憎しみの檻

幸福な日々・1

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(side レリア)

 ある朝、目覚めてみれば、そこは十数年後の世界だった。
 体も同じく成長していて、状況を受け入れるのにかなりの日数を要した。
 記憶を失くした間に、今わたしがいるアーテスと故国ネレシアとの間で戦争が起きて、全てが変わっていた。
 状況だけみれば、アーテスはネレシアの仇だ。でも、父と兄がその戦いで戦死したと聞いても実感が湧かない。
 全てが知らない場所で起きた嵐のようで、結果として家族を失ったとしか思えない。
 心を支配したのは喪失の悲しみだけだ。
 いつも傍にいた人々がいない。
 一人だけ取り残された恐怖と絶望で、わたしの精神は一気に不安定になった。

 泣き喚き、取り乱すわたしを、エリーヌ様とアシルが支えてくれた。
 二人がいなければ、孤独に耐え切れずに死んでいただろう。
 受け止めてくれる人達の存在が、わたしに生きる希望を与えた。

「レリア」

 わたしの名前を呼んで現れたアシルに笑顔を向ける。
 一日の務めを終えたアシルは家には帰らずに、わたしがいるフェルナン様のお屋敷にやってくる。
 目覚めたばかりの頃よりは落ち着いたとはいえ、情緒不安定で一人で眠れないわたしのために、毎晩泊まっていってくれるのだ。

 夜中に目が覚めた時、自分の存在がひどく希薄なものに思えて怖くなる。
 そんな時、アシルの温もりがあると安心する。
 抱きしめられても嫌悪感はなく、とても自然だった。
 きっと体が覚えているんだろうと思う。
 記憶を失う前、わたしと彼は恋人同士だったらしいから。




 今夜はなかなか寝付けなくて、わたしはアシルの腕に抱きついた。
 頼りがいのある大きな体に触れていると、お兄様を思い出す。
 年の離れたお兄様は、夜の闇が怖いと泣く幼いわたしを、よくベッドに入れてくれた。
 でも、お兄様はもういない。
 二度と会うことができない。
 寂しくて悲しくなって、アシルに強くしがみついた。

 その途端、アシルが焦ったような声を出した。

「おい、こら。ちょっと離れろ」
「どうして? こうしてると安心するのに」

 さらに腕を抱きこむと、アシルは唸った。
 何か我慢しているみたい。

「頼むから離せ、急用だ。すぐ戻ってくる」
「やだ、一人にしないで!」
「少しの間だけだ! これ以上、我慢できねぇって!」
「絶対だよ、すぐ戻ってきてね」

 渋々腕を離すと、アシルは飛び起きて部屋を出て行った。
 何があったんだろう?
 もしかして、トイレかな。
 寝る前にちゃんと済ませておかないからだよ。

 小さい子供じゃないんだから、寝ている間にシーツに地図を描いたら大変だしねと、ちょっぴり呆れながら、アシルの温もりが残る寝具に包まる。
 ほかほか温かくて気持ちいい。
 安心して、いつの間にか、うとうと眠り始めていた。




(side アシル)

 レリアは無防備だ。
 内面十二才、外見二十代半ばの女は、自分の体が男の欲望を煽ることをまったく自覚していない。
 しかも、記憶では兄貴に添い寝を最近までしてもらっていたらしく、それと同じ感覚でオレに抱きついてきやがる。
 腕に豊満な胸の膨らみを押し付けられ、顔を近づけられては理性も崩壊寸前、下半身は反応しまくりのやばい状態に陥った。
 これは何の拷問だ?
 レリアに再度、悪夢のごとき初体験をさせるわけにもいかず、湧き起こる性欲を必死で押さえ込んだ。
 すがるレリアをごまかして部屋を抜け出し、庭を走りまわって昂りを鎮めた。

 レリアの自害が未遂に終わった後、オレは付き合いのあった女全員と手を切った。
 娼婦は買わねばいいだけのことだが、遊び相手だった貴族の女達には一言断りを入れておくべきかと声をかけた。
 元々、女達は多くの情人を持つ恋多き人妻ばかりだったので、二度と誘いには乗らないと告げたオレに対しての反応はまったく同じ。「あらそう、残念ね」と、どの女もそれに似たセリフを呟き、言葉ほどには惜しんでいないのが丸分かりのあっさりとしたものだった。

 そういうわけで性欲は自分で発散するしかない。
 レリアはあの通り、無意識に挑発してくるので地獄だが、これも贖罪の一つだと思い、我慢している。




 落ち着いたので部屋に戻ると、レリアはすでに寝入っていた。
 すやすや気持ち良さそうな寝息を立てて、夢の中を彷徨っている。

「おい……」

 気が抜けて寝台に腰掛け、レリアの寝顔を見つめた。
 初めて会った時から強張って硬い表情ばかりだった女の顔は、別人のように優しく穏やかになっていた。

 エリーヌ姫に言わせれば、これが本来のレリアなのだ。
 戦争がこいつから笑顔を奪い、この国においては、周囲に気を許すことなく冷徹に物事を見て強くあることを己に科した。
 オレが見てきたレリアは、心を幾重にも覆い隠す鎧を着込んだ女だった。
 記憶がなくなることで、その鎧はなくなった。
 初めて素のレリアに触れて、ますます愛しさが募った。
 幸せにしたい。
 この無垢な笑顔を守りたいと強く願った。

「……お母様、猫が……」

 何の夢を見ているのか、レリアが意味不明な寝言を呟いた。
 寝返りをうって転がった拍子に、掛け布がずれる。
 寝乱れた夜着の襟元が大きく開いて、胸の谷間がちらりと覗く。
 柔らかそうな肌と膨らみが、オレの理性を試すべく妖しく誘いかけてくる。

 ちくしょう、負けねぇ。
 レリアのためだ。
 今度こそ、オレはこいつを幸せにするんだ。

 体を見ないように掛け布を直して、オレも寝台に寝転がった。
 レリアに背中を向けて目を瞑る。
 しばらくすると、背中に温かくて柔らかい感触が抱きついてくる気配がした。

「……ん……ううん……」

 吐く息が妙に色っぽく、布越しに背中をくすぐってくる。
 頬や胸などの柔らかい部位がぴったりとくっついてきて、ぐりぐりとすり寄せられた。

 寝てるんだよな?
 わざとじゃねぇよな?
 もしかして記憶はとっくの昔に戻っていて、オレが性欲を我慢して身悶えてる様を楽しんでいるとか?

 疑心暗鬼に陥りつつ、寝返りを打って向かい合う。
 レリアはさらに近寄ってきて、オレの胸元に転がってきた。
 背中に腕をまわして抱き寄せ、腕枕をして包み込む。

 記憶が戻っていてもいいか。
 レリアがオレに与える罰なら喜んで受け入れよう。

 ……だが、差し当たって受けているこの罰は、想像以上にきつかった……。




(side レリア)

 アシルが遊びに行こうと誘ってくれたので、エリーヌ様にお休みをもらった。
 わたしの部屋にあった外出用の衣服は、未婚の令嬢に付き添う貴婦人が着るような地味なものばかりだったので、アシルがドレスを用意してくれた。
 貴族の女性が身に着けられる最高級の赤い布で作られたドレスは、ウエストのラインを強調して大人っぽさを演出しながら、露出を極力抑えて各所にフリルとリボンを配置した可愛らしさも併せ持つ素敵なデザインだった。
 ドレスに合わせたネックレスやブレスレットも用意されていて、わたしは嬉しくてはしゃいだ。
 支度を終えて、アシルが迎えに来るのを待っている間、鏡の前に立ってくるくるまわった。

「こんな格好するの初めて! アシル、なんて言うかな」

 ネレシアでは十三を越えた頃ぐらいにやっと社交の場に出してもらえるから、十二のわたしは高価なドレスを持っていなかった。
 一年かけて念入りに準備しましょうってお母様がデザイン画をいっぱい持ってきて、二人で選んでいたことを思い出した。

 どんなドレスが出来上がったのかな。
 わたしのエスコート役を自分がするんだと言って、一年も後の話なのに揉めていたお父様とお兄様。
 結局、会場に連れていってくれたのはどっちだったんだろうね。それとも、戦争が起きたからそれどころじゃなかったのかな。
 大事な思い出なのに、どうして覚えてないの。
 色々考えていたら、涙が出てきた。

 感情が抑え切れなくなって泣いていたら、アシルが駆け込んできた。

「レリア、どうした!」

 部屋の前まできたら、泣き声が漏れ聞こえてきたらしい。
 アシルは服が汚れるのも構わず、わたしを力一杯抱きしめた。
 涙と鼻水で崩れたお化粧が服について酷いことになってるのに、アシルは全然気にする素振りを見せなかった。

「どこか痛いのか? それとも、誰かに嫌なことでも言われたのか?」
「違うよ、思い出せないから悲しいの」

 ドレスを見ていて、家族との思い出が思い出せないと正直に言った。
 アシルは急かすこともなく黙って聞いていた。
 たくさん泣いていいんだと、頭を撫でて慰めてくれた。

「いつか思い出せるかもしれねぇし、そんなに落ち込むな。それに思い出せなくても、お前が泣くよりは、新しいドレス着て笑っている方が親も兄貴も喜ぶだろうぜ」

 気休めの言葉だとしても、わたしもそう思った。
 泣いていたら、三人とも心配する。
 目元を擦って、アシルに笑いかけた。
 アシルもホッとした顔になり、苦笑いを浮かべた。

「あーあ、せっかくの化粧がぐちゃぐちゃじゃねーか。オレも着換えてくるから、その間にやり直しておけよ」
「うん!」




 再びアシルが部屋を出て行き、わたしはお化粧を直してもらうべく、侍女仲間が集まる部屋に向かった。
 彼女達は涙で崩れたお化粧を見て驚いていたけど、わたしが突然泣くのはいつものことなので、特に理由を問うこともなく、快く化粧直しをしてくれた。
 洗顔で崩れた化粧を全て洗い流し、一から肌を整えられていく。
 化粧をしてくれていた女性が、にっこり笑って話しかけてきた。

「今日はアシル様とデートなんですね。楽しんできてください」
「はい」

 侍女仲間には、わたしより年下の人もいるけど、精神的にはわたしが一番年下になる。
 今、お化粧を直してくれている人は、十九才。
 本来ならわたしの方が年上なんだけど、今のわたしから見るとすごく大人に見える。

 そういえば、最初に世話を焼いてくれていたのは、年上の人達ばかりで、若い人達はあんまり話しかけてくれなかったな。
 傷が治って働き始めの時も、雰囲気がよそよそしくて敬遠されているみたいだった。

「以前のレリアさんじゃ考えられませんでしたよ。こうしてお化粧を直してって人に頼みに来るなんて」

 苦笑して呟いた彼女の言葉に、部屋にいた全員が頷いた。
 わ、わたしってどんな人だったの?
 今の話だけでも、あまり感じの良い人じゃないよね。
 知らないわたしの所業を想像して青くなったけど、一番年上の女性が手を振って「気にしないで」とフォローを入れてくれた。

「以前のあなたも悪い人じゃなかったのよ。愛想がなくて冷たい雰囲気を持っていたけど、誰かが困っていたらすぐに手を差し出してくれるような世話焼きさんでね。戦争のことがあったから、私達と仲良くなろうとはしなかったけど、この屋敷に勤めている人間は誰もあなたを嫌ってはいなかったわ」

 記憶を失う前のわたしは、滅多に笑うことがなかったと彼女達は言った。
 唯一笑うのは、エリーヌ様の前でだけだったという。
 アシルの前でも笑わなかったの?
 そう聞いてみたけど、誰にもわからなかった。
 本人に聞いてみるしかないようだ。




 準備が整い、アシルに連れられて屋敷の外に出た。
 玄関前には二頭立ての馬車が止まっていて、御者さんが客車のドアを開けて迎えてくれた。
 馬車はアシルの家の物だそうだ。
 手を引かれて乗り込み、アシルと並んで席に落ち着くと、馬車は走りだした。

「馬車を持ってるなんてすごいね。アシルの家ってお金持ち?」
「親父は陛下の側近だからな。兄貴達も王宮内でそれなりの地位についてるし、金には昔から不自由してねぇな」

 ロートレック家は、古い歴史を持つ名門貴族。
 数代前の当主の時代には王家の姫を花嫁に迎えたこともある、現在でも権勢を誇る一族なのだとアシルは話してくれた。

「オレは末っ子で上には兄貴が三人いるんだ。家の跡継ぐ必要もねぇし、身軽なもんさ。いずれ第一王子殿下が即位なされれば、フェルナン様は公爵位と領地を賜わり、王都を出られる。オレも兄貴が全員死にでもしない限り、殿下についていくつもりだ」

 わたしはエリーヌ様の侍女だから、当然フェルナン様についていくことになる。
 アシルと離れなくてもいいんだ。
 嬉しくなって彼の腕に抱きついた。

「それなら、ずっと一緒にいられるね」
「ああ、そうだな」

 先のことなんて、今はまだ考えられないけど、アシルと離れないでいられると知って安心した。

「あ、ねえ、アシル」
「ん?」

 腕に抱きついた手を離して、アシルを見上げた。

「記憶を失う前のわたし、アシルの前で笑ってた?」

 問いかけると、微笑んでいたアシルの顔が強張った。
 その反応で、聞かなくても答えがわかってしまった。
 わたしは笑っていなかったのだ。

「変なこと聞いてごめんね。もういいよ」

 アシルから目を逸らして前を向く。
 座り直して手を膝の上に置いた。
 不自然な態度にならないように気をつけて。

「笑うことは滅多になかったな。無理もねぇだろ、家族を全員失って、故郷は戦に負けて戦争相手に吸収された。おまけに主君の姫君は敵国だった国に嫁がされ、供は自分一人。お前はいつも気を張って、姫を守ることだけ考えていた」

 淡々とアシルは昔のわたしについて口にした。
 でも、聞かされたこと以外にも、彼は何か隠しているような気がした。
 そして、それを知ったなら、わたしの中で何かが変わるような恐れも抱いた。

「アシルも変な趣味してるね。そんなわたしを好きになったなんて」

 気まずくなりそうな空気を振り払うべく、わざと明るい声を出した。
 それに本当にそう思う。
 周囲の人を敬遠させるほどの壁を作っていたわたしを、彼はどうして好きになったんだろう?

「オレにもわかんねぇよ。敵意のこもった冷たい目で毎回睨まれてたってのに、どうしようもなく好きになってた」

 好きになってたと口にした一瞬のアシルの表情は真剣なものだった。
 急に落ち着かなくなって、膝の上に置いた手を意味もなく握ったり開いたりした。

 なんかやだな。
 アシルが好きになったレリアは、わたしとは全然違う人なんだもの。
 知らない自分に嫉妬して、同じぐらい不安になった。

「アシルは今のわたしが好きじゃない? だから記憶が戻らないか気にしているの?」

 前のわたしに戻ってほしいから、今のわたしはいらない?
 不安で不安で、気がついたら彼の腕にすがりついていて、目には涙が浮かんでいた。

「泣くなよ」

 目元をハンカチで押さえられて、肩に腕をまわされた。
 アシルは困った顔で頭を掻いて、そうじゃないと呟いた。

「オレは正直言って記憶が戻らないことを望んでいる。今のお前は笑顔を失う前のレリアだ。勝手なことを言うが、オレはもう一度初めからやり直したい。今のお前のまま、この先も生きていってもらいたんだ」
「でも、アシルは……」

 前のわたしの方が好きなのに。
 そう言おうとしたら、アシルの腕に抱きこまれてた。

「今のお前だって好きだ。どっちがいいなんて考えても意味ねぇよ。レリアはこの世に一人だけしかいないんだ。記憶があってもなくても愛している」

 今のわたしでもいいんだ。
 言葉にして言ってもらえて不安が消えていく。

 アシルは笑顔のわたしが好き。
 それならいつも笑っていよう。
 前のわたしより、もっと好きになってもらえるように。

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