憎しみの檻

真夏の出来事

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 外に出ると、太陽の光が容赦なく降り注ぐ。
 空気は熱気で歪み、靴越しに踏みしめている大地は十分に薪をくべた暖炉のようだった。
 なんて暑いのだろう。
 白い帽子を被っていたが、布製なので熱が篭る。
 こんな日に、アーテスの広い王城を徒歩で移動するのは無謀だったか。
 後悔の念を抱きつつ足を動かして、主が待つ屋敷を目指した。

 手に持つ小さな鞄には、先ほど手に入れた避妊のための薬が入っている。
 魔術によって調合された粉薬で、適量を水に溶かして飲む。
 一日一回は飲まねば効力がない。
 面倒でも、わたしの体を守ってくれる大事な薬だ。

 避妊の薬なんて、堂々と買えるものではない。
 既婚女性ならば家族計画のためという大義名分があるが、わたしのような未婚女性には本来不要のもの。ネレシアでもアーテスでも貴族の娘とは結婚相手に処女を捧げるのが常識だからだ。
 薬を買う時に居合わせた女達の哀れみに満ちた視線を思い出すと、腹が立つやら悔しいやらで、胃がねじ切れそうだ。
 アシルがわたしの恋人であることは誰でも知っている。
 そして、あの男が恋人だけでは満足せず、数多くの女と寝床を共にしていることも。
 どれほど不実な行いをされようとも、未練がましく縋りついて別れられない惨めで哀れな女。
 それがわたしに対する世間の評価。
 非常に不本意だ。

 こんな恥ずかしい思いをするのはアシルのせいだ。
 頭に浮かんだ男の顔がニヤリと笑みを浮かべて、暑さで苛立つ神経を逆撫でする。
 絞め殺してやりたい。
 物騒なことを考えるのも、湿度が高くて不快なせい。
 不快感が増すにつれて足が重くなっていき、歩く速度が遅くなる。

 急激に意識が遠のき、体の力が抜けた。
 目の前に地面が迫り、その先は覚えていない。




 気がつくと周りに人の気配がたくさんあった。
 忙しなく駆け回る足音が、地面を通して伝わってくる。

「ロートレック様、こちらです!」
「おい、お前達! 野次馬は邪魔だ、道を空けろ!」

 知らない男達の声が周囲の気配を追い散らす。
 何か叫んでいるようだけど内容は理解できなかった。
 彼らの声が聞こえなくなり、静かになったなと思ったら、足音が幾つか近づいてきた。

 男の腕に抱き上げられて体が浮いた。
 誰だろうとは気になったけど、頭がぼんやりしていて確かめる気も起きない。
 横抱きにされて、どこかに運ばれていく。

 日の光が遮られて、辺りが涼しくなった。
 何かの影に入ったみたい。
 意識は朦朧としつつも少しはあったけど、目を開けるのも億劫でじっとしていた。
 襟元が肌蹴られて、冷たい布が肌を撫でた。
 気持ちよくて、吐息をつく。

「口開けろ」

 指示されて、乾いた唇を少し開けた。
 唇に何かが重なる。
 すぐに冷たい水が口の中に流れ込んできて飲み込んだ。

 水が喉を通ると、口を開けて渇きを訴える。
 催促するたびに渇きは癒され、わたしは水を与えてくれるそれを抱き寄せた。
 途中で水とは違うものが入り込んできて、舌に絡まってくる。
 それが口内を探って出ていくと、ちゅっと唇が音を立てた。
 抱き寄せている手には硬い髪の感触。
 この短い髪は男のものだ。
 目を開ければ、光の中に影が映る。
 はっきりしていく姿をぼおっと見ていて、誰だか気づいた瞬間目を見開いた。

「よお、気分はどうだ?」

 悪戯が成功した子供みたいな顔で、アシルが問う。
 彼の手には半分ほど水を入れたグラスがあった。
 わたしは木陰に横たわり、アシルの首に抱きついて、顔を近づけていた。

「う……、あ……」

 硬直して呻き声を上げた。
 木陰の周りには人だかり。
 駆けつけてくれたと思しき近衛騎士や女官達が近くに、その向こうに野次馬が大勢見える。

「暑さにやられたみてぇだな。すぐに手当てしたからもう大丈夫だ」

 アシルの顔が近すぎる。
 手を離したいのに離せない。
 顔が熱くて、頭に血が上る。
 今、何が起こっているの?

「しっかりしろよ、念のためにもう少し水飲んどけ」

 アシルはグラスの水を口に含むと、わたしに口づけた。
 重なった唇から水を移される。
 さっきの水はこうやって飲まされたの?
 理性より本能が体を動かして、喉が動く。
 野次馬達から冷やかしやどよめきの声が上がった。
 こんな大勢の人の前で恥ずかしい。

 アシルは近くにいた女官にグラスを渡し、わたしを抱えて立ち上がった。
 集まってくる視線から逃げたくて、顔を彼の体に押し付けた。

「屋敷まで連れて帰ってやるよ。荷物はこのちっこい鞄だけか?」

 お腹の上に乗せられた鞄はわたしのもの。
 頷いて、目を閉じた。

「いつもの元気がねぇと調子狂うな。すぐ着くから我慢しろ」

 聞いたことのない優しい声だった。
 いつもいやらしいことか、意地悪なことしか言わないのに。
 調子が狂うのはわたしもよ。
 こんな時に、そんな声かけないで。




 アシルの足は速くて、すぐに屋敷についた。
 倒れたわたしを見て、屋敷の使用人達はすぐに動いてくれた。
 着替えをさせられ、整えられた寝台に寝かされて、枕元に飲み水や氷嚢が用意される。
 彼らにできるだけ借りは作りたくなかったけれど、今回は仕方ない。
 開けた窓からはそよそよと風が流れてきて、外にいるよりは涼しかった。

「レリアが倒れたですって!?」

 エリーヌ様が部屋に飛び込んできた。
 息を弾ませ、寝台まで駆け寄ってきた我が姫は、唇に指を当てた家人達から無言で静かにしなさいと諌められていた。
 わたしの様子を窺うエリーヌ様からは、いつもの笑顔が消えていて、今にも泣き出しそう。

「レリア、大丈夫?」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。寝ていればすぐに治りますよ」

 安心してもらおうと、エリーヌ様に微笑みかけた。
 不思議なもので、エリーヌ様のお姿を見た途端、表情を取り繕うだけの気力が湧いてきた。

「エリーヌ様、レリアは疲れているのです。今日はこのまま休ませてあげましょうね」

 年配の侍女がエリーヌ様を連れて行った。
 フェルナン王子の眼鏡に適った使用人達はみんな信頼できる者ばかりだ。
 任せても安心できる。
 気を抜いて、寝台に深く身を沈めた。
 何も考えずゆっくりと眠りたい。
 そう思って眠ろうとしたのだけど……。

「いつまでいるつもりなの。あなたも帰れば?」

 他の者は出ていったのに、アシルは動こうとしない。
 それどころか寝台の端に腰掛けて、居座るつもりだ。
 制服の上着を脱ぎ、シャツのボタンを外している。

「このクソ暑い中、倒れたお前を介抱してここまで運んでやったんだぞ。ネレシアの女は礼の一つも言えないのか?」

 嫌味ったらしい口調に眉を上げる。
 アシルのせいで倒れたも同然なのに、礼を言わねばならないのだろうか。

「悪かったわね、運んでくれてありがとう。これでご満足いただけた?」

 気持ちの篭っていない礼の言葉は、さぞかし白々しく聞こえたことだろう。
 でも、反抗もこれが限界。
 まだ頭が働かない。
 会話するのも疲れる。

「顔色が悪いな」

  頬に手が触れる。
 振り払う気力も出なくて、したいようにさせておく。
 額に手が置かれた時は少しだけ気持ち良かった。

「どうしてわたしが倒れたってわかったの?」

 浮かんできた素朴な疑問を口にした。
 偶然通りかかったのかもしれなかったけど、確かめたかった。

「城内をうろつく金髪の女は間違いなくお前だ。何かあったらオレに知らせがくるようになってる。お前はオレの女だって、城内の人間なら誰でも知っていることだ」
「あなたの女だからって、知らせる必要なんてないじゃない」
「必要はある。オレのものをオレが守るのは当然じゃねぇか」

 城内にいる情婦達が同じように倒れても、この男が駆けつけることはないだろう。
 わたしだけが特別。
 驚いたことに、それは嫌なものではなかった。
 むしろ優越感を覚えている。

 早まってはいけない。
 わたしはアシルの所有物なんだ。
 守るなんて言っても、お気に入りの玩具を壊さないように大事にしているに過ぎない。
 飽きたら壊れても構わない。
 わたしは、そんな存在。

「始めから勝手だったわね、好きにすればいいわ。あなたが守ってくれるなら、わたしだって都合がいいもの。この体を自由に使う間は、せいぜい大事にしてちょうだい」

 憎まれ口を叩いても、アシルは怒ったりしない。
 反抗的な態度を面白そうに見ているだけ。
 わたしが絶対に勝てないことを知っているからだ。
 口だけで強がるわたしは惨めで、嘲られても仕方がないほど弱い。

 悔しい。
 この男はわたしが何を言っても顔色一つ変えずに平然としているというのに、わたしの感情はアシルの言動一つで簡単に揺さぶられる。
 不公平だ。
 何もかも、最初から。

 アシルはわたしから多くのものを奪った。
 憎んで、嫌って、消えて欲しかったのに、彼はいつも傍にいる。
 まるで麻薬みたいな男だ。
 疎ましく、危険で、追い払わなくてはいけないのに、離すことができない。
 頭は絶えず拒絶の言葉を紡ぐのに、体は彼を求めている。
 狂ってしまいそう。
 自分の心がわからない。

「寝てろ、オレはここにいるから用があれば呼べ」

 別人みたい。
 アシルの顔にはいつもの意地の悪い笑みはなく、穏やかな微笑が浮かんでいた。
 疲れ過ぎて幻覚でも見ているのかしら。

 目を閉じたわたしの寝顔を見ているのか、アシルの気配は消えることなく近くにあった。
 わたしを嬲るのと同じ手が、今はわたしを守ってくれている。
 普通、有り得ないこの関係を、どう表現すればいいのだろう。
 嫌いで、憎くて、殺したい男。
 それなのに、わたしが必要とする時に、手を差し伸べてくれるのも彼なのだ。
 使命を果たすためにと日頃から張り詰めていた気が緩み、深い眠りがわたしを誘う。
 疲弊した心は考えることをやめ、彼と殺しあう夢も見ることはなかった。
 久しぶりの穏やかな眠りを、わたしは素直に受け入れた。




 昼間に眠りすぎてしまったので、夜にははっきり目が覚めた。
 日中の暑さが嘘みたいに、部屋の空気はひんやりしていて肌寒さを感じる。
 暗くなった屋敷の中は静まり返り、目の前には男が一人。

「すっかり元気になったな。一日生殺しで溜まってんだ、やらせろ」

 ニヤニヤ笑ってのしかかって来る男はすでに裸だ。
 そしてわたしの服も脱がされて床に散らばっている。
 あれは夢だった。
 アシルが紳士で終わるはずがない。
 この男は本能で生きるケダモノだ。
 壊れた玩具が直ったので、さっそく遊ぼうと目を輝かせている。

「よく我慢できたわね。できれば後百年ぐらいは我慢してもらいたかったわ」
「百年も待ったら、とっくにあの世に逝ってるだろうが。そう毛嫌いしなくてもいいじゃねぇか、相手が誰かってとこにだけ目を瞑れば、そんなに悪いもんでもないはずだぜ」

 いやらしい笑みを浮かべて、アシルはわたしにキスをした。
 首筋や肩に舌が這わされ、悪寒と快感が同時に走った。
 精一杯の抵抗で、彼の肩を押して離れようと足掻いた。

「わたしは病み上がりなのよ。それなのに抱こうなんて、人としてどうなの?」
「オレは恥知らずの人でなしだ。お前に散々言われ慣れてるから、今さら何を言われてもどうってことない」

 アシルは罵倒されても気にせずに、ふてぶてしく笑っている。
 無力な少女を強姦するような人でなし。
 そんな最低の男に良心を期待するのは無駄なことだ。

 抵抗は易々と封じられ、アシルのキスは全身へと降り注ぎ、両手はじっくりと肌を撫でて、胸を揉んだり脇の敏感な場所を探る。
 悔しいことに、アシルの愛撫は不快ではない。
 念入りに優しく肌を愛でる動きは、着実にわたしの体を昂らせていく。
 これが本当に心から結ばれた恋人が相手なら、充実した営みと言えるだろう。
 わたしと彼では望めるはずもない関係だが。

「んっ、あ……はっ……、んんぅ……」

 足の間に顔を埋められて、舌で翻弄された。
 普通なら少しは躊躇ってもいいものなのに、アシルはおいしそうにそこを舐める。
 強姦を好む男は、相手が苦痛に苛まれる姿を見るのが好きなのだと聞く。
 それこそ首を締めたり殴ったりして抵抗する力を奪い、潤いもしていない秘所に強引に挿入して傷つけても平気なのだという。むしろ、そういう行為に倒錯した快感を覚えるのだ。
 最初の時、アシルはわたしの体を快楽に十分溺れさせてから行為に及んだ。
 痛かったけど、多分普通の初体験でも同じだったのかもしれない。
 無理やりされていたから恐怖と嫌悪が勝って、結局は酷い思いをしたのだけど、体の面だけでいうなら実はかなり大切に抱かれていた。
 だからって、アシルがしたことが許せるわけではないけど。

「あっ、あんっ!」

 足の間の秘部からぞくぞく快感が襲ってくる。
 抑えようとして手で口を押さえたものの、喘ぎ声が洩れてしまう。

「う……、うう……」
「意地張るなって、体の方は正直だぞ。ここなんか、やらしい汁でドロドロしてやがる」

 アシルの指がわたしの内部を探るたびに卑猥な水音がして体が反応する。
 足が大きく開かれて、アシルが昂った自身を押し付けてきた。
 彼に組み敷かれたまま貫かれ、快感を伴う大きな波が襲い掛かってくる。
 歯を食いしばり、与えられる悦楽に負けまいと抗った。

 こんなことわたしは望んでいない。
 気持ちよくなんてない。
 早く終わればいい。

 わたしの上で性欲を満たす行為に没頭しているアシルだが、征服している体に悪戯することも忘れない。
 急に胸の頂を擦られて、意識が飛びそうになった。
 硬くなっていた乳首が口に含まれて、別の快感が体を揺さぶる。
 胸を嬲っていた舌が、頬に触れる。
 耳朶を軽く噛まれて舐められた。

 もうだめ……。
 早く終わってくれないと、彼を求める言葉を口にしそう。
 それだけはだめなのに。

 きつく唇を結んで堪える。
 アシルがわたしの中で達したのを感じた。
 薬は今朝飲んでおいたから平気のはず。
 朝になったら忘れずに飲まないと。




 果てた後も、アシルはわたしを離さなかった。
 用が済んだとばかりに放り出されるのも嫌だけど、恋人の添い寝みたいに労わってもらっても複雑だ。
 これは強制された関係なのに、腕に抱かれて寝ていると、それを忘れそうになる。

「なあ、もしかして昼間倒れたのって、腹が原因なのか?」

 ぼそっと問いかけられて、顔をしかめた。

「お腹は壊していないわよ。あなたの見立て通り、暑さで倒れたのよ」
「何だ、つまんねぇ」

 アシルの手がわたしの下腹部に触れた。
 何を考えているのか、感触を確かめるように撫でて、大きなため息をついている。
 変な男だ。

「つまらないって何よ。わたしが病気になった方がつまらないんでしょう? それとも病人を犯す趣味を持つほど人として落ちぶれたのかしら?」
「そうじゃねぇよ。抱くなら健康な方がいいに決まってる。原因が腹じゃねぇなら別にいい」

 心ここにあらずといった様子で、アシルが答える。
 本当になんなの。
 今日は調子が狂うことばかり。

 寝返りを打ってアシルに背を向けたら、後ろから抱きしめられた。
 頑丈な腕がわたしをがっちり押さえ込み、振り払おうとしても無理だった。
 背後から寝息が聞こえてくる。
 今夜はこのまま寝るしかないわね。

 眠気がやってきて、瞼を閉じる。
 背中越しに伝わってくるアシルの体温が、ほどよくわたしを温めてくれた。
 自分を強姦した相手と、こんな風に寄り添って寝ているなんて、おかしな話。

 わたしは女の武器を利用しているだけよ。
 そしてアシルが優しいのも、この体が気に入っているからだ。
 それだけ。
 他に理由なんてない。
 アシルがわたしを好きだなんてこと、あるはずがない。

 わたしは彼が憎い。
 大嫌い。

 時々別の声が違う言葉を囁くけど、聞かない振りをする。
 それは破滅の言葉。
 認めれば、わたしの世界は壊れてしまう。

 だけど、疲れた体は彼の温もりを受け入れて、すっかり緩んでしまっていた。
 これは真夏の暑さが見せた夢。
 夜が明けたら、またいつも通りの日々が待っている。


END

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