憎しみの檻

-もしもの物語-

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 ついにこの時が来た。
 運の良いことに、寝返りを打ったアシルが仰向けになり、心臓の位置をはっきり捉えることができた。

 これで全てが終わる。
 長年溜め込んできた憎悪を全てぶつけるかのように、渾身の力を込めて剣を振り下ろした。

 嫌な感触がした。
 生きた身に剣を突き刺す。
 それがこんなに気持ちの悪いことだとは想像もしていなかった。
 刃は途中で止まったが、確かにアシルの体に突き刺さっていた。
 血が滲み出し、じわじわと彼の衣服やシーツを汚していくのを放心して見つめていた。
 手は震えて、もう一度柄を握ることもできない。
 止めを刺すことも、逃げることもできずに、その場に立ち竦んでいた。

「殺す気なら全体重をかけろ。女の力でオレは刺せねぇって前に言ってあっただろ」

 目覚めたアシルが起き上がる。
 浅くとも刃が刺さっているというのに、彼は顔色一つ変えずにそう言ってのけた。
 殺し損ねた。
 それだけは理解できたが、頭がうまくまわらなくて、次に何をすればいいのかわからなかった。

「……っ、痛えなぁ、くそっ、中途半端なことしやがって。おい、レリア。今すぐフェルナン様を呼んで来い、理由なんぞ言わなくてもいい、来てもらえりゃわかる。選択の余地はねぇ、お前が逃げたら姫がどうなるか、わかってんだろうな」

 エリーヌ様……

 ああ、どうして思い至らなかったのか。
 わたしがアシルを殺せば、主君であるエリーヌ様も関与を疑われる。
 王子がエリーヌ様を庇おうとしても、これを好機として邪魔者を排除しようと動く者は大勢いるはずだ。

 アシルの言葉に従うことだけが、エリーヌ様を守れるただ一つの道だった。
 追い詰められたわたしには、アシルの真意なんて読み取れる余裕などなかったのだ。




 部屋を飛び出してフェルナン王子を呼びに走った。
 血相を変えて飛び込んできたわたしに王子は驚いたものの、アシルからの伝言を聞くとすぐさま駆け出した。

 わたしも走った。
 胸騒ぎが止まらない。
 何か別の、もっと嫌な予感がして、頭の中で始終警鐘が鳴り響いているみたいだった。




 再び部屋に戻ったわたしが見たものは、寝台の上で横たわるアシルの姿だった。
 寝台は血で染まり、彼の体も赤く汚れていた。
 胸に刺さった短剣は、柄が根元まで押し込まれていて、確かめるまでもなく心臓を貫いていた。

 致命傷にもならない、浅い刺し傷だったはず。
 それがどうして?

 戸口で声も出せずにいるわたしの前で、王子は冷静にアシルに近寄り、脈や呼吸を確かめた。
 なぜ、そんなに落ち着いていられるの。

 背後が騒がしくなって、屋敷の人間が集まってきた。
 王子は彼らに対して、侵入してきた賊にアシルが襲われたと告げた。

 賊って、犯人はここにいるのよ?
 わたしがアシルを殺したのよ。
 この手で剣を突き刺して殺したの。

「レリア、君はエリーヌの傍にいてくれ。アシルのことは私に任せておけ」

 王子は最後まで取り乱すこともなく、わたしに声をかけて部屋を出て行った。
 家人に指示を出している彼は、もうわたしには見向きもしない。

「レリア」

 呼ばれて意識をそちらに向けると、エリーヌ様が立っていた。
 心配そうに顔を歪めて、近寄ってくる。

「わたしの部屋に行きましょう。今はフェルナン様のご指示に従って」

 手を引かれて、重い足を動かした。




 アシルの死は、屋敷に侵入した賊の仕業だと結論づけられた。
 犯人は不明のまま、アシルの両親の手で葬儀が行われた。

 わたしはエリーヌ様の後ろで葬儀の様子を見つめていた。
 アシルの母親らしき女性が声を上げて泣いている。
 父親と兄弟であろう男達も悲痛な表情で彼女を支え、棺の前で悲嘆に暮れていた。

 わたしは何をしたんだろう。
 積み重ねてきた憎悪に突き動かされてアシルを殺したけど、残されたものは何もなかった。
 何も変わらない。
 悲しみは癒えず、怒りも消えず、もう一つ負の感情が増えただけ。

 それは後悔だ。

 わたしは後悔している。
 アシルを殺したことを悔やんでいる。
 新たな悲しみと憎悪をこの手で増やしたこと。
 この心に根付いた憎しみを晴らす方法が間違っていたとようやくわかったのだ。

 涙が一筋流れて落ちていく。
 心は空っぽで、虚しさがわたしを包む。

 エリーヌ様を守るために虚勢を張って生きてきた。
 無力な女でしかないわたしがこれまで生きてこられたのは、守ってくれる存在がいたからだ。

 寒さで震える体を温めてくれた腕は、もうわたしを抱くことはない。
 わたしが自分で切り捨てた。
 それがどれほど大切なものになっていたとも知らずに。

 わたしはアシルを愛していたのだ。




 アシルの葬儀が終わった後、フェルナン王子に呼び出された。
 王子の顔にはいつもの穏やかな微笑は浮かんでいなかった。
 彼は苦渋に満ちた顔で、わたしを見つめた。

 王子はアシルの死の原因がわたしであることに気づいている。
 彼の心にあるものはアシルを喪った悲しみと、わたしに対する憎悪のはずだ。
 かつてわたしがアシルに抱いたものと同種の感情が、王子の中にも芽吹いている。

「正直に言って複雑だ。だが、私は君を憎まない。アシルはそれを望まないし、私もこんなことは終わりにしたい」

 しかし、彼はわたしに憎悪を向けなかった。
 許したわけではないだろうが、とにかく王子からは憎しみに繋がる感情が発せられることはなかった。

「君にはネレシアに帰ってもらう。それがアシルの遺志だ」

 アシルの遺志とはどういうことなのか。
 怪訝に思って王子を見返す。

「アシルが生前言っていた。もしも、レリアが自分を殺したら、罪は問わないでネレシアに帰してやってくれとね」

 息を詰めたわたしに対して、王子は初めて強張った表情を緩めた。

「バカな男だ。君に償う方法がそれしかないなんて思いつめて。もっと苦しめることになるだけど忠告したのに、結局、自分から死を選んだんだ」

 アシルの胸の傷を見た時に犯人の予想はついたのだと、フェルナン王子は呟いた。

「アシルを殺したのは君ではない、あれは自害だ。受けた傷の上から、わざわざ致命傷になるほど深く刺した。君の力ではあそこまで深くは刺せそうにないからね。その証拠にあれだけの出血があったのに、君には返り血がほとんどついていなかった」

 アシルが自分で刺した?
 それにわたしをネレシアに帰せって、償いって何のこと?

「なぜ、なぜ、アシルがそんなこと……」
「アシルは君を愛していた」

 殴られたような衝撃が頭を襲った。
 嘘よ、そんなこと。
 愛していたのなら、どうしてあんな酷いことができたの?

「信じられない。だって、アシルは……」
「アシルのしたことは弁解のしようもないほど酷いことだ。君がアシルを憎むのも当然だ。だが、信じて欲しい。アシルが君を愛していたことも本当のことなんだ」

 わたしの愛が永遠に得られないから、憎しみで心を得ようとしたなんて、本当にバカな男だ。
 愚か過ぎて、笑うしかない。

 ねえ、アシル。
 心の底から憎んでほしかったのなら、優しさなんて見せちゃだめだったのよ。
 そのせいで、わたしはあなたを愛してしまった。

 あなたが最初から得られないと諦めてしまったものは、容易く手に入るものだったの。
 悲しみはいつか癒える。
 もう少し我慢して待っていてくれれば、いつかあなたを許して、その先の未来だって考えられたのかもしれないのにね。




 あれから数年後。
 あの後すぐに、わたしはネレシアに戻り、修道院で暮らす王妃様にお仕えしていた。
 生涯エリーヌ様のお傍にいて守るという誓いを破ったわたしを、王妃様は温かく迎えてくださった。

「あなたにもつらいことがたくさんあったのでしょう。エリーヌのことはフェルナン王子にお任せして大丈夫です。あの二人、本当に仲睦まじくて安心しましたよ」

 エリーヌ様とフェルナン王子は、お忍びの形でわたしをネレシアまで送り届けてくれた。
 その時に対面した娘夫婦の様子を見て、王妃様は安堵されたのだ。

 わたしの生活は慎ましく、戦没者の魂を弔い、修道院に併設されている孤児院に預けられた子供達の世話をして過ごした。
 それから、わたし自身の子を育てることが一番の仕事だった。




「おかあさまー、ただいま!」

 わたしを呼ぶ声に振り向くと、丸い琥珀の瞳に灰色がかった黒髪を持つ幼子が元気に駆けてきた。
 父親によく似たわたしの息子。
 最後の逢瀬の最中に生まれた命に気づいたのは、ネレシアに戻ってきてからだ。
 この子の存在が、わたしを現世に留めていた。

「お帰りなさい、外遊びは楽しかった?」
「うんっ」

 腕の中に飛び込んできた息子を抱きしめる。
 憎むどころか、産まれた息子にわたしが感じたのは愛情だけだった。
 アシルの分までこの子を愛する。
 それがわたしが唯一示せるあなたへの愛。

 もしも、あの世でもう一度会えたなら、真っ先に言うわ。
 あなたを愛していますって。
 その時にはあなたも本音を話してね。
 あなたの口から聞きたいの。
 わたしに対する本当の気持ちを――。


end03:アシル死亡ED

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