償い

鷹雄サイド・2

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 中学に上がったオレは、不毛で怠惰な日々を過ごしていた。
 入学早々に因縁をつけてきた先輩をぶっ飛ばして以来、毎日のようにケンカをした。
 校内の不良と呼ばれる連中と一通り手合わせが終わった頃には、なぜか意気投合して連れになっていた。
 夕日を背景に河原で殴り合って友情が芽生えるアレではないが、新しくできた居場所は居心地が良かった。家にいたくないオレは、そのツテから深夜まで付き合ってくれる遊び仲間を増やしていった。
 勉強はもちろんやっていない。
 授業に出るのも億劫で、屋上で昼寝をしたりして過ごすこともあった。
 全てにおいてやる気が出なくて、将来のこともどうでもよかった。
 いつ死んでもいいとさえ、思っていたのかもしれない。
 ただ、自分で死ぬのも面倒だなとは思った。

 髪を染めたり、制服を仕立て変えたりしたのは、くだらない反抗心と僅かな期待。
 親父はオレと顔を合わせると説教をするようになった。
 少しでも関心を持ってもらえて喜ぶと同時に、暗い感情も芽生える。
 親父の言葉には、オレに対する愛情なんて欠片もない。
 この人はオレを捨てたんだ。
 オレに向けられた言葉の全ては、大事な今の妻子のためのものだ。

「学校には行っているのか? 帰りも遅いんだろう? 子供が夜に出歩くんじゃない」

 たまに夕食を一緒に食うと、さっそく始まった説教。
 ちどりさんと雛は、おろおろした顔でオレと親父を交互に見ている。
 雛の前で言い争いはしたくなくて、口答えはせずに黙って聞いていた。

「髪も染め直せ。それとケンカもやめろ、大ケガをしてから後悔しても取り返しがつかないんだ。近所でもお前のことが噂になっている。このままだと、将来にも傷がつくことになるぞ」

 食べ終わったオレは席を立った。
 親父を睨みつけて、去り際に捨てゼリフを投げつける。

「今さら世間体を気にしてどうするよ。ああ、オレの悪評が広まったら、またちどりさんが悪く言われるもんな。ほら、みたことかって、近所のババアどもが面白おかしく噂する。兄貴がサボリとケンカ三昧の不良だと学校でバレたら、雛もいじめられるかもしれねぇしな」

 痛いところをつかれたのか、親父はぐっと黙りこんだ。
 強気な態度が続かないのは、今のが図星で、オレへの負い目があるからだ。

 あんたの説教じゃ、オレは変わらない。
 オレのための言葉じゃない限り、耳に蓋して聞かないフリをする。
 いらないなら捨てればいい。
 背中を押してくれれば、いつでも消える。
 親父はいつまで続けるつもりなんだろう。
 とうの昔に捨てたはずの、オレの父親という役割を。




 ネオンも鮮やかな深夜の街で、何をするでもなく路上で集まって話していた。
 年齢はバラバラで上は二十代から、オレみたいな中坊に、小学生までいた。
 家族の仲が悪くて帰りたくない、単に遊びたいだけなど、理由はそれぞれ違っていて、本人が話さない限り、深く詮索しないのも暗黙の了解だ。

「なあ、見てコレ。バイト代貯めて新車で買ったんだぜ。すごいだろ」
「やったなぁ、後ろ乗っけてよ」
「悪いな、初めて乗せるのは彼女って決めてるんだ」
「あはは、彼女っていつできるんだよ」
「これから引っ掛けにいくんだよ。まあ、見てろ、このバイクとオレの魅力ですぐに捕まえてくるぜ」

 新品のバイクで乗り付けて嬉しそうに報告するヤツと、それを冷やかす仲間達。
 くだらないやりとりだけど、気持ちが和む。

「おっと、いい女発見。人を探してるみたいだけど、ナンパ待ちかぁ?」

 さっきのバイクの男が指で示した方角を全員で見る。
 深夜営業の店の中を覗き込んだり、きょろきょろ周囲を見回している不審な若い女がいた。
 あの後ろ姿、どこかで見た覚えがあるな。

 その女にナンパ目的らしい三人組の男達が声をかけた。

「あぁ、先を越された。アイツらが失敗したら次行くか?」

 オレの仲間達は失敗しろと小声でヤジを飛ばしながら、成り行きを見守っていた。
 女は断っているらしく、首を横に振っている。
 それでも男達が引き下がる様子はなく、ニヤつきながら話しかけていた。
 しつこいヤツらだな。
 女に飢えて必死なんだろうが、みっともない。

 呆れた目で見ていると、女の顔が一瞬だけこっちを向いた。
 その僅かの時間で認識した顔はよく見知った女のものだった。
 驚いて立ち上がる。

 ちどりさんだ。
 こんなところで何やってんだ!

「どうした、鷹雄」

 立ち上がったオレに、仲間が声をかけた。
 その問いには答えずに、オレは走り出した。

 あの人がここにいるわけは、間違いなくオレだ。
 腹が立って頭に血が上っていた。
 この怒りが何に対してなのか、オレにもわからなかった。

 近づくにつれて、ちどりさんと男達とのやりとりが聞こえてきた。
 やはりナンパで、ちどりさんは断っているのにしつこく誘われていた。

「だから、人を探しているんです。あなた達に付き合っている暇はありません!」
「人探しなら手伝ってあげるって。オレ達の知り合いかもしれないじゃん。おネエさん、かわいいねぇ、もしかして夜遊びなんかしたことないんじゃないの?」

 そう言った男が、ちどりさんの肩を抱こうと腕を伸ばした。

「いや! 触らないで!」

 手を振り払われて、男達の態度が変わった。
 隠されていた邪まな欲望がギラギラと表に出てくる。

「なんだ、このアマ! 優しくしてやりゃ、調子に乗りやがって!」
「おい、車出せ。この女、連れてくぞ!」

 二人がかりで体を押さえつけて、引きずろうとしていた。
 もう一人の男が用意していたらしい車の後部のドアを開けてエンジンをかけた。
 オレは迷わず、ちどりさんを捕まえている男に殴りかかった。
 ふいをつかれた男は、オレの拳を顔面にくらって吹き飛んだ。

「な、何だお前は!?」

 状況を把握できてないもう一人の男がうろたえて、ちどりさんを離した。
 その隙を逃さずに、そいつもぶん殴る。
 ぼけっと立ち竦んでいるちどりさんの腕を引っ張って後ろにやると、オレは起き上がってきた二人の男をさらに殴りつけた。

「なめんな、このクソガキ!」

 三人目の男が、車に乗せていたらしい鉄パイプを持って殴りかかってきた。
 間一髪で避けたところ、鉄が路上に打ち付けられる嫌な音がした。
 鉄パイプが再度振り上げられる前に、それを持つ相手の腕を蹴り上げた。

「うぐあ!」

 痛みと重みで、男は鉄パイプを取り落とした。
 凶器は男達とは反対方向へぬかりなく蹴り転がして、起き上がってくる度に殴った。
 何かにとり憑かれたみたいに、オレは凶暴な破壊衝動に突き動かされて、目の前の敵をいたぶり続けた。

「鷹雄くん、だめ! それ以上、やったらだめ!」

 背中に抱きつかれて、オレはようやく止まった。
 息を切らせて、目の前の光景を見る。
 自力では起き上がれないほどボロボロになった男達が、怯えきった目でオレを見ていた。

「た、助けてくれ」
「許して、殺さないで……」

 聞こえてくるのは命乞いの声だった。

「鷹雄、そのぐらいにしとけよ。そいつらが悪いのかもしれないけど、やりすぎだぞ」

 仲間の声にも、怯えが混じっていた。
 オレを捕まえていた腕が緩んだ。
 振り向いて、ちどりさんを睨みつける。

「あんた、こんなところで何してるんだよ」

 きつい口調で問いただすと、ちどりさんは「だって」と口を動かした。

「帰ってくるのが遅いから、心配で迎えにきたの。鷹之さんは今日は会社で泊り込みだし、だからわたしが……」
「だからって、雛はどうした!? 親父がいないんなら尚更だ! あんた雛を置いてきたのか、こんな夜遅くにあいつを一人にしてきたのかっ!」

 怒鳴りつけられて、ちどりさんはびくっと怯えた顔で身を竦めた。
 その反応がオレを余計に苛立たせる。
 どう見てもオレが悪いんだろうが。
 何であんたは言い返さずに萎縮してんだよ?

 彼女なりに母親ならどうするか考えて、ここに来たんだ。
 決して雛のことがどうでもいいわけじゃない。

 この人の考えていることがわかる自分に腹が立つ。
 舌打ちして、手を掴んで引っ張った。

「帰るぞ。早く来い!」
「ま、待って……」

 オレの怒りは彼女にとって理不尽なものだろう。
 それをわかっていても、オレは怒りをぶつけてしまう。
 仲間にも帰る旨を告げて、足早にその場を立ち去った。




「あんたは雛の面倒をみていればいいんだ、オレのことなんかほっとけ。どうせ他人なんだ、親父はともかく、あんたにはオレを育てる責任なんかないんだよ。母親でもないくせに、二度と出しゃばるな」

 帰り道、そう言ってオレはちどりさんを突き放した。
 雛にはオレみたいな気持ちを味あわせたくない。
 あいつは何も知らない。
 両親とオレが本物の血の繋がった家族だと信じている。
 それでいいんだ。
 オレがちどりさんを助けたのは、雛のためだ。
 あいつの幸せだけは守ってやりたい。
 雛の無邪気な笑顔は、落ちていくオレの支えだから。

 家に帰ると、雛はパジャマ姿でリビングのソファの上で丸くなって眠っていた。
 ちどりさんが驚いて雛に駆け寄る。

「ちゃんと寝てなさいって言っておいたのに、お兄ちゃんを迎えに行くって言ったから出てきちゃったのね」

 雛はオレを出迎えるつもりで起きてきたらしい。
 寝顔を見ていると、いじらしくて愛おしい感情で胸が温かくなってくる。

「オレが運ぶ」

 ちどりさんから奪うように雛を抱き上げた。
 動かしたせいで起こしてしまったのか、雛が目を開けた。

「お兄ちゃん、お帰りなさい」

 寝言みたいにむにゃむにゃと呟いて、オレの体にしがみついてくる。

 雛はオレの心に巣食う闇をひと時だけでも払ってくれた。
 だけど、それも長くは続かないことはわかっている。
 いつまでも純粋な子供のまま大きくなるヤツはいない。
 雛の中にある、オレへの好意が消える日は必ずくる。
 幸せだと信じていた両親との生活が、幻のように儚く消えたあの日のように。




 中二なると、オレは不良仲間の中心人物となっていた。
 学年主任を務める熱血教師は、オレを更生させれば周りのヤツらも変わると考えたのか躍起になって口うるさく説教をしてきて、生徒指導室に呼ばれることもしょっちゅうだった。

「鷹雄、また呼ばれてただろ? あの先公も諦め悪いよな、バカみてぇ」

 放課後にたまり場にしている公園に集まると、話題はオレの呼び出しについてから始まった。
 無駄な努力だと教師を嘲って笑う連中を横目に、オレは説教を聞いて疲れた体を伸ばした。
 あれも仕事なんだろう。
 先生ってのは、ガキの躾けまで押しつけられて大変な商売だな。
 実力行使で手を出してこない限りは、オレも反抗する気はなく、説教は右から左に聞き流している。
 暖簾に腕押しで、あまりの手ごたえのなさに、向こうが疲れ果てて解放してくれる。
 給料をもらうためとはいえ、ご苦労なことだ。

 親父の説教と同じで、正論を並べ立てる教師の言葉も、オレには建前の綺麗ごとにしか思えない。
 どうでもいいなら、ほっときゃいいのに。
 体裁や評判を気にする大人は面倒だ。




「小鳥鷹雄ってのは、てめぇか?」

 近づいてくるなり、ドスの効いた声で、他校の制服を着た男がオレを呼んだ。
 男の背後には、仲間と思しき同じ制服を着たヤツが複数いる。
 茶髪にピアスと、いかにもな外見の男達が、体を揺すりながらガンをつけて脅しにかかってくる。
 だが、こちらも似たり寄ったりの面子だ。
 むしろ遠巻きにしている近所の住人が怯えて、警察に通報すべきか相談している。

「そうだが、何か用か?」
「ウチの下級生をかわいがってくれたそうじゃねぇか。こいつ足の骨が折れて杖なしじゃ歩けねぇんだよ。さあ、どう落とし前つけてくれる? 土下座して、慰謝料として出すもの出してくれりゃ見逃してやってもいいがな」

 男達の影に隠れるようにして、大げさに包帯を巻いて松葉杖をついたヤツがいる。
 ああ、一昨日ぐらいに小学生から小銭巻き上げてたヤツか。
 通りすがりに現場を見かけたんだが、脅されて泣いていた相手がちょうど雛と同じ年恰好の女だったんで、ムカついて余分に殴っておいたんだ。
 顔や腹に痣はできただろうが、骨は折ってない。
 ガキのくせに当たり屋のマネごとかよ。
 せこい連中だな。

「寝言は寝てから言え。そいつのケガは自業自得だ。無抵抗のチビを脅して小銭をせびり取るようなクズの親玉は、同類のバカか? 土下座するのはそっちだろ。オレは売られたケンカは全て買う、正当防衛ってヤツ? てめぇから仕掛けたんだ、ぶっ殺されても文句言うなよ」

 挑発して鼻で笑うと、激昂したリーダーの男が殴りかかってきた。
 繰り出される拳の動きは十分捉えられるスピードだ。
 突進をかわして、よろけた相手の腹に蹴りを入れる。
 それを合図に、乱闘が始まった。

 女どもやケンカに参加する気のない連中は、遠巻きの位置に避難済みで声援を送ってくる。
 女にいい所を見せようと張り切る男達の相乗効果で、オレ達は大して手間取ることなく相手を全員地面に這いつくばらせた。
 包帯男は先輩連中が転がったのを見るなり、杖を放り投げて走って逃げた。
 やっぱり骨折は嘘だったか。
 バカバカしい。

 圧倒的な力の差を見せつけられて、相手は全員戦意喪失。
 ヤツらは土下座して有り金を差し出し、詫びを入れてきた。
 オレには敗者をいたぶって喜ぶ趣味はないので、それで勘弁してやった。
 ヤツらが逃げていなくなると、オレ達はまた集まって座り込んだ。
 見物していた仲間も戻ってくる。

「鷹雄、カッコ良かったぁ」
「惚れ直しちゃう」

 わらわらと、まとわりついてくる女どもを振り払って、ヤツらと同じく観客にまわっていた渡の隣に移動した。

「お疲れさん、これ買ったばっかりだけど飲む?」

 奢りらしいリンゴジュースの缶を受け取って開け、一気に飲み干す。
 渡はニヤニヤ笑ってオレを肘でつついた。

「今のケンカの原因は、小さい子をいじめてたヤツを撃退したからなわけね。正義の味方みたいじゃん、カッコイイ」
「ケンカに正義もクソもあるか。ムカついたから、ぶっ飛ばしただけだ」

 怖がって泣いている子供に飴をやり、泣き止ませて家まで送ってやったことは、からかいのネタにされるので秘密にしておいた方がいいな。
 雛と似てたんだよな、そいつ。
 その日は真っ直ぐ帰って、雛の笑顔を見て安心した。
 どうにも、チビには甘くなる。
 雛のせいだ。

「暴れるのもいいけど、ほどほどにしとけよ。キレて刃物出してくるヤツだっているかもしれねぇし、気をつけろよ」
「ああ、気をつける」

 他校にも顔と名前が知れ渡ってしまったのか、こんな風に名指しでケンカを売られることも日常的になり、他校の連中との間でいざこざが起こると仲間から助けを求められることもよくあった。
 仲間にしてくれと集まってくるヤツは後を絶たないが、悪くなる一方のオレの素行に離れていく者も多く、小学校の時のダチで付き合いが続いていたのは渡だけだった。
 それも仕方がない、オレと一緒にいれば教師の受けは最悪になる。当然の選択で、別にそれを裏切りだとは思わなかった。

「渡はいいのかよ。オレと付き合ってるせいで、先公どもに目ぇつけられてんだろ。内申書に響くんじゃねぇの?」

 巻き込まれでもしない限り、渡がケンカに参戦することはない。
 オレも手を貸せとは言わない。
 買ったケンカはオレのものだからだ。
 一緒にいても、渡は素行の良い真面目な生徒だ。
 だが、外側からしか見ていない連中からすれば、仲がいいだけで同類扱いされてしまうんだ。

 普段から気にしていたこともあり、渡に忠告の意味でそう言った。
 優等生なら多めに見てもらえる遅刻や些細な校則違反でも、不良の仲間なら見る目は厳しくなる。
 大事なダチには変わりがない。
 オレに付き合って評判を落とす必要もないんだ。
 だけど、渡はオレの忠告を笑い飛ばした。

「オレは自分のやるべきことはやってるし、自分の目で見て、頭で考えて、お前のダチでいたいと思ってる。そりゃあさ、お前が人の気持ちを平気で踏みにじったりするほど悪いヤツになったんなら見限って縁を切る。でも、違うだろ、鷹雄は変わってない。偉そうだけど、肝心な時には手を差し出してくれる、信頼を裏切ったりしない。だから、オレも応える。お前が付き合いをやめたいなら話は別だがな」

 渡はオレのことをわかってくれている。
 多分、オレが一番信頼できるヤツはこいつなんだ。

「そこまで考えてんなら何も言わねぇよ。お前がオレを切りたくなったら切ればいい。だが、誰に何を言われようが、オレからは縁を切らない」
「そりゃ、光栄だね。じゃあ、一生付き合うのか、先が思いやられそう」

 顔を見合わせて、同時に笑い出した。
 オレが心から笑えるのは、雛とこいつの前でだけだ。
 雛とは別の立場で、渡はオレを救ってくれる。
 授業をサボッても学校に顔を出すのは渡がいるからだ。
 それでもオレが抱える闇の全てを明かすことはできない。
 大事な人間だからこそ、負担にはなりたくないんだ。




 いつもは外にいるが、雨の日は屋根のある場所に行くこともある。
 今日はカラオケボックスに入った。
 知り合い繋がりで十数人が集まり、一番大きな部屋を借り切って騒いでいた。

「ねえ、二人で抜け出さない?」

 甘ったるい声を出して誘いかけてきたのは、仲間の彼女だった。
 多分、高校生だったと記憶している。
 真っ赤に塗られた唇が妖しく輝いて見えた。

「何で?」
「野暮なこと言わないの、誘ってるのよ。ホテル代ぐらい奢るよ。わたし、オネーサンだし」

 くすくすと女は笑った。
 オレはちらっとこいつの彼氏である男に目をやった。
 ヤツの方も、ここに彼女がいるというのに別の女と堂々とイチャついていた。
 腹いせに、あいつに見せつけるつもりで誘ってんのか?

「あんたさぁ、彼氏の前で他の男誘っていいのかよ」
「いいのよ、あいつの方も今夜は好みの相手を見つけたようだしね。いつものことよ、遊びよ、遊び、本気じゃないの。たまには別の相手と体だけの火遊びを楽しみたいわけよ」

 指で胸元をつつかれる。

「ハートは関係なし。後腐れなく、セックスだけを楽しみたいならついて来て。愛がなくちゃ嫌だって言うなら、今すぐ断って。他の男を捜すから」

 女の気まぐれで持ちかけられた話。
 オレは好奇心が勝り、誘いに乗った。
 別にどうでも良かったからだ。
 オレには操を立てる相手もいない。
 浮気をしたと罵る女もいないのだ。

 カラオケボックスを出て、すぐ近くのラブホテルに連れて行かれた。
 料金は安く、小奇麗だったが古い建物だ。
 未知の領域に足を踏み入れた珍しさで、部屋の中を見回していると、女が首を傾げた。

「ひょっとして初めて?」
「知ってて誘ったんじゃねぇのか?」
「ううん、年の割りに大人っぽいし、経験済みかと思ってた。じゃあ、筆おろしってヤツね。張り切って、色々教えてあげちゃおうかなぁ」

 この女は、セックス依存症か何かなのだろうか。
 嬉々としてやり方を考える姿を見て、複雑な気分になった。
 女でもヤレれば誰でもいいヤツっているんだ。
 こうして誘いに乗ってついて来ている時点で、オレにこいつを非難したり蔑む資格はないんだがな。




 動くたびにベッドが軋む。
 汗に濡れた女の白い肌に赤みが差して、大振りの乳房が揺れている。

「……あんっ…、はぁ……、もっとぉ、もっと激しくしてぇ!」

 AV女優顔負けの嬌声を上げながら、女は勝手に盛り上がって悶えていた。
 オレはといえば、こっちも勝手にやっている。
 入れちまえば、要領はすぐに掴めた。
 突き上げながら、教えられた愛撫を加え、気持ちよくしてやる。
 一応、相手にも気を使っているつもりだったが、向こうの方がオレの存在を忘れ去っているような気がする。
 その証拠に、イクたびに彼氏の名前を口にしている。
 わけがわからん。
 無意識に名を呼ぶほど惚れているのに、他の男を身代わりにして虚しくないのか?
 女の気持ちがオレには理解できなかった。

 理解はできなくても、体の反応は止まらない。
 女が大きく震えてイッたすぐに、オレのモノも搾り取られるように精を吐き出した。




 初めてのセックスは、良いとも悪いとも感想は浮かばなかった。
 こんなものかと冷めた気持ちで安ホテルの天井を見上げた。
 女の教え方は上手く、それなりの快感を味わったが、出してしまえば一気に冷めた。
 避妊具は女が用意していて、始める前につけさせられた。
 ピルも飲んでいるらしい。
 遊ぶのも自己責任。自分を守るのは自分だと、女は言った。

「あなた、なかなか良かったわ。溜まったら声かけてね、いつでも遊んであげる。だけど、本気になったら終わりよ」

 携帯番号とメールアドレスを教えろと言われたが、生憎そんなものはない。
 オレが携帯を持っていないことを告げると、女は意外そうな顔をした。
 それから中学生じゃ仕方ないかと呟いて苦笑した。

 用が済めば長居をする気はなく、脱ぎ散らかしていた服を手に取った。
 服を着ているオレを見て、女が声をかけてきた。

「ん? 帰るの? ここで泊まっていけば?」
「いや、遅くなっても帰ることにしてる」
「そっか、いいよ。気をつけて帰ってね」

 オレが帰るとわかるなり、女は携帯で別の男を呼び出していた。
 タフだな。
 携帯の番号をメモに書いて渡されたが、かけることはないだろう。
 ホテルを出てから紙を細かく破いて通りすがりに目についたくず入れに捨てておいた。
 こんな繋がりはいらない。
 虚しくなって、どうしようもなく雛の顔が見たくなった。




 意外に早く家に帰り着くと、雛が出迎えに飛んで出てきた。
 時刻は夜の九時。
 ちょうど寝に行くところだったようだ。

「お兄ちゃん、やっと帰ってきたぁ!」

 満面に笑みを浮かべて駆け寄ってくる雛。
 伸ばされた手を見て、オレは反射的に叫んでいた。

「来るな!」

 オレの怒鳴り声を受けて、雛は立ち止まった。
 怯えた目で見上げてくる。

「お兄ちゃん?」

 瞳に涙が溜まり始めていた。
 だが、オレは雛に触れなかった。
 近づいてはいけないと、頭のどこかで戒める声が聞こえた。
 オレは汚れている。
 他の女の匂いが染みついた体で、雛に触れることなんて許されない。
 真っ白な雛が、汚れてしまう
 女が汚れているんじゃない、汚いのはオレの方だ。

「オレ、汚れてるから、抱きつくのは風呂に入ってからな。綺麗にしてくるから」

 言い繕うと、雛は信じたのか、涙を引っ込めて笑顔になった。

「うん、じゃあ、お兄ちゃんのベッドで寝てていい?」
「ああ、すぐ行くから先に寝ててもいいぞ」

 雛が階段を上がっていくと、オレは風呂に向かった。
 頭から足の先まで何度も洗い流す。
 女が残した痕跡は完全に消えたが、オレの心は晴れなかった。
 なぜなのか考える。
 それまでは何とも思わなかったのに、雛を目の前にして初めて意識が変わった。
 ああ、そうか。
 オレは雛が……。

 シャワーを止めて、湯船に浸かった。
 あの虚しさの正体がわかった。
 雛はオレを満たすことのできる唯一の女だ。
 体を満足させるだけなら、どんな女でも代わりはできる。
 だが、心まで満たされたいなら、オレは雛しかダメなんだ。

 風呂から上がって部屋に戻ると、待ちくたびれたのか、雛は寝ていた。
 少し動かして自分の寝るスペースを作っていると、雛が目を覚ました。

「お兄ちゃん、抱っこして」

 手を伸ばして甘えてくる。
 オレは雛を抱えて寝転んだ。
 雛はオレに擦り寄って嬉しそうに笑った。

「お兄ちゃん、いい匂いがする。石鹸の匂いだ」
「髪も洗ってきた。もう汚くないから幾らでも抱きついていいぞ」

 雛の体は女としては未成熟で、とても性の対象にはならない。
 それでもどんな女よりも、オレは雛を欲する。
 単に突っ込む相手として欲しいんじゃない。
 心を満たす存在として、身も心も雛が欲しい。




 翌日、学校に行くと、複数の女がまとわりついてきた。
 中学に上がってから、やたらと女に言い寄られるようになった。
 いつもはうるさいと追い払っていたが、今日はふと別な断り文句を思いついた。

「オレ、本命ができたから、誰とも付き合う気はねぇよ」

 彼女の立場が欲しかった連中は、これを聞いて離れていった。
 残ったのは、諦めの悪いしつこい女だけ。
 下手に関わると面倒なことになりそうだったので、そいつらは無視することに決めた。

「聞いたぞ、本命できたんだって? 紹介してくれよ」

 休み時間に噂を聞いた渡がやってきて、本命の正体を探り出そうとしてきた。

「そのうちな」
「ええー、オレにも教えてくんねぇの? 何もったいつけてんだよ」
「大事な女は見せびらかすもんじゃねぇだろうが、機会があれば会わせてやるよ」

 不満そうに口を尖らせる渡の追求をかわして、屋上に逃げた。
 扉を開けると、心地よい風が頬を撫で、爽やかな青空が頭上に広がっていた。
 影になる場所に腰を下ろして寝転がり、空を眺めた。

 雛を恋人だと紹介する日が来るのかどうか、オレにはわからない。
 未来の見えない状況で、自覚した感情を持て余している。
 オレは雛に相応しくない。
 それなのに、あいつが欲しい。
 生きることにすら執着が湧かないオレの中で、雛を愛しいと思う感情だけは強く輝き、死という名の闇に向かおうとするオレの心を繋ぎとめる唯一の光となっていた。

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