憎しみの檻

アシル編・5

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 レリアの傷は心臓には達しておらず、命は助かった。
 だが、大量の出血で生死の境をさまよい、失った意識はなかなか戻ってこなかった。
 オレは離れることなく傍にいた。
 レリアの目が開くまでは何もできそうになかった。

 ノックの音がして扉が開いた。
 入ってきたのは、エリーヌ姫だった。
 泣き腫らした目をして、彼女はオレを睨んだ。

「あなたはレリアに何をしたの? どうして止めてくれなかったの? なぜ、レリアが死ななくちゃいけないの?」

 まだ動揺しているのか、彼女は激しくオレに詰め寄った。
 怒りに燃える瞳が、一転して弱く緩み、涙がボロボロ零れ落ちてくる。

「わたしのせいなの? わたしが裏切ったから、レリアは死のうとしたの? ねえ、教えて。わたしはどうすれば良かったの? こんなことになるなら、今まで通りに黙っていれば良かった……」

 レリアが眠る寝台にすがりつくように寄りかかり、姫はしゃくりあげた。

「死ぬのはオレのはずだった。なのに、レリアは殺さなかった。それどころか最後にオレを見て笑ったんだ。こっちこそ聞きたい、オレは憎まれていたんじゃなかったのか? 許せないほどの憎悪を植えつけてきたのに、こいつはなぜオレを許したんだ」

 部屋に静寂が訪れ、レリアの寝息だけが微かに聞こえる。
 息をしている。
 それだけが救いであり、希望でもあった。

 長い沈黙の後、エリーヌ姫が呟くように声を発した。

「レリアはあなたが好きだったのよ」

 落ち着きが戻ってきたのか、姫は顔を上げてレリアを見つめた。

「あなたがレリアにどんな酷いことをしたのかは知らない。それでも、好きになる何かがあったのでしょう。だからこそ、彼女はあなたの命を奪うより、自分の命を奪うことを選んだ」

 視線はレリアに向けたまま、姫はオレの疑問に答えをくれた。

「わたしの恋を認められなかったように、自分の恋も認められなかったのね。何も気づいてあげられなくてごめんなさい。わたしはあなたに甘えてばかりで、肝心な時に支えになれなかった」

 姫はレリアに労わりの声をかけて、頬を撫でた。
 その時、閉じられていたレリアの瞼がぴくりと動いた。
 徐々に開かれていく目に、オレ達は歓喜した。

「レリア!」
「目が覚めたのね、良かった!」

 目が開いても反応が薄いことに不安になった。
 レリアは考え事でもしているのか、オレ達の顔をじっと見つめている。

「レリア、どうした? オレがわかるか?」

 たまらず問いかけた。
 次にレリアの口から驚くべき問いが投げ掛けられて、オレも姫も驚きで目を見張った。

「……あなた、誰?」

 目覚めたレリアは、戦争が起こる前までの記憶しか持っていなかった。




 戦争が起こる前、正確には十二才のある日、城に奉公に上がる直前までの記憶が、レリアが持つ一番新しい記憶だった。
 誰が説明しても、レリアはなかなか納得しなかった。
 十数年もの時が経ち、故国が戦に負けて滅び、家族も亡くなっていたなんて信じたくもなかったんだろう。

 オレは仕事が終わると、まっすぐ殿下の屋敷に行く。
 毎日欠かさず通い、朝まで留まった。
 一秒でもレリアの傍にいてやりたかったからだ。

 今日も訪ねていくと、部屋の中から錯乱したレリアの声が聞こえた。

「もうやだ! 家に帰して! お母様はどこにいるの!?」
「落ち着いてちょうだい。あなたはもう大人なの、自分の体を見れば、みんなの言っていることが本当だってわかるでしょう?」

 世話をしている屋敷の侍女が困った様子で宥めている。
 レリアはますます泣き叫んだ。

「こんなのわたしじゃない! 何で知らない場所に一人でいるの? 怖いよぉ……」

 ドアを開けて、中に飛び込んだ。
 泣いているレリアを抱きしめると、驚いたのか泣き止んだ。

「お前は一人じゃない、オレが傍にいる。だから我慢しろ、何があってもオレが守る」
「アシル……」

 これでも最初は警戒心を剥き出しにされたものだが、四六時中一緒にいるうちに、次第に心を許してくれた。
 レリアは信頼しきった目でオレを見つめ、抱きついてきた。

「一人でいるの嫌。一緒にいて」
「今日も朝まで一緒にいるから安心しろ」

 侍女に目配せして出て行ってもらった。
 レリアを寝台に寝かせて掛け布を引き上げた。

「傷はまだ治っていないんだ。おとなしく寝てろ」
「アシルも入って、ここにいて」

 不安そうにねだられては断ることもできず、隣に入って寝転がった。
 体は大人でも、レリアの心は子供のものだ。
 手を出すわけにもいかず、紳士に徹して添い寝をする。
 レリアはオレに寄り添って、ぐっすり眠った。




 レリアは次第に現実を受け入れ始めた。
 エリーヌ姫もできる限り傍にいて、根気よく話しかけていたこともあり、不安は薄らいで、この先のことを考える余裕ができたようだった。

「ねえ、アシルはわたしとどんな知り合いだったの? 友達?」

 余裕ができてくると、当たり前だが、レリアはオレ達の関係を知りたがった。
 オレは答えることができなかった。
 言葉を濁して、答えを渋っているうちに、周りが教えたらしかった。
 恋人であったという偽りの関係を。

 オレは否定も肯定もしなかったし、レリアも確認しようとはしなかった。
 傍にオレを置いてくれるなら、関係なんてどうでも良かった。

 神はオレに贖罪の機会を与えてくれた。
 レリアの憎しみを消し去り、もう一度人生をやり直すことを許されたのだ。




 傷の癒えたレリアは、以前のようにエリーヌ姫の侍女として働き始めた。
 大人の容姿と相反する言動の幼さで、初めて会った人間は大抵驚くが、古くから彼女を知る者は、その変わりようを好意的にとらえていた。

 以前は用事がない限りはほとんど人前に姿を見せなかったが、今は一日中屋敷の中を駆け回り、訪問者がいても臆することなく出てくる。
 本来の仕事に加え、人手が足りない時は率先して屋敷内の仕事を手伝っているせいだ。
 おかげで屋敷のエントランスは用もないのに顔を見せにくる騎士団員で絶えない。
 今日もオレが訪問すると、常連となった騎士達があいつの登場を待ち構えていた。

「みなさん、お茶が入りました。今日はお菓子がついてますよ」

 ワゴンにたくさんのカップと焼き菓子を乗せて、レリアがやってきた。
 顔には満面の笑みが浮かんでいる。
 男共は歓声を上げて、レリアを囲んだ。

「ありがとう、レリアさん。ご馳走になります」
「マドレーヌだね。もしかして、自分で作ったの?」
「はい、初めてですけど、うまくできたでしょう?」

 愛想よく笑い、レリアは騎士達に菓子と紅茶を配っていった。
 冷たい無愛想顔がトレードマークだった女が、天真爛漫な笑顔を持つ、気さくで朗らかな女に変貌したのだ。
 そのギャップにやられた連中が数多くいて、記憶を失ったことで、オレとの仲も白紙になったと噂が流れて、こうしてライバル候補が増えてしまった。
 下手なことをすれば、オレに潰されるのは目に見えているので、誰もがこうして熱心に顔を出し、正攻法でのアプローチに精を出しているわけだが……。

「アシルにはね、一番綺麗にできたのとっておいたの。お部屋にあるから、一緒に食べよう」

 レリアはオレの腕に抱きつき、ぽかんとこちらを見ている連中に頭を下げて、引っ張っていく。
 最後には、こうしてオレが特別だと見せ付けることになるので、この騒ぎもじきに落ち着くだろう。




 オレを部屋に入れると、レリアは思い出したと手を打って、机の引き出しを開けた。

「これだけ宝石箱じゃなくて、引き出しに入ってたの。わたしのかな? アシル、知らない?」

 レリアが差し出したのは、オレが贈ったアンクレットだった。
 きちんと箱に収められた状態でしまわれていたらしい。

 捨てたんじゃなかったのか?
 信じられない思いで、渡されたそれを手に乗せた。

 一度捨てたこれを、レリアはどんな気持ちで拾い上げたんだろう。
 あの頃には、オレのことを少しは好きでいてくれたんだろうか。

「これはオレがお前にやったものだ。一度も着けてはもらえなかったけどな」

 オレがそう言うと、レリアは首を傾げた。

「何でかなぁ? せっかくアシルがくれたのに。あ、そうか。失くすと嫌だから、大切にしまっておいたんだね」

 納得した表情で笑うと、レリアは靴と靴下を脱ぎ、素足を晒した。

「着けてみたい。貸して」

 オレの手からアンクレットを受け取り、嬉々として着ける。
 買った時の想像通り、それはレリアの足によく似合っていた。

「ねえ、似合う?」
「ああ、よく似合ってる」

 褒めると、レリアはにっこり笑った。

「これに合うドレスと靴が欲しいな。舞踏会にも行ってみたい」

 社交界への憧れを語る彼女の瞳には 憎悪も悲しみも存在していない。
 レリアの記憶は幸せだった少女時代まで巻き戻されてしまった。
 憎しみの源となった記憶を全て忘れてしまったからこそ、レリアは笑っていられるんだ。

「しょうがねぇな。買ってやるから仕立て屋に注文出しとけ。ドレスが出来上がるまでダンスの特訓だ。舞踏会に行くなら、きっちり練習しとかねぇと恥かくからな」
「連れてってくれるの? アシル、大好き!」

 抱きついてきたレリアを受け止めて、腰を抱えて持ち上げた。

「おう、お前の願いなら何でも叶えてやる。だから、いつでも笑っていてくれ」
「うん。あのね、他のお願いはいいから、一つだけ叶えて。ずっとわたしの傍にいて愛してね。アシルが傍にいてくれるなら、わたしは幸せでいられるわ」

 嬉しい言葉だが、オレには受け取る資格はない。
 オレがお前から奪ったものは多すぎて、返してやることもできない。
 その代わり、取り戻すことができたこの笑顔だけは、何があっても失わせない。

「オレは永遠にお前のものだよ。死ぬまでレリアを愛してる。何も不安に思わなくていい、オレはお前を幸せにするために生きているんだ」

 消えるはずだったオレの命を、生かしたのはお前だ。
 もう求めることはしない。
 レリアが望むだけのものを与え、守るために生きる。
 オレの命はレリアのものだ。
 これからもずっと、この命が尽きるまで、オレはお前の傍にいる。


 END

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