薔薇屋敷の虜囚
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小さな侵入者を送り出した後、ミレイユは窓を閉めた。
あどけない少年の姿に、顔も知らぬ我が子を重ねてしまう。
年はあのぐらいだが、男か女かもわからない。
最初の子も二人目の子も、産み落としてすぐに城へと連れ去られてしまった。
記憶に残っているのは産声だけ。
姿を見る前に、無慈悲にも赤子は別室に連れて行かれ、二度と会うことは叶わなかった。
夫は何も教えてはくれない。
ロジェが彼女に望んだのは、子供を産むことだけだ。
結婚によって領地と財産を手に入れた彼は、母と愛人を城に住まわせ、妻を牢獄に閉じ込めた。
近親婚の罪を恐れる夫は、愛人には手を出さず、持て余した性欲を妻で発散するために夜だけ訪れる。
子供達はグレースが育てているという。
自分の子を愛する人に託し、幸せな家庭を築いているのだろう。
妻が狂人だと噂を流しておけば、余計な詮索もされない。
ミレイユの人生はロジェの出現で破滅した。
結婚するまで、正確にはこの屋敷に閉じ込められるまで、ロジェは優しい夫だった。
始まりは侯爵の命令ではあったが、一目見て惹かれあい、愛の言葉を囁きあった。
彼の態度が全て偽りだと、まだ十七の箱入り娘は気づかなかった。
預ける身内がいないからと、ロジェが母親と共にグレースを連れて来た時も、ミレイユは喜んで迎えた。
愛する夫が妹同然に可愛がっている娘ならば、自分も好きになるだろうと楽観して。
しかし、グレースはミレイユを敵視し、冷笑を浮かべて囁いた。
「愚かな人、ロジェが愛しているのは私なの。あなたは名ばかりの妻になるのよ。彼のために子を産めば、それで用済み。私はこの城で彼に愛されて生きるの、あなたの居場所はあそこ。ほら、見えるでしょう、おあつらえ向きの牢獄が」
グレースが指差したのは、打ち捨てられた屋敷だった。
年月が過ぎても崩れ落ちずに残っている。
主を閉じ込めるために作られた檻のような建物。
ミレイユはグレースを睨みつけた。
「とんでもない嘘を言うのね。ロジェは私に愛を誓ったのよ。あなたこそ、おかしな妄想にしがみついていないで、相応の縁談を受けてこの城から出て行きなさい」
ミレイユは愚かにも夫を信じていた。
グレースの悪意を撥ね付けて、強気な態度で対峙した。
動揺することなく立ち向かう彼女を、グレースは嘲笑った。
「どこまでも救い難い人ね。そのうちわかるでしょう、私の言葉が真実だってことが」
彼女の言葉は真実だった。
結婚して一年も経たないうちに、ミレイユは夫の手により、この屋敷に閉じ込められたのだ。
閉じ込められて暫くの間は、ミレイユも抵抗した。
最初の子供を取り上げられた時も、返してくれと夫に食ってかかった。
抵抗が実を結ぶことはなかったが、あの頃の彼女には生気があった。
だが、今の彼女は抜け殻だ。
ミレイユの味方だった古参の家臣達は理由をつけて全て城から遠ざけられてしまい、救いの手も望めなくなった。
希望を持たず、ただ死を待つだけの退屈な日々を過ごすことを受け入れ、無気力に生を浪費している。
不足はないが自由もない生活は、ミレイユから意志と感情を奪い去り、生ける屍へと作り変えた。
結婚がもたらした悲劇を振り返り、ミレイユは自らの頬を両手で包んだ。
久しく動くことのなかった表情を動かしたことを思い出したのだ。
今日、彼女は心から笑った。
人々が噂する狂った女を一目見ようと潜り込んできた好奇心旺盛な子供のおかげで、ミレイユは外への関心を少しばかり取り戻した。
「かわいらしい子だったわ。あの人と同じ、黒い髪をして……。もしかして、私の子供もあの子のような色を持っているのかしら」
自分に似ていたら赤毛だろう。
性別は? 性格は?
二人目の子も元気に育っているだろうか。
それに名前も知らない。
夫はなんと名づけたのかさえ、教えてくれなかった。
君の世界はこの囲いの中だけだと残酷に言い渡し、あらゆるものから遠ざけた。
ミレイユの世話をするために屋敷にいる召使いは全て女で、城主に忠誠を誓い、余計なことは口にしない者ばかり。
門の外には厳しい番人がいて、決して外には出してくれない。
たまに庭師がやってくるが、彼がいる間は召使い達が庭に出るのを禁じている。
ロジェが妻と男の接触を神経質なまでに警戒しているからだ。
生まれてくる子供が他の男の子ではあってはならないと言って。
私はどこまでも道具なのだと、ミレイユは自虐的な気分で笑みをこぼした。
おかしくもないのに笑いたくなってくる。
領地、城、財産、子供、未来。
ロジェとグレースはどこまで奪えば満足するのだろう。
ミレイユには何も残されてはいない。
逃げる気も反抗する気も失せ、呼吸をするのも億劫だった。
食欲もわかず、体は痩せる一方だ。
骨が浮き出すと、ロジェは抱き心地が悪いから肉をつけろと文句を言った。
妻に食わさねば罰を与えると主人から脅された召使い達から懇願されて無理やり食事をしているが、どうでも良くなってきていたところだ。
早く神の御許へ召されたい。
ミレイユの望みは一つだけであり、それは現世に繋がるものではなかった。
ところがだ、今の彼女には食欲があった。
小さな訪問者はミレイユに劇的な変化を与えた。
久しく忘れていた生きているという実感を得て、ミレイユはわくわくしていた。
偽りのない生きた会話は彼女の魂に力を吹き込み、何かを期待させる。
「また来てくれるだろうか……」
もっと話したい。
あの子のことをよく知りたい。
理由のわからない衝動が心を揺さぶり、ミレイユは子供が出て行った窓の前でしばらくじっと佇んでいた。
夜になり、屋敷の門が開かれた。
ロジェの来訪だ。
いつもは黙って夫を迎え、無言を通すミレイユだが、今夜は違っていた。
「私の子供がどうしているのか教えてくださらない?」
何年ぶりかで耳にした妻の声に、ロジェは驚いた顔で振り返った。
「何だ突然」
「知りたいの。私には知る権利があるはずよ。私が産んだ子供達なのよ」
ミレイユの瞳には失われた意志が再び宿っている。
ロジェは眩しげに目を細めたが、首を振り、いつもそうしているように妻の問いをはねつけた。
「知る必要はない。グレースは貞淑で完璧な女性だ、君よりも母親に向いている。子供達は彼女に懐いて元気に育っているさ」
ミレイユは彼の答えを聞いて、肩を落とした。
子供達も父親と同様に、母親のことなどどうでも良いのだ。
それどころか、グレースが母親だと思っているのかもしれない。
憎い女。
ミレイユが得られるはずだったものを全て奪い去った女が憎い。
いいや、全てではない。
グレースはロジェの体だけは手に入れられなかったのだ。
子を孕む危険を冒すより、プラトニックな純愛を選んだ卑劣な二人。
その犠牲者となったミレイユ。
犠牲の代償に唯一得たものは、愛した男の体だけとは、なんと不公平なことだろう。
「子供を理由に外に出るつもりだったのだろうが残念だったな。君はまだ自分の立場に納得できないのか。いつになったら運命を受け入れる気になるのだろうな」
ロジェはミレイユの腕を引き、寝室へと連れて行く。
ミレイユは抗いながら、ロジェに怒鳴った。
「閉じ込められて、体を蹂躙されるだけの毎日に納得しろですって? あなたが言う運命を受け入れる気など私にはありませんからね! たとえ、死んでもあなた達の思い通りになどならない!」
「それならそれで構わない。君は俺のものだ。一生逃がしはしない」
寝台の上に押し倒される。
嫌がるミレイユの衣服を剥ぎ、肌を露わにすると、ロジェは自らも服を脱ぎ去り、覆いかぶさってきた。
噛み付くような激しいキスに、ミレイユも荒々しく応えた。
ロジェの唇から血が滴り落ちる。
強引な口付けの報復に歯で唇の端を傷つけたが、そんなことで怯む彼ではなかった。
「抵抗しても無駄だと教えてやろう。君の淫乱な体がどこまで耐えられるか見ものだな」
侮辱されてミレイユの肌が怒りで赤く染まる。
普段は温厚な性格の彼女だが、髪の色に相応しい情熱的で勝気な面も内に秘めている。
ロジェを睨みつける瞳には激しい怒りと憎悪の感情が浮かんでいた。
これまでの無気力で虚ろな目とは違い、しっかりと彼の姿を映す。
凝視していたロジェの顔が不思議な歪みを見せた。
笑っているようで、泣きそうな、ちぐはぐでおかしな印象を抱いた。
「ミレイユ、君は美しい」
不意打ちに囁かれて、ミレイユは混乱した。
あまりにも場違いであり、先ほどまでの会話とはかけ離れたセリフだ。
「何を、言って……、あっ、んんっ」
胸の頂をロジェの指が刺激する。
首周りの性感帯を舌でぺろりと舐められて、体が自然に淫らな反応を返す。
「いやっ、卑怯者ぉ……っ、はぁ……っ」
長年の陵辱で知り尽くされた体は、口惜しいことに触れられるたびに素直な反応を見せた。
始まりとは正反対の、気遣いと労わりに満ちた愛撫は、これが己の意思を無視した行為であることを忘れさせてしまうほどだった。
足の間には愛液が満たされて、ミレイユの心まで溶かしていく。
(だめ、だめよ、受け入れてはだめっ)
僅かに残った理性とプライドが、懇願の言葉を飲み込ませた。
顔を背け、心を閉じたミレイユだったが、ロジェは昂ぶった体を鎮めるべく自身を妻の中に埋めた。
ミレイユの唇から嬌声がこぼれる。
「どうだ、これが欲しかったのだろう? 君が満足するまで付き合ってやるからな」
ロジェの嘲りの言葉も耳を素通りしていく。
虚しくて、憎いはずなのに、それらの感情は全て押し流されて、本能を剥き出しにした獣の交わりのごとく絡み合う。
その先に言葉はなかった。
無我夢中で求め合う二人の戦いはまだ始まったばかり。
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