わたしの黒騎士様

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 母は病弱で、体だけではなく心も弱い人だった。
 跡継ぎを望まれ、決死の覚悟で生んだ子供が女のボクだったことも、彼女の精神を狂わせる要因となった。
 父が傍にいれば穏やかに過ごしているが、父が傍を離れ、少しでも不安を覚えると、人が変わったように叫び声を上げたり、癇癪を起こす。
 癇癪の矛先を向けられるのは大抵ボクで、それ以外の感情を母がボクに向けたことは最後までなかった。

「あなたは男の子なのよ! そうでなければいけないの! どうしてなの、どうしてあなたは望んだ通りに生まれてこなかったの! 私の幸せを壊さないで!」

 ほんのちょっとでも、女物の服や遊びに興味を示すと怒鳴られた。
 怯えるだけの無力な子供に、母は容赦をしなかった。
 止める侍女や執事の制止を振り切り、鞭を使ってボクを打ち据えた。

「何をしている! やめるんだ!」

 騒ぎを聞きつけて父が飛んでくると、母は痛みに呻いて蹲っているボクには目もくれず、泣きながらすがりついていった。

「ああ、あなた! 私を捨てないで、お願いよ!」
「落ち着くんだ、私の妻は君だけだよ。エルマーは君が生んだ男の子だ。私達の立派な息子だよ」

 寄り添い合う両親の姿を見る度に、心は凍り付いていく。
 棘で身を守る植物のように、ボクの心を覆う壁は強固なものに成長した。
 ボクは結局彼らの生活を守るための道具でしかない。
 愛情なんて期待するだけ無駄なこと。
 そう悟った時から、ボクは両親の存在をただそこにあるものとしてしか見なくなった。




 母が亡くなっても、ボクの心は茨に覆われていた。
 一人になった父が意気消沈していても、それまでと変わらない距離を保って暮らしていた。
 父は時々ためらいがちに話しかけてくることがあったが、ボクはまともに返事をしたことはなかった。
 長い歳月をかけて積み重ねられた父への反発は、未だ消えることなく燻り続けている。
 父との生活は、常に重苦しく陰鬱とした空気を伴うものだった。

 懐かない子供との生活に疲れ、寂しさに耐え切れなくなったらしい父は、僅か二年で後妻を迎えた。
 まだ若い義理の母はすぐに妊娠して、男の子が生まれた。
 それがまた、ボクの人生を狂わせた。

 今度は女に戻れと父は言った。
 ボクも本来の性別通りに生きたいとも望んでいたし、弟のためにも承諾した。
 父を嫌っていても、生まれたての赤ん坊にまで怒りをぶつけるほど、物事が見えないわけではない。
 全てがあるべき場所に戻るだけだと納得して、令嬢に必要な教養を学ぶために家庭教師をつけてもらった。

 ところがだ。
 女性的な仕草や作法がどうしても身に着かない。
 教師の指示通りに動こうとしても、体が条件反射で拒絶する。
 亡き母の叱責が飛んでくるような気さえした。
 あなたは男だと、女のマネごとなど許さないと、母に散々怒鳴られ、打たれた記憶が鮮明に思い起こされた。

 一向に成果の出ない生徒に匙を投げて、家庭教師は次々変わった。
 ボクを取り巻く声や視線は、憐れみと嘲り、絶望と嘆きを含んだものばかりになり、その分だけ弟に寄せられる期待は大きくなっていった。
 元々必要だったのは、完全な男の跡継ぎだ。
 男にもなれない、女にもなれない者など、貴族の家には不必要な存在だった。

 五人目の家庭教師が辞めた時、父は落胆を露わにしてボクに言った。

「お前はもうすぐ十六になる、社交界デビューには遅すぎるぐらいだ。この分だと嫁ぎ先も見つからぬかもしれん。もう少し真面目に身を入れて修練に励むんだ」

 あまりにも無神経で身勝手な父の物言いに、長年抱いていた不満と怒りが爆発した。
 血が逆流するかのごとく沸き起こった激情が心を支配し、気がつけば、手を上げていた。

 手の平に熱い衝撃が走った。
 父の頬が真っ赤に染まって痛々しく腫れていく。

「勝手なことばかり言うな! ボクだって、好きでこの家に生まれたわけじゃない! そっちの都合で生んだくせに、勝手に期待されて裏切ったなんて言われて、もうたくさんだ! ボクのことなんか放っておけばいい!、あなたの望み通り、あの子が跡継ぎになれれば満足なんだろう! ボクはもうここにいる必要がないんだから出て行く! 二度と帰ってくるものか!」

 果てしない憎悪を父に向け、怒鳴り散らした。
 父はうろたえ、何一つ言葉を発することができない様子だった。
 失望しか抱くことができなかった。

 ボクはその足で部屋に向かい、荷物をまとめた。
 ちょうど王都で騎士団員の募集が始まったことを知っていたんだ。
 重いドレスを脱ぎ去り、今まで来ていた男物の服に着換える。

 家を出る間際に、家出に気づいた義母が止めにきたが、振り切って馬に乗り、王都に向かった。
 当面の生活費と入団試験の費用は、部屋にあった宝石類を根こそぎ持ち出し、売り飛ばして作った。
 幸いなことに試験には合格。
 王都にて、ボクは新たな生活を始めることになった。




 白騎士団を選んだ理由は特にない。
 強いて挙げるなら貴族が多いと聞いたからだろうか。
 予想はしていたけど周囲は男ばかりで、寮も一人部屋となり、知り合いもいないボクは、大抵一人で過ごしていた。

 入団して間もなく、人気のない廊下で、副団長のオスカー様に呼び止められた。

「お前、女だろ?」

 脈絡もなく、彼はそう問いかけてきた。
 単純明快な問いかけのはずなのに、ボクは答えをためらった。

 男か女か、どちらとも言えなかった。
 どっちにしても中途半端で、ボクはどちらにもなれなかったんだ。

「……一応、そうです」

 ためらった後、渋々認めた。
 オスカー様は面倒くさそうにため息をついて頭を掻いた。

「なんだ一応ってのは。とにかく、なんかあったら医務室に行け。担当の医者には話を通してある。見ての通り、騎士団には野郎しかいねぇ、お前は例外だ。一人部屋にしたのは面倒を避けるためだ。それ以外では他の従騎士と区別する気はない」
「わかっています。性別を理由に特別扱いしてもらおうなんて、最初から思っていません」

 口に出してから、かなり反抗的な態度をとってしまったことに気がついた。
 オスカー様は不機嫌に眉を寄せてボクを見下ろした。

「わかってんならいい。従騎士の指導管理はオレの仕事の一つだ。余計な面倒かけんじゃねぇぞ」

 かわいくねぇと呟いて、オスカー様は立ち去った。

 かわいくないか。
 当たり前だ。
 ボクは甘え方を知らない。
 泣いても誰も慰めてくれなかったから、いつしか必要以上に棘を巻きつけて威嚇することを覚えてしまった。
 強がることで、ボクは自分を守ってきたんだ。




 従騎士となって一ヶ月。
 同期で入団してきた者達も、日々の勤めや修練に音を上げて数を半分に減らし、それと同時に結束も強まりつつある。
 仲の良い者同士が集まるグループも幾つかできていたが、ボクはどこにも入れなくて一人でいた。

「エルマー、今夜夕食の後でオレの部屋に集まるんだけど、君もこないか?」

 たまに世話好きな者が声をかけてくれることもある。
 アイザック=ゴードンはその筆頭だ。
 年は十七と聞いているが、少年の域はとっくに通り過ぎて、大人の逞しさを併せ持つ体格を有している。
 貴族でありながら口調はざっくばらんで、名家の出であることを驕らない謙虚さが表情にも表れており、気さくな好青年という印象を見る者に与える。
 寮でも隣同士の部屋だからか、言葉を交わす機会は多い。

 彼の誘いを聞いてそちらに目をやれば、彼と同様に体格の良い男達が集まって和気藹々と話していた。
 彼らにはボクの気持ちは理解できないだろう。
 男に対しても、女に対しても、ボクは激しい劣等感と疎外感を持っている。
 どちらにもなれないボクは、どこにも居場所がない。
 男の彼らとは、どこまでいっても相容れないような気がした。

「ごめん、疲れてるから早く休みたいんだ。また今度誘って」

 断って、すぐにその場を離れる。
 彼らの反応を見ることもしなかった。

 きっと良い印象はもたれていない。
 こうしてボクはここでも一人でいるんだろう。
 いつものことだから、別にいいや。

 ボクが男だったら、ためらいなく彼らの輪の中に入っていけたのかもしれない。
 でも、だめだ。

 どんなに体を鍛えても、成長するごとに起きる体の変化は嫌でもボクが女であることを自覚させる。
 年を追うごとに膨らんでいく胸がその象徴。
 こんなものいらないのに。
 女として生きられない、男としても永遠に未完成。
 もう嫌だ。
 消えたい。
 どうしてボクは生まれてきたんだろう。




 投げやりな気持ちで過ごす日々の中、彼と出会った。
 白騎士団最強と呼ばれる一級騎士アーサー=メイスン。
 過去の戦績や武勇伝と一緒に、変な噂も耳に入ってくる。
 男女問わず手を出すプレイボーイ。
 騎士団の中にも恋人が数人いるそうで、敷地の中でキスをしていたとか、寮の自室に恋人を連れ込んで情事に耽っているとか、下世話な話題に事欠かない人でもあった。
 確かに容姿は整っている。
 高身長の上、筋肉質な体は、容貌のせいでか他の人よりは幾分かスマートな印象を受ける。
 男性なのに長く伸ばされたプラチナブロンドの髪は清潔感があってサラサラしている。
 青い瞳には穏やかさと強さを秘めた光が宿り、常に自信を湛えている。
 とても綺麗な人だけど、ボクが彼に惹かれたのは姿形ではない。
 かけられた言葉に救いを見出したからだ。




 修練の合間の休憩時間。
 一人で隠れるように木陰にいたボクに、偶然通りすがったアーサー様が話しかけてきた。

「君はいつも一人でいるね。仲のいい友達はできたかな?」

 最初はなんてお節介な人だと煩わしさが込み上げてきた。
 苛立って返事をしないボクを見て、彼は隣に腰を下ろした。

「今後も騎士団で生活していくなら、仲間とのコミュニケーションは大切だ。人付き合いが苦手なら仕方がない部分もあるけど、少しずつでもいいから輪の中に入る努力をしなくちゃいけない」

 どうやらボクは問題児として認識されているらしい。
 集団生活を送る騎士団の中で、孤立している者がいれば、いざという時に統率が乱れるからだ。
 アーサー様は団長か副団長に頼まれて、様子を見に来たんだろうか。

「ご心配には及びません。それなりにうまくやっているつもりです。仕事に支障をきたすようなことはありません」

 仲良くなくても、必要なことは話すことができる。
 それでいいじゃないか。

「私が心配しているのは騎士団のことじゃない、君のことだよ。君が他人に近づこうとしないのは、何か理由があるんだろう?」

 アーサー様の言葉に、びっくりして顔を向けた。
 彼は穏やかに微笑んで、ボクの頭を撫でた。

「私でよければ相談に乗るよ。だけど、言い難いことなら無理に言わなくてもいいからね」

 人に頭を撫でてもらったのは初めてだった。
 父もボクには必要以上に近寄らなかった。
 普通の親子なら当たり前にするはずの抱っこや肩車も、何一つしてもらった記憶がない。
 アーサー様の大きな手に撫でられていると、長く渇いていた何かが満たされていくような気がした。

「ボクは不完全なんです。近くにいれば、みんなにもそれがわかる。違うものは排除したくなるのが人間の心理でしょう? だからボクは一人がいいんです」

 性別のことは言わなかったけど、アーサー様は意味を問い詰めはしなかった。
 代わりに優しい言葉が返ってくる。

「人と違うことがそんなにいけないことだろうか。私も周りから変わっているとか、理解できないとよく言われる。でもね、難しく考えてたら前には進めない。行き詰った時は肩の力を抜いて自分らしく生きればいい。君は何も周りと違ってやしない。こうして言葉も通じるし、悩んだり、喜んだりできる感情があるんだ。みんなと同じところは必ずあるはずだ」

 ぽんぽん慰めるみたいに背中を叩かれた。
 隣にある存在が温かくて心地いい。
 性別のことも、この人の前ではすごく些細なことに思えた。
 ボクはボクでいればいいんだ。
 アーサー様の言葉が長年ボクを縛り付けていた鎖を解いてくれた。

「周りに気をとられて自分を見失わないようにね。頑張れば頑張った分だけ必ず何かが返って来る。君が動けば、周りの景色も変わってくるよ」

 話し終えたのか、アーサー様が立ち上がった。
 もう一度、頭を撫でてくれたけど、ボクは何も言えなかった。

「余計なことを言ったかな。でもせっかくだから、少しだけでも気に留めておいてね」

 余計なことじゃないって言いたかった。
 でも、顔を上げて彼の顔を見たら涙が出来てきそうで、俯いたままじっとしていた。

 気配が遠ざかっていく。
 どうして一言でもお礼が言えなかったんだろう。
 ボクはこの時素直になれなかったことを、後で死ぬほど後悔することになる。




 アーサー様の助言を受けて、ボクは従騎士仲間の輪の中に、進んで入っていくようになった。
 話しかけてみると、意外にみんな親切で、ルームメイトがいないボクを気にしてか、以前にも増して何かと声をかけてくれるようになった。
 食堂でご飯を食べる時も、前は隅の席でひっそり食べていたのに、なぜか毎回真ん中の席を勧められて座っている。

「エルマー、次の修練での手合わせはオレとやろうな」
「ああ、いいよ」

 隣の席にいた少年に誘われて、快く頷く。
 彼はとても嬉しそうだ。
 その途端、周りの従騎士が騒ぎ出した。

「くそ! 先を越された! エルマー、その次は私と一緒にやろう!」
「お前達、協定を破る気か! 抜け駆けは無しの約束だぞ!」

 なぜみんなボクと組みたがるんだろう?
 体が小さいから弱いと思われているのか?
 でも、そういう雰囲気とも違うようだ。
 それに上級騎士達の選定の目は厳しい。
 ボクと手合わせをして勝ったところで、彼らの評価がそれほど上がるわけじゃない。
 女より男の心理の方がわかるつもりだったけど、ボクには彼らの気持ちがよくわからなかった。

「まったく、人間の欲は際限がないな。少し近づくことができれば、もっともっとと欲張りになるんだ」

 ボクの向かいにいたアイザックが、彼らの争う姿を見てか苦笑した。

「欲って?」

 ボクの問いに、彼は浮かべた苦笑をこちらに向けた。

「周囲の好意に全然気づいていない君も凄いな。みんな、入団当時からエルマーが気になっていたんだ。やっと打ち解けてくれるようになったから嬉しくて浮かれているんだよ。もちろん、オレもその一人だけど」
「どうして、ボクなんかと……」

 みんながボクと仲良くなりたがっていたなんて信じられない。

「どうしてって言われると困るけど、一人で離れている君は何となく寂しそうでさ。放っておけない空気があって、つい声をかけてたな」
「ボク、本当は仲間に入りたかったんだ。でも、変に意識して入れなくて……。だけど、アーサー様が大丈夫って言ってくれたから、勇気を出すことができたんだ」

 アーサー様の名前を口にした途端、辺りが一瞬で静まり返った。
 ハッとして周囲を見回すと、みんな呆然とした顔でボクに注目していた。
 かと思えば、彼らは一斉に落胆のため息をついた。

「そうか、アーサー様か……」
「仕方ないよな。オレ達があの人と張り合えるわけがない」

 なんだろう?
 ボク、何か変なこと言った?
 不安になってアイザックに視線を向けると、彼は肩をすくめた。

「気にしないでくれ。みんないきなりの強敵の出現に、戦う前から戦意を喪失しただけだ」
「はぁ……?」

 説明を聞いてもよくわからない。
 強敵ってアーサー様のことなのか?
 敵わないのはわかるけど、どうしてそんな話になったのか、ボクにはさっぱりわからなかった。




 アーサー様と話す機会はなかなか廻ってこなかった。
 一級騎士に稽古をつけてもらう日も、彼の指導を求める従騎士が多くて近づけない。
 遠くからこっそり見つめるだけの日々。
 話しかけてもらえないのは、あの日ボクが何も言わなかったせいだとはわかっている。
 嫌われたのかな。
 できることならもう一度、あの人に頭を撫でてもらいたかった。

 そんな時、キャロル=フランクリンの噂を聞いた。
 アーサー様が気に入った従騎士。
 天使みたいだとか、すごくかわいいとか、彼が笑顔で話しているのを偶然聞いて、ボクの心にどす黒い嫉妬の炎が燃え上がった。

「見てみろよ。あいつだよ、アーサー様のお気に入り」
「キャロルだっけ? ああ、確かにかわいいな」

 敷地の草むしりに勤しんでいると、通用門を挟んだ鉄柵の向こうで、黒騎士団の従騎士達も草むしりを始めた。
 こちらの従騎士の中にキャロルを見知っていた者がいたらしく、向こうに聞こえない程度の小声で会話が交わされていた。
 ボクは急いで噂で聞いた容姿を頼りに、キャロルの姿を探した。
 そして衝撃を受ける。
 天使と例えてもまったく遜色がない、金髪碧眼の愛らしい容姿。表情は天真爛漫といっても良いほど無垢で輝いており、嫌味なところが少しもない。
 何より、キャロルが女であることが、ボクの劣等感を大いに刺激した。
 他の者は気づいていなかったが、同じ境遇のボクにはわかった。
 女特有の体つきは、そうそう衣服でごまかせるものじゃない。

 さらに間の悪いことに、アーサー様が黒騎士団の敷地からこちらに向かって歩いてきた。
 彼はキャロルに嬉々として話しかけ、遠慮なく抱きしめた。

 ぶちっ。

 手にしていた雑草を力任せに引っこ抜く。

「アーサー様、やめてください! セクハラで訴えますよ!」
「そんなこと言わないでよ。ああ、キャロルはかわいいな、怒った顔もかわいい!」
「ぎゃー!」

 ぶちぶちぶちっ。

 向こうから聞こえてくる声に嫉妬心を煽られ、イライラをぶつけるように草をむしっていく。
 ボクはちっとも構ってもらえないのに、どうしてあいつだけ!
 神様はとことん不公平だ!

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