償い

第7話 一日だけの兄妹

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「おい、雛。お前、今月もカード使わなかったな」

 帰ってきて顔を合わせるなり、お兄ちゃんはわたしを問い質した。
 クレジットの明細には合計で五桁の数字が並んでいる。
 これでも使いすぎたと思っている方なのに。

「使ったよ、食費と日用品で」
「そういうのは生活費だろ。オレが言ってるのは、服とか小物とかのことだ。ブランドのバッグとか、宝石とか、毛皮のコートとか、買うものはたくさんあるだろう?」

 わたしは自分のクローゼットの中身を思い返した。
 服もバッグも小物も、アクセサリーだって揃っている。
 わざわざ買い足す必要はない。

「いらないよ。今あるものだけで十分だよ」

 わたしの答えはお兄ちゃんの気に入るものではなかったらしい。
 思いっきり顔をしかめられた。

「お前が持ってるものなんて安物ばっかりだろうが、買ってやるって言ってんだから、買え。身につける物だけじゃなく、車でも家でもいいぞ。旅行に行きたいなら、地球の裏側にだってすぐ連れて行ってやる」

 今日のお兄ちゃんは変だ。
 どうしてそんなにお金を使わせたがるんだろう。
 欲しい物か。
 うーん、あ、あれにしよう。

「あのね、前から欲しかったものがあるの」
「おう、遠慮せずに言え。何でも買ってやるぞ」

 お兄ちゃんが嬉しそうに顔を輝かせた。
 わたしもつられて笑顔を浮かべる。

「最近、友達の間で評判になってるケーキ屋さんの、一切れ七百円のスペシャルショートが食べたい」

 イチゴや桃、キウイを始めとした多種の果物と、さっぱりした甘さを持つ生クリームで作られた特大ショートケーキ。
 一切れ七百円はさすがに手が出なくて、いつも横目で見ているだけだった。
 憧れのケーキを思い浮かべて涎が出そうになる。
 無意識に口元へと手をもっていくと、お兄ちゃんが肩を落としていることに気がついた。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

 声をかけたら、彼は顔を上げて、わたしの肩を掴んだ。

「一切れ七百円て、中途半端な値段じゃねぇか。どこのケーキ屋だ? そんなもんいつでも買ってやる。そうじゃねぇんだよ、オレが言いたいのはもっとスケールのでかい買い物だ。今まで高すぎて手が届かないと諦めていた物があるはずだろう? 一番欲しい物を言ってみろ」

 お兄ちゃんが執拗に贅沢をしろと勧めるのは、わたしが高額の買い物をしないことが気に入らないからだ。
 お金と引き換えに抱かれる愛人は、相応の振る舞いをすればいいと言いたいのかもしれない。
 だけど、わたしにはできない。
 お金を湯水のように使う生活なんて、質素倹約を信条にして生きてきたわたしにできるわけがない。

「今日のオレは機嫌がいいんだ。何をねだってもいい、お前の望みを叶えてやる」

 叶えたい願いならある。
 でも、それは物じゃない。
 本当はお金なんていらない。
 両親を助けるための援助は必要だったけど、自分のためにまで欲しいなんて思わなかった。

「何でもいいの?」

 わたしの問いに、お兄ちゃんは頷いた。
 許されるなら、叶えたい願い。
 二度と戻らないと諦めかけていたもの……。
 わたしは願いを口にした。

「一日だけでいいの、お兄ちゃんと昔みたいに過ごしたい。お兄ちゃんの妹に戻りたいの」

 嘘でもいいから、あの時間を取り戻したかった。
 ほんの少しだけでいい。
 お兄ちゃんに好きなだけ甘えてもよかった妹に戻りたい。

 お兄ちゃんの表情がきつく強張った。
 やっぱりだめだった。
 無理なお願いだとわかってはいたけど、それでも希望は捨てられなかった。
 言うだけ言ったんだから諦めよう。

「いいだろう、叶えてやる。明日はちょうど休日だ。一日だけ、お前の兄貴に戻ってやるよ」

 意外なことに、お兄ちゃんはわたしのお願いを聞いてくれた。
 信じられなくて、じっと彼を見つめる。

「ほ、本当に?」
「ああ。その代わり、日付が変わるまでだ」

 夢みたいだけど現実だ。
 嘘で塗り固められた兄妹だとしても、一日だけは昔みたいに過ごしていいんだ。
 何もかも忘れて甘えよう。
 お兄ちゃんは優しく受け止めてくれるはずだから。




 次の日の朝、わたしは緊張してベッドから下りた。
 お兄ちゃんは先に起きていったみたい。
 彼と会うのが不安だ。
 お兄ちゃんは昔のように接してくれるんだろうか。

 高鳴る胸を押さえて、キッチンへと足を運ぶ。
 お兄ちゃんは朝食を作っていた。
 わたしに気がつくと、柔らかい笑顔を浮かべた。

「おはよう、雛。ようやく起きたか、出かけるんだから、早くメシ食えよ」

 いつもと違う。
 ううん、これは昔と同じだ。
 わたしの面倒を見てくれていた、優しいお兄ちゃんだ。

「おはよう、お兄ちゃん」

 わたしも笑顔で挨拶して席につく。
 朝食を食べながら、たくさん話した。
 冗談を言い合ってふざけたり、わたし達の間を隔てていた重い過去などなかったように、穏やかな時間を過ごした。

「そういえば、出かけるってどこに?」
「たまの休みぐらい、遊びに連れていってやろうと思ってな。どこでもいいぞ、今日は雛の気が済むまで付き合ってやるからな」
「いいの!? ありがとう、お兄ちゃん!」

 お兄ちゃんと一日一緒。
 わたしは浮かれて、一番お気に入りのワンピースを取り出し、メイクも念入りに整えて支度をした。

 遊びに行くからか、お兄ちゃんはあっさりとした普段着に着替えた。
 普段着といっても、もちろんブランド物。きっと一着何万もするんだ。
 わたしの服はお気に入りだけど、実は数千円の服。
 並んで歩いたら見劣りするかな?
 ううん、大丈夫。
 今日は遊びに行くだけだ。
 誰も気にする人なんていないよね。




 午前中は水族館に行った。
 水槽をまわり、優雅に泳ぐ魚を眺めてのんびりと館内を歩く。
 お兄ちゃんは忙しい人だから、気分転換になるかなと選んでみた。
 館内を一周したところで、ちょうど開演となったイルカショーを見てから、お土産コーナーに立ち寄った。

「わあ、このイルカのぬいぐるみ、かわいい」

 手にとったのは黒いつぶらな瞳のイルカのぬいぐるみ。
 色はピンクと水色があった。
 幾つになってもぬいぐるみは好きだ。
 手触りのいい素材でできていて、お腹を撫でていると気持ちいい。

「お兄ちゃん、ほらほら、触ってみて」
「ああ? お、なかなかいい感じだな」

 二人でぬいぐるみを撫でて、顔を見合わせて笑いあった。
 わたしが中学生の頃、よくこうしてお兄ちゃんとぬいぐるみを選んでいた。
 うちの経済状況が厳しくなり、気軽に玩具のおねだりができなくなったことを知って、お兄ちゃんは二人で遊びに行く度に買ってくれた。
 全部大事にとってある。
 どの子にも、お兄ちゃんとの思い出が詰まっているから。

 お兄ちゃんも当時のことを思い出したのか、イルカを持ってレジの方を見た。

「これ買うか?」
「うん。せっかくだから二匹買おうよ。ピンクのがわたし、水色がお兄ちゃんの」

 並べて飾ると仲良し兄妹みたい。
 自分の思いつきにワクワクしてきた。

 ぬいぐるみが入った袋を抱えて水族館を出る。
 その足でお昼を食べにファーストフードに入った。
 おやつにケーキを食べに行くから、軽食で済まそうと提案したからだ。




 午後は運動を兼ねてウインドーショッピングを楽しみながら街を歩く。
 雑貨屋さんの店先で、上品な花柄のランチョンマットを見つけた。
 足を止めて、手にとってみる。

「お兄ちゃん、これいいね。そろそろ食卓の模様替えした…い……」

 声をかけても返事がなくて不審に思い、顔をそちらに向けたらお兄ちゃんの姿がなかった。
 わたしが立ち止まったことに気がつかなかったんだ。
 急いで追いかけないと。

 マットを陳列カゴに戻して、お兄ちゃんが向かった方向へと歩き始めた。
 どこまで行ったのかな。
 後姿が見えてこない。
 人の間をすり抜けて追いかけながら、段々焦ってくる。
 お兄ちゃんを追いかけることで頭が一杯になり、携帯を使うことも思いつかなかった。

 お兄ちゃんを見失った、あの夜の光景が甦る。
 あの時とは違うのに、不安が胸に渦巻く。

「お兄ちゃん、どこ……?」

 立ち止まって周囲を見回していると、二人連れの男の人が近寄ってきた。

「ねえ、君一人?」

 無意識に後ろに下がったら、お店の壁に背中が当たった。
 声をかけてきた彼らは、わたしを取り囲むように、左右の空間を塞いで逃げ道を封じた。

「いいえ、連れがいるんです」
「じゃあ、その子も一緒に遊びに行こうよ。こっちも二人だし、ちょうどいいでしょ?」

 何がちょうどいいのか、よくわからない。
 それに遊びに行くって、初対面の人なのに?

「ごめんなさい。他の人を誘ってください」

 どうやって断ればいいのかわからなくて泣きそうになる。
 彼らは顔を見合わせると、ニヤニヤ笑い始めた。
 この雰囲気、嫌な感じがする。

「いいじゃない、ちょっとぐらい付き合ってよ」

 わたしの反応を面白がってるみたい。
 手首を掴まれて、引っ張られそうになった。

「い、嫌です。離してください!」

 助けを求めて周囲を見回す。
 目が合った人もいたけど、知らないフリをして通り過ぎていく。

「そこでお茶するだけだよ。行こうよ」

 背筋に寒気がして、嫌な汗が額に浮き出てきた。
 男の人達が、さらに近づいてくる。

「てめぇら、そいつに触るんじゃねぇ」

 険のある男性の声がかけられて、彼らは背後を振り返った。
 開けた視界の向こうに、怖い顔をしたお兄ちゃんが立っていた。
 お兄ちゃんはこっちに向かって歩いてくると、わたしの手首を掴んでいた男の腕を捻り上げた。

「い、いてっ!」

 腕を不自然な方向に捻られて、男は苦痛の呻きをもらした。
 もう一人は、お兄ちゃんの迫力に圧倒されてしまって動けないでいる。

「断ってるヤツにしつこく付きまとうなんざ、みっともねぇヤツらだな。ナンパするのは勝手だが、節度は守れよ。おまけに相手がオレの妹なら、黙って見過ごしてやるわけにもいかねぇな。しばらく外を歩けなくしてやろうか?」

 お兄ちゃんは掴んでいた腕を乱暴に離した。
 バランスを失った男の体が路上に倒れこむ。
 お兄ちゃんが一歩踏み出すと、彼らはそれぞれの位置から後退した。

「ひぇ!?」
「うわぁっ!」

 立っていた方の男が、倒れた相棒の腕を引っ張って立たせると、互いにしがみついて震え始めた。

「すいません! 許してください!」

 彼らは謝りながら逃げ出した。
 お兄ちゃんは追いかけることはせず、逃げていく背中を睨みつけている。
 わたしはその一部始終を見つめながら、放心して突っ立っていた。

「雛。おい、雛?」

 肩を揺すられて、我に返る。

「お、お兄ちゃん?」
「何だよ、お前までビビッてどうするよ? 心配しなくても脅しただけだ。あの手の輩は、ああやって追い払うのが一番なんだよ。はぐれて怖かったのか? オレが守ってやるから、もう大丈夫だぞ」

 お兄ちゃんがわたしの体を抱きしめてくれた。
 温かい手の平が、頭を撫でてくれる。
 お兄ちゃんが戻ってきてくれた。
 実感と共に安堵する。

「お兄ちゃん、どこにも行かないで」
「ああ、どこにも行かない。オレは雛の傍にいる」

 お兄ちゃんの腕の中が、世界で一番安心できる場所。
 夢じゃないんだ。
 確かにお兄ちゃんはここにいる。




 お兄ちゃんは、はぐれないように手を繋いでくれた。
 互いにいい大人なんだけど、今日は特別だと割り切って甘えておく。
 恋人同士に見えるかな。
 子供の頃には感じなかった気恥ずかしさは、わたしが彼を異性として意識している表れでもあった。

 ほどよい時間にケーキ屋さんに到着。
 店内にはセルフサービスの喫茶コーナーがあり、飲み物と一緒にケーキを食べることができる。
 例のスペシャルショートを二切れと、コーヒーを購入し、テーブル席に落ち着いた。
 気のせいか、お兄ちゃん注目されている?
 カップルは他にもいるんだけど、女性客の視線がお兄ちゃんに集まっていた。
 近くの席のグループから、ひそひそ話し声が聞こえてくる。

「ねぇ、あそこの席の人見てみなよ」
「背高そうだし、顔もいい感じ。クールな雰囲気なのに彼女に付き合ってケーキって、ギャップがいいね」
「あれ、彼女ぉ? つりあってないよ、ありえないー」
「試しに逆ナンしてみる? あれなら余裕で勝てるって」

 聞こえよがしに話しながら、彼女達は笑い声を立てた。
 自分のことではないと思い込もうとしたけど、彼女達の視線の先にいる男女はわたし達だけ。
 つりあってないんだ。
 お兄ちゃんの隣に似合うのは、宝石みたいな華やかな女の人なのかもしれない。
 わたしなんて、義理でも妹っていう立場があったから、傍にいることができたんだ。
 自分が情けなくなってきて、せっかく楽しみにしていたケーキも食べる気になれなかった。

「雛、口開けてみろ」
「え?」

 お兄ちゃんに促されて口を開けたら、ケーキの欠片が口の中に入れられた。

「うまいか?」

 フォークをゆっくり手元に戻して、お兄ちゃんが尋ねた。
 口の中で生クリームとスポンジケーキとフルーツが、絶妙に合わさり、味覚を満足させてくれる。
 何より、お兄ちゃんが食べさせてくれたから、外の雑音なんか瞬時にどうでもよくなった。

「おいしい」

 ほやぁと頬を緩ませて味わっていると、お兄ちゃんは笑い出した。

「お前が食べたがってたヤツだろ。オレの奢りなんだから、味わって食えよ」
「う、うん」
「言いたいヤツには言わせとけ。誰が何を言おうが、オレが一番かわいいと思うのは雛だ」

 お兄ちゃんはなんでもないことのように、さらっと言ってのけた。
 小さい頃は聞き慣れていたセリフ。
 雛はかわいい、一番好きだとお兄ちゃんは言ってくれてた。
 今でも、そう思ってくれてるの?

「口にクリームついてるぞ。お前って昔とちっとも変わらねぇな」

 紙ナプキンで口元をごしごし拭かれた。

「拭くぐらい自分でできるよ。子供じゃないのに、恥ずかしいよぉ」

 お兄ちゃんの手から紙ナプキンを奪って、口元のクリームを拭き取る。
 その間にお兄ちゃんは、再びフォークにケーキを付けて、差し出してきた。
 口を開けろって、仕草で指示される。

「お兄ちゃんも食べなよ」
「雛に食わせている方が面白い」

 悪戯っ子みたいな顔で、お兄ちゃんはにんまりと口の端を歪めた。

「動物の餌付けじゃないんだよ」

 口では文句をいいながらも、差し出されたケーキはしっかり食べた。
 バカップルさながらのやりとりに呆れたのか、気がつけば周囲の声も視線も消えていた。
 気にしすぎだった。
 周りにどう思われようとも、わたしとお兄ちゃんの関係に変わりはないんだ。

「ケーキ食ったらどこ行く? まだたっぷり時間もあることだし、遊園地でも行くか?」
「うん、日が暮れたら観覧車乗ろうね。夜景が見たいの」

 夢の時間はまだ続く。
 日付が変わるまでだとわかっていても、目の前のお兄ちゃんは昔と同じで、昨日までのことが夢だったような気さえしていた。




 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
 マンションに帰ってからも、お兄ちゃんの態度が変わることはなかった。

「イルカはリビングに飾っておくね。こうやって並べておくと、わたしとお兄ちゃんみたいに仲良しに見えるでしょう?」

 飾り棚の空いている場所に、ピンクと水色のイルカをくっつけて並べる。
 お兄ちゃんは何も言わなかった。
 ただ、考え事をしているのか、しばらくイルカ達を見つめていた。

「ここに飾っちゃだめだった?」
「いや、いい。置いとけ」

 イルカから視線を外したお兄ちゃんは、お風呂に入りに行ってしまった。
 兄妹みたいだと思って買ったイルカ達。
 明日になれば、引き離されてしまうのかな。

 入れ替わりに入ったわたしがお風呂を出てきた時には、すでに十一時半をまわっていた。
 リビングのソファでお兄ちゃんとくっついて座る。
 十二時を目前にしても、寝に行こうとは言えなかった。
 寝てしまえば、この時間は終わってしまう。
 少しでも長くこのままでいたい。

 秒針が時を刻むごとに速度を増していく気がした。
 わたしの思いを酌んで時が止まってくれるわけもなく、時計の針は無情にも十二時を指した。
 日付が変わる。
 お兄ちゃんの腕が肩にまわされて、引き寄せられた。

「久しぶりに兄貴に会えて良かったな。これで満足したか?」

 同じ声なのに、彼の声は冷たく響いた。
 夢の時間は終わり。
 懸命に言い聞かせて諦めようとしたけれど、夢の余韻は甘すぎて、失うことがつらい。

「わがまま言って、ごめんなさい。でも、一日だけでも楽しかった。ありがとう、お兄ちゃん」

 無理やり笑って顔を上げる。
 冷徹に変貌した瞳が、わたしを見下ろしていた。
 顎に手を添えられて、唇を重ねられた。

「む…やぁ……、んん…ぅ…」

 逃げようとしても、体はしっかり抱きとめられていて離れることができない。
 胸元のボタンが外されて、お兄ちゃんの手が滑り込んでくる。
 その間にも、貪るようなキスが続いた。
 生々しい舌の感触が、唇を離れて頬から首筋へと伝っていく。

 絶望が心を暗闇へと突き落とす。
 昼間の幸せな時間が消えていく錯覚が起こった。
 妹として触れ合った思い出が、愛のないセックスで上書きされていく。

「いやぁ! お願いだから今夜はやめて! 朝になったら気持ちを切り替えるから、今夜だけは……っ!」

 お兄ちゃんの愛撫から逃げたくて、本気で抵抗した。
 半ばパニックを起こしていたと思う。
 手の平が熱く痺れた。
 振り回した手が、お兄ちゃんの頬を叩いたんだ。
 痺れた手の感覚に、冷静さを取り戻した。
 わたしは何てことをしたんだろう。

「お、お兄ちゃん、ごめ……」
「そんなに兄貴がいいのかよ」

 わたしの謝罪を遮って、お兄ちゃんが声を絞り出した。
 苛立たしげに頬を擦って、わたしを睨む。

「オレは大嫌いだ。昼間だってお前が喜ぶから兄妹を演じてやっただけだ。早く気づけよ、お前の兄貴なんてこの世のどこにもいないってな」
「やめて、やめてよぉ!」

 お兄ちゃん自身に否定をされて、悲しくて頭を激しく横に振った。
 消えていく、壊れていく。
 昨日だけじゃない。
 小さい頃から重ねてきたお兄ちゃんとの思い出が、全部嘘だって突きつけられたんだ。

「頭でわからないなら、体に教え込んでやる。お前が妹じゃなく、女だってことをな」

 ソファの上に体を横たえられて、パジャマも下着も全て剥ぎ取られた。
 お兄ちゃんも身につけていた衣服を脱ぎ去り、わたしの上に跨ってくる。

「やだぁ! したくない、触らないでぇ!」

 両腕を掴まれ、頭の上でまとめて押さえつけられた。
 お兄ちゃんは片手と舌を使って乳房を嬲った。
 足を動かしてみようと試みたけど、膝を押さえるように跨られているために、ほとんど動かせなかった。

「うるせぇ、お前に拒否権なんてねぇんだよ。お前はオレのものだろう? どうして嫌がるんだよ、今まで散々やってきたことじゃねぇか」
「嫌、今夜だけは嫌。目が覚めるまでお兄ちゃんでいて欲しかった。お願いだから、昼間の思い出を消さないで、嘘だなんて言わないで」

 目に涙が滲んだ。
 ぼやけた視界の中で、お兄ちゃんの顔が苦々しげに歪んだ。

「いい加減に現実を見ろよ。昼間のオレはお前が追いかけている幻だ。本物は目の前にいるオレだ。過去のことは忘れろ。お前の兄貴なんて最初からいなかったんだ」

 過去は幻。
 嫌だ、嘘だ。
 昼間だってお兄ちゃんはわたしの傍にいた。
 ずっと傍にいるって言ってくれた。

「お兄ちゃんはいたよ、わたしを守ってくれるって言ったもの。幻なんかじゃない」

 お兄ちゃんが歯噛みした。
 彼の全身から怒りの感情が湧き出ていた。
 目の前にいるこの人は誰なんだろう。
 意識がぶつ切りになって、目に映る全てのことが遠い世界の出来事のように思えてくる。

 腰が浮き上がり、足を持ち上げられる。
 上がった足が彼の肩に乗せられた。

「あうっ!」

 それほど濡れていない秘所に、彼自身が無理やり入ってくる。
 下半身に引き裂かれそうな痛みが走った。
 快感なんてない。
 拷問に等しい荒々しい行為だった。

「痛い! やめてぇ!」

 解放された両腕を振り回して体を揺すったけど、足を押さえ込まれているからどうにもできない。
 わたしを捕らえて蹂躙している彼は、痛みに呻く悲鳴すら、お構いなしに腰を打ち付けてくる。

「お兄ちゃん! お兄ちゃん、助けてぇ!」

 わたしの精神は壊れかけていた。
 わたしを犯している相手がお兄ちゃんだとわかっているのに助けを求めた。
 現実に目の前にいる彼ではなく、思い出の中のお兄ちゃんに。
 お兄ちゃんは必ず助けにきてくれるはず。
 どこにいても飛んできて、わたしを守ってくれるんだ。

「黙れ、雛! 兄貴なんか呼ぶな! 目の前にいるのは誰だ! お前を抱いているのは誰なのか、言ってみろ!」

 怒鳴り声が聞こえた。
 恐怖が頂点に達する。

「痛いよ、怖いっ! お兄ちゃあんっ!」

 宙に向かって届かない声を張り上げる。
 お兄ちゃんを求めて泣き叫んだ。
 わたしを抱きしめて、笑ってくれたお兄ちゃん。
 彼との幸せな思い出が、鍵を開けたように次々と頭の中に溢れてくる。
 これこそが現実なんだ。
 今起きていることが悪い夢なんだ。
 お兄ちゃんは消えてなんかいない。
 いつだって、わたしの傍にいてくれるんだ。

「オレを見ろっ! 頼むから、オレを見てくれよっ! なんで兄貴じゃねぇとダメなんだよぉ……雛ぁ……」

 怒鳴り声は次第に涙声に変わっていった。
 頬に滴が落ちてきても、わたしは彼の顔が認識できていなかった。

「お兄ちゃん、どこにいるの? お兄ちゃん……」

 現実を映さない瞳は、わたしの視界を閉ざしていた。
 暗闇をさまよいながら、わたしはお兄ちゃんを呼ぶ。
 どうして来てくれないんだろう。
 お兄ちゃん、またいなくなっちゃったの?

 闇の中でバイクの騒音が聞こえた。
 あの時と同じ。
 お兄ちゃんを見失い、道の真ん中で立ち止まって泣いているわたしが見える。
 だけど、お兄ちゃんは戻ってきてくれた。
 今度だって戻ってきてくれる。
 彼は、わたしのお兄ちゃんだから。




 気がついたら寝室のベッドの上にいた。
 記憶が一気に戻ってくる。
 十二時が過ぎた後、お兄ちゃんに抱かれたんだ。
 その先は曖昧だった。
 嫌がって抵抗したことは思い出せたけど、途中からの記憶が抜け落ちていた。

「雛」

 名前を呼ばれた。
 頭を動かすと、隣で寝ていたお兄ちゃんが体を起こした。
 心配そうに、わたしの様子を窺っている。
 手が伸ばされて、頬を撫でられた。
 労わるような手つき。
 わたしが目覚めるまで、添い寝をしていてくれたんだろうか?

「オレがわかるか?」
「うん、お兄ちゃん」

 お兄ちゃんの曇り顔が少しだけ緩んだ。
 頬に手を添えられてキスをされた。
 もう兄妹じゃないって、改めて思い知らされる。

 ぶわっと涙が流れ出す。
 こらえ切れずに体を反転させ、うつ伏せにシーツの上に倒れこみ、泣き顔を見られまいと隠した。

「うう……、えっ…ふぅ、う……」

 お兄ちゃんがいるのに喪失感に襲われた。
 ううん、彼はいるけど、お兄ちゃんはいなくなったんだ。
 わたしの前から消えたんだ。

 泣き伏すわたしの指に、リングが通された。
 ダイヤモンドが輝くプラチナの指輪。

「ご主人様が誰なのか忘れないように常に指にはめておけ。オレのものになったからには、どんな高価な品だろうが与えてやる。だがな、兄貴に戻れって願いだけは聞かない。兄妹ごっこなんてくだらないマネには、今後一切付き合わないからな」

 左手の薬指にはめられたその指輪は、愛人の印し。
 呆然とそれを見つめる。
 お兄ちゃんがくれたプレゼントなのに、まるで錘みたいにわたしの心を沈めていく。
 銀色の輝きが、わたしの立場を知らしめる。
 お金で買われた卑しい女。
 それがお兄ちゃんから見た、わたしの全て。
 涙が止まらない。
 これ以上、わたしの思い出を壊さないで。

「嫌だよ、お兄ちゃん。わたしのお兄ちゃんを消さないで。いなくなっちゃやだよぉ……」

 わたしは再び顔を伏せて泣き続けた。
 お兄ちゃんは無言で覆いかぶさってきて、わたしの両脇に肘をついた。慰めているつもりなのか、頭を撫でられた。
 背中にお兄ちゃんの温もりが触れる。
 懐かしい匂いが、わたしの壊れた思い出を繋ぎとめていってくれた。
 お兄ちゃんがいた。
 まだ彼の中にお兄ちゃんが残ってる。
 自分でもわけがわからないと思ったけど、なぜか安心した。
 気が抜けたら、すごく眠くなった。
 ぐすぐす鼻をすすりながら、深い眠りへと落ちていく。

 お兄ちゃん。
 一日だけでも、わたしのわがままを聞いてくれてありがとう。
 あなたは否定したけど、わたしにとってお兄ちゃんはお兄ちゃんだってことがわかったよ。
 目が覚めたら、今のあなたを受け入れる。
 もう兄に戻ってなんて言わないよ。
 兄じゃなくても、あなたが好きだから。
 わたしは許される限り、傍にいたいの。

渡の独り言

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