて引き下がった。でも、悔しかったのか、わたしを睨んできた。感じの悪い人だ。本当にお兄ちゃんの友達なのかな。

 お兄ちゃんと手を繋いで、知らない道を歩き進む。
 どこまでも続いているような錯覚さえ起こる白い塀に囲まれた大きな家の前でお兄ちゃんは立ち止まった。

「ここが、オレが厄介になっている家だ」

 表札には「鷲見」って書いてある。
 聞いたことない名前だ。

 お兄ちゃんに続いて家に入ると、広い玄関ホールにエプロンを着た女の人が三人ほど出てきて整列した。
 びっくりしているわたしの前で、彼女達は一斉にお兄ちゃんに向かって頭を下げた。

「お帰りなさいませ、お茶の用意が出来ておりますよ。奥様もお待ちです」

 奥様って?
 状況についていけなくて、まごついているわたしの手を引いて、お兄ちゃんは奥へと進んだ。
 リビング……なんだろうか。
 教室ほどもある大きな部屋の中で、綺麗な女の人がくつろいだ雰囲気で座っていた。
 まさしく奥様って感じの、三十代ぐらいのお姉さんだった。
 部屋においてある家財道具は高級品ばかりで、壷や絵画も程よく配置されていて、室内を豪華に飾っている。

「お帰りなさい、鷹雄。そちらのお嬢さんは、どなた?」

 わたしに微笑みかけながら、彼女はお兄ちゃんに尋ねた。

「雛だよ」

 お兄ちゃんの答えに、彼女の顔が一瞬だけ強張ったように見えた。
 でも、すぐに笑顔に戻って、挨拶をしてくれた。

「はじめまして、雛ちゃん。あなたのことは鷹雄から聞いているわ。わたしは鷲見つぐみよ。よろしくね」
「は、はい、こちらこそ。いつも兄がお世話になっています」

 テレビか漫画で見かけた決まり文句を口にすると、つぐみさんはしっかりしてるのね、と褒めてくれた。

「ゆっくりしていってね。お兄ちゃんに会いたいでしょうから、いつでも遊びに来ていいのよ」

 つぐみさんはお手伝いさんに指示して、わたしにジュースとお茶菓子を用意してくれて、部屋を出て行った。
 お茶菓子は生クリームとイチゴがたくさんの、ふわふわのケーキだった。
 一切れ百円のケーキじゃなくて、ケーキ屋さんに置いてあるようなのだ。こんなの食べたことない。

「お兄ちゃん、おいしいねぇ」

 ケーキを口いっぱいに頬張って、お兄ちゃんに同意を求める。

「雛、すげぇ顔。口の周りクリームだらけだ」

 お兄ちゃんは噴き出して、ナプキンで口元を拭いてくれた。
 ほらね、お兄ちゃんは優しい。
 少しも変わってない。
 わたしの大好きなお兄ちゃんだ。

「お兄ちゃん、家に帰ろう。お父さんに叩かれそうになったら、わたしが守ってあげる。お兄ちゃんがいないと、寂しいよ」

 もう一度、お願いしたけど、お兄ちゃんは首を横に振った。

「あの家にいたら、オレはダメになる。鷲見さんは親身になって面倒見てくれてるし、ここでならオレは立ち直れそうだ。雛と暮らせないのは寂しいけど、いつでも会いに来ていいから、我慢してくれ」

 お兄ちゃんはわたしを抱きしめて、つらそうに言った。
 どんなにお願いしても、帰ってきてくれないことがわかった。
 わたしはようやく納得して、お兄ちゃんの体を抱きしめかえした。

「お兄ちゃん、大好き。ここに来たら会えるなら、寂しいの我慢するよ」

 あの頃はまだ、わたしは何も知らなかった。
 週末には必ず会いに行き、長期の休みも一緒に過ごした。
 お兄ちゃんとの穏やかな日々は、わたしが高校生になった時、真実を知ると共に終わりを迎えることとなる。

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