束縛

再会・2(side 和泉)

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 高校生の時、両親が交通事故で亡くなった。
 その日を境にわたしの生活は一変した。
 両親が残してくれた遺産と、事故の賠償金や公的機関から得られた補助金で、何とか学校には通い続けられ、大学にも進学できた。
 身寄りのないわたしは、家を売ってアパートに移り住んだ。
 それ以来、今にも潰れそうな木造アパートの一室で、ひっそりと慎ましく暮らしている。

 わたしには親友と恋人がいた。
 親友の石川静流(いしかわ・しずる)とは小学校からの付き合いで、明るくて頼もしく、常にクラスの女子の中心にいるような活発な子だった。
 山下峰生とも静流を通じて交流が始まった。
 彼は物静かなタイプで感情表現が下手な人だったけど、両親を亡くしたわたしを、静流と一緒になって励まして気遣ってくれた。
 わたしは彼に惹かれていき、恋の悩みを静流に相談した。

「あのね、静流。わたし、山下くんが好きなの」
「そうなんだ。うん、応援するよ。峰生も絶対和泉に気があるって」

 静流に勇気付けられて、わたしは峰生に告白した。
 告白は受け入れられ、わたしと彼は恋人同士になれた。
 だからといって、急に関係が変わるわけでもなく、以前と変わらぬ距離を保ったまま付き合いが続いた。
 キスやそれ以上の行為をしても甘い雰囲気にはなれなくて、ちょっとだけ落ち込んだりもしたけど、照れているんだと思ってた。
 彼が時々くれる気遣いの言葉が嬉しくて、わたしはそれだけで満足していた。

 同じ大学にも入ったけど、わたしは勉強とバイトに明け暮れて、学部も違って会える日は限られていた。
 携帯電話を持たない峰生には、気軽に連絡も取れない。
 彼は自宅のパソコンからたまにメールをくれる。
 おやすみとか、元気? とか、一言のメールばっかりだったけど、それでも気にしてもらえてるんだと嬉しかった。
 彼からの一言メールが、寂しい時の慰めだった。

 クリスマスやバレンタインはおろか、誕生日も一緒に祝ったことがなかった。
 峰生曰く、誕生日なんて祝う年でもないということだった。
 プレゼントを買う余裕のない、わたしのことを気遣ってくれてるんだと思った。
 ううん、思い込もうとしていたのかもしれない。
 大学も四年目に入った頃には、わたしは峰生の態度が恋人に接するものではないと気づいていた。
 でも、わかっていても離れられなかった。
 だって、わたしには彼しかいなかったから。
 僅かの時間の逢瀬で、体を重ねて愛を囁き、少しでもこっちを振り向いてもらおうと努力した。
 わたしの全てで彼を愛した。
 だけど、愛は返ってこなかった。
 無駄な努力だったと知った時、わたしは絶望した。
 始めから、彼の愛は別の方向を向いていたのだ。




 大学を卒業して、小さな会社ではあったけど事務で正社員の職を得て働き始めた。
 ところが三ヶ月ほどで、会社がいきなり倒産した。
 社長は夜逃げしたらしく、ビルの入り口に張り紙が張ってあり、事情を知らされていなかったわたしを含めた平社員一同はその前で立ち尽くしていた。

 給料は滞納されていて、まだ受け取ったことがなかった。
 おかしいとは思っていたけど、こんなことになるなんて。
 おまけにわたしが長年住んできたアパートは取り壊されて建て売りのマンションになる。お金のないわたしは立ち退きを余儀なくされた。その期日も三ヶ月後に迫っている。
 しばらくは貯金でやっていけるけど、長くは続かない。この就職難の時代、同じような就職口がすぐに見つかるほど甘くはなかった。
 生活費に住む場所と、問題は山積みだ。

 途方に暮れて、帰りに峰生のマンションに立ち寄った。
 もしかしたら、一緒に住もうって言ってくれるかもしれない。
 わたしはまだ、彼の愛を信じていた。
 これはいいきっかけなのだと、能天気にも前向きに考えていた。

「いきなり来ちゃったけど、峰生帰ってるかな」

 大手企業に就職した峰生は、この春からマンションで一人暮らしをしている。
 わたしは数回しか来ていないけど、いつもこまめに掃除されていて感心していた。
 彼の奥さんになったら、気合を入れて掃除しないとなぁなんて考えて、くすっと笑った。




 鍵がかかっていることを確認して、合鍵を使って中に入ろうとした。
 すると、ドアに鎖がかかっていて、峰生がいるのかと思ってチャイムを鳴らした。
 待っていたら、奥から「はぁい」と女の人の声がして足音が近づいてきた。

「どちらさ……ま?」

 応対に出た女性も、わたしも固まった。
 だって奥さんみたいにエプロンをして出てきたのは、わたしの親友の静流だったのだ。

「何で、和泉…今日は仕事じゃ……」
「どうして静流が峰生の部屋に……、それにその格好……」
「と、とにかく入って!」

 人に見られては困ると思ったのか、静流はわたしを部屋に入れた。
 ほどなく帰宅した峰生を交えて、話し合いが始まった。
 その場で二人が話したことは、とても耐え難い衝撃的な真実だった。

 高校の時、峰生がわたしに優しくしてくれたのは、静流の親友だったからだ。
 つまり彼女への点数稼ぎで、わたしに同情はしていても、好意は持っていなかった。
 それなのに、どうして告白を受けたのかと問いただすと、峰生は重い口を開いた。

「オレが静流に告白した時、和泉の応援をしたいから気持ちは受け入れられないと言われた。和泉は突然両親を亡くして大変で、かわいそうだから支えてやってくれって……」

 静流も峰生が好きだったけど、わたしのために身を引いた。
 でも、忘れられなくて、隠れて会うようになった。
 わたしが忙しいこともあって、二人の親密さは増していった。峰生もわたしより、静流と一緒にいる時間の方が長く、恋心も募っていったのだと言った。
 恋人のイベントの日は、静流と過ごしていたんだ。
 わたしは二人に騙されていた。
 最も頼りにして、信頼していた人たちに裏切られたんだ。

「和泉も就職できたし、もう大丈夫だろう? 会社でオレよりいい男を見つけてくれ。これ以上一緒にいても、オレはお前を幸せにはできないんだ」
「ごめんなさい、和泉。あなたに嘘をついたことは後悔している。でも、わたしは峰生を愛しているの、忘れられなかったのよ」

 二人はわたしに頭を下げた。
 こんな時、どうすればいいんだろう。
 よくも騙したわねって、彼らを罵って暴れればいいの?
 窮状を打ち明けて、捨てないでって峰生にすがりつくの?
 わたしにはどちらもできなかった。
 裏切られたショックで、まともに頭が働かない。
 震える手でバッグからこの部屋の合鍵を取り出して、目の前のテーブルに置いた。

「さよなら」

 他に言葉が出てこなかった。
 出て行くわたしを峰生が引き止めるはずもなく、泣き出した静流を抱きしめて慰めている。
 彼が大事なのは、静流なんだ。

 扉を閉めて、マンションを出た。
 これで何にもなくなってしまった。
 わたしの人生に希望なんてないんだと思い知らされた。




 帰りに携帯電話を解約した。
 唯一つの連絡手段を自ら切ってしまい、真っ暗な道のりを一人で歩いた。

 アパートに戻って、部屋をぐるりと見回した。
 峰生との思い出の品は、実は一つもなかった。
 プレゼントの交換はしたことがなかったし、写真も高校のアルバムぐらいしかない。
 寂しい部屋の真ん中で座っていると、気持ちがどんどん暗くなる。
 もう死んでしまおうかと考えた。
 生きて行くの疲れた。
 お父さんとお母さんに会いたい。

 果物ナイフやカミソリの刃を見て、手首を切るか、首を吊るか、ビルの屋上から飛び降りるかとか、色々方法を考えた。
 きっと、今までで一番ネガティブな思考に支配されていたんだろう。
 今度ばかりは前向きになんて考えられない。

 そんなわたしの目に、黄色いクマが映った。
 机の上にちょこんと座ってこっちを見つめている。
 殺風景な部屋を黄色く彩る小さなぬいぐるみは、去年のクリスマスに穂高くんがくれたものだ。

 大学の友達に紹介されて知り合った穂高秋斗くんは、いつも姿勢が良く凛とした態度で、知的さを漂わせる眼鏡と穏やかな微笑が印象的な人だった。
 学部が同じだったこともあって、わたしにも気さくに声をかけてくれていた。
 ちょっと怖い噂も聞いたけど、彼自身は少しも怖いと思わなかった。
 だって、心に残っている彼の思い出は、とても優しいものだったから。

 あの日のことは、忘れていない。
 偶然、バイト先のケーキ屋に来た穂高くんは、イブの夜にわたしが一人だってことを知ると、寒い外で待ていてくれて、家まで送ってくれた。
 ゲームセンターに立ち寄って、わたしのためにこのクマを取ってくれた。
 お返しにあげたキャンディも、喜んで受け取ってくれた。
 穂高くんは、別れ際にこう言った。

『いい子の水澤さんには、穂高サンタが来年もプレゼントを届けてあげるよ。今度はもっといいものあげるから、楽しみに待っててね』

 わたしは彼に、一年頑張るって言った。
 穂高くんは同情してくれただけだってわかっているけど、あの夜、わたしは救われた。
 このクマを見ていたら、一人ぼっちのクリスマスも寂しくなかった。
 今は六月の終わり。
 今年のクリスマスはまだ先だ。
 せめてそれまで頑張って生きよう。
 あの時みたいに良いことあるかもしれない。




 自殺は思いとどまって、身辺整理を始めた。
 僅かな家財道具は全部売った。
 服も必要なものだけ残して古着屋に持っていく。
 携帯電話も新しく買い直し、社員寮付きの就職先を探して、職安にも通い続けた。

 さらに三ヶ月が過ぎ、就職先が決まらないまま、とうとう立ち退きの日が来てしまった。
 服を始めとした身の回りの品、両親の位牌や形見の品をボストンバッグにつめて、荷造りを終えた。
 クマのぬいぐるみは巾着に入れて、ショルダーバッグの肩紐にぶら下げた。
 これはお守り。
 わたしを救ってくれた穂高くんの優しい思い出が宿っているぬいぐるみだから、一生の宝物にするんだ。

 大家さんに挨拶をしてアパートを引き払い、職安に行った。
 毎日通っているけど、なかなか条件に合う仕事はない。
 この際、事務以外でもと思ったけど、夫婦での住み込みとか、経験者のみとか条件がついていて、面接に行っても身元保証人がいないせいか、なかなか採用までこぎつけられなかった。
 就職は諦めて、バイトで食いつなぐべきか。
 面接や情報収集でかけまわっているうちに、夕方になって職安も閉まってしまった。
 職探しはまた明日。
 今夜はカプセルホテルにでも泊まろうか。
 お金が残っている間に、何とかしなくちゃ。
 駅前のベンチに座って、スーパーで買ったおにぎりを頬張った。
 道行く人は、みんな幸せそうに見えた。
 このままわたしが行き倒れても、誰も悲しんだりしないだろう。
 後を片付ける人が、嫌な思いをするだけだ。
 峰生と静流は泣いてくれるかもしれないけど、わたしが消えれば心のどこかでホッとするはず。
 心の底から悲しんでくれる人なんて、どこにもいないんだ。
 そう思ったら、涙が出そうになった。
 クマが入った巾着を抱きしめて、泣くのを堪えた。
 頑張るんだ。
 まだ頑張れる。
 死を選ぶのは、最後の最後にしよう。

 その時だった。
 サラリーマン風の若い男の人が近寄ってきた。
 てっきり通り過ぎるんだと思っていたけど、その人はわたしに声をかけてきた。

「水澤さん……?」

 聞き覚えのある声に、わたしは顔を上げた。

「穂高くん?」

 巾着を抱く腕の力を無意識に強めた。
 神様はわたしを見捨てなかった。
 彼との再会は、わたしに再び生きる希望をもたらしてくれた。

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