償い
傷心・4(side 渡)
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鳩音ちゃんとの交際は順調だ。
休日はもちろん、雛ちゃんの送迎がある平日にもオレ達は会う。
「渡さん、夕ご飯できましたよ」
鳩音ちゃんが食卓を整えて、オレを呼ぶ。
ほかほかのご飯。
焼き魚に青葉のおひたし、玉葱のスライスサラダに、栄養をつけるためか鶏肉のから揚げもある。
家庭の味だ。
毎度、小さな感動を覚えて、手を合わせていただきます。
鳩音ちゃんはたまにオレの部屋に泊まる。
翌朝、大学がある日はここから通う。
雛ちゃんも鳩音ちゃんが一緒だと、通学の道中も楽しそうだ。
「鳩音ちゃん、今夜泊まってく?」
確認のために問うと、彼女は頬を染めて頷いた。
ベッドで彼女を抱くのは何度目だろう。
一糸纏わぬ姿で、鳩音ちゃんはオレの下にいる。
「……ぁはっ……、んあぁ……、渡さぁん……」
彼女は後ろからオレを受け入れ、かわいい喘ぎ声を上げながらお尻を振っている。
「鳩音ちゃん、かわいい」
上から覆い被さって彼女の胸をまさぐりながら、腰を動かして中を突く。
愛液がオレのモノに絡みつき、繋がりを助ける潤滑剤となっている。
顔を見ながらイキたくなって、鳩音ちゃんを仰向けにした。
蕩けて蒸気した顔は、色っぽくて誰にも見せたくない。
「愛してるよ。オレのためにだけ、もっと乱れて」
唇を重ねて再び彼女を深く貫いた。
びくんっと裸体が大きく跳ねる。
「あっ、ああっ、やぁっ!」
突き上げるたびに、彼女の嬌声は大きくなる。
このマンションは防音もしっかりしてるんだよね。
だから、幾ら声を出しても平気なんだ。
「……は…ぁ…、鳩音ちゃん、オレもそろそろ……イク……」
締りのいい彼女の中で散々ご奉仕されたオレ。
もう限界……。
最後にはオレも理性を飛ばす。
本能が赴くままに夢中で腰を振って、彼女と抱き合った。
鳩音ちゃんも、オレの名を呼んで達していく。
真っ白な世界に溶け込んでいくみたいに、オレは精を放って彼女と一緒にベッドに沈んだ。
うー、張り切り過ぎたか。
腰がいてぇ。
鳩音ちゃんは平気かな?
「渡さん、疲れちゃいました?」
隣で寄り添って横たわっていた鳩音ちゃんが、心配そうに問いかけてくる。
あ、逆に気遣われてしまった。
笑みを返して、彼女を引き寄せた。
「今夜はもう無理かもな。鳩音ちゃんはどう?」
「渡さんがしたかったらできますけど、それならおとなしく寝ます」
鳩音ちゃんは上目遣いでオレを見つめた。
小悪魔の微笑みを見た気がした。
魅惑的に輝く唇を見ているうちに、オレの体に精気が戻ってきた。
錯覚かと思ったが、オレの下半身はまだやれるぞと自己主張を始めてしまったのだ。
「あー、ごめん。またしたくなってきた」
「えへ、嬉しい」
鳩音ちゃんが喜んで抱きついてきた。
この調子で精力を絞りつくされそうな予感がする。
ま、それもいいか。
かわいくて愛しい彼女の存在が、オレの記憶に巣食う悪夢のような思い出を忘れさせてくれた。
ビジネス街でも階層の高さで一際目立つ、鷲見グループの本社ビル。
ここに来た用事――雛ちゃんの警備に関する定期報告を鷹雄に届けて重役室を退室する。
社屋を出るために廊下を歩いていると、鷹雄の秘書である羽鳥官九朗(はとり・かんくろう)に会った。
気弱そうな外見と物腰のお坊ちゃんだが、芯は強く、立派に鷹雄の片腕として働いている将来有望な新人さんだ。
社内で何度か言葉を交わすうちに、軽口も叩ける間柄になった。
その彼が向こうから歩いてくるのに気づいて、片手を上げて声をかけた。
「よう、キューちゃん。頑張ってる?」
オレが声をかけると、盛大なため息が返ってきた。
「せめて社内では普通に呼んでくださいよ。ボクの名前は羽鳥官九朗です、鳶坂さん」
「いやあ、悪いけど定着しちまってさ。しっかし、うまいあだ名だよな。一度由来を聞かされたら二度と忘れないぜ」
名前の漢字を逆さに読むと九官鳥が出てくる。
だからキューちゃんなのだそうだ。
小学生の頃につけられ、以後、進学のたびにフルネームを見た連中がそう呼び出すので、すっかり諦めて自分から自己紹介に添えるようになったらしい。
「そういえば、鳶坂さん。今夜は空いてますか? 最近、お気に入りのお店があるんです。奢りますから、ご一緒にどうです?」
行き先は高級クラブらしい。
鳩音ちゃんとの約束もないし、たまには男同士で飲みに行くのもいいな。
「いいぜ。鷹雄も誘うか?」
「う、それはちょっと……」
キューちゃんは困った顔を向けてきた。
わかってるって、鷹雄のことで愚痴りたいんだな。
オレは了解の意味で肩を叩き、笑ってみせた。
「冗談だよ。たまには上司のいないところで羽根を伸ばしたいんだろ。告げ口なんて姑息なマネはしないし、今夜はゆっくり語り合おう」
「は、はい! お願いします!」
キューちゃんは顔を輝かせて頷いた。
素直で憎めないヤツなんだよな。
恵まれているようでいて、常に損な役回りを押し付けられてきたんじゃないかと思う。
そういうところに親近感を覚えて、オレは結構この坊ちゃんを気に入っていた。
キューちゃんの勤務が終わるのを待って合流し、目的の店に向かう。
オレはこの手の店には馴染みがないが、高級感の漂う品のいい店だ。
明るい照明に、愛想良く丁寧な応対の店員。
客席に並べられている酒や料理を盗み見ると、どれも見るからに高そうな一級品だ。
今夜は奢りなわけだし、気にしなくていいんだろうけど、やっぱりお坊ちゃんは違うな。
衝立で仕切られたテーブル席に落ち着くと、ホステスのお姉さんが二人やってきた。
どっちもなかなかの美人さんだ。
ふと、鳩音ちゃんの顔が脳裏を過ぎった。
やましいことをするわけじゃないけど、ちょっぴり後ろめたくなる。
ごめんよ、鳩音ちゃん。
これは浮気じゃないんだ、大人のお付き合いで仕方なくなんだ。
この場にいない彼女に心の中で言い訳しておく。
心に浮かぶ鳩音ちゃんの純粋な瞳がオレを責めてくるようだ。
誓って何もしないから。
お喋りするだけだ。
だから、たまには許して。
ホステスさんも座り、オレ達のテーブルに料理と酒が運ばれてくる。
ボトルを一本開けて乾杯した後、さっそくと酔いがまわってきたキューちゃんが饒舌にしゃべり始めた。
話は次第に仕事のことに移っていく。
オレとホステスさんはすっかり聞き役にまわっていた。
「それでですねぇ、副社長がねぇ……」
ほろ酔い気分で出てくるのは、上司の愚痴だ。
鷹雄の横暴さを嘆くキューちゃんに相槌を打ちながら酒に付き合っていた。
ホステスのお姉さん達も苦笑しながら、大変ですねぇと同情してみせて、さりげなく褒めて持ち上げたりしている。
こういった店ではよくあることなのだろう。
客の扱いが上手い。
「キューちゃんは頑張ってるよ。鷹雄も認めているから側に置いてるんだ。あいつも付き合い方さえわかれば、なかなか頼りになるぜ。今がふんばりどころだ」
バンバン背中を叩いて励ましてやると、キューちゃんは「おー」とろれつの回らない口で気合の声を上げ、へろへろと拳を突き上げる動作をした。
元気が出たようだ。
鷹雄もなかなか秘書が定着しなかったからな。
キューちゃんにはマジで期待してるみたいだし、オレも愚痴ぐらい聞いてフォローしてやらないとな。
「いらっしゃいませ、羽鳥様。ご一緒させてくださいな」
新たなホステスさんのご登場と同時に、キューちゃんの隣にいたお姉さんが会釈をして立ち上がり、近くの席に移動した。
入れ替わりの時間か。
こういうところって、指名入れたら料金が高くつくんだっけ?
「ああ、つばめちゃんだぁ。久しぶりぃ」
新たに登場したホステスさんは、キューちゃんのお気に入りのようだ。
声が嬉しがっている。
彼女はくびれのある豊満な肢体を露出度の高い赤いドレスであえて強調している。
オレは足下から視線を動かしていって、最後にようやく女の顔をはっきり見た。
茶色く染めた長い髪。
抑え気味だが華のある化粧と赤い艶のある唇。
男なら誰もが一瞬見惚れてしまうほどの美人だ。
だけど、この顔どこかで……。
素のままの瞳に、ハッと記憶が呼び覚まされる。
忘れるはずがない。
あの女だ。
汗が出てくる。
どうして今頃、こんな場所でこいつに出会う。
「……ひばり?」
搾り出した声は掠れていた。
女はキューちゃんから視線をこちらに移し、驚愕の表情を浮かべた。
「渡……」
女は小声で、しかし、はっきりとオレの名を口にした。
悪夢でも見ているのかと思った。
しかし、これは現実でオレ達は再会した。
「あっれー? 鳶坂さん、つばめちゃんと知り合いなんですかー?」
酔っ払いキューちゃんの声が天の助けに思えた。
「ん、まあね。高校の同級生だよ。それだけ」
「ええ、そうなんです。こんなところで会うなんて、偶然ですね」
他の者の手前か、ひばりも余計なことは言わずに話を合わせた。
その後、オレは意図的にひばりを無視して、もう一人のホステスさんと話していた。
キューちゃんはひばりにべったりだ。
ひばりは彼の相手に忙しく、オレ達の間に会話がなくても誰も不審に思わない。
今日ほど、キューちゃんに感謝した日はない。
この店には二度と来るまい。
ちらちらと時折こちらに向けられるひばりの視線を感じながら、この気まずい時間が早く終わるようにと祈った。
店を出る頃には、キューちゃんは完璧に出来上がっていた。
足下もふらふらで、起きてるのか寝ているのか判別がつかないほど酩酊していた。
おい、どーすんだ、これ。
まだ支払いも終わってないってのに。
サイフを勝手に開けるわけにもいかないしなぁ。
少し考えて、キューちゃんの上着のポケットを探り、携帯電話を見つけた。
プライバシーの侵害だが、非常事態なので今回は大目に見てもらおう。
自宅の番号は……っと。
良かった、自宅で入れてある。
彼の携帯を借りて自宅に連絡すると、すぐに運転手付きの高級車が迎えに来た。
よくあることなのか、運転手のおじさんが手際よく支払いを済ませてくれて、ついでにオレも送っていってもらうことになった。
おじさんを手伝って、二人がかりで酔いつぶれた坊ちゃんを車に乗せる。
ふう、意外に重いな。
キューちゃんは寝ながらクスクス笑っていた。
何か楽しい夢でも見ているんだろうか?
まあ、気分転換になったんならいいか。
「待って、渡」
車に乗り込む寸前、駆け寄ってきたひばりが名刺を押し付けてきた。
「いつでもいいの、待ってるから連絡して」
どういうつもりかはわからないが、人の目もあるので黙って背広の内ポケットに入れた。
ドアを閉める時に、ひばりと目が合った。
ひばりの瞳には以前のような輝きはなく、曇って見えた。
別れた日から、十年もの歳月が流れたんだ。
オレにめまぐるしい変化が起きたように、ひばりにも色んなことがあったんだ。
だけど、オレには関係ない。
ひばりがオレを裏切った日に、あいつとの間にあった全ての絆は切れてしまったんだから。
それからは、また平穏な毎日が続いた。
仕事に精をだし、鳩音ちゃんとイチャイチャする。
オレの日常、こんなのでいいのだろうかと考えたりもするが、幸せなのでいいのだろう。
鳩音ちゃんとは長くやっていけそうだ。
鷹雄は雛ちゃんが大学を卒業したら、即結婚と宣言しているが、オレも考えようかな。
プロポーズしたら、どんな反応が返ってくるだろう。
受け入れてくれるかな。
一人で過ごす休日、そんなことを考えてニヤニヤしていた。
ひばりのことなんて、頭の中から消えていた。
オレの心を占めていたのは、紛れもなく鳩音ちゃんのことだけだった。
オレの幸せな妄想を切り裂くように、テーブルの上で充電中の携帯が鳴った。
表示されている番号は、登録していない見知らぬ数字。
誰だ?
仕事関係なら無視するわけにもいかず、念のために出てみることにした。
「もしもし?」
『あ、渡。わたしよ、ひばり』
携帯を通じて聞こえてきたのは、思い出したくもない女の声だ。
オレは番号を教えてないんだぞ。
どうやって知ったんだ?
『渡が連絡くれないから、羽鳥さんに教えてもらったの』
キューちゃんか。
余計なことしてくれる。
ひばりをお気に入りだったから、頼まれたら断れなかったんだろうけど。
多分、同窓会辺りを口実にオレの連絡先を聞き出したんだろう。
今さら何の用があるっていうんだ?
「思い出話に花が咲くような間柄でもないし、何も話すことないだろ。もうかけてくるなよ」
切ろうとしたら、電話の向こうでひばりが慌てた声を出した。
『待って、切らないで! 話を聞いて、お願いよぉ……』
涙交じりの声が聞こえ、舌打ちして携帯のボタンから指を離して持ち替えた。
「言いたいことがあるなら言え。泣かれると迷惑だ」
オレってつくづくお人よし。
鷹雄なら容赦なく切るところだよな。
『ご、ごめん…なさ……。わたし、ずっと渡に謝りたかったの……』
電話の向こうですすり泣きながら、ひばりは昔の自分が愚かで酷い人間だったと懺悔を始めた。
『わたしの家も借金でだめになったの。友達は離れて行くし、彼氏だった人にもあっさり切り捨てられた。因果応報ってこのことね。借金取りに客を取らされるほどにまで堕ちてから、ようやく自分がどれだけ酷い裏切りを渡にしたのかわかった。今さらだって言われるだろうけど、本当に後悔してるの』
ひばりの懺悔を聞きながら、気持ちは冷めていく。
確かに今さらだよ。
それをオレに聞かせて何がしたい?
許されて楽になりたいとでも言う気か?
『周囲の人間に見捨てられて、無様に底辺を這い回るわたしの支えはあなたとの初恋の思い出だけだった。何も考えずに、渡のことを好きでいたあの頃に戻りたい。お金なんて人を狂わせる魔物よ。わたし、愛していたのはあなただけだってことに気がついたの。もう一度会えたら、今度こそあなたと二度と離れたくないと思って……」
話の流れが急に変わり、面食らった。
反射的に通話を切って、ひばりの番号を着信拒否に設定した。
頭の整理が追いつかない。
あの女、何を言った?
愛していたのは、オレだけ?
あれだけの裏切りをしておいて、恥ずかしげもなくオレだけを愛していたと言ってのけた女に激しい憤りを覚えた。
携帯には、ひばりからの着信が続いていた。
拒否しているから、音は鳴らずに履歴だけが増えていく。
うるさい、オレの人生に入り込んでくるな。
オレは忘れたんだ。
お前との思い出なんて、欠片も大事じゃない。
支えにするほど、大層なものじゃない。
それをお前自身がオレに突きつけて、絶望の縁に追いやったんじゃないか。
今さら、出てくるな。
オレを惑わせるんじゃない。
携帯が鳴った。
ハッと顔を上げて、携帯に飛びついた。
鳩音ちゃんの名前を見た瞬間、涙が出そうになった。
急いで通話に出ると、鳩音ちゃんの明るい声が心を落ち着かせてくれた。
『用事が思ったより早く終わったんです。そうしたら、急に渡さんの声が聞きたくなっちゃって』
声を聞きたかったのは、オレの方だ。
気を抜けば震えそうになる声を必死で押さえて口を開いた。
「鳩音ちゃん、会いたい。君を抱きたい」
唐突なオレの要求に、鳩音ちゃんは驚いている。
『渡さん、何かあったの? ねえ、大丈夫?』
君はオレを愛してくれてる?
本物の気持ちがオレにはわからない。
裏切られるのが怖い。
怖くて怖くて、君の言葉まで疑ってしまう。
『すぐに行きます。それまで待っててくださいね』
小さい子を慰めるような優しい声で、鳩音ちゃんは約束してくれた。
「うん、待ってる。必ず来て」
通話を切って、床に寝転がった。
元カノがよりを戻したいと言ってきたぐらいで情けないよな。
でも、ひばりは単なる元カノじゃない。
オレの心に大きなトラウマを植えつけた元凶の女だ。
憎しみや怒りだけじゃない。
オレはあの時のことを再現されることを恐れている。
ひばりの影が、オレに人を信じることを許さないんだ。
鳩音ちゃんはすぐに来てくれた。
実は近くまで来ていたんだと言って、部屋に入ってきた彼女は微笑みながら傍に寄ってきた。
口より先に体が動き、鳩音ちゃんを抱きしめる。
冷え切った心が、彼女の温もりを渇望していた。
「んん……っ、渡さん…苦しい……」
戸惑う鳩音ちゃんに構わず、強引に唇を重ねた。
彼女の瞼が閉じられる。
無心で口内を探っているうちに、不安が消えて冷静になってきた。
「ごめん、鳩音ちゃん……」
「落ち着きました? びっくりしたけど、気にしてません。だって、渡さんがわたしを必要だと言ってくれたんだもの」
鳩音ちゃんはニコニコ笑ってオレに抱きついてきた。
こんな不安定な気持ちで体を繋げる気にはなれず、リビングのソファでくっついていた。
彼女の腕がオレの首に絡み、オレは唇で彼女の肌を愛でる。
「鳩音ちゃんは、オレのことが好き? 愛してる?」
「愛してます。わたしは渡さんが大好きです」
まっすぐオレの目を見て、鳩音ちゃんは答えた。
君の言葉を信じたい。
君を信じることができたなら、オレは過去から解き放たれて、新たな一歩を踏み出せる。
ひばりは番号を変えて、携帯に何度もかけてきたが、オレはあいつだとわかるとすぐ切った。
これだけ拒絶の意思をみせれば、諦めて退くはずだ。
関わりたくないのが、どうしてわからない。
数日して携帯が鳴らなくなった。
ようやく諦めたか。
携帯の着信がなくなったことで、油断していた。
ひばりは諦めたわけではなく、さらに強引な接触方法に変えてきただけだった。
オレの仕事は雛ちゃんの警護だが、本社にも連絡事項の確認や報告で、毎日顔を出している。
つまり、一日中ビルの入り口を見張っていれば、オレを捕まえられるというわけだ。
用事を済ませて本社の建物から出た途端、呼び止められた。
諦めの悪い女だ。
しつこい男じゃなくて助かったって、オレのこと言ったのは誰だっけ?
「電話に出てくれないから来ちゃった」
ひばりは悪びれもせずに笑った。
好きだったはずの笑顔が、ひどく醜悪なものに見えた。
「携帯の番号を聞いた時に、勤め先や近況を色々教えてもらったんだ。渡、彼女いるんだって? 現役女子大生のかわいくて元気な子」
ひばりはオレの肩に手を置くと、踵を上げて耳元に口を寄せてきた。
形のいい綺麗な唇が、耳を疑うような言葉を囁いた。
「女子大生なんて若いだけが取り柄でしょう。わたしの方がもっと喜ばせてあげられる。どんなことでもできるわよ。地下の売春クラブでアナルセックスにSMまで、ありとあらゆる卑猥なプレイをさせられたんだから」
ぎょっとしてひばりの顔を凝視すると、先ほどまでのふてぶてしさは跡形も無く消え去り、代わりに自虐的に自らを蔑む微笑が浮かんでいた。
「汚れきった体だけど、まだ役に立てる。わたしは渡に償いたいの、好きなようにして」
胸にひばりの体が飛び込んでくる。
突き放すことができなかった。
ひばりを初めて好きだと思った瞬間を思い出した。
封じ込めていた幸せな記憶の数々が、オレの心を揺さぶる。
憎めない。
どうしても、オレはこいつを憎みきれなかった。
「顔と体だけに群がってくる男の相手をするのはもう嫌。どうせ愛がないのなら、渡がいい。好きな人に抱かれる喜びを味わいたいの。お願いだから、わたしを昔のように抱いて……」
涙を流してすがりつく目の前の女を抱きしめていた。
どうしてそうしたのか自分でもわからない。
ただ、体が動いていたんだ。
鳩音ちゃん。
オレは君が好き。
でも、ひばりに対するこの感情はなんだろう。
同情なのか未練なのか、オレはまだひばりに心を残していたことを自覚した。
その場は宥めすかしてひばりを帰した。
直後に携帯が鳴った。
鷹雄からだ。
ここは本社の前だし、窓からでも見ていたんだろうが、ヤツの視力の良さに脱帽する。
『おい、今の女誰だ? てめぇ浮気してんじゃねぇだろうな?』
鳩音ちゃんを泣かすと、雛ちゃんも悲しむ。
そういう理屈で見過ごせないと、鷹雄はオレを問いただしてきた。
「わかったよ、一旦戻って説明する」
通話を切って、本社に戻った。
オレの話を聞いた鷹雄は、女がひばりだったことに驚き、表情を険しく変えた。
「それで、どうするんだよ? 当然、切るよな。まさか未練があるなんて言わないだろうな?」
「未練はない。よりを戻す気もない。だけど……」
言葉を濁して、考え込む。
オレはどうしたいんだろう。
ひばりを好きだったのは、裏切られる前の話だ。
でも、オレはあいつを放っておけない。
このまま縁を切ってしまえば、一生後悔するような気がした。
「ひばりについて調べたいことがある。諜報部に話を通してもらえないか?」
鷲見グループの諜報部は雛ちゃんの身辺調査で実績は折り紙つき。
そこにひばりの身辺と経歴の調査を依頼した。
鷹雄は渋っていたが引き受けて指示を出してくれた。
一週間ほどで結果が送られてきて、オレは報告書を見てため息をついた。
「あの時みたいに嘘だったら良かったのにな」
報告書に記されていたのは、オレと別れてからのひばりの人生。
数年前に両親は借金苦で一家無理心中を図り自殺。
死に切れず一人生き残ったひばりは、病院を退院後に借金取りに身柄を拘束されて風俗店に売り飛ばされた。
その後はホステスをしながら、身売りの毎日。
産婦人科での堕胎の記録まであった。
闇金に無理やり貸し付けられた金の利息は返済不可能なほどの額になっていた。
自己破産等の逃れられる手段さえ知らずに、このままあいつは一生食い物にされるんだ。
心が壊れて死を選ぶのも時間の問題だろう。
オレを裏切り、切り捨てた女の末路は、想像以上に悲惨で壮絶な人生だった。
嘘つきの女のままなら良かったのに。
そうすれば、オレはためらうことなくひばりを切り捨てられた。
知ってしまっては、見てみぬフリができないのがオレの性格だ。
自分でも呆れるほどのお人好しだよ、ホント。
名刺の束の中から、目的の人物のものを取り出して電話をかける。
相手はオレの依頼を快く引き受けてくれた。
これで終わりにしよう。
過去に決着をつける時がきたんだ。
自分の未来のためにも、オレは逃げない。
ひばりとも、鳩音ちゃんとも向き合って答えを出そう。
鳩音ちゃんは、オレに応えてくれるかな。
最後にオレの手を取ってくれるのは君だと信じたい。
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