柄を握っていた手が力を失い、短剣が床に落ちた。
その場にしゃがみこんで俯く。
わたしにアシルは殺せない。
だけど、彼を憎むことをやめたとしても、わたしに未来がないのは同じだった。
この先、何を支えにして生きていけばいいの?
エリーヌ様がわたしを必要としなくなった以上、生きている意味が見出せなかった。
転がっていた剣をもう一度拾って、自分の胸に向けた。
勢いをつけて一突きすれば、全てから解放される。
それはとてもいい思いつきだった。
視界が晴れて、爽快な気分になる。
死ねば何もかもうまくいくと思えた。
家族と会える、誰も恨まなくていい、永遠に安らげる。
そうすることが当然のように、柄を握る手に力を込めた。
体に向けて突き出そうとした時、寝ていたアシルが跳ね起きて、飛び掛ってきた。
「きゃあっ!」
手の中にあった剣が強い力でもぎ取られ、背中を床に強か打ちつけた。
強烈な痛みと衝撃で目の前が一瞬真っ暗になる。
むっとする錆び臭い匂いが立ち込めて、わたしの顔に何かの滴が落ちてきた。
拭った指は赤黒く染まり、それが何かすぐにわかった。
血だ。
でも、これはアシルの血だ。
彼は素手で剣の刃を握り締めていた。
刃が当たっている手の平から、血が流れ落ちてくる。
アシルは剣をわたしの手が届かない位置に放り投げると、大きく息を吸い込んだ。
「てめぇ、何してんだ!」
怒鳴られて、びくりと体を震わせた。
わたしに圧し掛かる形で密着しているアシルが、怒りを滾らせた目で睨んでいた。
怖かった。
よくよく思い返してみても、アシルに睨まれたことなんてなかった。
わたしが何を言っても意に介さぬ表情で受け流し、甚振る時は意地悪な笑みを浮かべて常に余裕があった。
こんな風に怒りをぶつけられたことはなかったんだ。
「お前が殺すのはオレだろうが! なのに、なんで自分に剣を向けてんだよ!」
なぜ、わたしが怒られないといけないの?
耐えて耐えて、やっと見つけた安息を得ようとしたことがそんなにいけないことだというの?
「自分勝手なことばっかり言わないで! もう、あなたなんか殺したくない。エリーヌ様はわたしより王子を選んだのよ。わたしの役目は終わったの! 死んで楽になりたいのよ、誰にも愛されず、必要ともされず、一生あなたの玩具になって生きるなんて嫌! 誰かを憎んで恨んで生きることもよ! わたしにだって幸せを望む心があるのよ!」
人並みの幸せを望むことさえ許されないの?
愛してくれないくせに、わたしを縛り付けないで。
酷い男。
でも、それなのに殺せない。
「レリア、泣くな。わかったよ、オレが悪かった」
わたしはアシルの腕の中にいた。
頬を拭われて、ようやく涙を流していたことに気がついた。
「頼むから、死んで楽になりたいなんて言うな。オレにはお前が必要だ、愛されたいっていうなら、オレが愛する。消えろと言うなら喜んで死んでやる。お前を幸せにするためなら何でもするから生きてくれ」
アシルの言葉が理解できなかった。
彼が口にする言葉の全てが信じられなくて、これもわたしを苛むための罠だと疑ってしまう。
「嘘、そんなことできるわけない」
「お前が信じるまで努力する。どうしても信じられなかったら、その時は一言死ねと命じろ。オレは自分の命で今の言葉を証明してみせる」
疑い続けるわたしに、アシルは約束した。
死への道を取り上げられたわたしは、彼の言葉が真実であるかを見極めるために生きることにした。
それから数十年の時が過ぎた。
老いたわたしは寝台の上に横たわり、あの世からの迎えを静かに待っていた。
広い屋敷の中には息子夫婦や孫達がいる。
外に出た他の子供達や孫達も、時々様子を見に来てくれる。
先日はエリーヌ様が訪問された。
互いの夫はもうこの世の人ではなく、若い頃の彼らとの思い出を、思う存分語らった。
あの方は、もう少しだけ長生きなされるだろう。
わたしとの別れの時を予感なされたのか、名残惜しそうに別れの挨拶を述べ、励ましの言葉をかけてくださった。
多くの人に見守られて、わたしの人生の終焉は心穏やかなものとなった。
思い残すことはなく、ただもう一度、あの人に会えることを願っていた。
あの日、わたしの自害を止めたアシルは、人が変わったかのように真面目になった。
女達とは全て手を切り、わたしを奴隷扱いすることもなく、時には贈り物など用意してデートに誘い、普通の恋人のように接してきた。
わたしといえば、アシルを疑いながらも彼から目を離せず、他の男に言い寄られても少しも関心が持てなかった。
アシルに求婚された時も、拒むという選択肢はなかった。
アシルがわたしに対していつまで誠実でいられるのか確かめる必要があった。
わたしが死を望めば、いつでも死んでみせると言った男の覚悟を、一生をかけて試すのだ。
子供が生まれ、孫が生まれ、その間に幾つもの困難と喜びが訪れた。
アシルは一度も裏切ることなく、わたしと家族を守り、与えられた生を全うした。
長年仕えた彼の主が身罷られてすぐ、アシルも後を追うように床に臥せった。
「レリア、悪い。約束は果たせそうにねぇや。お前が死ぬまで生きてるつもりだったのにな」
死の影を体にまとわりつかせた彼は、何度もわたしに謝った。
彼の言う約束とは、わたしを幸せにすると言ったことだ。
そういえば、わたしは一度も言ったことがなかった。
わかっているかと思っていたけど、言葉にしなければわからないものだ。
「アシル、わたしは幸せよ。約束はとうの昔に果たしていたの、気に病むことはないわ。悲しみは消えることはないけど、あなたに対する憎しみも恨みも今はない。十分な贖罪だったわ」
「そっか、良かった。お前が満足できたなら未練はねぇ」
柔らかく笑った彼に、微笑みかける。
「愛しているわ、あなたを」
「嘘でも嬉しい」
「本当よ」
今度はわたしが信じてもらう番だった。
彼の命が尽きるまで、繰り返し愛していると言い続けた。
最後にはわかってくれたのか、アシルの死に顔は安らかだった。
笑みを浮かべているのかと見まがうほど、満ち足りた表情に見えた。
そして、次はわたしの番だ。
闇を裂くように光が満ちて、わたしに向けて手が差し出された。
伸ばされた手を取り、ふわりと浮き上がる。
白くなった髪は金髪に、皺だらけの肌は瑞々しく甦った。
若き日の姿を取り戻したわたしを抱くのは、同じく懐かさを感じる力強い腕だった。
わたしを蹂躙し、それでいて守っていた人。
あの時のこと、後でこっそりフェルナン王子に聞いたのよ。
愛されないなら、憎悪で縛って手に入れようなんて、信じられない考え方だわ。
バカで愚かな人だけど、今はとても愛しい。
死により魂が解き放たれ、心を覆う必要がなくなった。
わたしは彼に抱きついて話し出した。
胸に溜め込んでいた彼への愛について、一生分聞かせるつもりで。
end04:夫婦になって長生きED
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