償い
鷹雄サイド・1
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当時のオレは小学三年に進級したばかりだった。
自分のことはどこにでもいる普通の子供だと思っていたが、近所での評価はいつも遊びの中心にいるガキ大将だったらしい。
オレの母さんは専業主婦で、学校から帰ってくると笑顔で迎えてくれる。
今日は渡も一緒だった。
母さんの手作りお菓子は友人知人の間ではおいしいと評判だ。
だからオレは仲のいい友達を時々家に連れて帰る。
渡は一番の友達だから、よく家に呼んでいた。
「鷹雄、今日のおやつはドーナツだよ。渡くんも、たくさん食べてね」
母さんはドーナツを山盛りにして出してくれた。
揚げたての香ばしい匂いを嗅いで、オレと渡は喜んで飛びついた。
夢中でドーナツに食いつくオレ達を、母さんは微笑みながら見守っていた。
「ごちそうさまでした。つぐみさんのお菓子は、いつ食べてもおいしいです」
渡は礼儀正しく手を合わせてお世辞を言った。
渡曰く、おばさんとは呼べない若々しさだから、つぐみさんなんだと。母さんも始めは照れていたが、最近では慣れたようだ。
「鷹雄、公園に行こうぜ」
渡の誘いにオレは頷いた。
サッカーボールを用意して、出て行く前に母さんに断りを入れる。
「お母さん、行ってくる」
「車には気をつけるのよ」
母さんに送り出されて公園に行くと、そこらにいた連中を誘ってボールを蹴って遊んだ。
時間を忘れて夢中になって、みんなでボールを追い回した。
空の色が変わったことで日暮れに気づくと、自然に解散となる。
「鷹雄、また明日学校でなーっ!」
「おう、気をつけて帰れよ」
手を振って、渡や他の連中を見送る。
みんなの姿が見えなくなると、オレは家には帰らず、近くの印刷会社に向かった。
父さんの会社だ。
「鷹雄くん、お父さんなら奥だよ」
帰り支度を始めていた事務員さんが教えてくれた。
定時で帰る人とすれ違いながら、中に入っていく。
オレの顔を知っている人ばかりなので、咎められることはなかった。
印刷機のある工場の中を進んでいき、父さんを見つけた。
父さんの側には若い女の人がいて、しきりに頭を下げていた。
「社長、三日も休んで申し訳ありませんでした。娘の具合もよくなりましたので、明日からはきちんと出てきます」
「完全に治るまでは気をつけてあげなさい、少しぐらいならこちらも融通が利く。雛ちゃんだったな、あの子が頼れるのは君だけなんだから、頑張るのもいいが無理はしないように気をつけるんだよ」
「ありがとうございます。お先に失礼します」
従業員らしい彼女が去ると、父さんがこっちに気がついた。
手招きされて、駆け寄った。
「今日の残業は一時間で終わらせるつもりだ。一緒に帰ろう」
「うん!」
オレは母さんに電話を入れて、父さんを待った。
邪魔にならない場所に椅子を置いて、働いている父さんを見る。
オレは父さんが仕事をしている姿を、こうして眺めるのが好きだ。
母さんは父さんが仕事にかまけて家にいないことを時々ぼやいているけど、オレ達を養うために働いてくれてるんだし、わがまま言って困らせたらダメだと思っている。
忙しくても、父さんはオレと母さんのことを忘れてはいない。
記念日にはお土産を持って帰ってくるし、誕生日の月だけは、時間を作って遠くに遊びに連れて行ってくれる。
オレは父さんに愛されてるんだから、それだけで十分だ。
残業が終わると、残りの従業員を帰してから、父さんは明かりを消して戸締りをした。
「さあ、帰ろうか」
差し出された手を握り、父さんと並んで夜道を歩いた。
「今度の日曜日も会社に出なくちゃならないんだ。どこにも連れて行ってやれなくて、ごめんな」
「いいよ。その代わり、早く帰れるんだろ? 終わる頃に迎えに行くから公園で遊ぼう。オレね、リフティングできるようになったんだよ」
「それはすごいな。サッカーもいいけど、父さんはキャッチボールとかもしたいな」
「オレ、どっちも好き。両方やろう」
どこにも連れて行ってもらえなくても、オレは父さんに遊んでもらえるだけで嬉しかった。
仕事に一生懸命で頼もしい父さんと、料理が上手な優しい母さん。
オレは両親が世界で一番好きだった。
だけど、永遠に続くのだと信じていた幸せな日常は、ある日突然粉々に砕け散った。
ドアを閉めても聞こえてくるのは、母さんが父さんを罵る怒鳴り声と泣き声だった。
父さんは反論もせずに黙って聞いている。
叩かれても、避けずに打たれるままだった。
これが何日も続いていた。
父さんが従業員の女の人を一度だけ家に連れて来てから、母さんはおかしくなった。
オレにはよくわからない。
離婚てどういうことなんだろう。
優しい母さんが怒って泣いている。
それは父さんのせいであることに間違いはない。
父さんは母さんを捨てて、別の女の人と結婚するという。その相手には子供がいるらしい。
じゃあ、オレは?
新しい子供が来るから、オレもいらないの?
学校から帰ってきたオレは、玄関に二足の見慣れない靴を見つけた。
母方の祖父母が来ているようだ。
離婚について話しにきたんだろう。
父方の祖父母はすでに亡くなっているから、四人で話し合いをしている。
リビングから聞こえてくる声は祖父のものだ。
「元に戻れないというのなら仕方がない。つぐみも別な道を生きることを考えるんだ」
祖父母は取り乱すことなく冷静で、父さんと離婚の条件について話し合いながら母さんを諭していた。
母さんはいつも以上に興奮している。
「嫌よ! それに鷹雄はどうする気!? あの子はわたしの子よ! 出て行けって言うなら、あの子も連れて行くわ!」
「無茶を言うな、お前一人で育てられるわけがない。鷹雄のことは諦めろ。ここに残した方があの子のためだ」
「どうしてあんな女に任せなくちゃいけないのよ! お父さんもお母さんも鷹雄がかわいくないの!?」
「つぐみ、誰もそんなこと言ってない。私たちだってつらいのよ」
「鷹雄がいれば、働くにしても再婚するにしても大変になる。お前のことを思って手放せと言っているんだ」
オレをどうするのか話し合っているんだ。
祖父母はオレが邪魔だと言っている。
父さんは押し付けられる形で引き取ることに同意した。
オレを必要だと言ってくれるのは、母さんだけだった。
離婚協議の結果、オレと母さんは毎週日曜日に会うことと、学校行事の時に来てもらうことで落ち着いた。
慰謝料やらの細かいことは聞かされていない。
父さんには二つの家庭を維持する財力がないから、オレがここに残ることになったということだけは理解できた。
「鷹雄、就職してお金を貯めたら迎えに来るからね。それまで我慢して待っててね」
別れの日、母さんはそう言ってオレを抱きしめた。
「うん、待ってる。お母さんも頑張ってね」
母さんが引越しのトラックに乗り込んで行ってしまった。
父さんも一緒に見送ったけど、オレは目を合わさなかった。
会話もしていない。
話しかけられても無視していた。
事情が飲み込めてくるにつれて、オレの心には父さんに対する強い怒りと憎しみが芽生えていたからだ。
父さんは母さんを裏切った。
オレ達を捨てたんだ。
許さない。
母さんを泣かした父さんを、オレは一生恨み続ける。
夕方になって、父さんがオレの部屋のドアをノックした。
「鷹雄、夕飯どうする? 食べに行くか?」
オレは返事もせずに部屋の隅で膝を抱えてうずくまった。
誰が一緒になんか行くもんか。
しばらくして、また父さんの声が聞こえた。
「弁当でも買ってくる。お腹が空いたら出てくるんだぞ」
父さんが階段を下りていく。
遠ざかっていく足音を聞きながら、悲しいのか悔しいのかよくわからない感情に苛まれて、涙が出てきた。
数日後に、父さんの再婚相手だという女が子供を連れてやってきた。
その女は二十歳になったばかりで、童顔なせいか高校生といっても通じるような外見をしていた。
子供は女で、まだオシメを巻いている言葉も片言のチビだ。
父さんに部屋から引きずり出されて、玄関先で無理やり対面させられた。
「鷹雄くん。はじめまして、ちどりです。お母さんになれるように頑張るから、よろしくね」
ちどりと名乗った女は、オレに笑顔を向けた。
何を笑っているのかとイライラしてきた。
母さんはこの女に追い出されたのに、オレが喜んで迎えるとでも思っているのか。
「この子が雛よ。さあ、雛。お兄ちゃんにご挨拶して」
「おにいちゃん?」
チビはオレを興味深く見つめた。
何がお兄ちゃんだ、ふざけるな!
「オレは父さんと違って新しい母親も兄弟もいらない。別に頑張らなくてもいいよ、ちどりさん」
ちどりさん、と嫌味ったらしく強調してやった。
誰がお母さんなんて呼ぶか。
オレの母さんは一人だけだ。
「鷹雄!」
父さんがオレを咎めたが、苛立ちが増しただけだった。
「文句があるなら、オレも追い出せばいいだろう! いつでも出て行ってやる!」
久しぶりに父さんの目を見て声を発した。
憎しみで燃えたぎるオレの目を見て、父さんは声を失ったように立ち尽くした。
「鷹之さん、いいんです。鷹雄くんを怒らないで」
取り成すように、ちどりさんが間に入った。
オレは二人から離れて階段を駆け上がった。
怒りで全身の血がすごい勢いで流れる錯覚がして、頭も体も燃えているみたいだった。
ベッドに横になって、布団を頭から被った。
この家にオレの居場所はない。
母さん、助けて。
早く迎えにきて。
部屋のドアが開いた音で我に返った。
父さんかと思ったが、大人にしては足音が小さかった。
それまで忘れていたチビの存在を思い出す。
こいつはどうして勝手に人の部屋に入ってくるんだ。母親が母さんを追い出したように、こいつはオレを追い出す気なのか?
気配がベッドの前で止まる。
「おにいちゃん、おにいちゃん?」
ぽこぽこと布団の上から叩かれた。
呼んでいるだけで、オレにケンカを売っているわけではないらしい。
うざいと思ったが、痛くもないので反撃はやめておいた。
本気でケンカしたらオレが勝つに決まっている。
弱い者イジメは母さんが嫌う行為だ。
こいつはオレよりずっと小さいし、嫌いなヤツでも手を上げちゃだめだ。
「うるさい、あっち行け!」
怒鳴って追い払うことにした。
チビは怯んだみたいで黙ってしまった。
すぐに出て行くだろう。
静かになった途端、眠気が襲ってきた。
母さんが出て行ってから、あまり寝てなかったからな。
いつの間にかオレの意識はふっつりと消えていた。
ふと気がつくと、背中が温かかった。
何かが背中にくっついている。
寝ぼけ眼を擦りながら起き上がると、ころんとチビが転がってきた。
こいつ、人の布団にっ!?
ぎょっとしたが、怒りは湧いてこなかった。
相手が寝ているのを幸いに、まじまじと観察する。
ぷっくりした頬っぺたには赤みが差していて、寝顔は無垢で邪気がなかった。
もう一度寝転んで、チビに体を寄せてみた。
温かくて、気のせいか甘い匂いがする。
妹なんかいらないけど、この温もりには無条件で触れていたいと思った。
再び眠りの中に落ちていく。
夢と現の狭間で声が聞こえた。
(よく寝ているが、運んで行こうか?)
布団がめくられて、隣にあった温もりが消えかける。
オレは失うのが嫌で両腕を使って温もりを抱え込んだ。
困ったなぁと呟く声とため息が聞こえた。
(一緒に寝かせてあげてください。雛もこんなに気持ち良さそうな顔をして、お兄ちゃんが気に入ったのね)
別の声が制止して、布団がかけなおされた。
オレは安心して深い眠りの中へと戻り、久しぶりに穏やかな気持ちで朝を迎えることができた。
新しい生活には、常に息苦しさがつきまとっていた。
ちどりさんは優しく、異常なほど気を使って世話を焼いてきた。
父さんからオレの好物を聞き出して、食卓に乗せる。手作りのオヤツにも挑戦していた。
今日も何か作ったようで、学校から帰ってくると、食卓に雛が座っていてオレを呼んだ。
「おにいちゃん、ここ!」
雛はまだ単語で話せる程度で意思表示はうまくできない。
これからオヤツを食べるので、横に座れと言っているらしいことはわかった。
オレが雛の隣に座ると、ちどりさんがやってきた。
手には大皿。
中身は黒っぽいクッキーだった。
「初めて作ってみたの。ちょうど焼きあがったところよ。良かったら、食べてみて」
紅茶かココアでも入れたのかと思ったが、単に焦げていただけだった。
雛は顔をしかめて、一口でやめた。
正直な反応だ。
ちどりさんも一口食べて、しまったという顔になり、慌ててお皿を下げようとした。
「ご、ごめんね。買い置きのお菓子取ってくる」
「これでいい。別にまずくない」
微妙だが食えないこともなかった。
文句も言わずに食べ続けるオレを見て、ちどりさんも座りなおして一緒に食べた。
雛はやっぱり食べなかった。
ジュースのお代わりをねだって、ちどりさんを困らせていた。
雛がいるおかげで、気詰まりな空気も乗り切ることができた。
ちどりさんの料理の腕前は並みだが、お菓子作りに関しては初心者だった。
働いてばかりで趣味に割く時間が取れなかったせいだと、彼女は恥ずかしそうに言い訳をした。
子供の時から親も親戚もいないことは聞いていた。
だからと言って許す気にはならないけど、彼女の努力の成果であるクッキーをはねつける気にもなれなかった。
「クッキーの挽回は夕飯でするね。今夜は鷹雄くんが好きなオムライスだよ」
オレが無視しても、ちどりさんは笑顔で話しかけてくる。
どうしてなのかわからない。
邪魔な母さんを追い出したように、オレもいじめて追い出せばいいんだ。
そうしたら、オレは逃げ出せる。
母さんに助けを求める理由ができる。
ちどりさんの存在を受け入れそうになるたびに、オレは泣いていた母さんの姿を思い出す。
許してはいけない。
この家庭を受け入れてはいけない。
母さんはオレを迎えにくるために、頑張っているんだから。
家に帰りたくなくて、オレは毎日校庭や公園で遊んでいた。
日が暮れると仕方なく帰るけど、一番最後まで残った。
父さんのところにも行かなくなった。
母さんが出て行ってからは、一緒に遊ぶこともしていない。
父さんはたまに以前のように遊ぼうと誘ってくるが、オレの方が避けている。
みんなが帰っていくのを見送っていると、同じく最後まで居残っていた渡が声をかけてきた。
「鷹雄、家に帰らないのか?」
「もう少し、ここにいる」
壁に向かってボールを蹴る。
跳ね返ってきたボールを胸で受けて、また蹴った。
ちらっと見た渡の顔は心配そうで、オレは意外に思った。
返ってきたボールを手で受け止めて渡と向き合う。
「お前の親、離婚したって聞いた。つぐみさんが出て行って、新しい母親ができたって」
オレの父親が離婚して再婚したと、噂を聞いた親経由で伝わったらしい。
近所でもオレや母さんに対する同情めいた声をかけられることがあった。
若さを武器にした不倫の末の略奪婚だと、ちどりさんが陰口を言われているのも知っている。
でも、いい気味だとは思わなかった。
怒りを覚えるのは、母さんとオレを捨てた父さんに対してだけだった。
ちどりさんには苛立ちを覚えても、その感情が憎しみとは異なるものだとはわかっていた。
あの人を受け入れることは、母さんを裏切ることになる。
自分自身の心が溶かされていく焦りが、彼女に対する負の感情の源だった。
渡はオレの顔色を窺いながら、質問する言葉を考えていた。
子供のクセに気を遣い過ぎなんだ。
それが渡のいい所で、オレがこいつを気に入っている理由の一つでもあった。
「つぐみさんとは会ってるのか?」
「日曜日に会ってる。お金貯めたら迎えに来てくれるって約束してるんだ」
「そうか、良かったな」
曇りがちだった渡の表情が少し緩んだ。
オレも笑顔を返した。
「心配することない、いじめられてるわけでもないしな。母さんが迎えに来るまでの我慢だよ」
それに雛がいる。
どうしようもなくなった時は、あの温もりがオレを癒す。
雛といる時だけは、何も考えなくて済む。
無邪気に接してくる雛を、オレは救いにすると同時に愛し始めていた。
日曜日には母さんに会う。
出かけようとするオレに雛がしがみついてきた。
「ひなも行く! おにいちゃんと行く!」
どこに行くのかもわからないくせに、雛はオレについてきたがる。
奥からちどりさんが出てきて、雛を抱き上げた。
「お兄ちゃんにわがまま言っちゃだめよ。雛はお母さんとお出かけしようね」
「や! おにいちゃんと!」
オレについてきたがる雛を可愛く思ったが今日はだめだ。
母さんに会うんだから。
「雛は留守番な。帰ってきたら遊んでやる」
「いやー! ひなも行くの!」
頭を撫でて言い聞かせてみたが、聞き分けのできない雛は泣いて怒っていた。
仕方なく、ちどりさんに任せて外に出た。
帰った時には機嫌は直ってるんだろうけど、後ろ髪を引かれる思いで家を後にした。
一週間ぶりにあった母さんは元気そうだった。
仕事は順調で、雇い主もいい人らしい。
「鷹雄はどう? ちゃんとご飯食べさせてもらってる?」
母さんが気になっているのは、やはり継子いじめのことだろう。
ちどりさんの人柄なんて母さんは知らない。
他人の夫を寝取るような女だから性悪だと考えても仕方のないことだろう。
「うん、嫌なこともされてないし、オレは平気。逆に気を使われて息苦しいぐらいだよ」
嘘をついても良かったのかもしれない。
いじめられてる、助けてと言えば、母さんは何をしてでもオレをあの家から連れ出してくれる。
だが、オレは本当のことしか言わなかった。
母さんに負担をかけたくなくて、そして嘘をついてまでちどりさんを悪者にはしたくなかったからだ。
「鷹雄の顔を見たら、元気出てきた。お母さん、お仕事頑張ってくるよ」
別れ際に、母さんはオレを抱き締めてくれた。
離れ離れになっても、この瞬間にオレは愛されていると実感できる。
心が満たされて落ち着いていく。
オレも頑張れる。
待っているから迎えにきてね。
ある日、ひどい熱を出した。
学校にいる間、吐き気と寒気を我慢しながら一日過ごし、帰るなり部屋のベッドに倒れ込んだ。
「おにいちゃん、遊んで」
雛が来て、体を揺すってきたが応える元気が出なかった。
「鷹雄くん、どうしたの?」
無視はいつものことだとしても、まっすぐ帰ってきてオヤツも食べずに部屋に引きこもったオレを不審に思ったのか、ちどりさんが入ってきた。
「どうもしない」
声をだすのも億劫だったが、答えて追い払う仕草をした。
いつもなら、これで立ち去るはずなのに、今日は様子が違った。
肩を掴まれて向きを変えられて、額に手を当てられた。
「何言ってるの、熱があるのね? こんなに熱いじゃない!」
ちどりさんは怒っていた。
普段はオレの顔色を窺ってばかりいた彼女が、今は何を言っても聞き入れない強気な態度で動いている。
タンスからオレのパジャマが取り出され、有無を言わせず着せ替えられた。
ベッドに寝かせられると、氷枕と濡れタオルで頭を冷やされる。
その間にも熱が上がっていく。
世話を拒絶する気力も湧いてこず、オレは意識を手放した。
どのぐらい眠っていたのかわからないが、人の気配で目が覚めた。
体を起こされて意識が覚醒していく。
頭痛と吐き気で相変わらず気持ちが悪い、視界がぐらぐらしている。
オレの体を支えていたのは父さんだった。
抱え上げて運ぶ気なんだ。
「オレを捨てに行くの?」
そうとしか考えられなかった。
父さんにとって大事なのはちどりさんと雛で、オレは邪魔でしかない。
この状態で山奥にでも置いてくれば、勝手に死んでしまうだろう。
「バカなことを言うな、医者に診てもらいに行くんだ」
叱りつけるような口調で父さんは否定した。
「鷹之さん、わたしも一緒に行きます」
傍にいたらしいちどりさんの声がする。
「鷹雄はオレが連れて行く、ちどりは雛を見ててくれ。近所だから、すぐに帰ってくる」
かかりつけの小児科の医院は近所にあった。
徒歩で数分もかからない。
父さんはオレに上着を着せると背負って運んでくれた。
診断は風邪の熱で、薬を処方してもらい、また同じように背負われて帰っていく。
久しぶりに父さんに触れた。
大きな背中から感じる頼もしさは、少しも変わっていなかった。
オレを医者に診せに行くために、わざわざ早く帰ってきたんだ。
何でだよ。
オレのことなんて、どうでもいいくせに。
涙が出てきたのは熱のせいだ。
そう言い訳して、オレは父さんの背中にしがみついて顔を伏せた。
薬を飲んでも熱はなかなか引かなかった。
混濁する意識の中、時々額に冷たい手が触れた。
看病をしてくれている人の気配に気づき、オレはその人を母さんだと思った。
「お母さん……来てくれたんだ」
母さんはなぜか一瞬手を引っ込めたが、またそうっと手を伸ばしてきた。
オレはお母さん、と何度も呼んで、確かに触れてくる手の感触に安心して眠りについた。
看病の間に一度も言葉を発しなかった母さんだけど、最後に「ごめんね」と呟いたのが聞こえた。
朝になってみると、母さんはいなかった。
床には冷水の入った手桶とタオルが置いてあった。
一晩中、誰かが見ていてくれたことは間違いない。
熱が引いて冷静になったオレは、看病をしてくれていた人が母さんではないことに気がついた。
父さんでもない、あれはちどりさんだ。
愕然として、涙が溢れてきた。
自分に対する憤りが湧いてくる。
あの人に母さんを重ねてすがった。
裏切り行為をした自分を最低だと責めて罵る。
苦しい。
ちどりさんの優しさは凶器だ。
オレの心を切り刻み、地獄へと突き落としていく。
悪いのは父さんだ。
父さんが母さんを捨てなければ、あの人を家に連れてこなければ、こんなことにはならなかった。
何かを責めずにはいられない。
「うわあ、あああああっ!」
心がバラバラに引きちぎられそうで、枕に突っ伏して泣き喚いた。
「おにいちゃん」
背中に重みがかかった。
天から降りてきた声に、頭を動かす。
オレの上から身を起こした雛が、顔を覗き込んできた。
「なでなでー」
呪文のように唱えながら、雛がオレの頭を撫で回す。
慰めてるつもりなのか?
オレは雛を膝に乗せて抱えると、頭に鼻を押し付けて匂いを嗅いだ。
雛の温もりを感じていると心が安らいでいく。
雛はくすぐったそうにして笑っていた。
ドアが開いて、ちどりさんが入ってきた。
「雛、だめじゃない。お兄ちゃんはまだ寝てなくちゃいけないのに」
熱が引くまでオレの部屋には入るなと言われていたらしく、雛はちどりさんの目を盗んできたらしい。
慌てて雛を引き離そうとするちどりさんに、オレは首を振った。
「もう少しだけ、一緒にいたい」
ちどりさんは困った顔をした。
思案した後、立ち上がってドアに向かった。
「それじゃあ、お粥を持ってくるから、それまで雛を見ててね」
「うん、ありがとう」
雛の効果か、すんなりと礼の言葉が出てきた。
ちどりさんはすぐには戻ってこなかった。
オレの気持ちをわかってくれたんだろうか。
雛を抱っこして座っていると、次第に落ち着いてきた。
昨日のことは仕方がないと心に言い聞かせる。
雛がオレを見上げてにっこり笑った。
「おにいちゃん、痛いのとんでった?」
「ああ、飛んだ。雛のおまじないはよく効くな」
本当に効いたのは、おまじないじゃなくて雛の存在だったけど、言ってもきっとわからない。
「風邪が治ったら、一緒に寝ような」
「うん! おにいちゃんと寝る」
オレの心を繋ぐのは、雛の純粋な好意だった。
雛には裏がない。
気持ちを隠すことなく表に出せる子供だから、オレも安心して心を委ねられる。
月日は流れて、小学校の卒業式がやってきた。
式には保護者として母さんが出席してくれた。
式を終えて、学校を出ると、ファミレスで一緒にお昼を食べた。
「お母さんね、再婚しようと思うの」
食後のコーヒーを飲みながらの母さんの告白。
オレは期待と不安で喉が渇き、オレンジジュースを口に含んだ。
再婚相手の人がオレを受け入れてくれるかどうかの不安と、やっと迎えに来てくれるんだとの期待で心臓が高鳴った。
雛と離れ離れになるのはつらかったけど、それ以上にオレはあの家から逃げ出したかった。母さんと一緒にいたかった。
「それでね……」
その後に続けられた言葉に、オレは耳を疑った。
母さんの声がどんどん遠くなっていく。
「鷹雄のこと迎えに来てあげられなくなったの。相手の人は資産家で、親戚の人が養子を認めてくれなくてどうしようもなくて……。ちどりさんは優しくしてくれてるんでしょう? わたしもわかってきたの、お父さんがあの人を好きになったのはわたしにも悪いところがあったからだって。ごめんね、鷹雄。お母さんはもう会いにこないから、ちどりさんをお母さんだと認めてあげて、新しい家族と幸せになってね」
母さんの言っていることが、なかなか理解できなかった。
幸せになってと言いながら、オレを突き放そうとしている。
母さんは平気なの?
オレより大事な人を見つけたから、もうどうでもいいの?
「お母さんはそれで幸せなの?」
オレは一縷の望みをかけて問いかけた。
母さんはオレと二度と会わないと言うけれど、それで幸せだなんて言って欲しくなかった。
だが、母さんは頷いた。
オレは絶望のあまり、おかしくもないのに笑っていた。
「良かったね」
そう、母さんにとっては良かったんだ。
父さんはオレ達を捨てて、別の幸せを手に入れた。
母さんもオレを捨てて、幸せになる。
捨てられたオレには何もない。
愛なんて、不確かですぐに消えてしまうような感情なんだ。
どうしてオレはここにいる。
捨てるぐらいなら、オレの存在なんて始めから作らなければ良かったじゃないか!
母さんと別れた後、どうやって帰ったのか覚えていない。
食事もほとんど手をつけなかったせいか、父さんやちどりさんが何か言っていたけど、聞いてはいなかった。
眠る時は雛が一緒だった。
オレは何も考えずに、雛の温かさだけを感じていた。
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